第八話 期末テスト間近、ヤスミンのスパルタ学習指導

六月下旬のある日の夕方、鶸梅寮ロビー。

「ただいまー」

翔一が学校から帰宅した時、

「もうすぐだよぅ、科目数多過ぎるよぅ。範囲広過ぎだよぅ。いきなり数学と化学からだよ。最終日にしてくれた方が勉強時間いっぱい取れるのにぃ」

 千景はソファーの上で寝転がり、足をバタバタさせながら嘆いていた。

今日学校で、期末テストの日程・範囲表が配布されたのだ。

「わたしは一番楽しみなイベントだけどね」

「あたしもテストはけっこう好き♪」

 ヤスミンと茉祐はいつも以上に機嫌良さそうだった。

「中学生はいいなあ。科目数少なくて」

 千景はその二人の日程・範囲表を眺めながら羨む。

「高等部は音楽と美術と体育が無いから楽じゃない。主要五教科もただ単に細分化されてるだけだし、中学部より楽に思うな」

 ヤスミンは微笑み顔で主張する。

「そうかなぁ?」

 千景はむすっとした表情を浮かべた。

 期末テストは、中学部は七月一日木曜から土日を挟んで三日間。高等部は四日間に渡って行われる。

「俺の高校と同じ日程だね。俺んとこも今日、配布されたよ。俺も、何か力になれることがあったらお助けするよ。社会と理科と数学限定で」

「翔一くん、もちろんお願いするね。ところで翔一くん、その袋何? お土産かな?」

 千景は興味深そうに、翔一が手に持っていた銀の保冷袋を見つめる。

「これは鯛だよ。俺の担任の鯛先生からいただいた。実家から送られて来たから寮のみんなにもお裾分けしてあげてって」

 翔一は体長六〇センチほどの真鯛を袋から取り出してかざした。

「美味しそう♪ 私鯛大好物だよ。翔一くんの担任の先生太っ腹だね」

 千景は顔を近づけまじまじと見つめる。

 ミャ~ォ♪

 大五郎も匂いを嗅ぎつけ管理人室から駆け寄ってくる。嬉しがってるみたいだった。

「実家は鯛漁を営んでるらしくって、苗字も一般的な田んぼの田と井戸の井じゃなくて魚の鯛なんだ」

「ということは、ご実家は淡路島にあるということですね」

 ヤスミンはにこやかな表情で反応する。

「そうだよ。最初の自己紹介の時に言ってた。鯛姓は淡路島が由来みたいだね」

「翔一お兄ちゃんの担任の鯛先生は、優しい先生かなぁ?」

「うん、けっこう優しい先生だよ。顔も鯛に似てるっていうのは禁句だけど」

「ユニークな苗字といえば、おらが旅館やってた頃に菓子さんとか平目さんとかが泊まりに来たこともあったよ。翔一ちゃん、その高級そうな鯛、刺身におろせるかい?」

「いや、それは無理です」

 照子さんからにっこり笑顔でされた質問に、翔一は苦笑いで即答した。

「ほなおらに任せな」

 照子さんは刺身包丁を手に取ると、慣れた手つきでテキパキとおろしていった。

