第7話
赤ん坊が我が家にやってきたとき、サーシャは硬直したように立ち尽くしていた。
はじめ彼女のほうに赤ん坊を手渡そうとしていた係官は、迷うように視線を揺らしたあげく、結局、俺のほうに差し出した。小太りの、温厚そうな係官。いつもそうであるように、初めて見る顔だった。
同じ人間が二度接触してくることは、ほとんどないようだった。そのことについて、説明を受けたためしはなかったが、理由には察しがつくような気がした。特定の個人に親近感を抱くようでは、彼らの仕事は、やりづらいのだろう。あるいはその推測は無用のかんぐりというもので、単に公的機関の人間らしく、彼らの役割分担がやたらに細分化されているというくらいの、単純な理由なのかもしれなかったが。
娘はよく眠っているように見えたが、手渡されるときには、もぞもぞと動いた。
赤ん坊というのは、こんなに小さかっただろうか。ミニチュアのような、小さな服から、それこそおもちゃのような手足が飛び出していた。
見た目の割に、その小さな体にはずっしりとした重みがあった。丸々と太った、健康的な赤ん坊――妹のときもこうだっただろうかと、遠い記憶を呼び寄せようとしてみたが、巧くいかなかった。それもそのはずだ。妹が生まれたとき、まだ俺は二歳だった。
やがて異変に気づいたようすで、赤ん坊は一丁前に生えそろった短いまつげをぴくぴくと震わせた。
開いた目は、俺とおなじ鳶色をしていた。
ああ、本当に俺の子供なんだなと、朧な実感がようやく追いかけてきた。嬉しいというよりは、どこか落ち着かない、そわそわした気分だった。
赤ん坊の視線は、頼りなくさまよった。このくらいのうちは、まだよく目が見えていないというのは本当なのだろうか。
こちらが身構えるより早く、子供は鼻をひくつかせて、泣き出した。
しわくちゃの顔を真っ赤に染めて、赤ん坊は声を張り上げた。この小さな体の、いったいどこから出るのかというような、大音声だった。
立ち尽くしているサーシャと、どうしていいかわからないでいる俺を見比べて、係官はどう思ったものか、励ますように笑いかけてきた。
「みんな最初はこんなものですよ。大丈夫、根気強くあやしてあげたら、じきに泣き止みます」
その言葉は嘘ではなかったが、子供が泣き止むまでには、ずいぶんと時間がかかった。
係官は赤ん坊が泣き疲れて眠るまで待ってから、検診の日程を言い残して去った。
残された俺は、手の中の赤ん坊をひとしきり眺めて、サーシャのほうを振り向いた。彼女は息を呑んで、顔を引きつらせた。
「抱いてみないか?」
わずかばかりの期待を込めて、そう声を掛けると、彼女はうろたえるように視線を揺らした。
長いこと、彼女はためらっていた。それでも辛抱強く待っていると、その手をいかにもおっかなびっくりといった調子で、ゆっくりと伸ばしてきた。
赤ん坊の、小さな指に触れかけて、サーシャはびくりと手を引っ込めた。まるで触れたら火傷するとでもいうように。
「噛みつきゃしないよ」
わざと軽い口調で言ってから、無理強いはせずに、リビングに戻った。据え付けたベビーベッドに子供を寝かせる間、彼女はやはりおそるおそるというようすで、赤ん坊を遠巻きに見ていた。
結局、その日、サーシャは一度も赤ん坊に触れなかった。その目に怯えの色が滲んでいることに、俺は気がつかないふりをした。
娘の名前はクローディアにした。
それは母の名前だった。ほかに女の名前を、ろくに知らなかったので。もしかしたらいまもどこかで生きているかもしれない妹と同じ名前にするよりは、死んだ母の名をもらう方が、まだしも悪趣味ではないような気がした。
赤ん坊は、とにかくよく泣いた。
泣いているときと眠っているとき以外は、クローディアはいつもじっと俺を見上げていた。俺が動くと、視線が追いかけてくる。はっきり笑ったりするのはまだ先のことらしく、そこに何の感情が読みとれるというわけでもないのだが、かといって、完全な無表情というのとも違う。澄んだ鳶色の瞳で無心に、あるいは一心に、娘はただひたすらこちらの目を見つめかえしてきた。
こいつはいったい、何を見極めようとしているんだろうと思った。まだ何も知らないくせに。
赤ん坊の世話というのは、想像以上にやっかいだったが、それでも新しい生活は、あんがい悪くはなかった。おかげでプログラムの改良についてはほとんど止まってしまっていたが、どのみち現状のまま一人でやれる作業には、限度がある。
誰かに計画を打ち明ける気はないが、せめて進学して、もう少し自由に動き回れる口実が手に入れば、足の着かない手段での部品調達も、いまより楽になるだろう。未成年が、スクールエリアでも育児期間用の住居エリアでもない場所をうろうろするのは、案外目立つ。俺は予定を繰り延べることにして、ほとんど一日中、赤ん坊の世話にかまけて過ごした。
アドヴァイザーが、赤ん坊にはなるべくこまめに話しかけろというので、俺はせっせと娘に語りかけた。どうせ言葉の意味もわかってはいない相手に向かって話すのは、独り言のようで気恥ずかしかったが、それが言語の発達を促すといわれれば、そういうものかという気がした。
