第5話

 何度目かの往診の際に、医官から指示が出された。少し運動をするようにと、命令の口調で告げられたその言葉に従って、俺は彼女を連れ出した。

 外を連れだって歩く間、彼女はひとことも口をきこうとしなかった。うつむいて、自分の足元だけを見るようにしながら、黙々と歩く。それなら一人で散歩をしたって同じことだろうにと、そう思わなかったわけではないのだが、身重の妻を一人で出歩かせるというのは、どうやら世間的には、考えがたい非常識らしかった。

 広々とした公園は、それでも五分も歩けば一周してしまう。三周、ただ無意味に外周を回ったところで、どうにも耐えがたくなった。ベンチに座ろうと手振りで示すと、特に逆らうでもなく、彼女は腰を下ろした。そうしてうつむいて、膝の上に置いた自分の手を、じっと見た。それきり、一度も視線を上げようとはしなかった。

 公園では夫婦者や家族連れの人々が、いかにも幸福そうに語らいながら、仲むつまじく散策していた。三、四歳くらいの子供たちが、危なっかしい足取りで駆け回り、それをいさめる親の声も、どこか楽しげだった。公園は、明るい光に満ちていた。

 その中で、不機嫌に黙りこくっている俺たちの姿は、周囲からどんなふうに見えただろう。そんなつまらないことが気にかかった。

 沈黙が気詰まりで、何か話そうとしたが、口にするべき話題はひとつも思いつかなかった。

 当たり前だが、ただ座っていることにもすぐに飽きた。立ち上がり、義務感だけに動かされてもう一度だけ外周を回ると、まだ消毒薬のにおいの残っているような気がする家に、まっすぐ帰った。彼女はやっぱりその間、黙り込んで、俺の後をついて歩いた。

 彼女が部屋に引っ込むのを待って、ため息を漏らした。たいした距離を歩いたわけでもないのに、いやにぐったりと疲れていた。こんなことが健康にいいとは思えなかった。



 それでも振り返ってみれば、その頃までは、平穏に日々が過ぎていたのだ。うんざりするようなことや気の滅入ることもあったが、ともかく彼女が部屋に籠もっている間、俺は彼女のことを忘れて、自分の作業に没頭していられた。

 変化が訪れたのは、さらに数ヶ月が過ぎたころだった。

 久しぶりにアドヴァイザーからではなく、係官から通信が入ったとき、他人と口をきくのがずいぶん久しぶりのような気がして、ひどく戸惑った。

『奥様も、ご一緒に』

 画面の向こうの相手が、挨拶もそこそこにそんなふうに切り出したので、用件はすぐに見当がついた。

 通信だけをつないでも良かったのだが、それがいかにも不仲を喧伝するように思えて、俺は通話を保留し、寝室に移動した。そちらにも端末は設置されていたし、彼女を呼びつけるよりも手っ取り早そうに思えた。

 子供はとっくに彼女の体から取り出されて、センターの『揺り籠』と呼ばれる施設に移っていた。生まれてくるまで、あとひと月かそこらというところ。通常の検診結果については、定期的にレポートが送られてきていたが、これまでのところ、問題はなかった。この時期に、レポートでもアドヴァイザー経由の連絡でもなく、人の口からわざわざ伝えなければならないような重要なことがあるとしたら、思い当たる内容はひとつしかない。

 廊下を歩く間、緊張を紛らせようとして、何度か手のひらの汗をぬぐった。なるようにしかならないのだからと、自分に言い聞かせながら。とっくに覚悟は出来ているつもりだったのに、いざそのときがやってきてみれば、胃が縮むような思いがした。

 彼女はうたた寝をしていたようだった。何か夢でも見ていたものか、珍しくぼんやりした表情で目を擦る彼女の顔つきには、いつもの険がなかった。

 椅子を運び、彼女の横に腰掛けて、モニタを切り替えた。画面の向こうで忍耐強く待っていたらしい老年の係官は、苛立つようすひとつ見せず、おもむろにうなずいた。

『お子さんの生育は順調です』

 子供の成長を示すいくつかの指数を上げるあいだ、老いた男は、皺ぶかい顔の上に終始、人の好さそうな微笑を浮かべていた。すでに送られてきていたレポートと、代わり映えのしない内容だった。彼女は反応らしい反応もなく、ただぼんやりと聞き流しているように見えた。