 こうして今夜の夕飯メニューに鯛の姿造りが加わり、いつもより豪華に。

     ☆

その日の夜、十一時半過ぎ。

「翔一お兄さん、そろそろ寝ませんか?」

 ヤスミンは、翔一のお部屋に足を踏み入れた。

「もう少しだけ待ってて」 

 翔一は申し訳なさそうに返答する。彼は高校入学記念に買ってもらったマイノートパソコンの画面に文字を打ち込んでいた。

「何をされているのでしょうか?」

「幸岡さんに、何とか数学と化学の点数を上げてもらおうと思って、試験範囲の要点をまとめた演習プリントを作ってて」

「心優しいですね、翔一お兄さん」

「いやいや、これくらいのことは、管理人ボランティアとして当然かなっと」

 ヤスミンに尊敬され、翔一は少し照れる。

「わたしもお手伝いしますよ。翔一お兄さん、もう少し詰めていただけないでしょうか?」

「いっ、いいけど」

「どうもありがとうございます」

ヤスミンは礼を言って、翔一の椅子の少し空いている部分にちょこんと座る。

「……」

 翔一は少しドキッとなった。

「千景さんは怠け癖がついちゃってるから、学習スケジュールを立ててやらせた方がいいと思うの。スケジュール表も作りましょう」

「それは、いい考えだね。あの、俺、分かりやすい解説も付けてあげようと思う。理数科目はビジュアルでイメージしながら学ぶのが最適だろうし。原子や分子や細胞の構造とか、物質の色や形とか。俺もなるべくイラストや図を描いて学ぼうとしてるし。こんな風に」

「翔一お兄さんの化学と生物のノートですね……おう、カラフルで見やすくて非常に分かりやすいです。原子や分子をかわいく擬人化してるのは柚陽もやってたけど、あの子のは分かりやすさは軽視してるわ。わたしもここまで丁寧にはまとめられませんよ。下手な参考書よりも良い出来だと思います。さすが神高生なだけはありますね」

「そっ、そうかな?」

「そうですよ。あの、テストの話から逸れますが、気になるので訊いておきたいです。翔一お兄さんは、高校の芸術の授業は何を選択されていますか?」

「書道だよ。音楽は超苦手だし、美術も絵以外はダメだから。書道が一番楽そうかなっと思って」

「そうでしたか。わたしも高校入ったら音楽、美術の実技はとても苦手なこともあり、何より日本の伝統文化なので書道を選ぼうと考えています。わたし、音楽の都ウィーン出身ながら音楽は歌も演奏も下手くそでして、雅楽部にも入ろうとも思ったのですが、足手まといになりそうなのでやめました」

「そっか。俺、クースタスさんの気持ちめっちゃ分かるなぁ」

「それは光栄です♪」

 このあとも二人は、時折会話を弾ませながら日付変わって深夜二時頃まで作業をしたのだった。

      

 ※

 

