一章05:二人は、傷だらけのまま互いを求め
「ごめんね……センパイ」
アイツが最後にそう言ったのは、いつだったろう。――確かあれは、僕がアカデミアに入る前だった頃。
ケイが孤児院にやって来たばかりの、今では考えられないくらいに細くか弱かった頃の記憶。
――ケイ・ナガセ。
遥か遠い東の国、エルジアから流れ着いた少女の名。
ボサボサの黒髪に日に焼けた肌。傍目には乞食か奴隷にでも見えたろう。
しかしだからとも言うべきか。言葉も見た目も異質の彼女が、その差異を名分にイジメの標的になるまで、それほどの時間はかからなかった。
当時同年代の子どもたちに比べれば背も高く、見た目だけは様になっていた僕は、そんなケイを放ってはおけず、度々イジメの仲裁に割って入った。
今となっては力関係は完全に逆転しているが、彼女による「センパイ」の呼び名は、丁度この頃から始まったのだと思う。
そうだ、守らなければ。
アイツを、僕が守ってやらなければ。
真っ黒な自我の底で呻く様に願うが、糸の切られた人形の様に身体は動かず、僕の意思だけが音の無い叫びとなって心の中を駆け巡る。
「セン……パイ……」
そして上天に僅かに残る一握の光が、揺らめいて音を放つ。僕が聞き知る、僕が守らねばならなかった少女の声。
「――ケイ!!!」
意識の海を泳ぐ様に急いた僕は、腕を伸ばしかけ激痛に呻いた。
「良かった……センパイ、本当に良かった」
見れば僕の目の前でケイは涙を浮かべていて、それは直ぐに安堵の笑みに変わった。――彼女の腫れた頬と、青あざになった瞼が痛々しい。
「ゲホッ……大丈夫か……ケイ……」
やはり肋骨が幾本か折れてしまっているらしい。ケイを気遣う以上に僕の声は途切れ途切れだ。
「だ、駄目だよ……無理しないで。すぐにシンシアを呼んでくるから」
僕の身体を押さえてケイが言う。日に焼けた肌はところどころが赤や紫に擦り切れて膨れ、彼女が昨晩受けた暴行の酷さを物語っていた。
「あいつは……サルバシオンは……」
焦点の合わない視界の中、僕は地の
「……大丈夫。アイツらならさっき出て行ったから。今は多分、このフロアには皆しか居ないと思う」
「……っ……僕も……行くっ……」
左手に力を込め立とうとするが、がくりと膝が崩れ尻もちをつく。――惨めだ。不条理を前にここまで自分が無力だとは。
「駄目だって! お願い――、そのままで居て。……センパイが駄目になったら、ボクも、もう……」
最後のほうで言い淀んだケイは「な、なんでもない。えへへ……すぐに戻ってくるからね」そう笑い直し、ドアを開け部屋を出て行った。だがその足取りはふらふらとして、体中の痛みを堪えている様だった。
ケイは
英雄の来訪を素直に喜んだ自身が、そして何よりこの非力が憎い。
これから先どうすればよいのか。連中が街を出るまで耐え忍ぶしか無いのか。
僕は彼女たちを守る方法について一人問答を繰り返す。だが朦朧とする意識の所為か、ろくな方策が浮かんでこない。
三分ほど経ったろうか。修道服姿のシンシアが、ケイに連れられて部屋まで来た。既に治癒の魔法を受けたのだろう。ケイの傷は癒えていて、表情から溢れる明るい笑顔は、傍目にはいつもどおりの彼女に見えた。
「センパイ! シンシアを連れてきたよ……!! ほら、ボクは大丈夫だから安心して!」
僕の目の前でくるりと回ったケイは、自分は大丈夫だからとしきりに主張し微笑んだ。
「あらあらララト。これは酷いですねえ」
相変わらずのおっとりとした口調でシンシアが僕の身体に触れ、損傷の箇所を調べていく。
「肋骨が数本。それから背骨にひび。膝もやられてますねえ」
どうやら相当に大事だったらしい「辛うじて死なない程度って所ですねえ」とシンシアは僕に告げた。
「シンシア……僕よりも、シンシアは……」
見る限りではシンシアは元気そうで「お姉さんの事はいいから。はいララト、じっとしててね」と、寧ろ窘められる始末だった。
「幸いを弱き者に、希いを持たざる者に。秘蹟をそれを求める者に。――ヒールメント」
シンシアが治癒の呪文を唱えるや、僕の身体は光に包まれ、負っていた傷は瞬時に癒えていく。魔法都市ですら使える者に限りのある貴重な治癒魔法。事実その事もあって先の戦闘では、彼女は医療班の一人として前線に参じていた。
「っ……ありがとう……シンシア」
まだ痛みは若干残るが、僕の五肢は平時の動作を取り戻した。
「良かった……! センパイ!」
抱きついてくるケイに「い、痛いよケイ」と本音を漏らした僕だったが、それ以上に彼女を抱きしめ返せる事にほっとする。
「ケイ……良かった。お前が無事で、本当に」
「ごめんね、センパイ。ボクの所為で巻き込んじゃったよ」
「馬鹿……そんな事言うな。頼むから……言わないでくれ」
表情を隠す様に僕の胸に埋もったケイは、無言のままさらに両手に力を込めた。
そしてふと顔を上げた僕は、本来他に居るべき筈の2人の姿が見えない事に気づき、思わず呟く。
「……あれ……エメリア……フィオは……?」
ケイの話では、四人もまだホテルに残っている筈だったが……