 さりげない口調を保ったまま、係官は続けた。『それから、ようやく性別をお伝えできる段階になりました。――女の子です』

 ああ、という声が漏れたのは、無意識のことだった。自分が落胆しているという、はっきりした自覚はなかった。もとより可能性としては、いつも考えていたことだ。できれば男の子であってくれたらという気持ちは、なかったといえば嘘になるが、こればかりはどうしようもない。

 お気の毒にと、口に出してそう言いこそしなかったが、ともかく画面の向こうの係官は、同情に満ちた目をしていた。それが、その場に適切な表情だったのかどうかはわからないが、少なくとも俺は、腹を立てたりはしなかった。おおむね自分も同感だったからかもしれない。

 可哀想にと、漠然と、そんなことを思った。生まれてくる子供に対する、それが最初の感情だった。

 彼女の様子がおかしいのに気づいたのは、そのあとだ。

 何気なく隣を振り返ると、妻は真っ白な顔をしていた。

「大丈夫か?」

 声をかけても、反応がなかった。青い瞳が、何かにおびえるように見開かれて、宙の一点を見つめていた。彼女がそんな顔をしているのを見るのは、もちろん初めてのことだった。

「――嘘」

 叫び声は、そんなふうに聞き取れた。

 いったいどうしたんだ、というのが、最初に思ったことだった。ショックを受けるのはわからないでもないが、それにしても、あまりの驚きようだった。

 いつ死んでしまうかわからない子供を、育てなくてはならないということ。それを思えば、気が重いのは間違いなかった。だけど、それは、はじめから予想できた範疇のことのはずだ。

 それとも彼女はそのことを、まったく考えていなかったんだろうか? 子供の性別が女かもしれないという可能性を、ちっとも?

 困惑する俺を置き去りに、彼女は青ざめた唇を震わせて、短くきれぎれに、ひきつれた悲鳴を上げつづけた。

『どうか、落ち着いて』

 ディスプレイの向こうから、係官が声を掛けてきたが、彼女はそれを聞いてはいなかった。その痩せすぎて節くれだった指が、ほとんど力任せに自身の腕をかきむしっているのを見て、俺は初めて焦った。

「何をしてる、よせ」

 彼女は俺のほうを見なかった。その爪が、腕ばかりでなく顔まで傷つけるのを見て、慌ててその手を掴んだ。そのとたん、彼女は本格的にパニックを起こした。俺の手をふりほどこうとして、彼女は必死でもがいた。爪が、俺の頬を掠って、鈍い痛みが走った。

 この細い体のどこから出るのかというような、異様な力だった。乱れた髪――青ざめた顔、不規則な呼吸音、遠くから響く係官の制止の声――

 なんなんだ、と思った。一体なんなのだ、この状況は。

 ほかにどうしていいかわからなくて、とにかく暴れるのを止めさせようと、彼女を強引に抱きすくめた。

 そのとき初めて、俺は、彼女の体にまともに触れたのだった。

 腕の中でもがく痩せこけた体は、熱かった。力任せに抱きすくめれば、折れて砕けてしまいそうな、頼りない背中――その体温と、薄い皮膚ごしに骨のあたる生々しい感触は、俺を動揺させた。

 生きているのだ。

 その当たり前の事実が、唐突に俺を打ちのめした。彼女は生きていて、そして、何かに苦しんでいる。

 いつの間にか暴れるのをやめた彼女は、やっぱり俺の方を見てはいなかった。どこでもない空に呆然と視線を投げたまま、彼女はいつからか涙を流していた。嗚咽もなく、自分が泣いていることに気づいているかどうかもわからない、茫洋としたまなざしで。

 すぐに人を遣ります、鎮静剤のアンプルをと、係官が繰り返しているのにようやく気がついて、俺は首を振った。「必要ありません。お騒がせしました」

 係官は迷うような目つきをしたが、結局はすぐに引きさがった。

『何かあったら、すぐにコールをください』

 こうした場面にも慣れているのだろうか、その落ちつきが有り難かった。形ばかりでもなく感謝の言葉を返しながら、俺は通信が切れるのを待った。

 サーシャは腕の中で、まだ泣いていた。ほとんど無意識に、その頭を抱き寄せて、自分の胸に押しつけた。涙が一粒、俺の手に落ちて、一瞬の熱を残してすぐに冷えた。

 彼女はときおり肩を震わせて、意味の取りづらい言葉を、きれぎれに呟いた。その中でただひとつ、

「――報いなの?」

 その言葉だけが、やけにはっきりと聞き取れた。

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