第8話

 泣き疲れて、サーシャは眠った。寝室に戻ることもできず、ソファで、ぐったりと横たわって。

 その横で一睡もできずに、俺は朝を迎えた。時間になって照明が明るさを増すと、昨夜の出来事が嘘のように、穏やかな空気が部屋を満たした。

 ベビーベッドの中で赤ん坊は健やかな寝息を立てていた。

 ふたりの寝顔を見比べていて、いまさらのように、赤ん坊の顔立ちが彼女にも似ていることに気が付かされた。それはあたりまえのことだったはずなのに、どういうわけか、このときまで意識したことがなかった。

 サーシャの泣き腫らしたまぶたを見るともなしに見ながら、生きていていいことなどひとつもなかったと言い切った彼女の、これまでの暮らしを思った。

 センターでの女たちの生活というのは、機密事項に属するというので、たとえ妻から聞き知ったことがあっても、それを口外するのは禁じられている。もちろん人の口に戸はたてられないから、几帳面にそんな決まりを守る者ばかりではないだろうが、少なくともネットワーク上にそうした話題を書き込むことはしない。書き込んでも削除されてしまう。

 建前としては、女たちの安全のためということになっている。前時代的な――たとえば女に飢えた男がどうにか策を弄してセンターに侵入するだとか、そうした心配を、まさかこのご時世に本気でしているわけでもなかろうが、ともかくセンターのある場所は、俺たちが普通のときに乗るトラムからは接続できないようになっているし、そもそも正確な位置情報さえ公開されていない。

 建前も、まるきりの嘘ということもなかろうが、その厳重さは別のことを意味していた。つまりは、一般人に知られてはまずいことがあるということだ。

 分厚い月の岩盤と、何重にも設けられた隔壁の向こうで、女たちが何を思いどう暮らしているのか、その正確なところを知る男はほとんどいない。

 よほど疲れたのか、サーシャはうなされもせずに、ぐっすりと眠りこんでいた。眠気覚ましのコーヒーを淹れに俺が立ち上がっても、ぴくりともしない。その寝顔を眺めながら、自己嫌悪とむなしさが交互に押し寄せてくるのに、じっと耐えていた。

 俺はいったい、何をしているのだろう。



 サーシャは相変わらず口数も少なく、ぼんやりしていることも多かったが、それでもその夜を境に、少しずつ変わりはじめた。少なくとも、クローディアに触れることができるようになった。

 それは、良い傾向のように感じられた。かすかな希望に縋るように、俺のほうでも意識して、赤ん坊の世話を彼女に頼むようになった。たとえばミルクの用意をしている間、ちょっと抱いていてくれないかというように。

 戸惑いながらも、サーシャは赤ん坊の世話をするようになった。だがその手つきは危なっかしかった。それが怖いのか、あるいは彼女の緊張が伝わるのか、たいていの場合、彼女が抱くと、クローディアはかえってひどく泣いた。

「悪い、待たせた」

 彼女の手から、少しずつ体重の増しつつある体を受け取って、話しかけながらあやすと、赤ん坊の機嫌は目に見えてよくなった。ミルクを飲ませている間、サーシャは隣に座って、赤ん坊の顔をじっと見ていたが、そろそろ飲み終わろうかというころになって、急にふっと目を伏せた。

「あなたが抱くと、泣き止むのね」

 見ればその眼には、切迫した色があった。なにかよくない風に思いつめているように、俺の目には映った。

 それで、無理に軽い口調を作って言った。「なんだ、妬いてるのか?」

「そんなんじゃ……」

 むっとした様子の彼女に笑いかけながら、どうか自分が自然に笑えているようにと願った。

 無理をして笑顔を作ることが、このころ、癖になりつつあった。

 いや――もとから俺は、愛想よくふるまうことが、苦手なほうではなかった。あまり好きにはなれないタイプの同級生とも、そこそこ当たりさわりなくうまく付き合っていた。だが、なぜだろう――クラスメイトや教師に対して作り笑いを向けることには、ちっとも抵抗がなかったのに、彼女に同じことをするのは、なぜだか妙に、気が咎めるような気がした。

「俺はまあ、慣れてるからな。妹がいたからさ」

 それは半分がた嘘だった。二歳のときのことなんてほとんど覚えてもいないし、覚えていたとしても、自分で世話をしたはずがなかった。だがいまは、嘘が必要だった。

 つとめて軽く、たいしたことではないという調子を作って、俺は言った。「君が不安そうにしているから、この子もつられちまうんだよ」

 サーシャは無言でそっぽを向いた。その横顔は不機嫌そうではあったが、ともかくさっきまでの張り詰めたような気配がいくらかは和らいだのを見て、俺は自分のふるまいが間違いではないことを、無理にでも信じようとした。