夜が明けて、日が暮れて同じ日の夜八時五十分頃。鶸梅寮ロビー。

「千景さん、今夜からは試験勉強しっかり頑張ってもらうよ!」

 ヤスミンは、お風呂上がりにソファーに腰掛けバラエティ番組を見ながらくつろいでいた千景に真顔で忠告した。

「えー」

「これを見て!」

 ヤスミンは二枚のA4用紙を、嫌そうな表情を浮かべた千景に見せ付ける。

「何これ?」

「千景さんが期末試験でいい点を取るための学習スケジュール表よ。翔一お兄さんと相談しながら作ったの」

 スケジュール表には今夜九時から日付が変わる深夜0時までの三時間。

次の日からは一日当たり、夕方五時から七時までと、夜八時半から深夜0時まで、計五時間半の学習スケジュールを組ませてあった。

 千景の苦手科目である数学ⅡBと化学を中心に、全科目満遍なく。

「こっ、こんなの、絶対無理だよ。夕方五時って、私まだ帰ってないよ」

 千景はそのスケジュール表を眺め、顔を引き攣らせた。

「寄り道せずにまっすぐ帰ればじゅうぶん間に合うでしょ」

 ヤスミンはきりっとした表情で指摘する。

「でも、夕飯とお菓子のお買い物が……」

 千景はしょんぼりとした表情でぶつぶつ呟く。

「それなら、おらに任せな」

 照子さんは千景に向かってウィンクをした。

「そんなぁー」

 千景はさらにしょげてしまう。

「翔一お兄さんもテスト勉強に付き添ってくれるよ」

 ヤスミンはそう伝えて、翔一の方をちらりと見る。

「幸岡さんに勉強を教えるのは、俺の任務だから」

 翔一は責任を強く感じていた。

「翔一くんといっしょにお勉強出来るのはすごく嬉しいんだけど、でもぉ……」

「さあ、もうすぐ九時よ。しっかりお勉強してもらわないと」

 ヤスミンはにこっと笑って、気の進まない千景の腕をガシッと掴んだ。

「千景ちゃん、学生の本分は勉強だから、頑張りな」

「千景お姉ちゃん、今回は翔一お兄ちゃんが付いてるからきっと勉強が楽しくなるよ」

 照子さんも彩織も、

 ミャーォ。

 大五郎も温かくエールを送ってくれた。

「さあ千景さん、わたしのお部屋へ」

 ヤスミンは千景の腕をがっちり掴み、ズズズッと引っ張っていく。

「あぁーん」

 千景は抵抗するも敵わなかった。

「幸岡さん、頑張って。今一生懸命頑張れば、きっと報われるはずだから」

翔一は千景に憐憫の情を抱きながら、あとをついていく。

「さあ、気合入れていくよーっ!」

202号室に辿り着くとヤスミンは、座卓に学習用具を並べていく。

「ヤスミンちゃんは、テストが近づくといつも以上にわたしに厳しくなるんだよ」

 千景は翔一に向かって不満を言う。正座姿勢で座らされていた。

「あのう、よく考えると、このスケジュールはさすがにきついんじゃ。俺も受験勉強ですらここまで詰めてやったことないよ」

 恐る恐るこう意見した翔一に、

「翔一お兄さんは、千景さんに対してかなり甘過ぎるのではないかとわたしは思います。いつも宿題やってあげていますし」

 ヤスミンはやや険しい表情で指摘する。

「……」

 翔一は何も言い返せなかった。思わず俯いてしまう。

「千景さん、この問題からやりなさい!」

 ヤスミンは数学ⅡBの問題集を開いて、該当箇所をパシーンと叩く。

「ひぃっ、翔一くぅん、助けてぇーっ」

 千景はびくびくしながら助けを求めた。

「ごめんね。俺には、どうすることも……」

 翔一は気まずそうにする。

「あのう、ヤスミンちゃん、自分の勉強を、した方が、いいんじゃない?」

「つべこべ言わずにやりなさい! 正座で」

 ヤスミンはそう命令し、テーブルをパシンッと叩く。

「ひぃぃぃっ」

 千景は従うしかなかった。ヤスミンは日頃から学校でもきちんと勉強しているので、今さら根を詰めてやらなくても余裕なのだ。

クースタスさん、厳しい一面も持ってるんだな。将来俺の母さん以上の教育ママになりそうだ。

 採点係を任された翔一は、心の中でこんなことを思った。

「ひどいよヤスミンちゃん。鬼だ。彩織ちゃんにはすごく優しいのに」

 千景は唇を尖らせながら、不平を呟く。

「彩織さんは注意しなくてもしっかりお勉強してくれるから」

 ヤスミンはにこやかな表情で言う。

 彩織もあれからすぐに自分のお部屋へ向かい、テスト勉強を始めたのだ。

 