「フィオちゃんなら、隣の部屋のベッドで眠っています……エメリアは――」
そこまで言いかけたシンシアは一瞬だけ目を逸らしたが、すぐに「ディジョンと一緒。恐らくは今、アカデミアに」とだけ続けた。
「エメリア……」
ディジョンに迫られ抵抗出来ないエメリアの姿を、僕は二日続けて見せつけれた。やはり脅されているのか。だが連中は表では英雄を演じ、決して馬脚を現さない。
だがそう考えれば、少なくともエメリアにはケイの様な外傷は無いのだろう。言い方は悔しいが、五体満足で無事安全と言う訳だ。
「そう……か……」
誰に言うでも無く独り言ちた僕に、シンシアは「一番重症なのはララトですよう」とくすくす笑った。
「それじゃあ、お姉さんは二人の着替えを持ってきますから、ね、ララト。ちゃんとケイちゃんの面倒見ていて下さいねえ」
シンシアはそうとだけ言い残し部屋を後にした。確かにケイの制服はもうボロボロで、連れ立ってホテルを出るには些か問題があった。そしてシンシアが部屋を後にするのを見計らった様に、ケイは顔を上げて僕を見つめる。
「えへへ……こうしてると……なんだか、昔を思い出すね」
ケイの目は少し潤み、頬はうっすらとだが紅潮していた。
「昔ボクがいじめられてた時、センパイはこうして。抱っこして慰めてくれた」
「はは……今じゃケイのほうが僕より強いよ」
「それは……それは今度はボクがセンパイを守ってあげたかったから……」
「……ごめんな。結局歯がたたなかった」
「馬鹿……
そう言うとケイは、俄に僕に顔を近づけ、口唇を重ねた。
「お、おい……」
「センパイはいつだってボクのヒーローだったよ……いつだって……いつだって……」
壁に寄りかかっていた僕は、ケイの為すがままに押し倒される。
「好き……大好き……センパイ」
「っ……ケイ……なんで……」
両腕を押さえられ、ケイに馬乗りになられた状態で、まだ五肢に力の入らない僕は呻くしかない。
「あんなヤツに穢されるくらいなら、もっと先に言っておけば良かったな……」
ケイの顔がくしゃくしゃになり、ぽつぽつと温かい雨が僕の頬に滴り落ちる。
「ごめんね……こんな告白になっちゃって。でも、でも今言わないと……」
焦りを声に滲ませ咽ぶケイは「ボクね、あいつらと一緒に行かなきゃいけないんだ……だから」と諦める様に俯いた。
「嘘……だろ……」
耐え忍ぶ、という選択肢すら消えた事に僕は呆然とした。
「どうして……お前たちがそんな目に合わなきゃいけないんだ……どうして……」
言葉を失う僕を、ケイが諭す。
「大丈夫だよ。魔王を倒せば戻って来れる。それまでの我慢だから……だから……」
そこまで言ったケイは、また覆いかぶさると僕を求めた。
「センパイがボクの事を好きって言ってくれたら、ボクはそれを支えに出来る。絶対に折れないって誓って言える」
今までろくにキスなんてした事もなかったろう。昨日と今日で覚えたぎこちない舌を絡め、ケイはぐしゃぐしゃの言葉を続ける。頬を伝う涙が口に入り込んで、しょっぱい塩の味がした。
「ああ……好きだよ……ケイ」
首にケイの腕が巻き付いた事で両腕が解放された僕は、彼女の胴をもう一度抱きしめる。――そう返す以外に、僕には言葉が思い浮かばなかった。
「んっ……ありがとう……センパイ」
ケイが唇を離し、涎が弧を描いて尾を引く。
「ねぇセンパイ……ボクがこの街を発つ前に、一度でいいよ……お願い、抱いて……」
それは突然の告白の後の、唐突な求愛だった。
「……分かった」
無論これだけ僕を追ってくるケイの、気持ちを知らない訳では無かった。だが二人の力と才能の差を考えれば、ケイにはケイの、相応しい相手を待つ事が最善なのだと、自分に言い聞かせていたに過ぎなかった。
お互いに無言のままに交わされる、暫しの抱擁。恐らくはケイの告白の中には、これ以上の意味が含まれていただろう。だけれど絶望と困惑の中、ろくに掛けるべき言葉すら出てこない僕には、せめてこうして、強く強くケイを抱き締める以外に、今は採るべき手立てが思い浮かばなかった。その時間が一分か二分か、或いはそれよりさらに長くか。やがてケイの口は、覚悟を決めた様にゆっくりと開いた。
「……これで……これでボクは頑張れるよ。センパイがボクを愛してくれたって事だけを拠り所に」
少しだけ悲しげに微笑み、そして次の瞬間にはそれを隠す様にもう一度笑うケイ。――こんな寂しい笑顔を、もう二度とこいつにはさせたくなんてなかったのに。
このままでは皆が壊れていってしまう。
一体どうすれば良いのか。僕には何が出来るのか。
真っ白になった頭を床に落とし、僕はもう一度思考を巡らす。
掛ける言葉がある筈だ。
いや、行動だって出来る筈なのだ。
彼女たちを守る為に、何か。何か。何か。
そんな僕を労るかの様に、ずっと撫でられる背中の、暖かい手の感触が、辛くて虚しくて情けなくて、僕は顔を伏せたまま歯噛みをした。――遠くでエレベーターの着く音が聞こえた。
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