第五章 蛍の光

駆け落ち

【うわさ6】


 戦争も終わりのころ、村で小さな悲恋がありました。地主の娘が町から疎開してきた少年と恋に落ちたのです。

 二人は愛し合い、少女は12歳の若さで身重の体となりました。けれど少女の家は二人の関係を決して許さなかったのです。

 少年は少女を連れて町へと逃れようとしました。沢の上の大銀杏は今も昔もこの集落のシンボルだったから、ある晩二人はこの大木のもとで落ち合いました。

 少女は泣いていました。家を捨て、両親を捨て、勝手気ままに生きるのに、彼女の良心は耐えられなかったのです。

 少女は少年の手をふりほどき、沢へとその身を投げました。

 少女をのみ込んだ闇の中には、ただ一匹の蛍の光だけが灯っていました。




 利正は沢の上の古木を見上げ、あれはイチョウの木ではないと思った。もっと近くで見ようとくるぶしまで水に浸かった足を上げると、沢の底の苔に滑って尻もちをついた。下着まで水が染み込む。

「みんな大銀杏って呼んでるけど、本当はサイカチの木なんだ」

 鮎川あゆかわ美郷みさとが何事もなかったようにそう言うと、利正は不満げに両足でジャバジャバと音を立てる。

 みづきが傍らでクスクスと微笑んだ。




 利正とみづきは昨晩駆け落ちをした。といっても小学五年生の利正にみづきをかくまってくれるような場所に当てはなく、途方に暮れて向かったのは自らの伯父・叔母の家だった。

 彼らの住む町から車で一時間半ほどの山間の集落にある鮎川本家では、毎年お盆になると親戚一同が勢ぞろいするのが恒例だった。夜のうちにタクシーで近くまでやってきた二人は翌朝になって鮎川家へと顔を出す。

 利正とみづきが本家へ着いてすぐ、利正の家から電話があった。

『もしもし、お義姉さん?お盆は本家へ帰れそうもありません。うちの利正が昨日失踪したんです。えっ!?利正が一人でそちらに?ガールフレンドも一緒!?すみません、あの子なにやってるのかしら、携帯もつながらないし…』

 母からのそんな独り語りのような内容の電話の後、利正たちはいとこの美郷に連れられて、この沢へと赴いたのだった。

 鮎川美郷は利正より一つ年上の小学六年生だった。みづきが生きていれば彼女とは同級生にあたる。美郷はさばさばした性格で、盆前に突然押し掛けてきた利正とそのガールフレンドらしき見知らぬ少女を前にしても、多少詮索する素振りこそみせはしたが、それでもごくごく自然にふるまった。

「上から覗くとけっこう高いでしょう?」美郷が言う。

 丘の上までのぼってキラキラした水面を見下ろすと利正は少し身震いした。川べりには背の高いケイトウが自生しており、夏の陽に向かいぐんぐんと茎を伸ばしたその姿は、あるいは沢から這い上がろうともがいているようにも見えた。

「でもリー君が女の子連れてくるなんて意外だな」

「そのリー君っていうのいい加減やめろよ」

「どうして?かわいいのに」

「かわいいのは嫌なんだよ」

 そう言いながら利正の視線はまだ沢の下にいるみづきの方を向いていた。

「みづきちゃんだっけ?正直リーとは不釣り合いだと思うな。あの子美人だもん」

「そんなんじゃないよ。親とけんかしたとかで、家に帰りづらそうだったから連れてきただけだ」

「うそ、家出してきたの?」

「まあ、そんなとこ」

 美郷は「へー」とか「そんな子には見えないけどなー」とか言いながらバシャバシャ水遊びするみづきを見下ろしていたが、急に眼精疲労をおこしたようにまぶたをぱちぱちさせて目をこすった。

「ヤバい。眼がちかちかしてきた」

 水面に映る太陽の反射で気分が悪くなったのだと利正は思った。

「大丈夫かよ。一度帰るか?」

「うん」

 利正は美郷の背中に手のひらを添えて一度日陰まで連れて行き、みづきを呼び戻そうと元の場所まで戻って下を見下ろす。

「花谷さーん」

 やはり太陽の反射で眼がちかちかとした。

 呼ぶとみづきは顔を上げ、丘の上の利正に手を振った。しかし利正は彼女の姿に顔をしかめる。それは光がつくる錯覚だったのか、手を振る少女の姿は少しだけ透けているように見えていた。白いワンピース姿のみづきの向こうで、燃えるように赤く色づいたケイトウが風に揺れている。