それから一時間ほどのち、

「ヤスミンちゃん、私、おしっこぉー」

 引き続き強制勉強させられ中の千景は、もじもじしながら照れくさそうに伝えた。

「分かりました」

 ヤスミンはすぐに許可を出す。

「あっ、足が痺れて……」

 千景はゆっくりと立ち上がろうとしたが、転びそうになった。

「大丈夫? わたしにつかまって」

 ヤスミンは手を貸してあげた。

「ありがとうヤスミンちゃん」

やっぱり優しい子だな。

 翔一は改めて見直す。

「翔一お兄さん、少しお待ち下さい」

 ヤスミンもついていった。千景のすぐ後ろにぴたりと引っ付くようにして歩く。

「ヤスミンちゃん、恥ずかしいよぅ。出て行って」

「わたしも千景さんが用を足してる所なんて見たくないよ。でも、見てないと千景さん窓から逃げるでしょ」

 ヤスミンは頬を少し赤らめながら呟く。トイレも千景といっしょに入ったのだ。

「バレたかぁ♪」

 千景は舌をぺろりと出し、てへっと笑った。

「予想は出来てたよ。さあ、早く済ませて。時間が勿体ないよ。わたし、扉の方向いてるから」

 ヤスミンが言った通りにすると、

「はーぃ。でも出来れば、外へ出て欲しかったな」

 千景は照れくさそうに、ショーツとパジャマのズボンをいっしょに脱ぎ下ろした。

「んっしょ」

便座にちょこんと腰掛けて、ほんのり頬を赤らめながらチョロチョロ用を足し始める。

その音は、ヤスミンの耳にもしっかり届いていた。

       ※

「さあ、お部屋に戻ってお勉強の続き、続き」

 ヤスミンは千景が用を足し終えすぐ横の洗面所で手も洗ったのを確認すると、

「あーん、もう少しだけ休憩したぁい」

 嫌がる千景の手をしっかり握り、ズズズッと引っ張っていく。

お部屋に戻ると、有無を言わせずすぐに勉強を再開させた。


 午前0時過ぎ。

「はい、今日はここまでよ」

「やっと終わったぁー」

 千景は疲れ切った様子で腕を上に伸ばし、小さくあくびをする。

「期末テストが終わるまで毎晩続けるから、明日からも頑張ってね」

「えー」

 ヤスミンから爽やかな表情でされた伝言に、千景は愕然とする。

この地獄の学習プランは、予定通りそれから毎晩続けられた。

千景は嫌だとは思っていたのだが、翔一といっしょに勉強出来るので、楽しさもちょっぴり感じていたのだ。 

        

