やがて、裁縫室に戻ったとき、カナイは無言で針を使っていた。不機嫌なのはあきらかで、わたしが部屋に入っても、姉さんは視線を上げようともしなかった。

 わたしもまた、何もいわなかった。ふたりともが無口にしているのを見て、下の姉さんが心配そうに、何くれとなく声をかけてくれていたけれど、カナイもわたしも、短く相槌をうつばかりで、せめて何ごともなかったふりをつくろおうという努力さえしなかった。

 食事は喉を通らず、わたしは姉さんたちと口をきくことさえ億劫に思えて、すぐに床についた。

 眠れるはずもなかった。やがて明かりが吹き消され、わずかなヒカリゴケの光が、かろうじてものの輪郭を浮かび上がらせていた。わたしはじっと、部屋の隅の暗がりを凝視していた。カナイの母さんが刺繍をしたという壁掛けの、古びてもまだほつれない、裾の始末のあたりを。

 ヨブは明日、いらっしゃるだろうか? 導師はあの方に、何か仰っただろうか……。そんな不安ばかりが胸の中をぐるぐると回って、わたしはまんじりともせずに、横たわっていた。

 やがて、眠ることを諦めて、わたしは静かに体を起こした。

 音を立てずに部屋を出た。ヤァタ・ウイラを進み、いつもの習慣で、勉強室の前で耳を澄ました。このような深夜に、誰がいるとも思えなかったけれど。

 垂れ布をくぐって中に入り、自分の呼吸を十ほど数えて、わたしは口を開いた。

「入ってきたら?」

 途中から、カナイが同じようにそっと部屋を出てきたことに、気づいていた。

 垂れ布が揺れて、案の定、姉さんが入ってきた。カナイは肩をすくめた。

「深夜の逢引ではないというわけね」

 わたしは何もいいかえさなかった。何をいっても、カナイは疑いとともに聞くだろうと思ったので。

 長い沈黙ののちに、やがてカナイが口を開いた。

「――使者さまなのね?」

 その声は、断定的な響きを帯びていた。ああ、いつからカナイは勘付いていたのだろう?

「何のこと」

 しらばっくれようとしても、カナイはひかなかった。

「知らない人の声だったわ。いまの時期に導師以外の男の人が、こんなところにいるはずがないもの。ほかに考えられないわ」

 奇しくもその理屈は、わたしが二年前に、ここで考えたのと同じ筋道だった。わたしはカナイの目を、じっと見つめ返した。

「姉さん。話を聞いて……」

「あなた、自分が何をしているかわかっているの? ……導師にお話しするわ。あんたの母さんにも」

「待って」

 わたしはカナイの腕に縋った。カナイは信じられないという顔をして、その手を振り払った。

「違うの、何もないの!」

 わたしの声は、ほとんど悲鳴だった。「姉さんが思っているようなことじゃないの。ただほんの少し、お話を聞いていただけなのよ。火の国のことを」

「話しただけ? だけ、ですって?」

 カナイは取り合おうとしなかった。「信じられない。あんた、自分の立場がわかっているの?」

「お願いよ、姉さん」

 わたしは必死だった。いつか己の立てた誓いを、忘れるほどには。「わたしも、知ってるのよ」

 カナイの顔が強ばった。

「……何を知っているんですって」

「あなたとバルトレイのこと」

 それは、自分の声ではないようだった。その一瞬、カナイの表情が見る間に歪むのを、わたしは見た。

「わたし、聴いてしまったの。アディドの月の、十日のことだったと思う。眠れなくて、夜中に外を散歩していて」

 カナイは目を光らせて、わたしを睨み返した。

 いまや立場は逆転していた。わたしは間をおかずに口を開いた。自分でぞっとするほど、それは、冷静な声だった。

「誰にもいわないわ。姉さんも黙っていてくれるなら」

 カナイはいっとき、言葉を失って、ぶるぶると手を震わせていた。やがてその手が振り上げられても、わたしは動かなかった。

 わたしだって、カナイに対して、腹が立っていた。その感情が半ば、八つ当たりなのだと、自分でもわかっていたけれど。

 仮に姉さんが気づかなかったとしても、導師がご存知だったのなら、結果は同じことだったかもしれない。わたしの理性の声はそういったけれど、それでも、カナイさえいなければという気持ちを、胸の中から追い払ってしまうことはできなかった。

 なぜなの。どうせ何も口出しなんかしなくても、ヨブと話せる機会なんて、あともう数えるほどもなかった。邪魔する必要なんて、どこにあるの。言葉はいくらでも喉の奥からせりあがってきたけれど、わたしはそれらを全て呑みこんで、ただカナイの目を見つめ返した。

