6
どこか上の空のまま、わたしの十五の年は過ぎていった。
想像の中のものでしかないはずの遠い風景は、いつの間にかわたしの中に深く根付いてしまっていた。まばゆいほどの星明かりに彩られた、広く高い空。乾いてひび割れた大地の上に点在するオアシス、まばゆい光にきらめくその水面。水辺で眼を輝かせて剣を振るう子どもたちの姿。はるかな遠い異国に暮らすという細工師が、背中を丸めて銀の髪飾りに鳥を彫りつける、その工房に響くであろう鑿の澄んだ音でさえ、わたしはまるでこの耳で聞いたことがあるかのように、ありありと思いうかべることができた。それらの空想が、実際の光景とどれほどかけはなれているかは、知りようもなかったけれど。
ああ、この目でほんとうの砂漠を見ることができたなら!
サフィドラの月が終わりかける頃になっても、ふとすると心はすぐに現実を離れて、空想の中をさまよった。
ヨブはまだ、旅の途中だろうか。そんなことを考えながら針を使っていて、ただでさえ不器用なこの指が、まともな縫い物をできるはずがない。何度目かに指先に穴をあけたわたしを、カナイが鼻で笑った。
「あきれた。本当にいつまでたっても、ちっとも上達しやしないのね。十にもならない子だって、もっとましなものを縫うわ。恥ずかしいったら」
わたしは顔を上げて、カナイを睨んだ。似たようなことは、ほかの姉さんたちだって口にする。だけどそれらの言葉にはいつでも、しかたのない子ねという、親しみを含んだからかいがあった。カナイは違う。その声には、わたしを傷つけたくてしかたがないという、悪意がはっきりとにじんでいた。
「そんな調子で、あんた、いったいどこにお嫁にいくつもりなの? あんたみたいなおかしな娘をもらってくれる人なんて、里じゅうを探したって、みつからないんじゃないの」
カナイの意地悪な態度に、わたしはとっくに慣れて、あきらめていたつもりだった。だけど、ときには堪えるひまもなく、かっとなってしまうこともある。
このときがそうだった。わたしはヨブが行ってしまって気がふさいでいたし、以前よりも嫁入りの話を頻繁に繰り返すようになった母さんに、苛立ってもいたのだった。
「お嫁に行きたいなんて、一度だって思ったことはないわ」
叩きつけるようにそういうと、カナイは鼻で笑った。
「へえ。それで、どうするの。本とでも結婚する気? 虫食いだらけの、ほこりっぽい紙きれの束と? ああ、それならあんたにはお似合いかもしれないわね」
わたしはカナイに掴みかかろうとした。実際のところ、ほとんどその寸前までいったのだった。頭の芯がじんじんと痺れていた。悔しかったし、悲しかった。カナイがとっさにすくめた肩を、掴んで、思い切り揺さぶってやりたかった。どうしてそんなことしか考えられないのと、問い詰めたかった。
書物のなかで、どれほど豊かな物語が読まれるのを待っているか、カナイは知ろうともしない。古い時代を生きた人々が、いまのわたしたちとどんなに異なった暮らしを送っていたか。この里の外に、どれほど広大な世界が広がっているかということを。たった一度でも、想像してみたことがあるかと、問いただしたかった。
けれど、そうした思いが、どんなに言葉を尽くしても、カナイに届くことはないのだと、胸のどこかでわたしはそのことを、わかりすぎるくらいにわかっていた。それに、わたしにはあまりにも、いえないことが多すぎた。誰にも話せないことが……。
わたしは結局、振りあげかかった手を下ろして、カナイに背を向けた。なによと、虚勢と侮蔑の交じった声が追いかけてきたけれど、わたしは振り返らなかった。そのまま裁縫室を出て、足早に歩いた。
どうしてカナイはわたしにだけ、あんなふうに意地悪な口をきくのだろう。
ほかの人に対しては、カナイはふつうに接している。ときおり皮肉な口をきくことはあっても、それは誰かがそそっかしい失敗をしてカナイに迷惑をかけたときか、そうでなければ、明らかに相手に非のあるときだ。それなのにわたしにだけは、取るに足らないような小さなことまで一々あげつらって、意地悪をいう。カナイはわたしのすることなすこと、全てが気に入らないのだ……。
どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
悲しくなって、わたしは唇を噛んだ。姉さんたちも次々に嫁いで、いまはもう三人しかいない姉妹なのに、どうしてこんなふうに、いがみあっていなくてはならないのだろう。
