2部 アレクサンドラ

第1話


 大人はどうして、いつかわかるに決まっている嘘をつくんだろう。



 その子の名前は、エリといった。初等部に入ったわたしが、いちばん最初に親しくなった女の子。

 泣き虫で、少し舌っ足らずな話し方をする子だった。目立つのがきらいで、いつもわたしの後ろに隠れたがった。ほかの子たちと一緒に遊んでいても、どこか遠慮がちで、いまにして思えば、少しばかりとろくさかった。

 だけど気が優しくて、誰かが泣いていたら、泣き止むまでずっとそばについているような子だった。

「わたしたち、一生仲良しだよね」

 後になって思い出せば笑ってしまうような、いかにも子供の言いそうな言葉。だけど言っている本人は真剣そのものだった。エリの甘い声と、つないだ手のひらの熱い感触が、その言葉と一緒になって、くっきりと記憶に刻み込まれている。

 ある朝、エリが授業に出てこないなと思ったら、先生シスターが手を叩いて、みんなの注目を集めた。

「エリは遠くのコロニーに引っ越すことになりました」

 その言葉の意味をすぐに理解できた子が、その場にひとりでもいただろうか。

 コロニーって何。遠くってどこ。エリ、明日は出てくるの。あさっては。戸惑い、質問ばかりを繰り返す生徒たちに、シスターはひとつひとつ、ゆっくりと答えた。その結果、わたしたちはどうにか、ひとつの事実を理解した。エリは去り、もうこのクラスに戻ってくることはない。

 みんなで手紙メッセージを送りましょう、とシスターは言った。

 そのころまだわたしたちには、お互いのあいだで自由にやりとりの出来る端末は与えられていなかったから、授業を一時間まるまる使って各自が作った手紙は、いったんシスターの端末に集められることになった。

 八歳だった。

 まだよくわからないようすで、きょとんとしたままの子がいた。べそをかいている子がいた。

 わたし自身はというと、怒っていた。

 誰に怒っていたのか。とつぜん理不尽な事実を告げたシスターに? いいや――あの頃はまだ、シスターに向かって腹を立てるという発想は、わたしにはなかった。

 一様に背が高く、痩せこけて、どこもかしこも皺だらけのシスターたちは、わたしたちとはまるきり別の生き物のように思えていた。理解の及ばない存在に対して腹を立てる道理が、どこにあるだろう。

 子供がいつか成長し、老いて彼女らのようになるのだということを、このときまだわたしは理解していなかった。老いたシスターたち、同じ年代の女の子たち、それから、稀に姿を見せるだけで口をきくことのほとんどない、係官と呼ばれる人々。世界にはその三種類の人間しかいなかった。そのいずれもが互いにあまりにもかけ離れていたので、わたしはそれぞれをまったく異なる生き物なのだと、漠然と思い込んでいたのだ。

 だから、そう、わたしはこのとき、シスターにではなく、エリに腹を立てていた。ずっと友達だと約束したのに、そのわたしに何も言わずに、黙っていなくなった彼女に。



 エリからの返事は、いつまで待っても来なかった。

 返事はまだ? みんなはことあるごとにシスターを囲んだけれど、シスターはそのたびに微笑んで、まだですよと答えた。エリは文章を書くのが苦手でしたね。きっと新しいクラスに慣れるのが大変なのよ。忙しくしているに違いないわ。言い訳はそのたびに違っていた。

 最初の頃こそ、エリがいなくなったことをみな寂しがったけれど、わたしたちはやがて彼女のいない生活に慣れた。

 誰もエリの名前を出さなくなってからも、ときどき、そう、休み時間にみんなで何かゲームをやっているようなとき、あるいは体育の授業で二人ひと組になってあぶれる子が出たとき、おしゃべりのふっと途切れたときに、いつもその面影が胸をよぎった。そうして、そのたびにわたしは怒った。