 わたしの頬を叩くと、カナイは背中を向けた。

「あんたがそんな女だなんて、思ってもみなかった」

 その声には、力がなかった。

 カナイは立ち去った。

 足元がふらついた。暗がりでうずくまって、わたしは自分の中からこみ上げてくる感情の奔流に、じっと耐えた。それは怒りだったかもしれないし、もっと違うものだったかもしれない。

 やがてのろのろと立ち上がり、書き物机の前に座ると、眼の奥がちかちかと痛んだ。苦しかった。自分がいった言葉が、カナイの裏切られたという表情が、ぐるぐると回っていた。ときおり発作のように、乾いた嗚咽の切れ端がのどの奥に絡んだけれど、涙は出てこなかった。

 そのまま勉強室で夜明けの鐘を迎えても、下の姉さんが様子を見に来る気配はなかった。カナイがどんなふうにいったのかわからないけれど、ともかく、そのことが有難かった。その頃になると、カナイへの苛立ちはすでに冷めて、どこか遠いものとなっていた。

 じっとしていると、不安を伴う益体もない考えばかりがとめどなく頭をよぎったけれど、もう、本を読んで時間を潰すことさえ考えきれなかった。

 いま導師は何を思っていらっしゃるのだろう。疲れて重い思考の中で、ときおりそのことを思い返した。

 あんなふうに遠まわしにいわなくったって、ただひとことお叱りになれば、あるいはお命じになればよかったのだ。もう使者には会わないようにと。導師はなぜそうされなかったのだろう? 誰もはっきりと言葉に出さなければ、それがなかったのも同じことだと、そんな欺瞞をよしとされる方ではないはずだった。少なくとも、わたしのよく知る導師は。

 それともそれは、情けだっただろうか。わたしにあと一日だけの時間を与えようという。

 けれど、その日、ヨブは来なかった。



 三日目も、わたしは朝から勉強室を訪れ、そこでじっとヨブを待った。二度、食事を摂るために裁縫室に戻り、少しばかり胃にものを入れたけれど、それ以外のときを、ほとんどずっと勉強室で過ごした。

 去年も一昨年も、三日目には出立の準備で忙しいからと、ヨブはやってこなかった。今年も同じだろう。頭ではそうわかっていたけれど、もしかしたらという望みを捨てきれなかった。

 昨日、ヨブはどうしてやってこなかったのだろう。そればかりを考えていた。

 導師が何かヨブに仰ったのだろうか。わたしを遠まわしにいさめたように。それでヨブはやって来られずにいるのか。

 そうでなければただ単に、人目を盗むことができなかったのかもしれない。それとも、来年にはまた話せるだろうと、そんなふうに思っているのだろうか……。

 色んな考えがよぎっていったけれど、ひとりでいくら考えても、わからないことだ。いつからか、わたしは考えるのをやめた。そうすると、不思議と心は静かになった。

 凪いだ心の中で、次第に決意が形になるのを、わたしはどこか他人事のように眺めていた。

 やがて、わたしは書棚へ向かい、過去の記録をひっくり返しはじめた。銀の採掘と、それから、葬儀についての記録を。



 その日の深夜、わたしは勉強室でも裁縫室でもなく、物置に使っている、狭苦しい小部屋にいた。

 皆、すでに寝静まっている頃合いだ。夜が明ければ姉さんたちは、邸の奥に篭もる暮らしから解放されて、自分たちの部屋に戻るはずだ。母さんたちも大仕事を終えて、ほっと胸をなでおろしているころだろう。わたしがいないことに、いつ気づくだろうか?

 深夜に里を発つのだと、ヨブはいっていた。

 じっと耳をすまして、わたしは周囲の様子を探っていた。使者さま方が旅立たれた直後には、見送りのために、人が多いだろう。その気配が去るのを、待たなければならなかった。

 邸内の物音が静まり返るのをまって、わたしはそっと、小部屋を忍び出た。

 通路で息をひそめて広間の気配をうかがい、すっかり人のいなくなった隙をついて、通り抜けた。表へ出ると、三日ぶりの屋外で、ひとつ、大きく息を吸い込んだ。

 明かりはもたなかった。目立つに決まっているからだ。そういっても、夜中に外を出歩く酔狂な人が、どれほどいるかはわからなかったけれど。

 誰かに見られても、知ったことではないと、そういう自棄のような気持ちもあった。それでもト・ウイラに入り込むときには、ひどく落ち着かない思いが胸を揺さぶった。

 けれど幸運なことに、わたしは誰とも会わなかった。

 導師の命で、誰かに見張られているという可能性も、考えてはいた。どうやって目を盗み、あるいは振り切るか、いくら考えたところで、確実なすべなんて思いつかなかった。けれど、そんな心配も杞憂に終わった。