気がつくと、クローディアに話しかける俺を、サーシャが離れたところから、じっと見ていることがあった。
彼女は相変わらず、赤ん坊を遠巻きにしていた。それでも、その存在を無視して寝室に引きこもってばかりいることもできないようで、よくリビングにやってきては、少し離れたところから、赤ん坊の顔をおっかなびっくりのぞきこんだ。その表情は、いつも何かにおびえているように、不安の色を隠せずにいた。
そのうち慣れるさと、意味もなく、俺は繰り返した。楽観的に考えでもしなければ、やっていられない気がしたから。
ある日の夜中、何の拍子にかふいに目が覚めた。
たいていは、クローディアが泣き出してたたき起こされるので、そうでないときには疲れてぐっすり眠っていることが多かった。何もないのに急に目が覚めるというのは、近頃では珍しかった。
気がつけば、サーシャがベビーベッドのそばに、立ち尽くしていた。深夜のことで、照明は足元の常夜灯だけだったから、そのかすかな青白い明かりに照らし出された彼女の横顔は、真っ白に見えた。
おかしな話だが、俺はその張り詰めた横顔に、一瞬、吸い込まれるように見とれた。正直に言えば、その瞬間まで彼女の顔を、美しいと感じたことはなかった。痩せすぎて陰気に見えていたし、いつも顰めっ面ばかりしていたから。
サーシャは眠る赤ん坊に、迷い迷い、手を伸ばしてはやめた。
最初はいつものように、触れるのをためらっているのかと思った。抱き上げてみようかと考えて、けれど決心がつかずにいるのだと。
だが、違っていた。その手がゆっくりと、赤ん坊の首に向かって降りてゆくことに気がついた瞬間、いっぺんに眠気がふきとんだ。
胸の中に氷をさし込まれたようだった。サーシャの張り詰めた表情の意味を考えるまでもなく、その手が何をしようとしているかは、あきらかだった。
ソファから跳ね起きて、駆け寄った。サーシャがはっとしたように振り返った。だがその手は、赤ん坊の首にかかったままだった。
「――よせ」
極力、冷静な声を出そうとしたが、その努力はうまくいったとは言いがたかった。彼女はびくりと身をすくませた。その手を掴んで、強引にベビーベッドから引き離した。サーシャは抵抗するでもなく、俺の勢いによろめきながら、床にへたり込んだ。
心臓が跳ねていた。いま、何をしようとしていた? 口から出かかった詰問を、かろうじて飲み込んだ。わかりきった問いかけだ。
赤ん坊を殺そうとしていたのだ。首を絞めて。
視線だけで振り返って、ベビーベッドを確かめた。クローディアがあまりに静かにしているので、不安になったのだ。だがそれは心配のしすぎというもので、赤ん坊は、静かに寝息を立てていた。
彼女が何か言うのを、俺は待った。その口から抗議か、言い訳か、あるいはそれに類した言葉が出てくるのを。だがサーシャはなかなか口を開こうとしなかった。真っ白な顔のままで、顔を伏せて、座り込んでいた。
「どうせ、抵抗しても無駄だって、そう思ってたの」
長い沈黙のあとで、ようやく彼女はかすれた声を出した。「何をどう言っても、結局は決められたとおりにするしかないんだからって。だから、考えないようにしてた。わたしが馬鹿だった――誰に何を命令されたって、子供なんて、つくるべきじゃなかったのに」
ようやく顔を上げたサーシャの青い瞳は、暗闇の中で爛々と光っていた。「生まれてこないほうが、この子のためだった」
目眩がした。
手に余る、と思った。こういうことは、俺のような素人ではなくて、そう、たとえば精神病理学者だとか、心療内科医だとか、そういうプロの手に任せられるべきことだと。
だが――愚かしいことかもしれなかったが、どうしても、医官にコールする気にはなれなかった。夜中だったからではない。連中を信用することが、俺にはできなかった。
じきに寿命を終えるだろう女ひとりのために、懇切丁寧に難しい治療をこなすような良心の持ち合わせが連中にあると、そう仮定することは、難しかった。行政府というものを、俺は信用していなかった。
ネットワークの海に漂う膨大な情報の中には、荒唐無稽な噂話が混じっている。センターに関する黒い噂は、いつでも絶えなかった。たとえば、そう、助からないとわかった女たちに対する処遇だったりだとか、障害の程度のひどい赤ん坊にたいする処置だとか、そういう話だ。
それらの噂話には、隠されたものを疑いたくなる人間心理に由来する、根も葉もない憶測も混じっていたかもしれない。だが、あながちすべてがでたらめだと言い切れないところがあった。
情報統制は、一見したところ緩やかで、行政府を批判する声がそのまま寛容に放置されているかと思えば、誰も気づかないうちにさりげなく削除されていることがある。そして、そうやって消されるデータの中に、そうした噂話が混じっていた。
ひとつだけ確かなのは、月政府には余裕がないということだ。社会の役に立たない人間を生かし続けるために、膨大な投資を続けるだけの資源は、おそらく、どこにもない。