 ※


あっという間に期末テスト前日の夕方がやって来た。

「ただいまー」

「おかえり千景さん、今夜は最終仕上げよ。本番を想定して作った数学ⅡBと化学の予想問題、制限時間内に解いてもらうから」

ロビーで千景が帰ってくるのを仁王立ちで待機していたヤスミンは、きりっとした表情でいきなり指示を出す。

「はーぃ」

 千景はやる気なさそうに返事をした。

「あの、幸岡さん、顔が赤いよ」

 翔一は心配そうに指摘する。

「なんか私、今すごくしんどくって。お熱があるみたい。ケホッ、ケホッ」

 千景はふらふら歩きながら伝えた。

「ちっ、千景さん、風邪引いたの!?」

ヤスミンは慌て気味に千景のおでこに手を当てた。

「すごく熱い、大変」

 そしてとても心配そうにする。

「お医者さん呼ぼうかね」

 照子さんはすぐさま受話器を取り、知り合いの女医さんに電話をした。

 ここ鶸梅寮ほか摂蔭の提携生徒寮には、緊急時いつでも連絡の取れる担当医師がついているのだ。

「千景お姉ちゃん、大丈夫?」

「幸岡さん、大丈夫か?」

 彩織と翔一も心配そうに問いかけた。

「うん、まあ……なんとか」

 そう答えるも、千景はぐったりしていた。

 ミャォ~。

 大五郎も普段と様子が違う千景を眺め、心配しているみたいだった。

「千景さん、早く休んだ方がいいよ。わたし、お布団敷いてくるね」

 ヤスミンは階段を駆け上がり、千景のお部屋201号室へ。

「あの、幸岡さん。俺の、肩に掴まってね」

「ありがとう、翔一くん。助かるよ」

 翔一は千景をおんぶすると、落とさないように慎重に、ゆっくりとした歩みで201号室へ連れて行く。

辿り着くと、千景をヤスミンの敷いたお布団の上にそーっと下ろしてあげた。華奢な体格の翔一だが、千景の方が小柄なため難なくこなすことが出来た。

「幸岡さん、今日はじっくり休んだ方がいいと思う」

「もちろん、そうするよ」

「うわっ!」

 翔一はとっさに目を覆い、慌てて201号室から逃げていく。

千景がいきなり制服のスカートを脱ぎ下ろしたのだ。

「千景さん、翔一お兄さんの前ではいきなり脱いじゃダメよ」

 ヤスミンは優しく注意。

「ごめん、ごめん」

千景は照れ笑いしながら謝る。パジャマに着替えると、すぐに寝転がって自分で夏蒲団を掛けた。

「千景さん、お熱計ろうね」

 ヤスミンは体温計を手渡す。

「うん」

 千景は上体をゆっくり起こすとパジャマの胸ボタンを外し、わきに挟んだ。

 一分ほどして体温計がピピピっと鳴ると千景はそっと取り出し、自分で体温を確認した。

「38.6分かぁ。明日のテスト、受けれそうにないかも。一番大事な数学と化学があるんだけど……」

 千景はしんどそうに、不安そうに呟く。

「千景さん、そんなにあるの!? ごめんなさい。無理な学習スケジュールを強行しちゃって、体調崩させてしまって」

「ヤスミンちゃんは、全然悪くないよ。私が風邪引いたのは、今日、一日中雨降ってて肌寒かったのが原因だから」

 罪悪感に強く駆られ今にも泣き出しそうな表情で謝って来たヤスミンの頭を、千景は優しくなでてあげた。

