7
やはり菜園へ忍び込んで物思いに耽っていた、ある晩のことだった。
長い時間をそこで過ごしたあと、わたしは服についた土を払い、立ち上がった。戻って寝床に潜り込むつもりだった。
空気はつめたく澄んで、見上げると、天から降り注ぐ白い光は、眼の痛くなるような眩しさだった。ヨブの語った砂漠の空、眩しいほどになるという星明かりも、こんなふうだろうか。そんなことを思いながら、わたしは菜園をはなれた。
そのとき、人の話し声がした。
わたしはとっさに息をつめて、その場で立ち止まった。誰だろう、このような時間に。耳を澄ますと、話し声はどうやらすぐ近く、竈のあたりから聞こえているようだった。
近くの家々の女たちが共同で使う竈だ。真夜中に用のあるものなどいるはずがない。訝しく思って、わたしは耳を澄ました。
よく聞けば、ひとつはカナイの声のようだった。わたしは意表をつかれた。カナイがこんなふうに夜中に抜け出すことがあるなんて、思ってもみなかった。けれど考えてみれば、あのお邸の中が窮屈でたまらないというのが、姉さんの口癖だった。もし彼女がひとりでここにいるのだったら、わたしはそれで納得しただろう。けれど、聞こえてきたのは二人ぶんの声だった。
「――帯をありがとう、カナイ」
わたしは打たれたように立ちすくんだ。それは低い、男のひとの声だったのだ。
先にカナイが縫っていた、男物の帯。急に裁縫が好きになったカナイの、嬉しそうに針を使う横顔が、脳裏をよぎった。
「このつぎは、いつ会えるの?」
「――わからない」
わたしはぎゅっと自分の服の裾をつかんだ。カナイの声は、いつもの調子とはまるで違っていて、切実な、すがるような響きをしていた。
それと対照的に、男のひとの声には、ためらうような間があった。
「だけど、もう会わないほうが……」
「いや、そんなの!」
叫んで、カナイは口をつぐんだ。声が響いて、誰かに聞かれることをおそれたのだろう。それからひそめた声で、カナイはいった。「ねえ、お願いよバルトレイ――」
どきんと、強く心臓が跳ねた。わたしはその名前を知っていた。導師のもとに通う青年たちのひとり。カナイと曽祖父を同じくするという、そのひとの名前だった。
わたしは状況を理解して、悲鳴を上げそうになった。かろうじてそれを飲み込むと、足音を立てないように、じりじりと後ずさって、菜園へ引き返した。
握りしめた手が、ひどく冷たくなっていた。お願いよと、すがるようなカナイの声が、耳の中をぐるぐると回った。
ああ、なんてことだろう。カナイ、それはきっと許されない。
どうしたらいいのだろう。引き返して、ふたりを思いとどまらせるべきなのだろうか。ほかの人に知られる前に、もう会うのはよしたほうがいいと。だけど、カナイがわたしのいうことなんて聞くはずがない。
それならばそっと、誰かに耳打ちするべきなのだろうか。導師か、そうでなければ、カナイの母さんに。けれどそんなことをして、どんな騒ぎになるか……。
知らないうちに、自分の手が服の上から、銀の髪飾りをきつく握り締めていることに気がついて、わたしはうろたえた。
カナイをたしなめる? どんな顔をして?