 エリはどうして返事をくれないんだろう。わたしのことなんか、とっくに忘れてしまったんだろうか。

 年にひとりかふたり、そうやって、遠くのコロニーに行ってしまう子が出た。

 シスターが語る理由は、そのつど違っていた。向こうのセンターの生徒数が足りなくて。才能を伸ばすために特別な勉強を。彼女は足が悪いから、もっと設備の整ったセンターへ。

 そのたびにわたしたちは手紙を送った。やっぱり返事はなかった。

 どうして返事が来ないのか、不思議に思っていたのは最初のころだけで、いつのまにか皆、そのことを口に出さなくなっていった。そういうものだと思い始めていた。

 いや――疑問に思わなくなったわけではなかった。少なくともわたしはそうだ。だけど、聞かれるたびにシスターが困った顔をするので、だんだんそれが、口に出しづらい話題になっていったのだと思う。あるいは、答えを聞くたびにがっかりするのが嫌になったからかもしれない。



「あたし、ほかのコロニーに移るんだって」

 十歳のとき、ジョゼがそう言って、言い終わるが早いか、わあわあ声を上げて泣き出した。

 その場にいた子たちで彼女を囲んで、口々に慰めた。怖がることないよ。向こうのシスターのほうが、優しいかもよ。エリやアニタがいるのと同じところだったらいいね。

 慰めながら、皆、どこかほっとしたような顔をしていた。それというのも、相手が他ではないジョゼ、彼女だったので。

 ジョゼは、癇癪の強い女の子だった。機嫌のいいときには明るくはしゃいでいるけれど、そうでないときには誰の言葉にも耳を貸そうとせず、ふさぎ込むか怒りちらすかしている。ひどいときには手足を振り回して暴れることもあって、それで怪我をした子もいた。

 そんなときの彼女は、シスターたちが集まって落ち着かせようとしても手に負えず、一度はとうとう、誰かが係官にコールしたのだった。五人だったか六人だったか、大勢の、異様な風体をした大きい人たちが駆けつけて、暴れる彼女を取り押さえた。その間も、ジョゼはずっと泣きわめいていた。

 数時間後、暴れたせいで疲れきった様子のジョゼが、シスターに手を引かれて仏頂面で帰ってきたとき、教室には少なからず緊張が走った。だけどジョゼはむっつり黙り込んで、その日じゅう、誰とも口をきこうとしなかった。

 そんな調子だったから、皆、彼女には手を焼いていたというのが、正直なところだった。遠くにゆくのだと言ってジョゼが泣き出したあの日、彼女を慰める子たちの口調の中に、同情の色がなかったとはいわないが、そこにはどこか無責任な、口先だけの響きがあった。

 それでもジョゼは何度もうなずいて、涙ぐみながら、忘れないでねと言った。みんな、あたしのこと、覚えていてね。手紙、ちょうだいね。きっとよ。

 その二日後、ジョゼは去った。しばらくしてわたしたちは手紙を書き、シスターの端末に送った。ジョゼからの返事は来なかった。

 それからさらに数日ばかりが経って、授業中、何の拍子にだったか、ひとりの子が声を上げた。「ジョゼやほかの皆は、もう戻ってこないんですか。遊びに来ることも?」

「ええ、ここには、もう」

 シスターはうなずいて、かすかにまぶたを伏せた。その表情を見て、とっさに声が出た。

「じゃあ、こっちから行くのは?」

 なぜ自分がそんなことを聞いたのか、自分でもわからなかった。わたしは別に、ジョゼのことを特別に好いていたわけではない。むしろ他の多くの子がそうであったように、彼女のことを苦手に思っていた。それだというのに言葉はわたしの口をついて、勝手に滑り出た。「わたしたちのほうから、ジョゼに会いにゆくことはできますか」

 シスターはわずかに目を瞠ると、微笑んで、静かにうなずいた。

「ええ、すぐには難しいですが、いつかはきっと」

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