どんなふうに振る舞えば、カナイを苛立たせなくてすむのだろう。そんなふうに、冷静に考えてみようともした。けれど、どうしてカナイはわたしのことを、これっぽっちもわかってくれようとしないのだろうと、そんなふうに拗ねてみせる自分の声のほうが、いつも少しだけ、勝っていた。
気がついたときには、わたしは勉強室の前にいて、ぼんやりと立ち尽くしていた。垂れ布を透かして、中からかすかに明かりが漏れていた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
声をかけると、中で誰かが本を机に置くような気配があった。「入っておいで」
かえってきたのは、導師の声だった。その声音は、とても温かかった。わたしはためらったけれど、結局は垂れ布をかきわけて、勉強室へと足を踏み入れた。
部屋のなかにはいつものように、古い紙とほこりと、それから蝋燭の燃えるにおいがしていた。わたしが空気を動かしたためだろう、炎がかすかに揺れて、壁にうつる導師の影をそっと揺すぶった。
中にいらしたのは、導師おひとりだった。
男のひとと同じ部屋で、それも二人きりで過ごすなんて、それこそ家族でなければ、とんでもない話だ。けれど男といっても、導師くらいのお爺さんだったら、うるさくいう人もそういないし、なにより導師はわたしたち姉妹に、ほんとうの家族と思うようにと、そう仰ってくださる。
それでも姉さんたちは、導師とさし向かいで話すのが、とても苦手なようだった。カナイやほかの姉さんたちが勉強室によりつかないのは、ただ本が好きでないからというだけの理由ではない。
緊張するというのは、わからないことではなかった。導師はとても偉い方なのだから。でも、それと同時に、おひとりの人間なのだ。
そんなふうにわりきれないと、姉さんたちはいうけれど、導師ははやくに奥様をなくしていらして、子どもがない。わたしたちに家族と思ってほしいと仰っているのは、ほんとうのことだと思う。姉さんたちが距離をおくのを、導師が寂しく思っておられることも、わたしはずっと前から知っていた。
「トゥイヤ、先に頼んだ記録の写しは、どれくらい進んだかね」
わたしは棚から紙束を取り出して、導師にお見せした。
「もうあとほんの少しです。お急ぎでしたら、いま、続きをおわらせてしまいます」
「いいや。二、三日のうちに仕上げてくれれば充分だ」
導師はいって、微笑んだ。「お前はほんとうに、読み書きが達者になった。この家の男たちの誰ひとり、お前ほど早く正確に書物を写すことはできないだろう」
わたしは頭を下げた。導師は子どもたちのよいところを、手放しでたくさん褒める方だ。そのお言葉も、そんなふうなものの一つだったのだろう。けれど、わたしは急に胸が詰まってしまった。
「どうしたね」
穏やかな声に促されて、わたしは胸のつかえを吐き出した。
「わたし、お嫁になんかいきたくありません」
導師は首をかしげて、話の先を促された。それに勇気を得て、わたしはずっといえずにいた一言を、ようやく口に出した。
「ずっとこのお邸の娘でいさせていただくわけにはいきませんか」
わたしの剣幕に、蝋燭の火がゆれて、机にうつる影が歪んだ。導師は瞬きをして一呼吸おき、それからゆっくりと仰った。「そういうわけにはいかない」
わたしは失望して肩を落とした。導師がそれをおゆるしにならないのであれば、わたしが何をどう母さんに訴えたところで、きいてもらえるはずがなかった。
だけどここを出て、わたしの居るべき場所がどこにあるというのだろう。読み書きの機会を奪われて、遠い異国の話を耳にすることもなければ、菜園を任されることすら、おそらくはない。女はただ家事と歌を歌うことと、夫の言葉に相槌をうつ以外には、何も求められない。そのような暮らしの中で、わたしにできることがあるだろうか。
「お前の母からは、相手はムトを考えているときいたが」
導師はそう仰った。わたしは頷いたけれど、導師の顔を見ることはできなかった。
「あの子がここに学びに来ていた、ほんのいっときの様子しか、わたしは知らないが。しかし話をした印象では、とても気持ちのよい青年だったよ。何ごともおろそかにしない、思慮深い子だった。お前とはきっと、気が合うだろう」
導師もまた、わたしが子どもじみた人見知りから結婚を怖がっているのだと、そう思っておられるようだった。わたしはうつむいたまま、ただ唇を噛みしめていた。導師はかすかなため息を漏らして、それから仰った。「さて、どうしたものか。お前の望まぬことを、強いたくはないのだが……」
