第6話
やがてわたしたちは十四歳になった。三度目の移動。むっつりと黙りこくったまま、わたしはトラムのかすかな振動に耳を傾けていた。
トラムは相変わらず魔法のように、わたしたちを見知らぬ場所へ連れて行った。
それがあまりにも速やかに、事務的に行われるものだから、たとえば何かの拍子にこの扉が間違って、行き先ではない場所に接続されたりはしないのだろうかなんていう、とりとめのないことを考えたりもした。だが空想はしょせん空想で、ホームにはきちんと出迎えが来ていた。
最終学年に上がったわたしたちを迎えにきたのは、若い、大柄なシスターだった。
驚いてざわめく生徒たちに向かって、歯を見せてにっこりと笑うと――そんな笑い方をするシスターは、これまで一人も見たことがなかった――彼女は元気いっぱい、声を張り上げた。
「やあ、あんたたちがわたしの教え子になる、可愛い子羊ちゃんたちだね?」
シスター・メリル。彼女はあらゆる意味で、異分子だった。
まず、異様に若かった。それまでシスターといったら、皺だらけでやせっぽっちの、ひどく老いた人がほとんどだった。いまのセンターに移ってからは中年のシスターも何人かいたが、そうした人々も、たいていは小柄で、萎びたように痩せていた。それに比べてシスター・メリルは背が高く、背筋がぴんと伸びていて、ふっくらとした体の線と、目に鮮やかな赤毛を持っていた。それから、鮮やかな青い瞳と。
上機嫌に、わけのわからない鼻歌を歌いながら、彼女はわたしたちを校舎に案内した。
シスター・メリルはおかしな教師だった。
彼女の受け持ちは、歌の授業だった。わたしはお祈りの時間は好きになれなかったけれど、聖歌はきらいではなかった。神様を称える歌詞に、共感できたためしはなくても、きれいなメロディーを追いかけることには、生理的な快感がある。歌を歌っている間は、いくらか気が慰められるような気がした。
シスター・メリルの授業は、まともなものとは言えなかった。ときどき歌詞を正面のスクリーンに映し出す以外、テキストなんか使いもしない。授業の半分は冗談か雑談、何より、彼女の教える歌の半分は、聖歌ではなかった。
そんな歌がこの世に存在するということさえ、わたしたちはそのときまで知らなかった。メリルは陽気な曲、軽快なリズムに乗った歌を好んだ。意味のよくわからない言葉遊びのような歌、ここではないどこかのことを歌った空想的な歌。
彼女の教える歌に、ほかのシスター方が眉をひそめても、メリルはちっとも気にしなかった。よく歯を見せて、顔全体で笑った。いつも
「サーシャ、あんた、すてきな声をしているね。声楽に興味は?」
知らない言葉だった。わたしが眉をひそめて首を振ると、メリルはにっこりと笑った。
「歌を歌う勉強のことだよ。どう、歌が好きなのなら、そのうち先生をつけてもらうっていうのは?」
そんなことができるのかという驚きが、なかったわけではないけれど、それよりもその言葉の調子の脳天気さに腹が立つ方が先だった。
「そんなことを勉強して、何になるんです」
声に滲ませた皮肉を、シスター・メリルは汲まなかった。彼女は動じずに、滑舌よく言った。「好きなものについて学ぶことに、意味があるんだよ」
その答えは意表をついた。そんなことを言うシスターは、これまでいなかったから。
メリルは何気ない調子で言った。「どう? 考えてみない?」
「――興味ありません」
急いで答えてから、自分の声に滲んだ焦りに、わたしは気がついた。何を焦る必要があるというのだろう?
シスター・メリルはそう、とあっさり肩をすくめた。さして残念そうでもない仕草だったが、わたしが背中を向けようとすると、声が追いかけてきた。
「残念だな。サーシャは何にだったら興味があるんだい?」
わたしは答えなかった。聞こえなかったふりをして、そのまま手洗いに立った。シスター・メリルの声は、さすがにそこまでは追いかけてはこなかった。それもそうだろう、ほかの生徒にまとわりつかれて忙しかったはずだから。
トイレの個室でひとりきりになって、シスターの言葉を胸のうちに繰り返した。わたしが、何に興味があるのかですって?