 どうして導師はそうされなかったのか。わたしがこのような行動に出ると、少しもお考えにならなかったのだろうか。

 そうではないと、わたしは思った。こんなことを人に話せば、どれほどひそかに命じたところで、次の日には里じゅうに知れ渡っているだろう。導師はわたしについての悪いうわさが広がることを、避けてくださったのだ。

 そうでなければ、わたしの分別を、信じてくださったのだ……。その考えが頭をよぎった、そのときにだけ、いくらか気が咎めるような気がした。

 けれどわたしは、足を止めはしなかった。

 里のはての岩壁を前にしたとき、思い立って、わたしは紐で胸元にさげていた髪飾りを取り出した。ほんのわずかな明かりのもとでさえ、細工の鳥は眩しいほどにきらめいた。その輝きにしばし見とれたあとで、わたしはそれを髪にさした。それから、里の外へと足を踏み出した。

 暗闇の路は、遠い記憶のなかのそれと、少しもかわらなかった。

 里の通路のように磨かれてはいない、ごつごつした壁につかまりながら、足音を立てないよう、そろそろと歩いた。ほんの少しの距離を歩いただけで、あたりはわずかの光も射すことのない、真の闇に塗りつぶされた。

 それでもまだ里の近くにいるあいだは、さまざまな物音が聞こえていた。遠くで響く水音や、どこかの家の中で宵っぱりの人が立てる物音。けれど、じきにそれらもいっさい届かなくなった。それでもわたしはなお息をひそめ、衣擦れさえ立てないように、そっと歩いた。

 静寂がいよいよ深まるにつれて、抑えきれないかすかな息の音や、自分の心臓の音さえも、うるさいほどに耳の奥に反響した。どれほど慎重に歩いても、わたしはときおり小さくつまずき、壁にしがみついては、その鋭い岩肌ですり傷を作った。

 いつしか、炎の乙女の歌が、頭の中を繰り返し流れていた。

 子どものような心を持っていたという、美しいひと。わけもわかっていなかったのだ、あの人は恋など知らなかっただろうと、母さんはいった。

 イラバの言葉をもまた、わたしは思い出した。思い人でもない相手を追いかけて、そんなに遠くまでいったりできるかしら。

 本当は、彼女には、何もかもわかっていたのではない? その日を逃せば、もう使者とは会えなくなってしまうことも、彼を追っていけば、己の命が危ういということも。承知の上で、それでも追わずにはいられなかったのではないの?

 やがて、充分に里から離れたところで、わたしは足音を殺すのをやめた。

 暗闇の中で足取りを速めると、自分の呼吸がひどく耳についた。

 何ひとつ見えない視界の中、自分が目を開けているのか、瞼を閉じているのかさえ、じきにわからなくなった。手足にふれる岩肌の感触と、自分の呼吸の音、ほんのわずかな空気の流れ。それだけが全てだった。

 時間の感覚はすぐに消えて失せ、自分がどれほどの距離を歩いたのか、まるでわからなくなった。

 気持ちばかりが急いていた。こんなことで、本当に追いつけるのだろうか。使者さま方は、とっくに暗闇の路を抜けだしてしまったのではないだろうか。何度もそう考えた。

 けれど、体の大きな動物にたくさんの荷を牽かせてゆくのだから、その分、使者さま方はゆっくりと行かざるを得ないだろう。そんな不確かな推測だけが、希望だった。

 ひたすら、壁にすがるようにして歩き続けていた。そのうちに、自分がいまほんとうに歩いているのか、自分の足で立っているのかということさえ、確かにはわからなくなった。ほんとうは自分の体は寝床の中にいて、いま自分は夢の中を彷徨っているのではないかという考えが、頭の隅をちらついて、そのすぐあとには、そうとしか思えないような気さえしてきた。感覚の喪失が恐ろしく、数歩を歩くごとに、指先が痛くなるほど壁を掴んだ。そうしながら、ただ、自分の呼吸の音ばかりを数えていた。

 何の前触れもなかった。

 踏み出した足が、空を踏んだ。

 とっさに右手の壁に、縋ろうとした。けれど壁は、すぐ先で途切れていた。指先がかろうじて、ごつごつした岩のへりを掴んだ。浮遊感が背骨をつらぬき、勢いあまった体が壁に激しくぶつかった。息が詰まった。

