第3話 カバンの中には秘密がぎっしりと詰まっている

「あっ、バスだ!」

 ソウタの声にハッとなった。いつの間にか街中を抜けて、山の麓を走っていた。僕達が乗るワゴン車は路線バスの後ろ姿を捉えていた。

「あのバスに乗って行ったんだよね?」

 路線バスを見つけて興奮したソウタが男に尋ねた。

「ああ、そうだ」

 その言葉に感情は含まれていなかった。少し上の空なのか、それとも何かを考えあぐねているのか、彼の表情から伺い知ることはできなかった。

「次のバス停に先回りして、バスが来るのを待ち伏せしようよ」

 ソウタのその提案に、無表情だった男の細い目が少し見開いたように思えた。

「先回りか」

 男はボソッと呟いた。

「うん、次のバス停はどこ?」

「次はもう終点だ」

「終点?」

「そうだ」

「おばあちゃんがまだ乗ってるなら、終点で降りるよね。バスを追い抜いて先に行こうよ」

 ソウタは俄然やる気になっている。おばあちゃんを見つけられることを確信しているようだ。

「ホスピスは山の向こう側にある。バスはでけえから細い山道を避けてぐるっと回っていく。けど、この車なら山道を通ってバスよりも先に行けるぜ」

 そう言った男の右の口角が少し上がった。その表情の変化に言い知れぬ不安を感じた。咄嗟に彼の提案を遮った。

「このままバスの後ろを走っていけばいいよ。先回りする必要はないよ」

 男は顔を前方から逸らさずに、僕のことを横目でチラリと見た。それは一瞬のことですぐに視線を前に戻した。

 何かを答えることもなく、彼は突然ブレーキを踏んでワーゲンバスのスピードを落とした。タイヤが軋んだ音を立てた。僕達は前につんのめった。

 驚いて前を見ると、そこは信号のない交差点だった。男はハンドルを左に切り、勢いよく交差点を曲がった。僕とソウタは二人揃って今度は助手席のドアに押し付けられた。シートベルトが僕のお腹に食い込んだ。荷室に載せられている自転車がガタンと大きな音を立てた。

 その音に掻き消されてよく聞き取れなかったけど、男が小さな声で「うるせえ」と言ったような気がした。

 路線バスは交差点をまっすぐ進んでいったが、僕達のワーゲンバスは山へと続く道を走り始めた。


 山道は鬱蒼とした木々に覆われていた。アスファルトの舗装はすぐに途切れて、固められた土の道になった。車一台が通ることができる程度の細い道だった。道は森の中を縫うように続いていた。

 枝葉が道にまで伸びていて、ときどき窓ガラスに擦れていく。風がますます強くなってきた。揺れる木々の蠢きは森の鼓動のようだった。

 登り坂をしばらく走った後、やがて道は緩やかな下り坂になった。このまま下って行くと目的地に着くのかもしれない。

 不意に、ソウタのスマートフォンの着信音が荷室から聞こえてきた。

「あっ、電話だ。お母さんかも」

 荷室に置かれたリュックを取ろうとして身をよじらせたが、スピードを出して走ってきたワーゲンバスの勢いのせいか、僕達のリュックは自転車の隙間を滑って、一番後ろに行っていた。

「リュック取りたいから停めて」

「馬鹿かお前は。今停められるわけがないだろう」

 男の乱暴な言葉にソウタは返す言葉を失った。僕はソウタにコソッと言った。

「まだ家に帰ってこないから心配してかけてきたんじゃないか?」

 その囁きにソウタが答えた。

「位置情報見て、俺が遠くにいるのに気付いたのかも」

 突然、男が急ブレーキをかけた。後輪がロックして、車の後部が左に大きく滑った。彼は慌ててハンドルを切り返したが、制御を失った車は狭い山道で草木に激しく擦られながらスピンをした。車は前後が逆になった状態で止まった。