胸のうちで、シスター・メリルに問い返した。それを聞いて、どうするんです。好きなものを学んだからといって、それに何の意味があるっていうんです。
ほかのシスターたちの、よそよそしい遠巻きの優しさにも、
この日からわたしは歌への興味を無くした。聖歌も、そうでない歌も、まとめて嫌いになった。そういうことにしておかなければ、耐えがたいような気がしたから。
授業中にも、かたくなに唇を引き結んで歌わなくなったわたしに、シスター・メリルは気づいていたのだろう。わたしが授業を抜け出して、一人で本を読んでいるとき、彼女はよくそれを嗅ぎつけて、ふらりとやってくるようになった。
「やあ、静かないい場所を知ってるね」
中庭の、木立のかげに座っていたわたしを見つけると、シスター・メリルはひらひらと手を振った。
「お説教なら間に合ってます」
わたしがそんなふうに顔をしかめたのは、ちょうどその頃、きまじめな文学の教師から、よく説教をくらっていたからだった。
ほとんどのシスターは、生徒が授業をろくに聞いていなくても、誰かと一緒に抜け出してどこかでおしゃべりに興じていても、たいした興味も持たないようなのに、どういうわけか新しくやってきた文学の教師ただひとりだけが、やけに厳しかった。生徒に課題を出し、授業を聞き流していれば厳しく
「説教? まさか。わたしもいま、シスター・マリアのお小言から逃げてきたんだよ」
「あの人、昔っからちっとも変わってやしないね。わたしが学生だったころから、あんな調子でみんなに煙たがられてたよ。いい先生なんだけどね」
その言葉に、わたしは混乱した。シスター・メリルはそれに気がつくと、首をかしげて背伸びをやめた。
「どうかした?」
「学生だったんですか?」
「もちろん」
シスターは笑った。「大人は生まれたときからずっと大人だったと思っていた?」
わたしはとっさに
「実を言えば、わたしも昔はそう思ってた」
「それじゃあ」とっさに声を上げていた。「十五歳になって、その、結婚を――」
「したよ」
シスター・メリルはうなずいて、ちょっと唇の端をつり上げた。「そしてのこのこ帰ってきたのさ。下の子が五歳になったから」
「え」
わたしが首をかしげると、シスターは真剣な顔になった。「まだ習っていないよね。あと二ヶ月くらいかな、もういっときしたら、詳しい説明があるよ。結婚して、子供を何人か産んで、その子たちがみんな五歳になってしまったら、結婚生活はおしまい。あとはまた皆、ばらばらになってそれぞれの生活を送るのさ」
そんなことは、テキストはもちろん、ライブラリから拾ってきた恋愛小説にさえ、ちっとも書かれていなかった。甘ったるい、ご都合主義の小説の中で、たいていの場合主人公たちは運命の人と巡り会って、幸せな結婚生活を送る――それでめでたしめでたし。あるいは、子供の生まれるところまで。そこまでの描写がせいぜいだった。どの小説も、そこから先の話には触れられていなかった。
わたしが半信半疑の顔をしていたのを見て、シスター・メリルは笑った。「よっぽど、子供らだけでも連れて、どっかに逃げられないかと思ったけどね。まあ、どっかで元気にやってるだろうさ。あたしに似て、二人とも頑丈でしぶといし……またどっちも意地っ張りで、きかん気でねえ」
目を細めて、シスター・メリルは笑った。その顔は、おかしなことだが、寂しそうにも見えたし、自慢げにも見えた。
どうしてそんな表情をするのだろう。
わたしの視線に気づくと、シスターはばつの悪そうな顔になって、頭を掻いた。
どうしてそんな顔をするんですかと、よほど訊こうかと思った。だけど、わたしが質問を重ねるよりも早く、メリルは鼻を擦って話題を切り替えた。
「ねえ、サーシャ、声楽の件、わたしは本気だよ。考えてみない?」
「――またその話ですか。そんなことを勉強して、何になるんです」
「意味がないと思ってる?」
「ないでしょう。だいたい、なんでそんなに勧めるんです」
声に苛立ちが滲んだのが、自分でもわかった。それでもシスター・メリルはいやな顔ひとつしなかった。
「それがあんたを、救うかもしれないと思うからさ」
わたしは顔をしかめた。その言葉が、シスター方が押しつけがましく語る、神様のイメージと重なったからだった。
「聖歌はきらいです」
「人を救うのは、何も神様だけとは限らない」
シスター・メリルは即座に言い切った。わたしはとっさに返答に詰まった。シスターはちょっと微笑んだまま、じっと、わたしの返事を待った。
「――どのみち、けっこうです。興味ありません」
「そう? まあ、無理強いすることでもないけどね」
今度はあっさりと引き下がって、シスター・メリルは立ち上がった。背中越しにひらひら手を振って、教室棟のほうに戻ってゆく。ゆたかな赤毛が歩みにあわせて揺れるのをぼんやり見送りながら、シスターの言葉を反芻した。
救う? たかが歌が、いったい何から?
馬鹿馬鹿しい。わたしは首を振って、メリルが去ったのとは反対側に足を向けた。教室に戻る気には、とてもなれなかった。
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