第2話


 何かがおかしいと思わなかったわけではない。だけど誰も騒ぎたてはしなかった。去った子と仲の良かった者は、突然の別れを嘆き、いっときふさぎ込んだけれど、時間が経てばやがては誰もがその空白に慣れた。去った子は、たまに思い出したように皆の話題に上る、影だけの存在になった。

 そろそろ卒業式の話題が出始めるころだった。

 十二歳になったら、初等部での暮らしはおしまい。春には上の学校に移るのだと聞いていた。シスターたちはここに残って、向こうにはまた別のシスター方が待っているという。環境の変化に対する不安がなかったわけではないけれど、それでもいまの顔ぶれは、基本的にみんな同じ学校に進むのだと聞かされていたから、それほど深刻にとらえてはいなかった。

 けれど最終学年の半ばを過ぎるころになって、突然、姿を見せなくなる子が増えた。

 いままでのようにひとりふたりというのではない。半年で、九人。

 そのころ同じ建物で寝起きしていた級友たちは、全員でやっと百人を超えるくらいだった。急に空席の目立つようになった教室で、わたしたちは不安に身を寄せ合うようにして、その数ヶ月を過ごした。ジョゼのように前もって知らされることのほうが稀で、ほとんどの子は、あるとき突然姿を見せなくなった。

 姿を消す前に腹痛を訴えていた子がいたことが、不安をあおった。シスターのいないところで、皆、噂しあった。どうして彼女たちはいなくなったのか。

 シスターの語る口実を真に受けている者は、もうほとんどいなかった。ほんとうに皆、どこかのセンターに移っているのだろうか? それならなぜ、手紙の返事が送られてこないのか?



 十人目の子がいなくなった次の日の朝、特別授業があった。

 シスター・レティシャは残る全員が教室にそろっていることを確認すると、手のひらを高らかに二度打ち合わせて、皆を黙らせた。

 ふだんの授業では、私語が目立とうが話を聞かない子がいようが、シスターたちは怒ったりしない。せいぜい穏やかに注意するくらいのものだ。だがこの合図が出たときだけは、別だった。大事な話があるから、静かにして聞くようにという意味だ。

 これを守らなければ、尋常でない剣幕で叱られる上に、面倒な罰が待っている。食事抜きで丸一日反省室に入れられるというようなペナルティが。

 このときいつにないことに、ほかの四人のシスターたちが揃ってその場に控えていた。一様に教室の後ろで目を伏せ、お祈りの時間にそうするように指を組んで、シスター・レティシャが話し出すのを待っていた。

 しばらくためらったあとに、シスターは切り出した。

「まずひとつ、あなた方に、謝らなくてはなりません」

 そう言って、シスターはゆっくりと頭を下げた。

 いままで居なくなった子たちが、遠くのコロニーに行ったというのは嘘だと、シスターは言った。

 教室じゅうがざわめいた。『大事なお話』の最中だけは静かにしなければ怒られるのが常なのに、このときシスター方は、誰ひとり怒り出さなかった。全員が唇を引き結んだまま、ふたたび教室に静けさが戻るのを待っていた。

 生徒のひとりが、すっと手を上げた。シスター・レティシャはうなずいて、彼女の発言を許した。

「それならば、彼女らはどこに行ったのです? エリやジョゼや、コニーは? ほかのみんなは?」

 シスターは目を伏せて、押さえた、低い声で答えた。

「あの子たちは、天の国へ召されました。神様の御許に」

 彼女が何を言っているか、その場にいた生徒の誰にもわからなかったと思う。教室じゅうが戸惑い、眉をひそめ、シスターの次の言葉を待った。まるでエリが居なくなったあの日のようだった。

 シスターたちの口から神様の話が出てくるのは、珍しいことではなかったけれど、それはいつも抽象的な教訓ばかりだった。少なくともわたしは、その存在を具体的な人物像として認識したことはなかった。天の国という言葉に至っては、このときはじめて耳にしたと思う。

 シスター・レティシャは急にわたしたちに背を向けて、教室のスクリーンに、死、という言葉を表示させた。

 それもまた、はじめて目にする単語だった。どの教科書にも、ライブラリから閲覧できるどの図書にも、そんな言葉が出てきたことはなかった。

「人は誰でも、いつか、死にます」

 ゆっくりと区切るようにして、シスターは言った。それから彼女はわたしたちのほうに向き直ってまっすぐに顔を上げたけれど、それでいて、生徒の誰とも視線を合わせなかった。

 シスター・レティシャはゆっくりと、噛み含めるように続けた。「ひとりの例外もなく、わたしも、あなた方も、みな神様の定められたときに、いつかは同じ場所へゆくのです」

 まだわからなかった。死ぬとはどういうことなのか。天の国とはどこにあるのか?