 同日朝、菱川ひしかわ純一じゅんいちは東出の交差点へと向かっていた。

 この菱川純一は仲間内では「ジョンツー」というあだ名で通っている。彼には一つ下の弟がいるのだが、これがなかなかできの良い弟で、兄の純一より勉強でもスポーツでも何をとっても引けを取ることがなかった。純一はずっと親しい友人から「ジョンワン」と呼ばれていて、「ジョンツー」の名はそもそもこの弟の純二のものであった。それがいつの頃からか逆転して兄の純一が「ジョンツー」、弟の純二が「ジョンワン」と改められてしまったのだ。だから純一は弟に対して強いコンプレックスを感じていて、佐藤が「チョキペロ」と呼ばれて怒るように、弟を引き合いに出されることをひどく嫌っていた。

「つよしー」

 交差点が見えてくると、菱川はそこで待つ友人の丹波たんば辰吉たつよしに向かって呼びかけた。

 東出の交差点は彼らの通う槇志野小学校の校区の中央に位置し、子供たちが遊びに出るとき決まって待ち合わせ場所につかわれる場所である。菱川の視線の先の丹波は見知らぬ少年を一人連れていた。

「誰?」

 丹波のそばまで来るなり菱川が尋ねた。

「は?」

 丹波は怪訝な顔で菱川をじろじろ見た。

 少年は端正な顔立ちで見鼻立ちがきれいに整っていた。やせ形で細身、身長も二人より頭一つ出ていて、服装や髪形も二人と違って清潔感がある。一度見たら忘れられないほどの好印象だ。

「どこのイケメンだ」

 劣等感の人一倍強い菱川は不快感を覚えて嫌な顔をつくった。

「いや、モッツだろ」

「モッツ?」

 モッツは佐藤基弘のあだ名である。しかし前章でさんざんコケにした通り、佐藤は大変ふくよかな体型をしていて絵にかいたような三段腹、顔や髪の毛はいつも油でべとべとである。顔はでかいし脚は短いし、季節に関係なく大量の汗をかいて同じ部屋にいるとけっこうにおう。

 目の前の少年は彼とは似ても似つかない。

「佐藤一郎くん。同じクラスの」

「一郎?」菱川は首をひねる。

「そう。知らない?」

 菱川は頭が少しアレなのでいつもつるんでいる佐藤の下の名前などうろ覚えだったが、それでも少し違和感を覚えた。

「モッツってそんな名前だったっけ?」

 菱川がそう言うと、佐藤一郎はにこりと微笑んだ。

「酷いな、ジョンツー。君の頭が少しアレなのは知っていたけど、親友の名前くらい覚えておいてほしかったよ」

 さわやかに髪をかきあげる少年。彼の額ににじんだ汗さえも、あのクソデブのそれとくらべれば高原の岩清水である。

「それより聞いたか?」丹波が切り出した。「昨日リセがいなくなったんだって」

「またいなくなったのかよ。どうせどっかの公園にでもいるんだろ」

 面倒くさそうに答える菱川。

 驚いたことにすでに彼は目の前の少年の容姿が自分の知る佐藤とは似ても似つかないことなどどうでもよくなってしまっていた。むろん丹波も同様である。

 昨晩利正の失踪とは別に、佐藤基弘少年もこの町から姿を消していた。そして基弘と入れ替わる形でこの一郎少年が町へと溶け込んだのである。これを仕組んだのは交差点の幽霊こと赤澤塔子。彼女のもつ霊的エネルギーによって人々は記憶に混乱をきたしており、このような理不尽な現象でさえすんなりと受け入れてしまうのだった。

 丹波少年は話を続ける。

「あと花谷も消えたって」

「花谷?」菱川は首をひねる。

「そう。知らない?」

「花谷って…、去年くたばった五年のこと?」

「それは終業式の幽霊だろ。俺が言ってんのは、花谷みづきのこと」

「そうそう。確かそんな名前」

「あれ?」今度は丹波が首をひねる。

「つよし、お前大丈夫か?」

 塔子のそれとは全く逆に、みづきの能力の影響力はかなり弱っていた。子どもたちの中ではいち早く樫谷芽依が「昨年起きた不幸な事故」、そして「終業式の幽霊」に関する記憶の一部ないし全部を取り戻しており、みづき、また利正と対立していた。

