私を忘れないで

 三角公園へと向かった油谷主任と松前が現場へ到着すると、閑静な住宅街の一角にあるその小さな公園は、数名の警察官と数十人の小学生でごった返していた。初め二人は子どもたちが美桜の発見という情報を聞きつけて集まって来たものだと考えたが、それにしては警察官以外に大人の姿がないというのが不自然である。美桜が発見される前から子どもたちが集まっていたのではないかとすぐに気がついた油谷主任が、この騒ぎの決起人であるに違いない加賀恭輔を拘束して檄をとばすと、それはほとんど恫喝のような形となってその場にいた他の生徒たちをも委縮させ、この日は全員が解散するというはこびとなった。

 残されたのは数名の警察官と教師二人、当事者の山内美桜と発見者の青柳悟。辺りはすっかり暗かったので、公園内の小さな街灯の下に全員が身を寄せるように集まって、簡単な事情聴取のようなものを受けた。聴取の中で美桜が今朝からこの公園に身をひそめていた理由がようやく明らかとされた。

 美桜の証言によると、彼女は担任である私が謹慎処分を食らったことに対して責任を感じていたために、学校に顔を出しづらかったのだという。私が処分された訳とは、とどのつまりが子どもたちに対する監督不行き届きだったのだが、その直接の原因をつくったのは美桜である。あの盲学校での晩、私が他の子どもたちに同行していなかったのは高熱を出した美桜を病院へと連れて行っていたためであり、美桜はそのことを気に病んでいたのだった。私がついていようがいまいが、あの凶悪犯と出くわすという事態を回避することはできなかっただろうが、美桜の側からすれば自分のせいで友達を危険な目に遭わせ、さらに先生はそのせいでクビにされるかもしれないのだから、真面目な性格が災いしてナーバスになっても無理はない。

 そうこうしているうちに連絡を受けた美桜の家族も公園へと加わってずいぶんと大人数になってしまった。詳しい調書かなにかをとるのだろう、警察官は「続きは署の方で」と言って動向を促す。

「あっ、いたー!!」

 不意に公園の外の道路の方から少年の声が上がって、黒い影が一つ街灯の下まで駆けてくる。

「鮎川くん」美桜が言う。

 街灯の下で照らし出されたのは鮎川利正の顔であった。みづきと二人で先に美桜を探しに行っていた利正は美桜の発見を知らず、いまだに周辺を探し歩いていたのである。ところがいつになっても他の子どもたちが捜索を開始しないことを不審に思い、公園へと引き返してきたというわけだった。

「お前なに学校サボってんだよ。なにやってたんだよ」

「うぅぅ…ごめんなさい」美桜が泣き出す。

「鮎川君、あなたこそこんな時間になにをやっているの?」

 利正があまりに無神経なので、油谷主任が口をはさんだ。

「今日中は危ないので絶対に一人では外出しないよう学校で指導したはずですよね?」

「いや…ひ、一人じゃないっすよ」

 そう言うと利正は道路へと引き返し、何者かの人影の手をひいて公園の中へと引き返してくる。もう一つの影は拒絶している様子だったが、利正は主任への言い訳に必死でぐいぐいとその者の手をひいて街灯のもとへ引きずってくる。

 明かりに照らし出されたのは、そこにいるはずのない少女の姿だった。

 油谷主任は言葉を失った。松前は後じさりし、青柳は瓶底眼鏡を外してごしごし両目をこする。

「…花谷?」青柳は首をかしげて言う。

 次の瞬間みづきは利正の腕をふりほどいて全力疾走で公園の外へと駆けていった。

 星一つない夜空から、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。




 利正は土砂降りの中を必死に駆け、花谷家の玄関の前までやってきた。逃走したみづきを追ってのことであったが、このとき彼が本当に会いたかったのは彼女ではなく、むしろみづきの母親である土佐尾だったのかもしれない。

