第6話
その日から、サーシャはひどく不安定になった。食事の時間になっても出てこず、何度か呼べば、かろうじて危うげな足取りで出てはきたものの、ともすれば匙を使うことも忘れて、いつまでもぼんやりと手元を見つめていた。始終ふさぎ込んで、ときには前触れもなく叫び出すようなことさえあった。
夜中、うなされているのに気づいてようすを見に行くと、眠ったまま、泣きながら誰かに謝っていた。
気晴らしになるものを与えるようにと、アドヴァイザーは言ったが、いったい何が彼女の気を晴らすのか、見当もつかなかった。ものを食べることは、あいかわらず彼女にとって苦痛でしかないようだったし、あれだけ一日中読んでいた本も、一切読まなくなった。
仕方なく、俺は彼女を、以前より頻繁に外に連れ出した。あいかわらずの、無言の散歩。以前と違うのは、彼女が時折いつの間にか立ち止まって、ぼんやりしていることがあるという点だった。そのたびに俺は彼女の手を引いた。
あのときに抱きしめた体の熱とは裏腹の、冷たい指。それでもしばらく手を握っていれば、やがて俺の体温が伝わって、いくらかその手のひらは温もり、薄く汗が滲んだ。
生きているのだ。その言葉がときおり腹の底からわき上がってきて、俺を責めた。
こんなことで大丈夫なのだろうかと思う気持ちはあった。赤ん坊がやってくるまでに、あと何か月もない。彼女はこんなようすで、子供の世話なんかできるんだろうか?
だがそれは、はっきりいって、俺の甘えだった。たとえばひと月後、彼女がまだ生きていると保証するものは何もないのだから。何かあれば当然、俺がひとりで子供を育てるのだ。それははじめから、想定しうることのはずだった。
彼女のようすがおかしいのは、傍目にも明らかだっただろう。道行く人々が、ときおりもの言いたげな視線を向けてくることがあった。
たとえばその中の誰かにでも、相談できればよかったのだろうか。俺では駄目でも、同じ女なら、いくらか彼女の心理に察しがついたのかもしれなかった。
だが俺は、そうしようとしなかった。他人を頼るという発想が、自分の中になかった。
俺は父のようにはなりたくなかった。できることなら何があっても動じず、問題が起きても冷静にひとりで対処できるのが、理想の生き方だと思っていた。だがそう思うのならば、彼女を自分と同じひとりの人間だと思うことは、してはならないことだったのだ――少なくとも、いまこの状況においては。
それでも、俺はなるべく彼女に話しかけるようになった。食事の内容だとか、散歩中に見かけたものだとか、中身のない話ばかりを。
それもアドヴァイザーの指示だった。彼女は気のないふうに反応をかえすときもあったし、ぼんやりとどこかを見ていて、聞いているのかどうかもわからないときもあった。前のように、皮肉が返ってくることはほとんどなくなった。
そんな相手に一方的に話しかけることには、いつもひどい徒労感が付きまとった。ときには腹立たしく感じることもあった。どうして俺が、この女のためにいらない気苦労を背負い込まなくてはならないのかと。
だが大抵は、哀れみのほうが勝った。可哀想な女だった。いつまで生きられるかわからない短い人生の中で、何だかわからないが、どうやら何かにおびえ、罪の意識に苦しんでいる。
「名前、どうしようか」
ある朝、食事の最中に思い立ってそう話しかけると、サーシャはぼんやりした表情のまま、顔を上げた。彼女が自分でつけた頬の傷は、なかなか消えず、まだ痛々しいかさぶたを残していた。
「名前……?」
その茫洋としたまなざしに、不安を覚えた。この女の心は、現実を生きていない。
俺は無理に微笑んだ。「子供の名前だよ。何か考えはあるか?」
名前、ともう一度つぶやいて、彼女はふっと暗い目をした。
「なんだっていいわ。あなたが考えて」
投げやりな、自棄のにじんだ口調だった。とっさに何かを言おうとして、自分が口に出そうとしていた言葉がわからなくなった。俺は彼女に怒ろうとしたのだろうか、それとも諭そうとしたのだろうか。子供が可哀想じゃないかと?
