第7話

 そのころにはもう、クラスの中で顔と名前の一致する子のほうが少なかった。よく知らない子たちに囲まれて、だけど薄膜一枚を隔てたようにどこか遠くで、わたしは十四歳の年を過ごした。

 見知らぬ男のもとに嫁がされることも、子供を持つことも、やはり、ちっとも喜ばしいこととは思えなかった。だからといって、いまの暮らしがずっと続いてほしいとも思わない。

 ときどき――いや、頻繁に、何もかもが他人事のような気がした。いっそのことさっさと死んでしまった方が、楽なのではないかと思えることもあったが、死ぬことが怖くなくなったわけではなかった。

 何もかも、どうにでもなればいいという気になることもあった。そう思う一方で、シスターがしかつめらしく結婚生活についての注意点を語るのを聞くたびに、やっぱり気がふさいでしかたがなかった。

 ときどき授業を抜け出す習慣は続いたけれど、あの中庭には居づらくなって、寮のロビーにいることが多くなった。ここなら夕方になれば生徒たちが行き交うけれど、日中には人気がない。

 寮の入り口と廊下のあいだをつなぐだけの場所、やや古びた簡素なソファがふたつ据え付けられているだけの、殺風景な場所だ。おしゃべりをする相手でもいれば別だろうが、ほかには何ができるわけでもない。静かに一人で本を読む分には、あんがい人の往来の多い中庭よりも、快適かもしれなかった。

 自分の部屋に籠もっていてもいいのだけれど、朝から晩まで同じ場所でじっとしているのも、それはそれで気が滅入った。

 授業中にうろうろしている生徒は、わたしのほかにも大勢いたが、たいていは自室か、中庭か、そうでなければサロンにいて誰かとおしゃべりに興じていることが多かった。ところがある日、珍しいことに、このロビーに先客があった。

 色のうすいブロンドを長く伸ばした、やせぎすな子だった。肉がついていないということもあるが、骨格自体が細いというか、薄いというか、いまにも割れて砕けそうな印象がある。わたしの気配を察して振り返った顔には見覚えがあったけれど、名前は知らなかった。

 彼女は自分の腹を両腕で抱えるようにして、ソファにうずくまっていた。

 見れば脂汗を浮かべて、きつく眉間に皺を寄せていた。生理痛のひどい子は少なからずいるものだけれど、それにしても、尋常のようすではなかった。もとから色白の肌をしているところに血の気が失せて、ひどい顔色になっていた。

「具合、悪いの」

 普段は人とあまり関わらないようにしていたけれど、このときばかりはさすがに、無視するのには気が引けた。だけど、彼女は首を振った。

「なんでもない」

 そういう口調は苦しげで、ほとんどあえぎあえぎという様子だった。

「医務室に――」

「お願いだから。放っておいて」

 そこまで言われれば、それ以上しつこく話しかけるのもはばかられた。わたしは離れて反対の隅のソファにすわると、ため息を吐いて、自分の端末を開いた。

 読みかけの本に集中できる気はしなかったけれど、お気に入りの場所をこの子に譲ってやる気もしなかったし――それに、本当に放っておくのも、いくらなんでも気が引けた。

 ほとんど上の空で、目はテキストの上を滑るばかりだったけれど、わたしはあくまで読書をしているというポーズを崩さなかった。

 どれくらいの時間が経っただろう、彼女はずっと、ソファの上でうずくまって荒い息を吐いていたけれど、わたしが様子をうかがうと、必ず視線を上げて、拒絶の意思を示した。

 やがて、授業もそろそろ終わるかというくらいの時間になって、少しは気分がましになったのか、彼女はおそるおそるといった具合に、ソファから身を起こした。乱れた髪を整えて立ち上がり、そのまま黙って去りかけたけれど、わたしのそばを通り過ぎる一瞬、足を止めて、

「――ありがとう」

 聞こえるかどうかくらいの声で、そう言った。わたしが振り向いたときには、もう彼女は背中を向けていて、よろめきながら、振り返りもせずに去って行った。



 それからときどき、彼女の姿を見るようになった。

 わたしのほうが先にロビーにいたこともあった。そういうとき、彼女はとうてい重いとは思えない体を、かろうじて引きずるようにしながらやってきて、ソファに倒れ込んだ。

 苦痛を堪えかねて、低くうめきながら、それでも彼女はわたしに話しかけてこようとはしなかった。わたしも極力放っておこうとした。けれどあるとき、そのかたくなな様子を見ているうちに、なんだか腹立たしいような気がしてきて、彼女のそばに歩み寄った。