「いってー。ソウタ、大丈夫か?」

 ソウタの真ん丸い眼鏡が顔からずり落ちそうになっていた。ソウタは眼鏡をかけ直しながら答えた。

「うん、大丈夫。何があったの?」

 それは僕も聞きたいことだった。振り向いて男の様子を伺った。

 この車のハンドルは水平に近い傾きになっている。男はハンドルに胸を強かに打ちつけたらしい。この古い車にエアバッグなんて付いていない。胸を抑えながら呻いていた。

「うう……。お前、今なんて言った?」

「な、何があったのって……」

 ソウタがどもりながらそう答えた。

「馬鹿野郎、その前だ」

 僕はハッとなった。

「あっ、位置情報?」

「お前らがどこにいるか、親にバレてんのか?」

 男の目に異様な焦りの色が見て取れた。その焦りはみるみるうちに怒りへと変わっていった。男のこめかみに血管が浮き出てきた。ハンドルの上に置いた右手がプルプルと震えている。

「ふざけやがって。何で俺の邪魔をしやがるんだ!」

 低く唸るようなその声に、僕の背筋は凍りついた。すぐに逃げなきゃ何をされるかわからない。僕は慌ててシートベルトを外した。

 男は突然僕の方に振り向いて叫んだ。

「許さねえ! ここで始末してやる!」

 大きな右手が僕に伸びてきた。反射的に僕は左足で男の胸元を思い切り蹴飛ばした。

 痛めていたその胸に加えられた一撃に、男の両目は見開かれ、右手は僕の目の前で空をつかむしかなかった。

「逃げるぞ!」

 恐ろしい大人に敢然と立ち向かった僕の行動に面食らったのか、ソウタは呆然としていた。その体を乗り越えるように手を伸ばし、助手席のドアを開けた。ソウタも急いでシートベルトを外した。

「降りるんだ!」

 ソウタは落ちるように車の外に出た。慌てて降りた僕はその上に乗っかるようになってしまい、二人は組んず解れつの状態で地べたに転がった。

「いてて」

 起き上がった僕は急いで振り返って男の様子を見た。すると彼は胸を押さえたままハンドルに突っ伏して、ううっと唸っていた。

 ハンドルに衝突した時に肋骨を折っていたのだろうか、僕に追い打ちをかけられてすぐには動けないようだった。

「ソウタ、自転車だ!」

 僕達が走って逃げたって追いつかれるに決まってる。男が動けないうちに自転車で逃げようと思った。

 車のスライドドアを開け、中に乗り込んだ。僕達の腕力で車から自転車を下ろすのは骨が折れるけど、力を必死に振り絞った。手前にあったソウタの自転車がワーゲンバスからガシャンと音を立てて落ちた。

 次に僕の自転車を下ろそうとしたけど、男の大きなカバンの持ち手がペダルに引っかかってしまっていた。力を入れてそれを外そうとしたけど、焦ってばかりでうまく外れない。

 運転席の男の様子を見ると、まだ突っ伏したままだ。何とか今のうちに自転車を下ろさなくちゃいけない。

 ふうっと大きく息をつき、焦る心を落ち着けようとした。

 その時、少し開いていた男の大きなカバンのファスナーの隙間から中身が見えた。そこには思いもしなかった物があった。

「えっ?」

 カバンの中には札束がぎっしりと詰まっていた。

「なんだこれ?」

 僕の思考は一瞬止まり、目の前の出来事の辻褄を合わせることがすぐにはできなかった。

 でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。頭を振って余計な疑念を振り払い、ペダルからカバンの持ち手を外した。

 自転車を下ろし、荷室の後ろに行っていた二人のリュックを取ると、もう一度運転席を振り返った。その時、僕の目は釘付けになった。真っ赤に充血した目が僕を見ていた。起き上がった男が僕を睨みつけていた。

「逃がさねえぞ」

 その声は、大地を這う巨大なミミズのようだった。

「行くぞ!」

 ソウタに声をかけ、リュックを渡した。僕達はリュックを背負うと、目の前に続く下り坂を自転車で駆け下り始めた。

 後ろからギュギュギュッとタイヤが唸る音が聞こえた。自転車を操りながら振り返ると、路肩の草木に乱暴にぶつかりながら、ワーゲンバスが狭い道で方向転換をしているのが見えた。

 同じように振り返っていたソウタが叫んだ。

「うわっ、追いかけてくるよ!」

「大丈夫だ、逃げ切ってやろうぜ!」

 顔を見合わせた僕達は、お互いに頷いた。

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