二章03:救済は、過ぎし日の記憶に

「――あらあら、ララトは駄目ですねえ」


 微睡んだ意識の底、羊水の様に温かいそこに響く、柔らかな声。

 これはいつの記憶だったろう。


 僕がまだ孤児院に来てまもない頃。

 確か、確かそうだ。


 僕が台所でフィオナを庇って火傷を負った時。

 沸騰した油を頭から被った僕は、シンシアに部屋のベッドまで運ばれたのだ。


 泣きじゃくるフィオナは、周りに宥められ台所に残り、部屋には僕とシンシアの二人きり。


 当時は孤児たちの個室は無く、そこは初めて入るシンシアの、自分より年上の女性の部屋だった。




 シンシアはベッドの上に座り僕を膝に抱き、おっとりとした口調でいつも通り笑っている。


 僕は一瞬意識が白く飛び、それからじりじりとする熱に蝕まれる痛みを感じながらも、シンシアの笑顔の所為か、実はそれほど酷い状況では無かったのではないかと、却って冷静な思考を取り戻しつつあった。


「痛い痛いは直ぐに飛んで行きますからねー。幸いを弱き者に、希いを持たざる者に。秘蹟をそれを求める者に。――ヒールメント」

 シンシアお得意の治癒魔法が僕の傷を瞬時に癒やし、爛れた皮膚が復元していく。


「う……ありがとう……シンシア」

 上半身を起こす僕の目の前には、何事も無かったかの様に微笑むシンシアの姿があった。


 修道服に身を包む、巷では聖女と呼ばれる人格者。その外貌は僕と一歳違いとは思えない程に落ち着いている。


「ふふふ。良かったですねえララト。お姉さんが側に居て」

 くすくすと笑うシンシアは「でもまだお口の中が熱いでしょう?」と、僕に顔を近づけた。


「えっ……だ、大丈夫だって、シンシア」

 シンシアからは、エメリアやフィオナとは別の、何か別の、表象し難い「女」の匂いがした。


 娼館から帰ってきた時の母の様な、にも関わらず不快で無い不思議な匂い。或いはそれは、彼女が煎じている薬草の所為かも知れない。


「じっとしててねララト。お姉さんが、すぐに治してあげますからねえ」

 戸惑う僕を他所に、シンシアは僕の唇を奪っていく。




「んっ……んんっ……」

 じたばたする僕は押さえられ、ぬるりとした液体が喉の奥に流れ込むのをやがて感じた。


「んぐっ」

 突然の出来事に困惑しながらも、抗えずにごくごくと飲み干す僕を離さずに、シンシアは愛撫と口吻を繰り返す。


 その情事にも似た夢現が、一瞬だったのか、或いは半刻には渡ったのか。

 脳が呆ける様な快感に僕は支配され、次のシンシアの一声が聞こえるまで、為すがままに身を委ねていたのだと思う。


「よく頑張りましたねえ、ララト。はい、治療はおしまいですよお」

「ちょっ……シンシア……治療って……」


 身体が自由になった事を切欠に問い詰める僕の口を指で抑えて「めっ」としたシンシアは、そのままに続けた。


「お姉さんの身体はねぇ、ララト。薬草を沢山食べて、とっても人の為になる様に出来てるの」


 いつの間にか足元に置かれた壺の、蓋を取って彼女は言った。

「ほら。お姉さんがララトにあげたのはこれ。お姉さんとキスをすると、傷の治りまで早くなっちゃうんですよう」


 唖然とする僕にくすくすと笑いかけたシンシアは「ほら、そろそろ眠くなーる眠くなーる」と、僕の目の前でぐるぐると指を回し始めた。


 途端に微睡み始めた僕は、うめき声だけを残しシンシアの胸に埋まり、意識の果ての彼女の声に、朦朧と耳を傾けていた。




「……かけがえない……の為……に、かけがえある……の命を」

 全てを聞き取る事は出来なかった。ただその後に、シンシアが言った言葉だけは覚えている。


「ララトはお姉さんが絶対に生かしてあげますからねえ」と。

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