目の前が暗くなるような錯覚を覚えながら、言葉を探した。サーシャは赤ん坊から目をそらして、肩をふるわせていた。
何度も口を開きかけてはためらい、ためらいしてから、ようやく俺は声を振り絞った。
「どうして、そんなふうに思うんだ――」
非難の調子を完全に押しかくすのは、難しかった。サーシャはすぐには答えなかった。その顔をのぞき込もうとして膝をつくと、彼女の震える息が、じかに頬に触れた。
「――生きていたって」
やっとのことで、彼女は口を開いた。「いいことなんて、ひとつもなかったわ」
その言葉は、俺にではなく、どこか遠い場所に向かって投げつけられたように聞こえた。
その瞬間、こみ上げてきた激情は、何だったんだろう。
言葉にならない感情が、胸を焼いた。どうにか平常心を取り戻したくて、息を吸おうとすると、喉がひきつれるような音を立てた。
彼女をいさめるべき言葉は、なかなか思いつかなかった。だが、何かを言わなければならなかった。少なくとも、彼女の言い分を、黙って認めるわけにはいかなかった。焼け付くようなその焦りに押されて、ろくな考えもないまま、口を開いた。
「それは、この子が、決めることだ――そうだろう?」
口に出す端から、自分の胸のうちには否定の言葉が飛び交っていた。それを決められる年齢まで、クローディアが生きられるという約束などどこにもない。言いながら自分でわかっていた。だからサーシャが反論する前に、俺は言葉を重ねた。「この子にだって、生きられるうちは、生きる権利がある――」
どこかで聞いたような、あきれるほど陳腐な台詞だった。
薄っぺらい言葉しか持たない自分を、これほど腹立たしく思ったことはなかった。だがそれでも、サーシャは視線を揺らして、ためらいを見せた。「だけど――」
「君だって、死にたくないと、言ったじゃないか」
俺はほとんどすがりつくような調子で、そう叫んだ。「この子も同じだ。違うか?」
言う端から言葉は裏返って、俺自身を刺した。
彼女の言うように、この子の人生に、これから辛いことばかりが待っているのだとしても、俺は同じことを言えるだろうか?
たとえばこの子がいまのサーシャのように、いつかひどく苦しんで、我が子を手に掛けようと思い詰めるような、そんな未来が待っているかもしれなくても、それでも俺は、この子に死んで欲しくはないと、迷わずに言えるのだろうか。
そうではなかった。俺の中にあるのは、ただ目の前でこの子が死ぬところを見たくはないという、それだけの臆病さに過ぎなかった。自分でそれがわかっていた。俺は、逃げているだけだった。
「――もしかしたら、いつか」
言葉はいかにも無力だった。それでも俺は、かろうじて彼女の目を見たまま、話し続けた。「いつか、ひとつくらいは、生きていてよかったと思えることが、あるかもしれないじゃないか。その可能性まで、この子から奪う権利は、俺たちにはない。そうだろう?」
サーシャは打たれたように顔を上げた。俺の空疎な言葉の、いったい何があんなに彼女を動揺させたのだろう――だがとにかく、彼女は目に見えてうろたえた。
「この子が、決める……?」
頼りない声だった。サーシャは俺に、すがるような目を向けていた。彼女がそんな顔をしたことが、いままで一度でもあっただろうか?
俺は、せいぜい確信に満ちた顔を作って、うなずいた。その努力が成功したかどうかはわからなかった。
青い瞳が何度も揺れて、俺と赤ん坊の間をさまよった。その様子を見ていて、思いついたことがあった。俺は立ち上がって、ベビーベッドをのぞき込んだ。話し声がうるさかったのか、むずがりはじめたクローディアを、抱き上げた。
「――抱いてやれよ」
ようやく、自分の言葉で喋ったような気がした。
ひとしきり赤ん坊をあやして、その小さな体温の高い体を、彼女のほうに、ゆっくりと差し出した。
赤ん坊の体の重みを、手応えを、その手に直に感じたなら、それがいくらかでも、彼女の気を変えさせるのではないかと思った。俺がはじめて、サーシャが生身の人間であることを思い知らされた、あの日のように。
彼女は長いことためらっていた。だが俺が引き下がらないのを見て、何度かの逡巡のうちに、おそるおそる、手を出した。そのやせ細った腕に、俺は、クローディアの体を預けた。
彼女は何も言わなかった。張り詰めた表情で、いかにも肩に力の入ったようすで、ただ赤ん坊を抱いていた。その緊張が伝わるのか、いったんは泣き止んでいたクローディアが、またむずがりだした。
それにつられるように、サーシャも泣き出した。子供のような、手放しの泣き方で。その肩を抱き寄せながら、つられて自分まで泣きたくなった。
何が正しくて、自分がどうすべきなのか、わからなかった。手に余ることをしようとしているという、うっすらとした自覚だけが、胸の端に居座っていた。
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