わたしのしていることが、カナイのそれと、どれほど違うというのだろう。わたしはあの方と恋仲にあるわけではない。けれど、ほかの人の眼からみたら、なにひとつ変わらないように映るのではないか。いや、使者さまに無礼を働いているという点を考えれば、わたしのほうがよほど、罪は重いのだ……。
だけどわたしは、そのことを認めたくなかった。わたしたちの場合は、ふたりとは違う。わたしが遠い異国の話を聞かせて欲しいとせがんで、あの方はその子どものわがままに、ただつきあってくれているだけなのだから。けれど、そう考えた瞬間、なぜかわたしの胸はひどく痛んだ。
自分が何に傷ついているのか、どうしてこれほど動揺しているのか、わからなかった。混乱したまま、わたしは長い時間、じっと菜園のすみでうずくまっていた。
長い時間が過ぎたあと、ふらつきながら立ち上がり、もう二人の姿がないことを確認して、お邸に戻った。
けれどそんな状態で、寝付かれようはずもなかった。わたしは寝床の中で、まんじりともせずにひと晩をすごした。どうしたらいいのだろう。わたしはどうするべきなのだろう。
ぐるぐると答えのでないことを考え続けて、やがて夜明けを迎えたとき、わたしはようやく心を決めた。昨夜耳にした会話のことを、誰にも明かすまいと。
一年はひどく長かった。
けれど、早くときが過ぎることを待ちわびつつも、わたしはその同じ心のどこかで、そのときがやってくることを、恐れていたような気がする。
来年のサフィドラの月、ほかに誰もいない静まり返った勉強室で、ひとり落胆するくらいなら、いっそのこと、また会えるかもしれないいつかの日を、永遠に待ち続けているほうが幸せなのではないかと、そんなふうに考えるときさえあった。
年の瀬も近づくころには、母さんは、わたしの婚礼衣装を縫いはじめていた。結婚の話になると、わたしは不機嫌に黙り込んだり、逃げ出したりしたけれど、それで話をなかったことにできるわけではなかった。わたしが何をいっても、何をしても、母さんにしてみれば、それは子どもの駄々にすぎないのだった。
いっそ、何かとんでもないことをしでかしてみてはどうかとも考えた。とてもこのような娘を嫁にもらうわけにはいかないと、誰もが思うように仕向けることはできないだろうかと。
けれどいざとなれば、そんなふうに母さんや導師の顔に泥を塗ることを、行動に移す度胸がなかった。
勉強室にいるあいだは、そうした憂鬱から離れて、たくさんの魅力的な物語や、過去の歴史に心を飛ばすことができた。けれど、わたしがきっとそれらの半分にも眼を通せないであろうことが、ときには勉強室で書き物机に向かっているときにさえ、わたしの心を沈ませた。
ある日、導師が仰った。
「心の用意が整わないというのなら、婚礼を先延ばしにすることはできるだろう。相手がどうしてもいやだというのなら、話をとりやめて、ほかの若者をさがすことだってできる。だが、時間を止めてお前をいつまでも子どものままでいさせてやることは、誰にもできないのだよ」
それはけして咎めたてるような語調ではなかったけれど、それでもわたしには、その言葉がとても堪えた。自分がいっているのがただのわがままで、導師や母さんのいうことが正しいのだと、わたしは知っていた。けれど正しいからといって、心が沿えるわけではなかった。
やがてソトゥの月も間近になったころ、前触れなくイラバが子どもを連れて、泊まりにきた。顔を出した理由を、姉さんはいわなかった。ただ久しぶりに遊びにきたのだというふうに、母さんやわたしを抱きしめた。
イラバの子どもは、もう赤ん坊ではなかった。姉さんの裾につかまり立ちをして、不明瞭な言葉でなにかをいっしょうけんめいに喋ろうとしていた。
ほかの姉さんたちも、喜んで甥にかまいつけて、それで興奮した甥は、顔を真っ赤にして何度も高い声を上げた。母さんが眼を細めて孫の姿を眺めているのを見て、母さんがイラバを呼んだのかもしれないと、わたしは考えた。意固地になって嫁入りをいやがるわたしを、説得するために。
けれどイラバは、わたしを叱りもしなかったし、何かをいいさとそうという気配もさせなかった。