 そんな時、ピンポーン♪ と玄関チャイムが聞こえてくる。

 お医者さんが来てくれたのだ。

      ☆

「先生、千景さんの容態は?」

 ヤスミンは心配そうに、千景の診察を終え帰ろうとした女医さんに尋ねる。

「心配しないで。普通の風邪だから、今晩しっかり休ませれば明日の朝にはすっかり治ってるわ」

「よかったぁー」

 爽やか笑顔で伝えられると、ヤスミンはホッと胸をなでおろした。

四人は千景のお部屋へと向かう。

「座薬打ってもらったから、だいぶ楽になったよ。ちょっと恥ずかしかったけど」

 千景は少し上体を起こし、照れ笑いして嬉しそうに伝える。

「あっ、幸岡さん、鼻水が垂れてるよ」

翔一はお布団のすぐ横に置かれてあったボックスティッシュから何枚か取り出し、千景のお鼻の下にそっと押し当ててあげた。

「ありがとう、翔一くん」

 千景はしゅんっと鼻をかむ。

「お夕飯は、食べられそうかい?」

 照子さんは問いかけた。

「ううん、食欲全然湧かない。でも、あれは食べたいな。前に私が風邪引いた時に、作ってくれたやつ」

 千景はゆっくりとした口調で希望を伝える。

「あれだね。おらが丹精込めて作ってあげるさ」

「ありがとう、お婆ちゃん」

 こうして照子さんは台所へ向かっていった。

     *

それから十数分後。

「千景お姉ちゃん、照子お婆ちゃんの手料理持って来たよ」

 彩織が運んで来てくれたそれは、ワカメやお豆腐などが入った生姜スープだった。

「彩織ちゃん、ありがとう」

「あたしが食べさせてあげる。あーんして」

 彩織は小さじですくい取り、ふぅふぅして少し冷ましてから千景のお口に近づける。

「あー」

千景は口を小さく開けて、幸せそうに頬張っていく。

風邪引いた幸岡さん、阪谷さん以上に幼く見える。

 翔一はそう思いながら眺めていた。

 千景は全部平らげて、

「すごく美味しかった♪ ごちそうさま」

 満面の笑みを浮かべる。食べ終えた頃には全身から汗が大量に流れていた。

「汗べとべとだけど、お風呂入ってますます拗らせちゃうと大変だから、タオルでお体拭いてあげるね」

「ありがとう、ヤスミンちゃん」

「どういたしまして。ちょっと待っててね」

ヤスミンは機嫌良さそうにそう告げて、お部屋から出て行った。

数分のち、

「遅くなってごめんね」

 ヤスミンはお湯を張った洗面器と、二枚のバスタオルを手に持って戻って来た。それらを千景の枕元にそっと置く。

「待ってましたぁー」

千景は寝転がったまま、小さく拍手した。

「それじゃ、俺は、これで」

 翔一は慌ててこのお部屋から出て行った。

「あっ、翔一くん、いなくなっちゃった。そばについてて欲しかったのに」

 千景は残念そうに、小さな声で呟いた。

「翔一お兄さん、千景さんの裸を見るのに罪悪感に駆られたんですね。紳士です。千景さん、お体拭くからパジャマ脱いでね」

「うん」

 ヤスミンに頼まれると、千景はゆっくりと上体を起こす。パジャマのボタンを外して上着を脱ぎ、次にシャツも脱いで、真っ白なブラジャーも外した。きれいなピンク色をした乳房が露になる。