 しんと静まりかえった教室の中に、シスター・レティシャの抽象的な説明だけが、長く続いた。それを黙って聞いているうちに、ようやくおぼろげに理解した。つまり、死とは、いなくなってしまうことなのだ。

 先ほど挙手したのとは別の子が、発言の許可も求めず、シスターの言葉を遮った。

「天の国にいる人たちと話をすることは、できないのですか」

 このときもやはり、シスターは怒らなかった。ただ目を閉じて、うなずいた。「ええ」

「誰とも? シスターでも?」

「そうです」

「向こうからこちらに通信をつなぐことも?」

 ええ。三度、シスターはうなずいた。

「手紙は――」

 わたしは自分のその声を、他人事のように聞いた。やけに尖った、切りつけるような声。「あのときの手紙は、どうなったんですか」

 皆がその瞬間、壇上のシスターを見ていた。シスター・レティシャは一度口を開きかけて、閉じて、それからゆっくりと目を伏せた。

「きっと、彼女たちは天の国で、あなた方の手紙を読んだでしょう」

 わたしはとっさに椅子を蹴って立ち上がり、背後を振り返った。エリへの手紙を預けた相手、教室の後ろで控えていた、シスター・ブリジットのほうを。

 五人のシスターの中で最も温厚で一番小柄なブリジットは、うなだれてわたしの視線から逃げた。おかしな話だ。老練な教師であるはずの女が、普段は説教をしてばかりいる相手、十二歳にもならない小娘の視線におびえるだなんて。

 静かに、席に着いて。ぱらぱらと飛んできたシスター方の叱責には、力がなかった。わたしは座らず、教壇のほうへ向き直って、シスター・レティシャの目を見た。後ろめたさに揺れる、普段とは別人のようなその目を。

 だがわたしが何かを言い立てるよりも早く、シスターは首を振って続けた。

「不安にさせてしまいましたね。ですが、死は、けして恐ろしいものではありません」

 死んだ者は父なる神の御許で、永遠に幸福に、安らかに過ごすのだというようなことを、シスターは語った。

 馬鹿にしている、と思った。

 誰も死者と話すことはできず、天の国に一度召された者は、けして戻ってこられないというのなら、誰がその場所のようすを知っているはずがあるだろう。子供にでもわかる理屈だ。それともあなた方の誰かが、すでに死んだことがあるというのか?

 頭に血が上っていた。それだというのに自分の唇からこぼれた言葉は、いやになるほど冷たい響きをしていた。「天の国がすばらしい場所だというのなら、シスター、皆そろって大急ぎでそこへゆけばよいのではありませんか? そこが恐ろしい場所でないというのなら」

 わたしは一度言葉を切り、大きく息を吸って、叩きつけるように叫んだ。「なぜあなた方は、それをいままで隠していたのです」

 シスターの誰もが、すぐには返事をしようとしなかった。気がつけばおびえた目をしたクラスメイトたちが、わたしを見上げていた。

 やがて、シスター・ブリジットが教室の後ろで、ゆっくりと話し始めた。

「あなた方には皆、なすべき役目があります。それを終えれば、いずれ天の国への門はおのずと開かれます。おのおのに定められたときを待たずに、自ら死を望むことは、神様が禁じておられるのです……」

 急に、すべてが馬鹿らしくなった。天の国の人間と話をすることが出来ないのなら、神様の言葉を聞いた人間もいないのが道理ではないか?

 わたしはシスターの話の途中で席を立って、教室を出た。誰からも引き留める声は上がらなかったし、追いかけてくる人間もいなかった。



 センターは広い。だけどひとりで勝手に行き来のできる場所は限られていた。ほとんどが、シスターと一緒でなければ開けることのできないドアばかりだ。だけど、そのうちのひとつの鍵が壊れていることを、わたしは知っていた。

 電子鍵ではない、金属の錠で閉ざされた、小さな部屋。反省室。

 ほんとうは、何か悪いことをしたときに閉じ込められる部屋だった。狭くて、薄暗くて、一日中明るさが変わらないから、時間の感覚がわからなくなる。気を紛らわせるようなもの、時間をつぶせるようなものが何ひとつない。

 そのなかで何時間もじっとしているのは、耐えがたいという子も多いけれど、わたしは平気だった。食事を抜かれるのには参ったけれど、一人で考え事をする時間は、わたしにとっては何の苦痛でもなかった。

 あとで思えばあんな場所、監視用のモニタが設置されていたに違いない。シスター方はもしかしたら、わたしが授業を乱したことを反省して、自発的にそこに籠もったと思ったのかもしれなかった。けれど、そのときのわたしはそこまで考える余裕がなかった。ようやくひとりきりになったつもりで、膝を抱えた。

 大人はどうして、いつかわかる嘘をつくんだろう。

 胸の中に、怒りが渦巻いていた。エリは、もうどこにもいない。あの手紙はシスターたちが勝手に開いて読んだだろう。

 何も知らない子供たちの無邪気な幼さを、彼女らは笑っただろうか。それとも憐れんだだろうか。そのほうが、なお許しがたいという気がした。こんなに人を馬鹿にした話があるだろうか?

 ひとりになった反省室のなかで、わたしは腹を立てるばかりで、エリのために涙を流しはしなかった。そうするには時間が経ちすぎていた。

 ただ怒りと罪悪感だけが、いつまでもしつこく残った。どうして手紙をくれないんだろう、もうわたしのことなんて忘れてしまったんだろうなんて、いなくなったエリに見当違いの怒りをぶつけていた自分が、いかにも愚かで、滑稽で、それが耐えがたかった。

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