女たちでそろって食事を囲み、ひとしきり互いの近況を交換しおわると、広間はふっと静かになった。みなそれぞれに洗い物も終えて、縫い物の続きをするか、部屋に戻って休むかしていた。
イラバは眠りかかった子どもを抱えて、やさしくゆさぶりながら、歌をうたってやっていた。それは、耳になじんだ歌だった。炎の乙女の歌。
「子守唄に、その歌なの?」
わたしが聞くと、イラバは自分でも気づいていなかったというように、ちょっと眼を丸くして、それから悪戯っぽく笑った。
「あら、そうね。変だわね」
そういって、けれどイラバはその歌の続きを口ずさんだ。あいかわらず、姉さんの声は美しかった。
蝋燭を手元によせて刺繍をしていた母さんが、深くため息をついた。
「よして頂戴。みんな、あんなおかしな歌にして、面白おかしく好き勝手なことばかりいうけれど、あのひとはそんな女じゃなかったわ」
わたしたちは驚いて、母さんを振り返った。
「母さん、炎の乙女を知っているの?」
「知っているもなにも。母さんの生まれた家の、すぐお隣の娘だったのよ。年もひとつしか違わなくて、よく話したわ」
姉さんとわたしは顔を見合わせた。姉もまた、初耳のようだった。
「もっとずっと昔の話だと思ってたわ、百年とか、二百年とか前のことだと」
「そんなはずがないでしょう。エヴェリーシカが亡くなったのは、イラバ、あなたが生まれるほんの少し前でしたよ。可哀そうに、川に落ちてね」
その言葉に、わたしは二度驚いた。
「炎の乙女は、火の国の炎に焼かれて亡くなったのではないの?」
「いいえ。そりゃあ、顔も手足もひどい火傷をしてね、ずっとあとが残ってしまっていたけれど。眼も、ほとんど見えていなかったのではないかしらね。結局、エヴェリーシカはお嫁にもいかないまま……。気の毒なことだったわ」
深く息を吐いて、母さんはこめかみを揉んだ。
「だいたい、あなたたちが妙な歌にして歌うような、色っぽい話ではなかったのよ。ああ、かわいそうなエヴェリーシカ。あの子はたしかに、使者さまのあとを追いかけていったのでしょうよ。だけどね、あの子にはわけもわかっていなかったのよ」
「どういうこと?」
わたしが訊くと、母さんはきつく眉間に皺を寄せたけれど、ため息をついて、教えてくれた。
「エヴェリーシカの頭のなかは、すこし、ひとと違っていたのね。そう、彼女はずっと、小さな子どものままだったの。見た目は年頃のきれいな娘でもね」
そこで言葉を切って、母さんはわたしをちらりと見た。「トゥイヤ、あなたはまたべつの意味で、いつまでも子どものようだけど」
わたしはその言葉に気が咎めたり腹を立てたりするよりも、話の中身に気を取られていた。
「じゃあ炎の乙女は、何もわからずに暗闇の路に踏み入ってしまったの?」
「そうよ。あのことがあるずっと前から、あの子はよく、ふらふらとおかしなところに迷い込んでいたものだから、しょっちゅう皆で探したわ。ひとの家に上がりこんでみたり、ト・ウイラに入り込んでみたり」
そう話す母さんの肩は落ちて、ひどく悲しげだった。もっとよく彼女のようすを気にかけていれば、大事にならずに済んだのではないかと、いまでも母さんは思っているようだった。
「あのおかしな歌では、使者に恋焦がれてなんて、無責任なことをいっているけれど、あの子をよく知っている人は誰も、そんなことは思わなかったわ。男のひとのあとを追いかけていくことを、はしたないとさえ、あの子は思いもしなかったでしょうよ」
追ってきた娘の存在に、使者さま方が気づいてくださらなかったら、あの子はきっとそのまま死んでいたでしょう。母さんはそういって、遠い過去を見通すような眼をした。
「気の毒に」
姉さんはいって、そっと祈りのしぐさをしたけれど、わたしは薄情にも、他のことに気をとられていた。炎の乙女が使者を追いかけたせいで死んだというのは嘘でも、火の国が、膚を焼かれ眼がつぶれてしまうような、恐ろしい場所だということは、ほんとうの話だったのだ……。
考え込むわたしの様子がおかしいことには、母さんは気づかないようだった。
