やがて消え去る少女
県境のトンネルを抜けると右手は一面の日本海だった。
その日の海は穏やかで、白波一つたっていない海面はまるでそれが一枚の大きな絨毯であるような錯覚を起させるほどであった。
海岸線に沿ってまっすぐのびる防波堤の外には寄り添うようにして百単位のテトラポットが並んでいて、道路を挟んだ左手の歩道からはプラタナスの並木が防波堤の向こう側を覗き込むように背伸びしている。
バックミラーを覗くと子どもたちはすやすやと寝息を立てており、真ん中に座っている芽依の頭上には先ほど通過したばかりのトンネルがまだ小さくうつっていた。
「ほら先生、バス停。見えた?ここがうわさのバスの路線になってるんだよ」
車内で唯一起きていた土佐尾が助手席で年甲斐もなくはしゃいでいる。
「幽霊は学校じゃなかったっけ?」
「夕方のバスに白い杖を持った女の子が乗ってたんだって」
「それ普通に障害のある人が乗ってたんじゃないのか?差別だぞ、それ」
「もしそうだとしてもそんな紛らわしいことする奴が悪い。ほら、ツインテールだってまだ禁止なんでしょ?それと一緒だよ」
「無茶苦茶だな」
交差点の幽霊のうわさが流行し始めた頃から、私たちの町の小学生女子の間ではツインテールという髪型が禁止された。うわさにでてくる幽霊がツインテールの女の子という設定だったためである。現に私の知る赤澤塔子もツインテールをした少女の姿をしている。
土佐尾は話を続ける。
「昔ね、うちの子綺麗な長い髪してたんだ。生まれたときから一度も切ったことがなくて」
「何で切っちゃったんだよ」
「ある日二つに結んで登校したんだよ。そしたらクラスの男の子にからかわれてさ。その頃ちょうど交差点の幽霊のうわさが流行り出したころで、あの子学校から泣かされて帰ってきて、あたし許せなくてその男子の家に怒鳴り込んでやったんだ」
「その後バッサリ?」
「そう。気にすることないって言ったんだけどね。あの子意外とメンタル弱いから」
「いつ頃?」
「みづきが三年生の頃だったから…、ちょうど三年前かな?」
「三年前?」
おや、と思って私は確認する。
「本当に三年前か?」
「そうだよ。どうして?」
「花谷は今何年生?」
「五年生だよ?」
すると土佐尾は私が不思議に思っていることがわかったらしく、「ああ」と小さくつぶやいた。
「去年あの事故があったでしょ?そこから数えたら二年前かな」
「…何だ、やっぱり知ってたのか」
「知ってるよ。自分の娘だもん」
「悪いな。嫌なこと思い出させて」
「初めに先生がうちに電話してきたときおかしいと思ったんだよなあ。一年も経ってから全然関係ない先生が話を聞きたいって言ってきたんだもん。あたしの勘がもう少し良ければ気づいてたね」
「それは絶対気付かないと思うけどなあ」
私はハハと笑った。
「先生は知ってて放っておいてくれたんだよね?」
「ん?ああ…そうだな」
私はごまかしてしまった。
「家でみづきと少し話したんだ。そのことについて」
「それで本人は何て?」
「この夏、最後に友達と目一杯遊びたいんだって。そしたら―」
土佐尾は目を伏せる。
「…そうか」
そう言ったきり、私と土佐尾は黙ってしまった。彼女の言ったことが真実かどうかはわからなかったが、彼女がそう言うのならそう信じたいと思った。だがそれがうそなら子どもたちが犠牲になってしまう。どうしたものかはわからないが、それは成り行きが教えてくれるだろう、そういう穏やかな気持ちになる夏の日だった。
民宿に到着したのは昼前だった。民宿を出てすぐの広い浜には夏休みだというのに人っ子一人いる様子はなく、子どもたちは部屋に荷物を置くとすぐに前評判通りのプライベートビーチへと駆けて行った。
私たちの通された部屋はどうやら本来宴会用の大部屋らしく、冷蔵庫とかテレビとか、こういった施設の宿泊部屋には必ずといってあるものもなかったが、他に客がいないということでロビーも大浴場も調理場も自由に使っていいらしかった。
運転につかれた私はしばらく畳の大部屋でくつろいでいたが、しばらくしてから一階のロビーへと降りてテレビをつけ、甲子園の中継をみはじめる。
もう八月か、などとこぼしていると不意に後ろの調理場から冷蔵庫をバタンと閉める音がして、セパレイトの水着に蛍光色のパーカーといういで立ちの土佐尾が缶ビールを開けていた。「勝手に飲むなよ」「お金置いといた」などと言葉を交わし、それから私たちは外の桟橋に出て夕方まで二人でとりとめもない会話を楽しんだ。その間絶えず子どもたちの笑い声やバシャバシャと水遊びをしている音は聞こえ続けていた。
日が暮れて夕食を済ませると、女性陣は連れだって温泉へと向かった。二階の大部屋にはすでに女将の手によって人数分の布団が敷かれており、部屋の隅にまとめられた荷物からは女ものの下着がはみ出していた。
目のやり場に困った私は男子二名を連れて夜の浜に出てキャッチボールを始めた。軟球とグローブは民宿で貸し出しているもので、女将は恭輔に「花火もあるよ」と誘ったが、恭輔を前に花火というのも悪趣味だと感じた私が制止した。
野球など全く経験のない私がへっぴり腰で球を抛ると二人は笑顔をつくってその様を揶揄した。
「ねえ先生。昼間の話って何?」
キャッチボールを続けながら利正が尋ねる。
「何のことだ?」
私は恭輔にボールを投げる。
「車のなかでの話だろ。花谷が事故に遭ったとか何とか」
恭輔は利正へと球を返す。昼間の車内で二人は寝たふりをしていたようだ。まずいことを聞かれた。
「みづきちゃんってさ、一年留年してんの?」
何か誤解しているらしい様子の利正に、私はほっと胸をなでおろす。
「まあ、そんなところだ。そういうのは繊細な問題だから、あまり本人には詮索するなよ」
「はーい」
「だけどそれっておかしくね?俺たち花谷と同級生ってことになるだろ?学校で見たことないぜ」
恭輔が鋭く指摘する。
「いや彼女はよその学校の生徒なんだよ」
「でも家は槇志野の校区内にあるよな?」
恭輔が利正に投げかける。
「もういいだろ。細かいことを詮索するなよ。それより〝最後に友達と目一杯遊びたい〟って、あれ何なの?」
「そりゃあまあ、色々とあるだろ家庭の事情ってやつが」
私は口ごもりながら適当にごまかす。
「えっ?どっかに転校すんの?」
利正が言う。
「まあな」
「うそだろ」
利正は投げかけたボールを砂の上に落とし、しばし呆然となる。
「おいふざけんなよ。なんでお前そんな大事なこと黙ってたんだよ」
恭輔が怒鳴る。
「べ、別に隠してたわけじゃないぞ。あるだろ色々本人のタイミングとかさ」
しまったと思いながらも、なおも私はいい加減にごまかし続ける。
「知らねえよ。友達だったら最初に話すべきだろうが」
「お前たちいつから友達になったんだ?」
「わかんねえよ」
そこへ民宿の方から芽依が私たちを呼ぶ声が聞えて来た。「お風呂空いたよ~」などと叫んでいる。男子二人はうつむいてしまった。
「でもとにかく良かったよ。お前らが友達を大切に思ってくれる奴らで。よし加賀、風呂に入ろう。打身が治るぞ。な?」
私は両手で二人の背中を押すようにして民宿へと戻った。
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