それを言う資格が、俺にあっただろうか。
セオからふたたび連絡があったのは、もう子供が生まれるまで間もない時期だった。
もう二度と、連絡してこないのではないかと思っていたから、驚いたというか、拍子抜けした。画面の向こうの友は、ばつの悪いような表情で身じろぎをして、片手を上げてみせた。努力して何でも無いふりをしているのが目に見えてわかる、ぎこちない笑みを浮かべながら。それで俺も、何事もなかったようにふるまった。
近況を報告しあいながら、嘘はやはり自然に口から滑り出た。本当のところを打ち明ける気には、どうしてもなれなかった。少しばかり喧嘩の多い、けれどそれなりに仲むつまじい夫婦――そんな作り物のイメージ。喋っているうちに、本当に、そうだったらよかったのにと思えて、苦いものがこみ上げてきた。
セオのところは、男の子だったらしい。
それを聞いた瞬間、自分の胸がざわつくのを感じた。自分だけが貧乏くじを引かされたという、あの感情が胸をよぎって、いやな後味を残した。
だがそれを顔に出すのは、プライドが許さなかった。俺はせいぜい明るく笑った。
「おめでとう……ってのは気が早いか」
ありがとう、と言って照れくさそうに笑うセオは、幸せそうだった。
この違いは何だ。一度そう思ってしまったら、もう駄目だった。暗く、深い穴の底に、ひとりきりで落ちたような気がした。だが胸の内とは裏腹に、俺の顔は微笑みを浮かべ続けた。
「うちももうじきだ。あと半月くらいかな」
そのまま表情を変えず、さりげない口調を装って、言った。「うちは女だったよ」
その瞬間、セオの表情が曇るのがわかった。やはり精一杯努力して、それを押し隠そうとしていることも。
相変わらず、わかりやすいやつだった。他人に興味は無いというような、いかにもすました顔をしてみせるけれど、そんなものはポーズだけだ。愚直なまでに真面目で、隠し事に向かない――
俺はなぜ、こんな馬鹿を疑ったんだろう。
その思いは、唐突にどこかから降って落ちてきて、俺の頭を殴りつけた。
俺は、はじめから知っていたはずではなかったのか。こいつは友人を裏切っておいて、その相手に平然と接することのできるような、器用なやつではなかった。
ああ、そうかと、ようやく腑に落ちた。
そうだ。あのとき、トラムに乗って顔を見に行くまで、俺はこの男を本気で疑ってはいなかった。その心境が変わったのは、セオの話を聞いてからだった。口では文句を並べ立てながら、幸せそうに女の話をする、友のにやけ面を見たときから。
つまるところ最初から、俺はこいつに、自分で思うよりもずっと、嫉妬していたのだ。幸せな結婚をした友人に。ただそれだけの話だった。
だがそんな俺の内心などつゆ知らず、飲み込んだ、おそらくは同情の言葉のかわりに、セオは言った。
『そうか。――おめでとう』
その一言に、ひどく胸が詰まったのは、なぜだっただろう。
「ああ――ありがとう」
答える声が掠れた。
祝福の言葉を、残酷だと思ったわけではなかった――その逆だった。生まれてくることを、祝福してくれる人間がいるということ。それがまだ見ぬ娘にとって、ささやかな救いのように思えた。
つまらない嫉妬に振り回されていたことよりも、子供が生まれてくることを、ちっとも喜べないでいた自分に対して、とつぜん耐えがたいほど嫌気がさした。生まれてくることを誰にも喜ばれない子供は、哀れだ。
「……ありがとう」
もう一度言って、無理に笑った。声が震えなかったかどうかなんていう小さなことが気にかかった。俺はさりげない態度を保てていただろうか。
通信が切れたあと、俺はその場にうずくまって、感情の波が静まるのを待った。羞恥、自己嫌悪、不安――交互に押し寄せてくる感情は、ひどく混乱していた。
胸の内で、自分の声がしきりに釘を刺していた。手放すことに耐えられないものは、はじめから持つべきではない――
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