第2話 ワーゲンバスは僕達を乗せて走り出す
翌日、僕はいつものようにソウタを迎えに来た。
ソウタが自転車の鍵を外したとき、彼のお母さんが玄関から出てきて僕達に声をかけた。
「台風が近づいてるから、プールは午後から閉鎖だって」
「午前中のクラスだから大丈夫だよ」
「水泳教室が終わったらまっすぐ帰ってくるのよ」
「うん、わかった」
「あ、それからね、さっき学校から防犯メールが来てたの。最近この辺りに怪しい人がうろついてるらしいから気をつけなさいだって」
「わかったわかった。幼稚園児じゃないんだから大丈夫だよ」
「絶対に知らない人について行っちゃ……」
畳み掛けてくる母親のしゃべりに辟易したソウタはその言葉を遮った。
「わかったってば! 俺達がその怪しい人をやっつけてくるよ!」
そしたらヒーローになれるなと内心思いながら、ソウタの家を後にした。僕達はリュックを背に自転車を走らせた。
僕達は以前のように、あのおばあちゃんの家の前を通る道を選んだ。今日また名前を聞かれたら、何度でも教えてあげようと思っていた。
自転車をこいでいたら、急に上の方からザザザッと音がした。見上げたら、神社にそびえる大きなイチョウの枝が風に煽られて揺れていた。風が強くなってきている。
神社の角を曲がっておばあちゃんの家の前に来た。でも、庭におばあちゃんの姿はなかった。
ちょっと拍子抜けした僕達は顔を見合わせた。変な緊張感があったことに気が付いて、二人で思わず笑ってしまった。
その時、後ろから走ってくる足音が聞こえた。振り向くとそれはチカだった。彼女は僕達に駆け寄った。すごく慌てているようだった。息を切らせながら彼女は言った。
「うちのおばあちゃん見てない?」
「え?」
「おばあちゃんがいないの!」
チカは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
すると、二人の警官が僕達の元へ小走りでやってきた。いや、正確にはチカの元へだ。
若い方の警官がチカに話しかけた。
「電話をくれたのはあなたですか? おばあちゃんがいなくなったそうですね」
「はい! そうなんです」
「GPSを持たせていますか?」
「いつも首に下げてるんですけど、置いたままいなくなっちゃったんです!」
昨日交差点で見かけたとき、おばあちゃんは首から携帯電話をぶら下げていた。それのことを言っているようだ。
「行きそうなところは?」
「散歩のコースにある河原が好きなんです。一人で行って川に落ちちゃったとか」
チカの声は震えていた。
「河原を探してみましょう」
そう言うと近くに停めていたパトカーにチカを乗せた。
パトカーの助手席に乗り込もうとした年配の警官が僕達の方に振り向いた。
「君達、最近この辺りに不審者がいるようだから気をつけなさい」
彼のその言葉を残して、パトカーは走り去っていった。
「フシンシャ?」
僕の疑問にソウタが答えた。
「怪しい人ってことだよ」
「ソウタのお母さんが言ってたやつか」
しかし、年配の警官の言葉よりも、僕達の頭はいなくなったおばあちゃんのことで一杯だった。
僕はソウタの顔を見た。ソウタも僕を見ていた。どちらからともなく、僕達はお互いに頷いた。
どんよりとした空に敷き詰められた灰色の雲が、みるみるうちに流れていく。昼だというのに辺りは薄暗くなってきた。怪しい雲行きが不穏な気配を呼び寄せている。
僕達は昨日おばあちゃんを見かけた横断歩道に向かって自転車をこぎ始めた。警官たちが河原を調べるようだから他を探そう。おばあちゃんの家からあの横断歩道までの道を辿ってみることにした。
ところが、横断歩道までの道におばあちゃんの姿はなかった。
「どこにもいないね」
ソウタが残念そうに言った。
「うーん」
曖昧な相槌を打ちつつも、何か手がかりがないか考えていた。
続ける言葉を失くしていた僕の前を一台の路線バスが通り過ぎた。その時僕の脳裏に昨日のおばあちゃんのぼんやりとした眼差しが浮かび上がった。
あの時、おばあちゃんは何を見ていた? そうだ、路線バスをずっと見つめていたじゃないか!
