第8話
ある午後いつものように授業を抜け出して寮のロビーに行くと、あの子がぐったりとソファーに横たわっていた。
かすかに顔を持ち上げてわたしを見ると、彼女は何か言いかけるように、唇を動かした。
胃の縮むような感覚を覚えながら、そばに歩み寄って顔を近づけた。けれど彼女の口から、言葉は出てこなかった。ただブルーグレーの瞳が、何かを訴えかけるようにわたしを見上げた。
彼女の指が、ぴくりと震えた。それで反射的に、わたしは彼女の手を取った。彼女は弱々しくまぶたを震わせて、眠るように目を閉じると、ひとつ、大きく息を吐いた。
ほんとうに、ただ眠ったのではないかと思いたかった。とっさに頬に触れたときには、まだ温かかった。唇が薄く開いたままになって、そこから白い歯が覗いていた。
もう息はしていなかった。
ゆるやかにほどけた彼女の長い指に、自分の指を絡めたまま、わたしはじっと座っていた。
どれくらいの間、そうしていただろう。一時間や二時間ではきかなかったのはたしかだ。時間の感覚がすっかりどこかに消えてしまって、握ったままの手がだんだんと冷えてゆくのだけが、やけに生々しかった。
やがて授業が終わったのか、気の早い生徒たちが三人連れだって、騒々しくおしゃべりをしながら戻ってきた。彼女らはわたしたちを見てちょっと怪訝そうな顔をしたけれど、いったんはそのまま通り過ぎかけた。
「イルマ?」
中の一人が、話をやめて立ち止まった。その声を聴きながら、ああ、この子はイルマというのかと、そんなことをぼんやり考えた。
「大丈夫なの? このごろ調子が悪そうにしてたけど……」
いっときわたしは返事をしなかった。彼女らが心配そうにしながらすぐそばまで歩み寄ってきたところで、ようやく口を開く気になった。「死んだの」
「え……」
「さっきまで、生きてた。だけどもう、息をしていないわ」
いやに冷えた声が出た。自分が何に怒っているのか、自分でもよくわかっていなかった。わたしはいつもそうだ。いつも、何かに怒ってばかりいる。
彼女らはようやく事態を理解したようすで、小さく悲鳴を上げた。ふたりはその場にへたり込み、一人だけが、かろうじて近づいてくると、冷たくなった彼女の頬におっかなびっくり触れて、震えだした。
人が死んでいるのを見たのは、もちろん、この日が初めてだった。彼女らにとってもそうだっただろう。その瞬間まで、ずっと、死というのはわたしたちにとって、実体を持たない漠然とした恐怖だった。
この日、初めて死はそのほんとうの姿をわたしの前に見せた。
死ぬというのは、動かなくなることだ。息をしなくなって、冷たく、重く、固い、肉と骨の塊になることだ。空想の中の天の国へと旅だってゆくことなんかではない。
次はお前の番だと、胸の中でつめたく誰かが囁いた。
そう、つぎはわたしの番だ。わたしが苦しんで、痛みにもだえながら、死んでゆく番。
まだひとりが断続的に悲鳴を上げ続けていた。あるいはそれは、嗚咽だったのかもしれない。
三人の誰かがシスターを呼んだらしかった。いくつもの足音が近づいてくるのを、どこか遠くの物音のように聞きながら、わたしはいつまでも彼女の冷えた手を握っていた。
文学教師のシスター・マリアは、誰より生徒に厳しく、誰より泣き虫だった。
この半年ばかりわたしたちを受け持っている、この最年長のシスターは、生徒から意地悪な口をきかれては怒りながら泣き、同僚と衝突しては心を痛めて泣き、誰かが死んだと言っては泣いた。痩せて萎びた小さな体の、どこにそんなエネルギーがあるのかと思うくらい、とにかく感情の起伏の激しい人だった。
イルマが死んだ日のホームルームでも、シスター・マリアはやっぱり言葉を詰まらせながら泣いた。わたしは教室の後ろのほうの席で、そのようすを見ながら、腹を立てていた。何ともお手軽な涙だ――
「忍耐強く、勇気に満ちて、いつも微笑みをたやさなかった彼女の、冥福を祈りましょう。イルマの魂が、天の神様とともにありますように」
涙ぐみながら、シスターは滔々と続けた。神様の御許。安らかな眠り。シスターの口から流れ出る、繰り返されてきた定型句の何が、そんなに自分の癇にさわったのか、わからない。とにかくその瞬間、自分で押し留める間もなく、思ったことがそのまま口から出た。「よくわかったようなことが言えますね」