「だから、あんまりおかしな歌を歌わないで頂戴」
そういって、母さんは立ち上がった。「お茶のおかわりを用意するわ。カナイ、手伝ってくれる? あなたの淹れるお茶はおいしいものね」
カナイをつれて母さんが出てゆくと、イラバはため息をついた。それから腕の中ですっかり眠り込んでいるわが子を、優しく揺すぶった。
その姉のしぐさを見つめながら、わたしは子どものようだったという乙女について、じっと考えていた。子どものような心をもった、無邪気な少女――危険もわからず、ただ子どもが大人になついてそのあとを無心についていくように、使者の背中をおいかけていった……。
少しして、イラバがいった。
「ねえ。炎の乙女は、ほんとうに恋をしていなかったのだと思う?」
内緒話のときの声だった。イラバの眼は、悪戯っぽく輝いていた。
「わからないわ……」
わたしはどきりと心臓が跳ねるのを自覚しながら、なんでもない調子を装って、首を振った。姉が何かに気づいているのかと思ったのだ。けれど、そうではなかった。姉は、みずからの過去を振り返っていたのだった。
「暗闇の路は、とても長くて険しいというわ。わたしだったら、好きでもない人を追いかけるのに、そんな遠くまでいったりできないわ。いくら心が子どもだったとしてもね」
姉の言葉に、わたしははっとした。それから思わず声をひそめた。
「姉さん、好きなひとがいたの?」
ふふ、と笑って、姉は肩をすくめた。
「昔の話よ。ほかの人にはいわないでね」
「それは、義兄さんのことではないのよね?」
小声でわたしが聞くと、姉は面白がるように、わたしを見た。
「ええ。……あなたがそんな話に、興味を持つなんてね」
わたしはどきりとして、動揺をごまかすように、いそいでいった。「ねえ。そのひとを追いかけてゆかなかったことを、後悔している?」
姉は少し、考えるように眼を閉じた。それから、穏やかな声でいった。
「いいえ。いま、わたしはとても、幸せだもの」
わたしは納得のいかない思いをもてあまして、姉の横顔を見つめた。けれど、よく見れば去年には姉の腕にあった青あざは、すっかり消えてしまっていたし、いつになく痩せていた去年とはちがって、姉の頬の線には、丸みが戻っていた。それに、腕の中の子どもをのぞきこむ姉の瞳には、嘘があるようにはみえなかった。
なぜか裏切られたような気がして、わたしはイラバから目を逸らした。
好きではない人のところに嫁いで、幸せだなんて、どうしたらそんなふうに思えるの。その問いかけは、すぐ口元までこみ上げていたけれど、わたしがそれを口に出すことは、ついになかった。
そうしてまたサフィドラの月がやってきた。
朝から、母さんと言い争いになった。そろそろ婚礼衣装も仕上げなくてはならないわね。そういいだした母さんに、わたしは声を荒げた。わたしは嫁ぎたくなんてないっていってるじゃない。
何度声を嗄らしても、母さんはまともにきいてくれなかった。
「みんなそういうの。でもね、大丈夫。何も心配いらないのよ。不安なのは最初だけのこと。よい家庭をもって幸せになるのは、あなたの義務でもあるのよ」
一年半ものあいだ、ずっと同じことを言い続けて、けれどそれらはひとつも伝わることはなく、いつまでも話はすれ違い続けた。かみ合わない口論は虚しく、わたしの言葉は次第に強くなり、しばしば母さんをひどく傷つけた。
どうして伝わらないのだろう。
その頃わたしは、母さんを憎んでさえいたかもしれない。けれど本当はその怒りが、筋違いであることを、自分でよく知っていた。わかってくれないというわたしのほうこそ、母さんにいわずに隠している秘密が、いくらでもあるのだった。隠したいことは隠し、いいたいことだけをいって、それで理解してもらおうなんて、そんな都合のいい話があるだろうか?
話はいつものようにかみ合わないまま、その日、奥に追い立てられて、わたしは勉強室に篭もった。
朝の喧嘩からあとを引いていた苛立ちは、じきに、不安にとってかわった。ああ、本当にあの方は今年もいらっしゃるだろうか? いらっしゃらなかったとしたら、来年は?