 どうやって自分が踏みとどまったのか、覚えていない。気付いたときには、地面に体を投げ出して、這いつくばるように突っ伏していた。右足から抜けた沓だけが、闇に呑まれていった。

 沓が何かにぶつかって跳ね返りながら、はるか下方へ落ちてゆく音が、ぞっとするほど長く、いつまでも響いていた。

 心臓がうるさく鳴っていた。体のあちこちがひりつくように痛んだ。冷たくなった指で自分の腕を抱くと、右腕が擦り剥けて、はがれかかった皮膚と、ぬるりとした血の感触があった。

 立ち上がったとき、まだ膝が震えていた。力の入らないつま先で、足元を探った。ぽっかりと、そこから先の地面が消え失せていた。

 次の一歩を踏み出すのには、勇気がいった。

 食いしばった歯の間から、震える息を吐いて、わたしはじりじりと、足で地面を探った。大丈夫、左側にはちゃんと足場がある。にじるようにして、少しずつ移動した。空に突き出した手が、左手の壁に触れるまで。

 壁につかまりなおすと、わたしは思い立って、残った左足の沓を脱ぎ捨てた。

 そうしてみると、ずっと歩きやすくなった。足の裏は痛むけれど、たしかな感触が伝わってくる分、足を踏みしめやすい。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。

 まだ頭のどこかが痺れたようになっていたけれど、それでも歩きだせば、どうにか体は動いた。震える息が収まるまでに、少し時間がかかった。

 いくらもいかないうちに、低い水音が耳に届きだした。はじめ、それは自分の中を流れる血の音と区別がつかないくらい、かすかなものだった。けれどじきに、澄んだ水のにおいが鼻をくすぐった。

 死者の川が、近いのだ。

 じきに辺りが広く開けたのが、目には見えないながらも、わずかな空気の流れから察された。壁についた手に、いままでとは違う、やわらかい苔の感触がある。その一部が剥がれて、ぱらぱらと落ちた。

 あたりはひんやりと湿っていた。水が岩肌から染み出しているのだ。

 おそるおそる、壁際を歩くと、途中で水溜りに足をとられて、転びかけた。ぱしゃんと、水の撥ねる音が、驚くほど遠くまで反響した。

 擦りむいた手のひらを服の裾で拭いながら立ち上がると、苔や水のにおいにまじって、なにか、獣くさいようなにおいがした。

 ヨブの話を思い出していた。荷をたくさんの駱駝の腹に括って、彼らに運ばせるのだという。きっと滞在中、駱駝たちをここで待たせていたのだろう……。

 さらに進むと、水音はますます大きくなっていった。それはやがて、耳を聾するような、轟々たる響きへと膨れ上がっていった。

 まだ見ぬ駱駝の痕跡を追うように、空気のにおいを確かめながら歩いていると、水の匂いもまた、音と同じく強まっていった。

 路の湾曲したところを行き過ぎると、急に、視界がぼんやりと開けた。

 小さな青白い光が、あたりをふわふわと舞っている。その下で、黒々とした水の流れが、光を弾いていた。

 死者の川は、記憶のなかにあるよりも、なお流れを増しているようだった。

 その勢いに気を呑まれて、わたしは僅かのあいだ、その場に立ち止まっていた。

 空中で光っているのは、小さな虫だ。いつでもここに、たくさん群れをなして舞っている。

 遺体を川に流すと、彼らのいくらかが、ふらふらと釣られるようにして、下流のほうへとついてゆく。死者の魂の、水先案内をしているのだという。まれに彼らがついてゆかないことがあって、そういうとき、死者の魂は里に未練を残して、彷徨っているのだそうだ。

 いまは虫たちは、ゆったりと明滅しながら、川面を飛び交っている。彼らの明かりは、暗闇にすっかり慣れた目には、まばゆいほどだった。

 水辺の空気は、冷え冷えとしていた。川の水はさぞ、冷たいだろう。一瞬、顔も知らぬ父が激流に飲まれてゆくところを、この目で見たような気がして、わたしは目を瞬いた。

 これまでにどれほどの死者が、この流れを下っていったのだろう。この先にあるという水底の国に流れ着くまでは、どれほどの間、冷たい水に揉まれなくてはならないのだろうか。

 やがて首を振って、わたしは歩き出した。

 ここから先の道は、記録を読みあさっておぼえた道順だけがたよりだった。そのうえ、記録には採掘場までのことしか記されていなかった。火の国までほんとうに行ったことのあるものなど、里には誰もいないのだ。炎の乙女のほかには。