しん、と教室が静まりかえった。怒り出すかよけいに泣き出すかと思ったシスター・マリアは、じっと、涙に濡れたまなざしで、わたしを見た。責めるようにでも、怒るようにでもなかった。ただ、傷ついたような目をしていた。
だけど、わたしはそれで罪悪感をおぼえたりはしなかった。むしろ、よけいに腹を立てたかもしれない。
「安らかな眠り? 勇気ある? 彼女はあんなに苦しんでいたのに、あなたはいったい彼女の何を理解していたというんです」
そう吐き捨てながら、ああでもあの子はもう痛くはないのだなと、そんなことを思った。シスターをにらみつけていても、わたしの目は違うものを見ていた。イルマの死に顔、青ざめた唇の隙間から見えていた歯、枯れたような色の薄いブロンドを。人目をさけてひとりで苦しみ、死にたくないと繰り返した彼女の、力任せにわたしの手にすがりついておびえていたあの手の、痩せほそった指を。
荒い足音がした。
教室の後ろのほうに控えていたシスター・メリルが、とつぜん足音も高く歩み寄ってきて、乱暴にわたしの腕をつかんだ。
そのまま引きずられるように、立ち上がらせられた。ものすごい力だった。
「シスター・メリル……」
壇上のシスター・マリアが、困惑したように、彼女の名前を呼んだ。メリルは首を振って、
「彼女をお借りします」
それだけをいい、わたしの腕を引いた。逆らえない力だった。ざわつく教室を後にして、シスター・メリルはわたしを引きずっていった。
反省室にたたき込まれるのかと考えたのは、初等部のころにそういう経験があったからだ。だがメリルは、いくつかある会議室のひとつに、わたしを連れていった。生徒が出入りする機会のあまりない、管理棟の片隅。空調の音が寒々しく響く、ひとけのない校舎の一部屋に。
なんなんですか、と言おうとした。
だけど言葉は喉につかえて出てこなかった。シスター・メリルは、これまで誰の表情にも見たことのないような、激しい怒りを浮かべていた。
「ショックなのはわかる。大人に、自分たちの気持ちがわかるはずがないと、あんたがそう感じるのもよくわかる」
さっきまでの勢いとは裏腹の、ひどく冷たい声で、メリルは言った。「だけど、じゃあ、シスター・マリアがどんなひとか、あんたは知っているのか」
反論、しようとした。けれどそれを許さない強さで、メリルはわたしをにらんだ。
「あの人があんなに痩せている理由を、知っているか。生徒が一人死ぬたびに、いつも苦しんでいるのを、夜も眠れずに、まともに食べられもしなくなるのを、知っているのか。一人死んでいくたびに、いつまでも自分の身を削るようにして、悲しんでいるのを、毎晩かかさず礼拝堂で、長い長い時間、死者のために祈っているのを」
聞きたくなかった。わたしはメリルの手を振り払おうとした。その手を間髪いれず掴みなおして、シスター・メリルは叫んだ。「聞きなさい!」
声が反響して、幾重にも響いた。
「シスター・マリアがこれまで彼女が見送った生徒が、どれくらいいるか、あんたに想像がつく? 死んだ自分の生徒の名前を、あの人は、ぜんぶ覚えているんだ。そういう先生なんだよ。そういう人なんだ――」
――うるさい。
そう叫んだんだと、思う。その自分の声が自分の耳に届いたという確かな感覚がなかった。シスター・メリルが一瞬押し黙って、唇をゆがめたことだけ、なぜか切り取ったようにくっきりと記憶に残っている。
「そんなの全部、自己満足じゃない。あなたたちに何がわかるっていうの――」喉が引きつれたように痛んだ。自分の言葉が酸のようだった。
「――あなたたちは、生き延びたくせに!」
そのあとどうやって自分の部屋に戻ったのか、覚えていない。シスター・メリルがどんな顔をしたのかも。少なくとも、自室まで押しかけてきて説教の続きをしたりはしなかったのだけは確かだ。
死んでいった同級生の数を、数えていたわけではなかった。それでも、もう初等部のときからの知り合いが数えるほども残っていないことは、嫌でもわかっていた。みんな、みんな、死んでいくのだ。生きられる人間は、ほんのひとにぎり。
手に、まだイルマの指の感触が残っていた。
その夜、一睡もできなかった。消灯時刻が過ぎて照明の落とされた部屋で、壁をじっとにらみつけたまま、ベッドの上で膝を抱えて、いつまでも手の甲をさすっていた。
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