来年。来年、わたしはこの邸にいられるのだろうか。母さんは、できれば今年のエオンの月には、わたしを嫁がせたいと思っている。わたしは十五で、それはお嫁に行くのに遅いということはないけれど、けして早すぎもしない齢だった。
せめてもう少し待ってと、いくらわたしが縋りついたところで、母さんはそう遠くないうちに、話を進めてしまうだろう。そうすれば、イラバのようにこのお邸にたまに顔を出すことくらいはできるかもしれないけれど、サフィドラの月の一日に、ここでヨブを待つことは、もうできない。
その考えが繰り返し頭をめぐっては心を乱し、わたしは何度も立ち上がっては、書き物机に戻った。息が詰まるようだった。
「来ているか」
垂れ布の向こうから、懐かしいその声がしたとき、わたしはこらえかねて、泣き出した。
「ええ」
それでも、なんでもないふりを装って返事をしたけれど、その声が震えていることに、ヨブは気づいたようだった。
「泣いているのか」
わたしは頬を拭い、嗚咽を飲み込んで、震える息を吐き出した。それから無理に、明るい声を出した。
「なんでもないの。ねえ、また、星の話を聞かせてくださる?」
ヨブは困惑したようだったが、やがて、あの低くやわらかな抑揚の声で、星の話をひとつ、語って聞かせてくれた。ひとの定めをつかさどるという星の話を。ときにひどく残酷で、ときにひとに希望を与える、ひときわ大きく天に輝く白い星……
その話が終わるころには、わたしは泣き止んでいた。
「どうかしたのか」
そう問いかけるヨブの声は穏やかで、けれどほんの少し、うろたえていた。
ごめんなさい、気にしないで。そういおうとした口は、けれど違う言葉をこぼしていた。「知りたいと願うことは、そんなにわがままなことかしら」
きっとそんな話をされても、ヨブは困るだけだろう。わかっていて、それでもいわずにはいられない自分の幼さを、わたしは恥じた。子ども扱いされることが、いやだったはずなのに。けれどいちど話しだせば、あふれてくる言葉を押しとどめることはもう難しかった。
「わたし、もっと色んなことを知りたいわ。外の世界がどんなふうか、この目で見られるものなら、見てみたい。それが無理なら、せめてお話や書物の中でもいいから、少しでも知りたいの」
ヨブは黙って話を聞いていた。一度止まったはずの涙が、ふたたびこみあげてくるのをこらえながら、わたしは続けた。
「でもみんな、わたしがそういうと、そんなのはわがままだというのよ。そんなことを知りたがるわたしは、おかしいというの。わたしはおかしいかしら? 幸せって何? 目を閉じて耳を塞げば、それで幸せになれるだなんて、そんなことがあるかしら」
途中からはもう支離滅裂だった。わたしは自分でもそのことに気づき、恥じて、口をつぐんだ。
ヨブはしばらく考えるように黙っていた。それから、低い声でいった。
「多くの者は歳をとるにつれて、しだいにその目を曇らせてゆくものだ。真実を目の当たりにすることをおそれ、未知なる物を理解しようとすることをおそれ、己の築いてきたものの見方を、かたくなに押し通そうとする」
わたしは膝を抱えて、その声に耳を済ませた。
「幼い頃に誰もがそうだったように、まっすぐに世界への興味を持ち続けていられるというのは、得難いことだと、――俺はそのように思う」
その声は、優しかった。それなのに、わたしは再び泣かないようにするのに精一杯で、あいづちさえ、まともに返せなかった。
「思えば俺は、いつも欺瞞で己の目を曇らせることばかりしてきたような気がする。常に疑い、決めつけ、己の心を騙しながら、生きてきたように思う……」
わたしは驚いて、目を瞬いた。その拍子に睫毛から涙がこぼれて、床に落ちた。
「あなたがそんな方だとは思えないわ」
「さて、どうだろうかな」
ヨブは苦笑した。それから何かいいたげに口を開きかけて、思いとどまる気配が、布越しに伝わってきた。
いっときして、ヨブは切れ切れに、今年の荷の話をはじめた。火の国での作物の出来、遠い異国から運ばれてきた荷。どんなふうに星を辿って、ここまでやってきたか。途中で見舞われた砂嵐……。