 先ほど利正は油谷主任への言い訳に必死になるあまり、ついみづきを主任、松前、青柳の三人に引き合わせてしまった。そこで三人が一様に驚いてみせたこと、みづきがその場から逃げるようにいなくなったことからみて、みづきが死者であることはもはや疑いようがない。だが利正はその信じたくはない事実を、みづきの最も近くにいた土佐尾が否定してくれるのではないかと内心期待していたのである。

「おばさん!!」

玄関の戸を力任せに叩くと、ガラガラと音を立てて土佐尾が顔を出す。

「濡れたね、リセ」

 びしょびしょに濡れた白無地のTシャツがべったりと利正の体に張り付いていた。ぺしゃんこにつぶれた髪の毛、ぬかるみで泥んこになったスニーカー。頬を伝っている雨粒が本当は涙だったことが土佐尾にわかるはずもない。

「みづきちゃんは?」

「まだ帰ってないよ。一緒じゃなかった?」

「いなくなったんだ」

「どうして?」

「ばれたんだよ、みんなに!!どうしよう、俺のせいだ…」

「あちゃー」

「あちゃーって…、それじゃあやっぱり…」

「やっぱりあの子は幽霊なのかって?」

 これで利正の希望はついえてしまった。最後の砦と思っていた土佐尾がこうもあっさり陥落してしまうとは―、利正には彼女がふがいなく、情けないとさえ思えた。

「おばさんは知ってたんだな」

「逆にリセはいつから知ってたの?」

「…今日の午前中、のろ子から聞いた」

「あたしは初めから知ってましたけどね」

 土佐尾のふざけた態度に利正の神経は逆なでされる。

「なんなんだよ、あんた!ふざけてんのか!」

「お前こそなんだよ。今日の朝まで忘れてなんだろ?あの子が去年死んじゃったこと。本当におめでたい奴だよ。あたしはずーっと覚えてた。一日だって忘れたことはなかったんだ!」

 土佐尾はふざけていたのではなく、怒りを押し殺していたのだ。利正にもそのくらいのことはすぐに理解できた。

「ごめんなさい…」

「別に謝ってもらうことではないよ」

 土佐尾は冷静さを取り戻し、利正から眼をそむける。二人の間にしばらく沈黙が流れた。

「とにかく探さないと」

 口火を切ったのは利正である。彼は土佐尾から逃げるように背を向けるが、土佐尾はそれを逃がすまいと背後からおぶさるようにした。

「放してよ」

「今朝ね、わかれた旦那から久しぶりに電話があったの」

 抵抗する利正を余所に、土佐尾は何か語り始める。

「それがなんだよ」

「もうお盆でしょう?今年はあの子の初盆だから、その旦那の―雄二のところに親戚とか集まるだろうから、お前も来るか?だって…。あたしそれがなんか悔しくて」

 突然何を言い出すのだろう。利正には何も分からない。

「みんなね―旦那も親戚連中も―みづきが死んだのは全部あたしのせいだと思ってるんだ。だからもうあたしはあの子の母親だけど、まったくの他人みたいに、呼ばれでもしない限りお盆にだって顔出しちゃいけないんだ」

 横殴りの雨はその間ザーザーと土間へと吹き込み、樋からは大量の雨水が地面へと噴き出されている。

「あの子が幽霊になって現れた夜、初めはそりゃあびっくりしたけど、でもどこかでなんだかうれしかった。旦那に言ってやりたかった。あの子はあんたじゃなく、あたしのところに戻って来たんだぞってさ…」

 土佐尾とみづきが再開した夜―、それは利正にも覚えがある。夏祭りの晩、恭輔たちと香枝を探しに走ったときのことである。逃げ出したみづきとそれを追う母親の姿に、その時は首を傾げたものだったけれど、今になって彼女の胸中を思うと胸を衝くものがあった。

「ねえリセ、ずっとあの子の友達でいてあげてよ。それがあたしのたった一つの希望なんだ。あの子はもうすぐ消えてしまう。そうしたらみづきはまた一人ぼっち。だから、リセはずっとあの子のそばにいてくれるだろ?」