「千景さん、お腹は痛くない?」

「うん、大丈夫。下痢はしてない」

「よかった。それじゃ、拭くね」

 ヤスミンはお湯で絞ったタオルで千景のお顔、のどくび、うなじ、背中、腕、わき、お腹の順に丁寧に拭いていく。

そのあとに乾いたタオルで二度拭きしてあげた。

「ありがとうヤスミンちゃん。汗が引いてすごく気持ちいい♪」

 千景は恍惚の表情を浮かべた。

「どういたしまして。千景さん、パジャマ着せるからバンザーイしてね」

 ヤスミンは嬉しそうに微笑む。

「はーい」

 千景は素直に返事し、両腕をピッと上に伸ばした。ヤスミンはブラジャーを留めてあげ、シャツとパジャマの袖も通してあげ、ボタンも留めてあげて千景の着衣完了。

「次は下を拭くね」

 続いてヤスミンは千景のズボンと、水玉模様のショーツをいっしょに脱がし、下半身も拭いてあげる。

「んっ」

 おへその下からおしりにかけてなでるように拭かれた時、千景はぴくんっと反応し思わず甘い声を漏らす。

「きゃははっ」

足の裏を拭いてあげた時には、くすぐったがってかわいい笑い声を出した。

「はい、拭き終わったよ」

 ヤスミンは同じように乾いたタオルで二度拭きし、ズボンとショーツを穿かせてあげた。

「ヤスミンお姉ちゃん、すごく手際良いね」

彩織はとても感心する。

「わたしも一年生の時に風邪引いた時、千景さんに体拭いてもらったことがあるからね。あの時のお礼なの」

 ヤスミンは照れくさそうに打ち明けた。

「あったね、そんなこと。風邪引いた時のヤスミンちゃん、より幼くてかわいかったよ」

千景はゆったりとした口調で、楽しそうに伝える。

「そんなに幼く見えた?」

 ヤスミンはにこっと笑ってますます照れくさがった。

それからほどなくして、

「あのう、幸岡さんの体は、もう拭き終わった?」

 翔一はお部屋の外から問いかけた。

「うん、もう大丈夫ですよ」

 ヤスミンが答えると、

「失礼します」

翔一は安心しながらも恐る恐る、お部屋へ足を踏み入れた。

「おかえり翔一くん。私、もうおねんねするよ。あのう、風邪うつしちゃうといけないから、今夜はみんな他のお部屋で寝てね。おやすみ。ケホンッ」

千景は申し訳なさそうにこう告げて、夏蒲団にしっかり包まった。

「おやすみ、幸岡さん」

「おやすみーっ。千景お姉ちゃん、明日の朝までに絶対治してね」

「おやすみなさい千景さん、お大事に」

 三人は優しく話しかけ、各自お布団を持ってお部屋から出て行った。

「千景ちゃん、氷枕を使いな」

「ありがとう、お婆ちゃん。気持ち良くぐっすり眠れそう」

 入れ替わるように照子さんがやって来て、千景に優しく声を掛けてあげた。

「今日は翔一お兄ちゃんのお部屋で寝よう!」

「賛成!」

 彩織の提案にヤスミンは快く乗る。

「えっ、俺の部屋?」

 翔一はちょっとだけ焦った。

「わたし、翔一お兄さんのお部屋を勝手に拝見したことがあるのですが、少年期の男の人のお部屋に高確率であるという、エッチな本が一冊も無いのは素晴らしいです。柚陽さんはデッサン用とかで何冊か持ってるみたいですけど」

 ヤスミンは嬉しそうに微笑む。

「普通、無いと思うけど……」

 翔一は気まずそうな苦笑いだ。

いたいけな少女キャラの全裸描写があるラノベとマンガ置いてるんだけど、クースタスさんはそれはエロ本と判断しなかったみたいだね。

こんな理由で。

 ともあれ、お布団は三枚とも翔一の部屋に運ばれることに。

         ☆

 夜十時半頃。

川の字に並べられたお布団にヤスミンと彩織が包まると、翔一が電気を消して自身もお蒲団に包まった。翔一が真ん中で、両隣にヤスミンと彩織という配置だ。

それからほどなくして、外からポツポツと水が滴り落ちる音が聞こえて来た。

 雨が降り始めたのだ。

「天気予報、今夜は晴れって言ってたはずなのになぁ」

 彩織はそう呟いて、立ち上がると窓に近寄りカーテンを開け、外の様子を眺める。

 次の瞬間、ピカピカッと稲光が走り、

ズダァァァァァーン、バリバリバリビッシャァァァァァァァーン!! 

と耳を劈くような音が聞こえて来た。雷がかなり近づいて来たらしい。

「しょっ、翔一お兄ちゃぁぁぁん、怖いよぉぉぉ~。あっ、あたし、雷さんは大の苦手なのぉぉぉ~」 

彩織はとっさに翔一にしがみ付く。彼女の顔は強張り、体はプルプル震えていた。

「そっ、そうなのか?」

 翔一は心配そうに問う。

「わっ、わたしもです。怖いです」

 ヤスミンも抱きついて来た。

「あっ、あの……」

 翔一はやや焦る。彼の右腕に彩織、左腕にヤスミンが抱き付いている。翔一は自由に身動きがとれない状態になっていた。

「わたしと彩織さんと翔一お兄さんで、CO2ね」

「どういうこと?」

 彩織は今にも泣き出しそうな声で問う。

「分子構造よ。翔一お兄さんがCで、わたしと彩織さんがOよ」

「よく分かんないや」

ヤスミンは楽しい会話を弾ませて、気を紛らわそうとしていた。

ドォォォォォォォォンッ! ゴロゴロゴロッ!