嵐という言葉を知らなかったわたしに、ヨブは、風の激しく吹き荒れるさまを、苦労しながら説明してくれた。
わたしは言葉すくなに相槌をかえしながら、せめて一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ましていた。それ以外に何もできることはないのだからと、自分に言い聞かせて。
ときおり灯心がじりじりと音を立て、蝋燭のあかりが揺れた。ヨブの声は低く、音楽的な抑揚をもって、心地よく響き続けた。
「トゥイヤ? 誰と話しているの?」
わたしはびくりと肩を跳ねさせた。
声がしたのは、ヤァタ・ウイラのほうからだった。ヨブが立ち上がるのが、垂れ布ごしのかすかな音でわかった。足音を立てないように、遠ざかっていく……
声は、カナイのものだった。どうして、いまなの。わたしがここで本を読んでいても、いつもなら近寄ってこようともしないのに。叫びだしたいのをこらえて、わたしは半ば壁にしがみつくようにしながら、よろよろと立ち上がった。
ヨブの話し声は、いつもどおり低くひそめたものだった。裁縫室まで声が届いていたとは思えない。
それとも、それまでこんなふうなことが一度もなかったことのほうが、幸運だったのかもしれない。けれどそう納得するのは難しかった。
苛立ちを押し殺し、なんでもないような声を作って、わたしはいった。
「――誰もいないわ、姉さん。ひとりごとでもいっていたかしら?」
ヤァタ・ウイラから垂れ布をくぐって、カナイが入ってきた。その表情は、はじめからひどくけわしかった。声がするまで、カナイが近づいてくる足音に気づかなかった――そのことの意味に、わたしはようやく気付いた。
「ごまかしたってだめよ」
カナイはト・ウイラのほうに視線を投げて、そういうと、振り向いてわたしを睨んだ。
「何もごまかしてなんかいないわ」
カナイはじっと、光る目で、わたしを睨みすえた。何を訊かれても、しらばっくれてみせるしかない。わたしは無表情をよそおっていた。カナイはそんなわたしを見て、皮肉げに唇だけで笑った。
「誰と会っていたの? いつまでも子どもみたいに本に夢中だなんて、わたしたちみんな、すっかり騙されてたってわけね」
ふっと、笑みを消して、カナイは厳しい声を出した。
「わかってるの? あんたの母さんがこのことを知ったら、どんな顔をするかしら」
「ねえ、さっきから何のことをいっているの。姉さん、何か勘違いしてるんじゃない?」
よくもまあ、そんなふうにしらを切って見せたものだ。自分でもそんなふうに思うくらい、自分の口から出た声は、平然としたものだった。
けれど、それも声ばかりで、けして心から冷静でいられたわけではなかった。わたしは自分でも気付かないうちに、服の上から、首から下げた銀細工のあたりを、握りしめていたらしかった。カナイの視線が下りて、自分の胸元をいぶかしげに見たことで、わたしは遅れてそのことに気付いた。
「あんた、何を隠してるの」
わたしはとっさに後ろに下がって、カナイの視線から逃れようとした。けれどカナイのほうが早かった。カナイは有無をいわせず詰めよってきて、すばやくわたしの腕を掴むと、服の胸元に手をつっこんだ。
「やめて」
わたしは悲鳴を上げたけれど、カナイの手は容赦なく首にかかっていた紐を探り当て、手繰りよせた。銀の髪飾りが蝋燭の光に晒されて、きらめいた。
「何よ、これ。あんた、まさか――」
カナイの顔色が変わるのが、はっきりとわかった。わたしは必死で、言い逃れを探そうとした。苦し紛れでもなんでもいい、カナイを煙に巻けるような説明。
「何の騒ぎだね」
わたしたちははっとして、それぞれにト・ウイラに続く入り口を振り返った。
「導師……」
カナイもまた、青ざめているのがわかった。どこまで話が導師の耳に入ったのか……わたしはとっさに髪飾りを隠そうとしたけれど、そのときにはすでに、導師のまなざしは、手の中の細工に注がれていた。