 土佐尾の語りは突然道を外れ、利正の考え及ばないところまで飛躍した。みづきが死者であったことさえまだ受け入れきれないというのに、今度は彼女が消えてしまう?みづきを一人ぼっちにさせないために、利正にはずっと友達でいて欲しい?土佐尾のこの発言は、利正には、みづきと共にあちらの世界、すなわちあの世へと渡って欲しいと言っているように聞こえた。

「もうやめて!!」

 いつの間にか花谷家の軒先にみづきの姿が現れていた。これまでの一部始終を見ていた彼女は、母親の話に耐えきれず飛び出してきたのである。

「それはお母さんの望みでしょう?私はそんなこと望んでない」

 そう叫んだ彼女は酷い顔をしていた。眼は真赤に腫れ、くしゃくしゃに歪んだ頬。上下の歯を軋らせて土佐尾を威嚇しているようだった。

「私は誰も道連れになんてしない。ただもう少しだけ、ほんのわずかな時間でもいい、友達とこの夏休みを過ごしていたかった。それだけよ」

 土佐尾は利正の背中から離れ豪雨に打たれる娘へと手を伸ばしたが、みづきは拒むように後じさる。

「もうここにはいられない」

 みづきは二人に背を向ける。

「リセ、騙していて本当にごめんなさい」


「私のこと忘れないで」


 みづきはそう言い残して雷雨の中を駆けだした。

「待って」

 利正も彼女を追って走り出す。土佐尾が追ってくる気配はない。飛びだすとすぐに大粒の雨が彼の視界を奪ったため、右腕を額に持ってきて庇代わりにした。

 みづきの足は遅い。逃げる背中さえとらえられれば、利正になら簡単に追いつくことができる。次第に距離を詰めていく利正、リレーでもしているように必死に左手を伸ばすと、ついにはみづきの手をとることができた。

「放して!」

 みづきはヒスでも起こしたように泣きわめき懸命に抵抗する。

「忘れないでなんて言うなよ」

「私はこれ以上あなたと一緒にいちゃいけないの!」

「それは俺が決めることだ!」

 利正が叫ぶとみづきは脱力して抵抗をやめる。

「でも、さっき青柳くんたちに…」

「…ここにいられないのはわかる。みんなにばれてしまったから」

「そうだよ。だから私はどこか遠くへ…」

「じゃあ行こう。一緒に行こう」

「!!」

 雨脚はなおも激しい。




 同時刻、佐藤基弘は学校の保健室にいた。夜間にも関わらず彼の侵入を許したのは、昼間彼自身の手によって保健室の窓ガラスが破壊されていたためだ。

 すでにこの時間、校内には彼のほか人影はない。校内の設備がめちゃめちゃに壊されるという異常事件が起こったのだから、本来は警察に連絡して警備の一人でも立てておいた方がよかったのだろう。しかし教員一同がそうしなかったのには、すでに犯行を行った人物の目星がついていたこと、また、なんといってもそれが本校の児童であったことが大きい。

 事件の処理は慎重を期するという判断から、一先ず私たちは荒らされた部屋の片づけをし、あとの処理は校長に一任することになった。その後美桜が発見されたという知らせを受け、職員室は安堵。保健室を外からは見えないようブルーシートで覆うと、同僚たちは問題を責任者に丸投げしたまま次々と姿を消していった。

「無い…無い…」

 こうした経緯から校内へと容易に侵入した佐藤は、すぐさま床に四つん這いになって手さぐりに何かを探し始めた。例のノートだろう。

 塔子がノートを盗んだのではないかと直感的に気付いた彼は、確証を得ないまま学校へとやってきた。もし塔子が先生たちに昼間の犯行を密告していて、かつ秘密のノートさえ先生たちの手に渡っていれば、過去に自分が犯した過ちさえ露見することになる。それは自分が恭輔に罪を着せようとした動機を立証する動かぬ証拠となり、自身の立場をさらに悪化させることだろう。自分でやってしまったこととはいえ、今さらながらしでかしたことの大きさを実感し、体はぶるぶると震えた。