「――鎮痛剤は?」

 ぶっきらぼうにそう訊ねると、彼女は驚いたようにわたしを見上げて、それから小さく首を振った。

 生理痛や頭痛のひどいとき、シスターの誰かに言うか、自分の端末から申請すれば、処方される薬がある。

 今日、ここで彼女に会うという確信があったわけではないのけれど、なんとなく思い立って、自分がいつか処方された分の残りを、手元に持ってきていた。彼女の横たわるソファに歩み寄り、錠剤の入った袋を差し出すと、彼女はふたたび首を振った。

「いい。飲んでも、ほとんど効かないから」

 かすれた声だった。

 もっと強い薬なら――わたしがそう口に出すより早く、彼女は囁いた。「誰にも、言わないで」

 どうして、とは訊かなかった。聞くまでもないことだったから。

 きっとありのままに症状を伝えれば、彼女は連れてゆかれるだろう。どこに? 医官のところに? それとも――わかりきった問いだ。わたしは自分の手がいつのまにか冷たくなっていることに気がついた。

 あらためて近くで眺めれば、彼女は最初に会った日から、さらに痩せたように見えた。

 よくもそんな状態になるまで、耐え続けたものだと思う。いままで、連れてゆかれる前に、痛みや体調不良を訴えていた子はいたけれど、そうした子たちは皆、さして経たずにいなくなってしまうのが常だった。

 何か出来ることはあるだろうかと考えて、それから、そんなことを考えた自分に動揺した。他人に何かしてあげたいだなんて、ここ何年も、ちらりとも考えたことがなかったはずなのに。

 誰とも関わりたくなかった。誰かと親しくなりたくなんかなかった。別れが辛くなるだけだから。

 何度か口を開き掛けて、結局は飲み込んだ。だって、わたしに何が出来るだろう?

 黙って突っ立っているわたしを、どう思ったのかは知らないが、彼女は歯を食いしばって、自分の腕に爪を立てた。そうやって痛みに耐えようとしているらしかった。

 どれくらい、そうしていただろう。あるとき彼女は急に、ひきつるような音を立てて息を吐き、

「死にたくない……」

 あえぐように、そう言った。

 返すべき言葉を、わたしは何一つ持たなかった。どんな慰めも嘘も、虚しいばかりのように思えた。

 ――これが、自分の未来の姿だ。

 そう考えたとたん、背筋が粟だった。彼女は大きくあえいで、自分の腕をかきむしった。そうしながら、苦しげに囁いた。死にたくない。死にたくない。死にたくない。何度も執拗に繰り返されるその言葉が、本当に彼女の唇からこぼれる悲鳴なのか、それとも自分の内なる声なのか、だんだんわからなくなって、わたしは混乱した。死にたくない。

 いっそ十五になる前に、さっさと死んでしまった方がましなのではないか――わたしはたしかに、そう思っていたはずだった。生き延びた先の未来に希望なんか持てなかった。じきに十五歳になるということが、近頃では、嫌でしかたがなかった。それだというのに、死は恐ろしかった。

 気がついたら、彼女の手を握っていた。やせこけて骨張った手、長い指。

 脂汗にまみれた冷たい指が、遠慮の無い強さでわたしの手を握り返した。とっさに悲鳴を上げそうになった。それくらい、力任せの握り方だった。

 歯を食いしばって、彼女はうめいた。この女の感じている苦痛と恐怖が、その指から流れ込んでくるような錯覚を覚えて、わたしはおびえた。空調はちゃんと効いているはずなのに、ふたりきりのロビーは、寒くてしかたがなかった。

 長い、長い時間が経って、やがて、ゆっくりと彼女は手の力を抜いた。

「ごめんなさい……」

 その声はひどく掠れていたけれど、気がつけば、いくらか唇には色が戻ったようだった。わたしは黙って首を振った。無意識に力が入っていた肩がこわばって、きしむように痛んだ。

 彼女がふらりと部屋に戻っていったあと、わたしは鳥肌の立った二の腕をさすりながら、教室に戻った。授業なんてどうでもよかったけれど、誰か、人の居るところにいたかった。そんなふうに思うのは初めてのような気がした。そこにいるのが理解できない遠い同級生たちでも、ちっとも好きになれない教師でも、この際かまわなかった。とにかく、ひとりきりの場所にいたくなかった。

 授業の途中で断りもなく教室に入り、自分の席に着いた。シスターは話を途切れさせることも、わたしのほうに視線をくれることもせず、何もなかったように話を続けた。それを右から左に聞き流しながら、わたしはいつまでも自分の手をさすっていた。彼女が握りしめていたほうの手を。

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