 と大きな雷鳴が轟くたび、ヤスミンと彩織が翔一の体に強く密着してくる。

「あっ、あの。痛いからあまりきつくしめないでね」

 翔一は少し苦しがっていた。

        ☆

 それから三〇分もすると、雨は小康状態になって来た。

「翔一お兄さん、ありがとうございました。男らしさを感じました。もう大丈夫です」

「翔一お兄ちゃんの腕、すごく柔らかかったよ」

雷もほとんど聞こえなくなり、ヤスミンと彩織はようやく翔一の体から離れてくれた。

「べつに、たいしたことはしてないよ。それより幸岡さん、一人で寝てて大丈夫かな?」

 翔一は照れ隠しするように別の話題へ振る。

「わたしもすごく心配。ちょっと様子見てくるね」

 ヤスミンはそう伝え、千景のお部屋へ向かった。十秒ほどして戻ってくると、

「千景さん、ぐっすりと眠ってました」

 笑みを浮かべて嬉しそうに報告した。

 翔一達三人は安心して眠りにつく。


        ☆


翌朝、午前七時過ぎ。

「翔一くん、お婆ちゃん、大ちゃん、おっはよう!」

 千景は制服姿でロビーに現れると元気に挨拶し、テーブルの椅子に座る。

「千景さん、36.7分まで下がってたよ」

「千景お姉ちゃん、お咳も止まったみたい」

 ヤスミンと彩織はホッとした様子で伝えた。

「それは良かったね」

「千景ちゃん、すっかり元気になったみたいだね」

 ミィ~♪

 翔一と照子さんも、大五郎もホッと一安心した。

「これもみんなが看病してくれたおかげだよ、ありがとう、みんな。でも、期末テスト……昨日帰ってから一秒も勉強出来なかったから、不安だなぁ」

「追試があるでしょ」

 ヤスミンはすかさず突っ込む。

「期末テストで頑張らないと、夏休み入ってからも補習授業受けさせられるもん」

 千景が不機嫌そうに主張した。

その直後、思わぬ事態が――。

 テレビからアラーム音が鳴り響き、気象速報という字幕が流れたのだ。

続いてテレビ画面上に兵庫県阪神地区に大雨・洪水警報という字幕が表示される。

「警報……警報ってことは、今日は休校ってことだよね?」

 千景の表情が次第に綻んで来た。

「警報が出た場合、期末テストは一日延期って言ってたよ」

「よかったぁー。テスト勉強出来るよ。今日はいっぱい頑張るぞぉーっ!」

 ヤスミンからの伝言に、千景は満面の笑みを浮かべて大歓喜する。

「俺の高校も同じく一日遅れになるよ」

「あたしも英語と音楽、余分に勉強出来そうだ♪」

 彩織にとっても、都合が良かったらしい。

すっかり風邪の治った千景は、今日は食事とトイレ、入浴時間以外のほとんどを勉強時間に費やした。

夜には翔一とヤスミンが共同で作った数学ⅡBと化学の予想問題を解いていく。

「数Ⅱ57点、数B51点、化学48点か。もう少し取って欲しかったけど、これなら赤点は回避出来そうね。頑張ってね、千景さん」

 各々本番と同じ五〇分の制限時間内にこれだけ取れ、ヤスミンはまずまず安心した様子だった。

「もちろん頑張るよ!」

 千景は自信満々に宣言する。


        ☆


翌日、当初の予定より一日遅れの期末テスト初日。

「翔一くぅん、私、今日のテスト、ばっちりだったよーっ!」

 お昼前、千景は鶸梅寮へ帰ってくるなり、とても嬉しそうに翔一に伝えた。

「おめでとう。俺の方もけっこう手ごたえあったよ。今回は総合でも学年上位四十位以内に入れそうだ」

 数分前に帰っていた翔一は笑顔で褒めてあげ、自分の期待も伝える。

「わたしのスパルタ教育も効果あったでしょ?」

「うん、かなりあったよ。ありがとうヤスミンちゃん。翔一くん、ヤスミンちゃんと翔一くんが作ってくれた予想問題プリントから、たくさん出たの」

 先に帰っていたヤスミンからの問いかけに、千景はにっこり笑顔で満足げに答える。

「それはよかったね」

 翔一も嬉しい気持ちと達成感が芽生えた。

 俺の行いでこんなに喜んでもらえるなんて、感無量だよ。

 思わず嬉し泣きしそうにもなる。

「明日からの分も頑張るぞぉーっ! ヤスミンちゃん、翔一くん、ご指導よろしくね」

「うん。でも、あまり無理はさせないようにするね」

 ヤスミンは千景の学習スケジュールを、午後十一時までに短縮してあげようと考えた。

「あたしも今日の国、理、美ばっちりだったよ。どれも九〇点くらいは取れそう」

 彩織は自信たっぷりに伝える。今回も前回の中間テストの時と同様、保健室でテストを受けさせてもらったのだ。


 期末テスト残りの日程も、あっという間に過ぎていく。

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