「ソウタ、バスだよ!」
「バス?」
横断歩道の近くにバス停があった。ここにおばあちゃんは来なかっただろうか。誰か見た人はいないだろうか。バス停の隣に古い小さな中古車屋がある。その店の人に聞いてみようと思った。
しかし、ガラス越しに見える店内は照明が消されて薄暗かった。今日は休みなのだろうかと思ったが、奥に人の気配が見える。誰かいるようだ。
店の前に自転車を停め、ガラス戸に手をかけた。鍵は開いていた。
ガラス張りの店内には、美しい深紅のオープンカーが一台置かれている。フロントガラスに「1957年式 ポルシェ356スピードスター 非売品」と書かれた札が付けられている。狭い店内はその車でもう一杯だった。
その向こうに置かれた机のあたりに若い男がいた。時折見かける男主人ではないことはすぐにわかった。ここの店員だろうか。
彼は一瞬、ギョッとしたような表情を見せた。ボサボサの髪を掻きむしり、中に入ってきた僕達を細い目でじろりと見ながら小さな声で呟いた。
「戸を閉めてくれ」
開けっ放しにしていたガラス戸を慌てて閉めた。
「風が強くなってきたな」
若い男はそう言うと、品定めするように僕達を見た。
「何の用だ?」
薄暗い店内と無愛想な男の雰囲気に気圧されて、僕達は言葉がすぐには出て来なかった。思わずお互いに顔を見合わせた。
「えっと……」
ソウタの言葉を追いかけるように僕が続けた。
「おばあちゃんを見かけませんでしたか?」
「おばあちゃん?」
「そこのバス停にいませんでしたか?」
彼はその質問に答えずに、じっとこちらを見ていた。僕達二人が何者であるかを見極めようとしているように思えた。
妙な沈黙の時間が続いた。それは二、三分の事だったと思うが、三十分くらいそのままでいたような気がした。
きちんと閉まっていなかったようで、入口のガラス戸が強い風に煽られてガタガタと音を立てた。ソウタの右肩からリュックの肩紐がずり落ちた。
僕が思わずゴクリと唾を飲み込むと同時に彼は言葉を発した。
「ああ、そういえば見たな」
僕達は顔を見合わせた。思いがけず目撃情報を手に入れたかもしれない。
「バスに乗って行った」
やっぱり! 僕は心の中でガッツポーズをした。
「そのバスってどこまで行くんですか?」
「終点は街の外れのホスピスだ」
「ホス……?」
それは僕もソウタも知らない言葉だった。
男に礼を言って外に出た僕達は、バス停で時刻表を覗き込んだ。
「今何時?」
二人とも腕時計はしていないが、ソウタがリュックからスマートフォンを取り出し、時刻を見た。
「えっと、いま十時半」
「やべ、プール始まっちゃってるな」
そう言ったものの、二人ともそれは何とも思っていなかった。
水泳教室の皆勤賞がもらえなくても、今日は昨日よりも長い距離を泳げるようになっていたとしても、無断でサボったことが親にバレても……。
いや、それはまずい。心の中で冷や汗をかいたが、今はそのことを考えるのはやめることにした。そんなことよりも今目の前にある大問題は、おばあちゃんがいないということだ。
「次のバスまで一時間あるよ」
時刻表を指でなぞりながらソウタがそう言った。
「それに乗って追いかけたんじゃ遅すぎるな」
「自転車で追いかけても追いつかないかな?」
「バスの行く道がわかんないから無理だよ」
僕達は途方に暮れた。バス停の標識の周囲をぐるぐる回りながら、プレートに書かれている路線図を見たりして、何かいい手はないかと考えていた。
不意にソウタがあっと声を上げて言った。
「河原に行けばさっきのおまわりさんがいるかな?」
「そっか、おまわりさんに言えばいいね」
「河原に行っておまわりさん探してみようよ」
「探しに行く時間がもったいないよ。警察に電話しよう。おばあちゃんがバスに乗って行ったのをこの店の人が見たって伝えよう」
僕の提案にソウタが眼鏡を直しながら大きく頷いた。ちょうど手に持っていたスマートフォンで110を押し、耳に当てた。