「じゃあ一体あの子は誰なんだ?」頭を抱える丹波。

「あのデカ女。リセたちといつも一緒にいた、あの女」

 菱川は佐藤一郎に答えを教えろと眼で訴えかけた。

「あの子が本当に花谷さんなら、あの子はすでにこの世のものではなかったということになるね」

「そんなバカな。ならリセは幽霊と駆け落ちしたってことか?」

 丹波がそう発言した瞬間、彼らの後方でガサリと物音がした。

 三人が振り向くとそこに立っていたのは柚木香枝の姿だった。彼女の足元にはコンビニのビニール袋が落ちている。

 まずい話を聞かれたと思った丹波は慌てて香枝に近寄る。

「まさか今の話全部聞いてたのか?」

「聞いてたわよ」

 香枝は額に汗をためながら答える。いい加減な話を聞かれたことに責任を感じたのだろう。丹波は神妙な面持ちで香枝の肩に手を置く。

「なあ、まず落ち着いて考えようぜ」

 香枝は丹波の手をすぐに払いのけた。

「落ち着いてなんていられるもんですか。すぐにみんなに知らせなきゃ」

「おい、柚木。バカなこと考えるなよ。この件にはまだ何の確証もないんだ」

 丹波は何をしでかすかわからない香枝を必死になだめようと試みる。

「裏付けなんてとってる暇ないわ。二人は『駆け落ち』したんでしょう!?こんな大ニュース、みんなに言いふらすっきゃないわ!」

「は?」

 あっけにとられる丹波。

「あはははは」

 一郎は思わず声に出して笑った。

「君って面白いな」

「誰よこのイケメン」

 香枝は横にいた丹波に尋ねる。

「佐藤だよ。俺たちの友達の」

「佐藤って誰よ」

「知らねえのかよ」

 香枝は丹波の胸ぐらを思い切りつかむ。

「あんたの名前だって知らないわよ!」

「お、俺は丹波だよ」

「知らないわよ。あんた自意識過剰なんじゃないの?」

「そんな理不尽な…」

 香枝は丹波を突き放すと今度は佐藤一郎の鼻先に迫る距離まで近づいた。

「ふん。あんた佐藤とか言ったわね」

「君は柚木香枝さんだね」

「そうよ。ちょっと顔が良いからって調子に乗らないで。あたしが何かおかしなことでも言ったかしら?」

「何もおかしなことは言ってないよ。僕がついさっき笑ったのは、ただ君が素敵だと思ったからさ」

 言っている意味はよくわからないが、とにかく一郎はさわやかに白い歯を見せながらそう言った。すると香枝は顔を赤らめる。

「ふ、ふん。全くお話にならないわね。意味がわからないわ。全然論理的じゃない」

 全くその通りだ。

「とにかくあたしはこれからみんなに鮎川くんとみづきちゃんが駆け落ちしたことを言いふらすわ。これはコイバナなの。ガールズトークなのよ。だからあんたたち男子に茶々入れられるのは目障りだわ。すぐにあたしの前から消えてちょうだい」

「そうさせてもらうよ。むさくるしい男に花園は不釣り合いだからね」

 よくわからないが一郎はさわやかにそう言った。

「ふん。詩人じゃない」

「女々しいだけさ」

 一郎は長い前髪をふぁさあとかきあげ、踵を返して歩きだす。

「さあ、あんたたちも」

 香枝はそう言って二人にも退散を促した。

「おい、柚木。聞けって」菱川が言う。

「あの花谷って女、やばいんじゃねえか?」

「何がやばいのよ」

「さっきの話聞いてなかったのかよ。あいつは去年死んだはずの女なんだよ」

「バ、バカなこと言うんじゃないわよ。幽霊なんてい、いるわけないじゃないの」

 香枝の膝ががくがくと震え始め、目じりには涙が浮かんでいる。香枝は心霊関係がめっぽう苦手だったことを菱川は忘れていた。丹波は見かねて菱川に耳打ちする。

(何やってんだ。三対一でこいつを泣かせでもしたら、俺たち完全にいじめっこじゃねえか。新学期始まって女子に何ていわれるかくらい考えろ)

(でも忠告しておいた方がこいつのためだと思って…)

「ねえ」香枝が言う。

(忠告なら後で恭輔にでもしておけばいいだろ)

(バカ言え!下手したら俺たちぶん殴られるぞ)

「ねえってば!」

 香枝が涙目で二人に訴えるように叫んだ。

「幽霊なんていないよね」

 香枝が祈るようにそう言うので、二人は一度顔を合わせてなにかを示し合わすように首を縦に振った。

「そう言われればそうだったぜ。幽霊なんているわけがないよな」

「俺たちどうかしてたぜ。証拠もないのにいたいけな女の子をバケモノ扱いするなんてよ」

「もとはと言えばお前が言い出したんじゃねえか。調子がいいなあ、こいつぅ」

 丹波は菱川のこめかみのあたりをコツンとした。

 二人のその様子に安堵したのか香枝の表情はぱあっと明るくなり、男子にはみせたこともないような笑顔をつくった。

「何よ、あんたたち話せばわかるじゃない」

「お前さんもそろそろみんなのところに戻っておやりよ。これから〝コイバナ〟じゃあなかったかい?」

「へへ。俺たち〝花園〟には近づかねえからよ」

「おっとっと、あたしとしたことが。えへへ、こうしちゃいられないわね」

 香枝はスタコラとその場を後にした。

「許せ、柚木。俺たちにはこうするしかなかったんだ」

「喰われても俺を恨むなよ」

 とんだ茶番を演じきった二人は遠いまなざしで、いつまでも香枝が駆けていった方を見やっていた。

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