「笑いかけてやったらいい――ほら」

 クローディアを差し出すと、サーシャはその体を受け取りこそしたものの、そのまま押し黙って、固まってしまった。

 笑い方を知らないわけでもあるまいに。

 ほんの少しばかり、演技でも笑顔を作ってやるという、ただそれだけのことも満足にできないでいる、その強ばった横顔を見ているうちに、突然、こみ上げてきた思いがあった。

 この不器用な女がやってきたのが、ほかの誰かでなく、俺のところでよかった。

 それは唐突で、理不尽な感情だった。

 自分の心の動きが理解しがたかった。手間ばかりかけさせられる、それも自分のことを嫌っている人間に対して、そんな風に感じる意味が、まるでわからなかった。いつも不機嫌そうにしていて、話しかけてもまともな返事も帰ってこない相手、情緒不安定で、何をしでかすかわからない、この女に。

 一旦は泣き止んだはずのクローディアが、不穏げに表情を曇らせた。いまにも大声で泣き出しそうだった。

 追い詰められたような顔をしているサーシャに向かって、助け舟のつもりで口を挟んだ。「でなけりゃ、歌でも歌ってやるとか」

「――歌?」

 聞き返してきたサーシャの声には、なにか頼りない、不安げな響きがあった。

「そう。赤ん坊には子守歌だ」

 サーシャは困惑したように、目をしばたかせた。「子守歌なんて、知らないわ」

 その生真面目さが可笑しくて、俺はつい微笑んだ。今度は作り笑いではなかった。「なんだっていいさ。君の好きな歌で」

 それでもサーシャはいっとき困ったように、腕の中の赤ん坊を見下ろしていたが、やがて、ためらいがちに、そっと歌い始めた。

 それは、ずいぶん前に流行った歌だった。十年近く前に、よく公共放送で使われていた歌。陽気なメロディーが覚えやすかったというだけで、そんなにいい曲だと思ったことはなかった。だがありふれた歌詞が、サーシャが歌うと、何か、違うものに聞こえた。

 思いがけずやわらかなその歌声に、知らず、耳を傾けていた。普段の話し声には、まるで甘やかなところなどないくせに、サーシャの歌声は甘く、耳に心地よかった。普段の彼女を知らなければ、だまされそうだと思った。

 クローディアは、ついさっきまで泣き出しそうだったのも忘れて、不思議そうに、ぽかんと母親を見上げていた。鳶色の瞳をまん丸にして。

 やがてサーシャが歌い止んで、俺は我に返った。いつの間にか、赤ん坊と同じようにぽかんと口を開けていた自分に気がついて、慌てて表情を取り繕った。

「――泣き止んだな」

 サーシャはまばたきをして、戸惑ったように、腕の中の娘を見下ろした。

 クローディアの小さな手が、母親の服の胸元をしっかり握りしめているのを見て、どうしたわけか、胸がつまった。



 クローディアが熱を出したのは、それから数日後のことだった。

 まだ抵抗力のない小さい子どもは、しばしば他愛のない病気で高熱を出す。事前に説明を受けていたが、だからといって動じずにいられるものではなかった。

 画面の向こうでアドヴァイザーは、作り物の顔に温厚そうな笑みを浮かべて、医官を向かわせるような深刻な症状ではないと、ただそれだけを繰り返した。

 人口の減りつつある月面社会に、医官の数が圧倒的に足りていないこと、誰かが病気をするたびに人を派遣するほど、医療機関には余力がないこと――そのことを俺は、ずっと前から知っていた。だがこのときまで、そのことに腹を立てたことも、危機意識を感じたこともなかった。他人事だと思っていた――自分が健康で、めったに病気をすることもなかったから。

 一時間おきに体温を測りなおし、何度か汗に濡れた服を着替えさせたほかは、ほとんどできることもなく、娘の小さな体が病気と闘っているのを、ただ見守っていた。

 毒にも薬にもならないようなアドヴァイザーの慰めを、苛立ちとともに聞き流しながら、いつかの通信を思い出した。セオ――AIに対して怒りを見せていた友のことを、あのとき俺は、愚かしいと思っていた。

 ――はじめから、わかっていたことだろう。

 自分がかつて友に向けた言葉が、そのまま裏返って、俺を刺した。クローディアが、手元を離れるまで無事に育ち上がるかどうかさえわからないということ――そんなことは、はじめからわかっていたはずのことだった。娘を死なせるのが例のウイルスか、それとは他の要因なのか、そんな違いは重要ではない。