その時、ソウタの後ろからスッと手が伸びてきて、耳にあてがっていたスマートフォンが取り上げられた。それは店にいた若い男だった。
突然のことに驚いたソウタの顔を見下ろしながら、彼はスマートフォンの通話ボタンを押し、電話を切った。
「何するんだ!」
僕は声を荒げて男に言った。しかし彼は僕の抗議を受け止めることもなく低い声で言った。
「警察に連絡して、奴らが来るのを待つのか? そんなことをしてたらバスは遠くまで行っちまうぜ」
その言葉に僕達は顔を見合わせた。彼はさらに続けた。
「俺が車でバスを追いかけてやる。そうすりゃすぐに追いつくだろ」
そう言うと彼は視線を逸らせた。その先には店の外に置かれている白とオレンジに塗られた錆だらけのワゴン車があった。
「フォルクスワーゲンのワーゲンバスだ。ポンコツみたいだけどな」
男はそう言うと、僕達に車の鍵を見せた。
「ばあさんを早く見つけたいんだろ? 追いかけよう」
無表情だった男が薄く笑った。
「今なら追いつくぜ」
そうか、その方がいいかもしれない。僕達は頷いた。ソウタはスマートフォンを受け取り、リュックにしまった。
男は僕達に助手席に乗るよう促した。しかし、僕達が乗り込もうとした時、彼はあっと声を上げた。
「おい! あの自転車、お前らのか?」
僕達が頷くと、見るからに不機嫌そうな顔をした。
「ここに置いとくわけにはいかねえな」
ひとり言のようにそう呟くと、古ぼけたワーゲンバスの右側のスライドドアを開けた。そして、僕達をジロッとみると、顎で自転車を指し示した。
僕達は慌てて自転車を彼の元に寄せた。この車は改造されていて、二列目と三列目のシートが取り払われていた。彼は少し乱暴に二台とも車に乗せた。僕達の自転車は車内でゴロンと寝転がった。
僕達は右側にある助手席に乗り込んだ。この車は左ハンドルだ。運転席と助手席は繋がっていて、三人掛けのベンチシートになっている。僕は真ん中に、ソウタは窓際に座った。
彼は大きなカバンを持っていた。それを自転車の横にドサッと置いた。自転車が車内の壁に押されて軋んだ音を立てた。
「お前らのリュックも邪魔だ。後ろに置け」
僕達が身を乗り出してリュックを後ろに置いたのを見ると、彼は運転席に座り、すぐにエンジンをかけた。ワーゲンバスは僕達を乗せて勢いよく走り出した。僕達は慌ててシートベルトを締めた。
僕は急にスマートフォンが手元にないことに不安を感じた。体をよじってリュックに手を伸ばそうとした時、彼が乱暴に言った。
「おい! 何やってんだ」
彼の剣幕に、言いかけた答を思わず飲み込んだ。
「いいからお前ら外を見てろ。ばあさんがどっかでバスを降りて歩いてるかもしれないからな」
僕達は慌てて外に目をやった。外は午前中だというのにだいぶ薄暗くなっていた。街路樹の枝葉が風に揺れている。台風が近づいているこんな時に、おばあちゃんはどこに行ってしまったんだろう。
僕達を乗せたワーゲンバスは、どんどんスピードを上げていった。
今にも雨が降り出しそうだ。灰色の大気が重たく僕の心にのしかかる。おばあちゃんのことを気にしながらも、もやもやした何かが頭の中で膨らんでいた。
窓の外を見るふりをして、運転席にいる男の様子を横目で伺った。
頭を掻きむしるのが癖なんだろうか。頻繁に頭を掻いている。乱れた髪が脂ぎった艶を放っている。その髪には埃の小さな塊が幾つもくっついている。なんであんなに埃が付いているんだ?
運転しながらしきりに左手の人差し指を噛んでいた。苛ついた男の心が見て取れる。
店員かと思っていたけど、いくら僕達が子供だからって、いきなり「何の用だ」って言うだろうか。この男は誰なんだ。あの店で何をしていたんだろう。
強い風に
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