導師はゆっくりと首をめぐらせて、カナイの表情を見ると、目を細めた。
「喧嘩の原因は、その細工かね」
その言葉に勢いを得て、カナイはいった。「そうです、導師。この子、いったいどこでこんなものを――」
いいかけたカナイに、導師は軽く手のひらをみせて、首を振った。そして、信じがたいことを口にした。「その細工なら、私が与えたのだ」
カナイは絶句した。
わたしのほうが、より驚いていた。導師がなぜそんなことを仰るのか、わけがわからなかった。けれどカナイがわたしを振り返るのに、とっさに頷いてみせた。
いっときカナイは険しい顔で、わたしの顔を睨んで、それから導師に向き直った。
「いったいどうなさったんです、こんなもの」
「使者のお一方が、気まぐれに下さったのでな。私に妻のないことを、ご存知なかったようだ。といって、せっかくのご好意を無碍にもできぬ」
導師は平然といって、それから少し、面白がるような顔をした。カナイはいくらか鼻白み、それでもなお食い下がった。
「どうしてこの子に――?」
「全てのものは等しく分かち合い、分かち難いものがあらば、末子に与えよ。――私は戒律に従ったまでだ」
導師はゆっくりと、噛み含めるようにそう仰った。それもまた書物からの引用であり、里のすべての掟の根源でもあった。
カナイは、それで納得したわけではないようだった。唇を噛みしめ、眉を吊り上げていた。けれど、それ以上導師にたてつくことも、カナイにはできないようだった。姉さんは振り返り、きっとわたしの顔を睨みつけて、それから手を放した。
苛立ち任せに足音を荒げ、カナイが部屋を出て行くのを、わたしは呆然として見送った。
導師を振り返ると、思いがけず静かなまなざしが、そこにあった。
なぜ、あんなことを仰ったんです。その一言が舌に張り付いていたけれど、とうとう口の外に出ることはなかった。
「トゥイヤ、少し、話がある」
導師のほうからそう切り出されとき、わたしはてっきり、細工の出所について、厳しく問い詰められるのだと思った。怒りに興奮していたカナイをなだめるために、機転をきかせてわたしをかばってくださっただけで、けして見逃そうというわけではないのだと。
けれど、導師は思いがけないことを仰った。
「星を手にしたいと望んだ男の話を、聴いたことがあるかね」
わたしは驚きに打たれて、顔を上げた。髪飾りをわたしにくださったのが、火の国の使者であることを、導師はご存知なのだ……。そうとしか思えなかった。
いつから導師はご存知だったのだろう。たったいま、わたしの手の中の細工をご覧になって、それではじめてそうと気づかれたのだろうか? けれどそれにしては、導師の顔に、驚きの色は見当たらなかった。
導師は声を荒げることもなく、ごく静かに続けられた。
「星の光に憧れて、それを手にしたいと望みつづけた男は、あるとき、とうとう星を地上に落とすことに成功した。けれどいざ星を手にしたかと思うや、男は星の火に焼かれて、死んでしまった……」
その言葉は、不思議な抑揚に満ちていて、ヨブの語りをわたしに思い出させた。そのまなざしは静かで、導師が何を思っていらっしゃるのか、ただ見ただけでは、とてもわかりそうになかった。
「手の届かないものに憧れることは、誰しもあるだろう。けれど、そうしたものを本当に手に入れようとするのは、とても不幸なことだ」
噛み含めるように、導師はいった。「トゥイヤ、お前は賢い子だ。ほんとうは自分でも、わかっているのだろう?」
わたしは唇を噛んで、うつむいた。導師の声には、けして叱責するような調子も、責める響きもなかったけれど、それでも仰っていることの意味は、明らかだった。
わたしは星を望んでいるのだろうか?
導師はそれ以上、何も仰らなかった。ゆっくりと踵を返して、部屋を出てゆかれた。
手のなかで、細工が蝋燭のあかりを受けて、きらめいていた。それを見つめたまま、わたしはいつまでも、じっと俯いていた。
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