 クローディアがむずがるようにばたつかせた小さな手を、俺は握った。熱い手だった。手に汗を掻きはじめていた。

 かつての月面は、ほとんど無菌に近い状態だったという。生物が存在しなかったのだから、当然のことだ。人類が月面に本格的に移住することが決まったとき、風邪の原因となるようなウイルスや病原菌のたぐいは、意図的に持ち込まれたそうだ。

 厳重な防疫体制を敷いて、病原体を持ち込まない方法についても、おそらく検討はされただろう。だが当時の人間にとって、いずれ月と地球の往来が完全に断絶することなど、予測できたはずもない。実際に、当初の数十年ほどは、そもそも月の自給率はまだ低く、地球から輸送される物資に頼る面が多かった。

 人だけではなく、家畜や作物のたぐいも運ばなければならない中で、あらゆる病原体を完全に遮断することは難しい。生き物の体を助ける細菌だってあるのだし、ウイルスや細菌というものは、当初無害であっても、変異を起こすことがある。

 それならばいっそ、いずれ月面上で生まれてくる次世代の子供たちに免疫力をつけさせるためにもというので、一部の法定伝染病以外の病原体は、あえてそのままに持ち込まれたのだそうだ。

 結果的に、それが裏目に出たとも言える。人類を滅亡寸前にまで追い込んで、いまなお女たちを殺し続けている例のウイルスも、もとはといえば地球上に存在したものが、月の環境に持ち込まれたことで、変異したのだろうから。当時のその判断を、いまさら恨んだところで、何になるわけでもないが……

 苦しいのか、クローディアは眠っては目覚めて、しつこくぐずった。いつもの、体一杯で何かを主張するような泣き方とはかけ離れた、弱々しい泣き声で。

 その声が、あるとき急に強まったかと思ったら、その自分の声に自分でむせかえるようにして、クローディアは吐いた。

 息を詰まらせないよう、体をひっくりかえして口の中に指を突っ込みながら、手が震えた。アドヴァイザーから事前に聞かされていた処置は、耳で聞いているうちは簡単なことのように思えたのに、いざとなると俺の手足は、ひどくもたもたとしか動かなかった。

 隣でサーシャが泣いていた。苦しいのはこの子だ、君がしっかりしなくてどうすると、そう怒鳴ってしまってから、彼女に負けず劣らず動転している自分に気がついた。

 コールから三十分ばかりも経ってから、ようやく医官がやってきて、感情の読めない声で、大丈夫ですよと告げた。医療機関に連れてゆくのかと思いきや、医官はその場で簡単な検査をして、注射一本打っただけだった。たったそれだけで、説明らしい説明もなく、若い医官はさっさと帰って行った。アドヴァイザーが、いやになるほど穏やかな口調で、そろそろ子供の服を着替えさせるようにと告げた。

「人が神様に祈るのを、」サーシャが、掠れた声で呟いた。「馬鹿げたことだと思ってた」

 何を言い出すのかと思った。思わず振り向くと、彼女は床にへたりこんだまま、髪を乱してうつむいていた。

「神様なんて、信じてなかったわ――だけど、でも」

 神様が何だって? だが口に出して問い返すよりも早く、彼女の痩せた肩が、小刻みに震えているのが目に入った。泣いているのだ。

「ほんとうは、ちゃんとどこかにいて、どこかで、わたしたちを見ているんじゃないのかって――願い事なんて、叶えてくれやしないくせに、罰だけは、きっちり与えてゆくのじゃないかって」

 顔を上げないまま、サーシャは震える声で続けた。「わたしが、生まれてこないほうがよかったなんて言ったから――だから、だからこの子が、」

「関係ない」

 言葉を遮ったのは、とっさのことだった。やっと顔を上げて、サーシャは俺のほうを見た。信じていいのかどうか、迷うようなまなざしで。

「――関係ない」

 もう一度繰り返して、サーシャの手を握った。青く血管の透ける、骨張った手――冷たい指。彼女は何か言いたげに、唇を震わせて、けれど結局は言葉を飲み込んだ。

 それでも夜が明けるころになると、クローディアの熱は下がった。

 何か、ひとつの奇跡のように、クローディアは穏やかになった寝息を立てていた。小さな手は、母親の指を握りしめていた。まだ油断すべきでないことは判っていたが、それでも安堵するのを押さえられなかった。とにかく、この子は生き延びたのだ。

 徹夜明けでぐったりと重い体を引きずって、ソファに倒れ込んだ。こんなことが、この先何度もあっては身がもたないと思いながら。

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