 松前の手によって発見されたノートはすでに保健室から移動されているのだが、一縷の希望を手繰り寄せるように佐藤は両手を動かし続ける。

「痛っ!」

 床に残っていた細かいガラス片が指先を刺した。手のひらに眼を落すと、ふきだした血液が融解した金属のように見えて、自分の体がまったく自分のものでないように感じる。

 不意に背後で誰かの気配がした。

「無い…無い…」

 見るとそこには自分と同じように四つん這いになって何か探している人影があった。

「僕の眼薬がない」

「ぎゃっ!!」

 佐藤は悲鳴を上げた。「眼薬」という言葉を聞いて彼はすぐに昨年流行したうわさ話を想起したのだ。俗に「保健室のさとしくん」と呼ばれるそのうわさでは、眼薬を探して保健室に現れる生霊の姿が語られている。

 佐藤の悲鳴を聞くと人影はすくっと立ち上がり、それに合わせるようにあたりには雷鳴がとどろいた。横殴りの雨が外から部屋を覆っているブルーシートにぶつかってバツバツと音を立てている。雷光は薄暗い室内をパッと照らし出し、青色のスクリーンに意外な人物をうつし出した。

「なんだ、塔子さんか。…趣味悪いぞ」

 立っていたのは赤澤塔子だった。トレードマークのツインテールに、服装は昼間会った時のまま。そしてうわさを模した嫌がらせなのか、片目には白い眼帯をつけている。

「どうしてこんなところにいるんだよ」佐藤が尋ねる。

「それはこっちの台詞だ」塔子は冷淡に返した。

「俺はちょっと…探し物をだな」

「ひょっとしてあのノートのことか」

「!?やっぱりお前が…!」

「それならもう手遅れだ。とっくに先生たちに見つかってるよ」

「…俺をはめたのか」

 佐藤の瞳は怒りに燃えている。

「お前が加賀をはめようとしていたようにな」

 そう指摘されると、ぐうの音も出なかった。

「自業自得だ」

「目的を言え」

「そんな高尚なものはない。他人を潰して面白がっているだけさ」

 塔子は嘲笑うように言う。

「お前もうお終いだよ」

 確かにそうだ。膝をつき、佐藤は泣き崩れる。

「おいおい、泣くなよデブ。悪かった。私が助けてやるよ」

「本当か!?」佐藤は眼の色を変える。

「本当さ。私に任せておけば周りの連中はお前に都合の悪いことは全て忘れてくれる」

「そんな魔法みたいなことが…」

「できるさ、私になら。ただし一つだけ条件がある」

「何でもする!」

「交渉成立だ。悪いが少しの間、お前の体を貸してもらうよ」

「…体を、貸す?」

 佐藤が提示された条件の意味がわからずいぶかしんでいると、塔子は片目にかけていた眼帯に手を伸ばし、ゆっくりとそれを外して見せた。眼帯の下には黒くくぼんだ穴が開いている。すると真っ暗な穴の奥から産み落とされたようにギョロリとした眼球が現れ、それ自身に意志があるように動き始める。

「うわああああああ!!」

 佐藤は塔子に背を向けて廊下に続く扉へと駆け寄る。扉は室内から解錠できるものだったが、なぜなのかどうしても開けることができない。

 振り返ると塔子の眼球は次第に外へと押し出され、そこから頭ができ、四肢が形づくられはじめた。佐藤が扉に背中をぴったりと密着させ、腰を抜かして床に座り込んだころにはもうすっかり一人の人間の形になったそれは、佐藤の顔を凝視してにっこりと笑みをつくる。塔子はその人物の横に立つと肩へと手を置き、佐藤の方へと視線を向けた。

「しばらく彼と入れ替わってもらうよ」

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