 路は、複雑に分岐しているという。自分が迷わないでいられるという確信なんて、どこにもなかった。

 馬鹿なことをしていると、わたしは胸のどこかで、ちゃんとわかっていたように思う。けれど、足を止める気はなかった。暗闇の中で迷い、二度と戻れなくなってもかまうものかと、心のどこかで思っていた……。

 川が視界から消えていっときしても、しばらくは完全な暗闇には戻らなかった。不思議に思って天井を振り仰ぐと、弱々しい光が、はるかな頭上にあった。ヒカリゴケではない。もっと遥かな高みから、おぼろげに注いでいる、白い光。菜園や水場のように、ここもわずかながら、光輝の神の恩恵にあずかっているらしかった。

 そのためかどうか、それまであまり意識せずに済んでいた生き物の気配が、急に強まった。虫の這ってゆくのが、何度も視界の隅をかすめた。遠くで、水音に紛れそうなほどかすかに、せわしない羽音が響いている。蝙蝠だろうか。

 壁にふれる手に、あるいは裸足の足裏に、何度となく小さな虫の這う感触がした。沓を捨ててきたことを、わずかに悔いた。

 けれど視界があるぶんだけ、それまでよりずっと歩きやすかった。なかば小走りに、わたしは進んだ。

 いくつかのわかれ道を過ぎると、やがてぽっかりと左手の壁が消えた。その先は、深い暗闇に沈んでいる。この先は、銀の採掘場に続いているはずだった。

 わたしはふたたび、右手の壁に手をついた。採掘場に向かう路を折れず、まっすぐに進んだ先の道のどこかが、火の国に通じている。書物にはそのようにあった。

 そんなあやふやな話にでも、縋るほかなかった。それにそのあたりから、路はどうやら、ゆるやかに傾斜していた。火の国は、ずっと高いところにあるという。上るほうへと向かえば、それだけかの地へ近づくのではないか。それもまた、ひどく頼りない根拠ではあったけれど……。

 じきに路は、再び暗闇に沈んだ。水音はもう聞こえない。けれど、小さな生き物たちの気配は消えなかった。足元は、硬い岩ばかりではなく、場所によっては砂礫まじりになり、あるいは柔らかい苔か、土のようなものが広がっていた。

 何度か、分かれ道らしきところがあった。そのたびに足を止めて眼を凝らし、ときには何歩か足を踏み出してみて、より傾斜の上っていると思われるほうを選んだ。それが正しい路だという確信は、どこにもなかったけれど、ときおり思い出したように、かすかな獣の匂いがした。そのことに勇気付けられながら、ひたすら歩いた。

 ある瞬間、その中に異なるにおいをかぎ当てて、わたしは立ち止まった。わずかに甘く、涼やかな、香の匂い。

 記憶のなかにある匂いだった。

 突き上げる衝動に背を押されて、とっさに走り出そうとした、そのときだった。

 何か、土でも岩でもないものを、踏んだ。

 そう思った次の瞬間、右のくるぶしに痛みが走った。わたしはつんのめって、地面に手をついた。尖った石で、再び手のひらを擦りむいたようだったけれど、それよりも、足の痛みのほうがひどかった。

 太い針で刺されたような疼痛、それに、痺れるように熱い。とっさに手を伸ばした、その指先に、ぬるりとした感触があった。

 何かが音を立てて、勢いよく撥ねた。

 悲鳴を上げた、と思う。頭が真っ白になっていた。暗闇の中で、何かが身をくねらせて、暴れている。わたしのくるぶしに喰らいついている。

 痛みよりも、嫌悪感が勝った。わたしは足を振り回そうとした。けれどうまくいかなかった。右足は痺れて思うように動かず、痛みは次第に増していった。

 恐慌をきたしたわたしの耳が、かすかに遠くの物音をとらえた。

 足音だった。行く手のほうから、誰か、近づいてくる……。

 助けてと、叫ぼうとした。けれど声は、かすれた悲鳴にしかならなかった。

 光がさした。

 松明の炎だった。先ほどまでの恐怖も、痛みさえも一瞬忘れて、わたしはその人を見た。明かりを手に、駆け寄ってきた人物を。

 背がひどく高い。小さな松明の頼りない明かりでさえ、その肌の浅黒いのが、はっきりとわかった。

 視線がぶつかった。驚きに見張られた、黒い眼。その視線が動いて、わたしの髪を見た。そこに挿した、髪飾りを。

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