けれど、ここにずっと留まることを許すわけにはいかないのだと、導師はみなまで仰らなかったけれど、その声の響きだけでも、十分すぎるほど伝わってきた。
少しのあいだ、沈黙が落ちた。それから導師はふっと、遠くを見るような目をされた。
「智恵が必ずしも、人を幸福にするとは限らぬ……」
ゆっくりと、導師は諳んじた。それは、古い物語からの引用だった。「お前の母の心配も、私には、わからないではないのだ」
「――智に対して眼を塞ぎ、真実を求めることをやめてしまったならば、たとえこの心臓が動き続けていたとしても、わたしの魂は死にいたるでしょう」
わたしもまた、べつの書物からの引用で答えた。「知ることをやめ、考えることをやめて、どうして生きていられるというのです?」
導師は困ったように微笑まれた。けれどその笑みの中に、喜びもまた含まれていたように、わたしには感じられた。それともそれは、都合のよい思い込みだっただろうか。導師にとっての自分が、ただきかん気の強い末娘というだけではなくて、役に立つ弟子のひとりでもあったと考えることは。
「お前のように健やかで賢い娘を、この邸に縛り付けて、年寄りの世話ばかりさせておくわけにはゆかぬ」
「縛るだなんて。わたしはここが好きなのです」
ああ、わかっているとも。導師は優しく仰ったけれど、わたしは悲しくなった。
思えば小さいころには、よくわがままをいって、こんなふうに導師にあやされたり、なだめられたりしていた。思い出して、わたしは唇を噛んだ。導師にとってもまた、わたしのいうことは、所詮は子どものわがままなのだ。
わたしが何をいっても、みな、幼い子どもをあしらうように、お前はまだ嫁いで子を持つ幸福を知らぬだけなのだという。女たちばかりか導師でさえそうなら、この餓えるような思いを、誰がわかってくれるだろう。まだ見ぬ遥かな地を、遠い過去や未来のことを、どうしようもなく知りたいと願い続けてしまう、この心を。
失望するわたしの様子を、導師はいっとき、その白い膜のかかった目で、見つめておられた。
「さて。何か、考えてみることにしよう」
いつまでも嫁がずにいてよいとは、いえないが。導師はそんなふうに、微笑まれた。「お前の幸せは、私の望みでもあるのだよ」
その優しいまなざしを見つめ返したとき、いっそ隠し事の何もかもをさらけ出してしまいたいという、唐突な衝動に駆られて、わたしは息を詰めた。来年の不確かな約束のこと。使者が歌うように語った遠い火の国の情景。懐にずっと隠し持っている、銀の髪飾りのことを。
けれど結局、わたしはただ黙って頭を下げ、やりかけの写本を棚に片付けて、勉強室を後にした。
その頃から、わたしはときおり、夜更けにひとりで邸を抜け出すようになった。
母さんも姉さんたちも、すっかり寝静まっている時間。誰かに見つかったら、ひどく叱られるに決まっていたけれど、それでもいいと思っていた。
足音を忍ばせてひとけのないヤァタ・ウイラを辿り、邸の外へ出ると、いつもほんの少し、息がしやすくなった。
人目につかぬようにと、明かりのひとつももたずに出かけると、夜の通路は暗かった。ヒカリゴケの明かりは、夜になると弱まる。それでもよく見知った路だけあって、歩くのにさしたる苦労はなかった。何より、わたしはもっと、暗い場所を知っていた……。
わたしはかつて、暗闇の路に足を踏み入れたことがある。
葬儀のために、皆とつれだって死者の川のほとりまでいったことなら、誰にでも経験のあることだろう。けれどそうではなく、いつかの幼い日、わたしは誰にもいわず、ひとりで里を抜け出したのだった。
なぜそんなことをしようと思ったのか、じつはよく覚えていない。姉さんたちと喧嘩でもしたのかもしれないし、いつか参列した叔母の葬儀のときに、お前の父もこの川をくだっていったのだよと、そう聞かされたためだったかもしれない。
十になったばかりの頃だった。うるさく鳴る心臓をしずめようと、自分の胸に手をあてて、もう片方の手で壁をさぐりながら歩いた。真っ暗闇の中を、ひとりきりで。
里の中なら、昼間であればどこにいても、いつも誰かの話し声が反響して聞こえているものだ。しかし暗闇の路では、自分の足音のほかには、ほとんど何の音もしなかった。
静寂というものを、わたしはそこで生まれてはじめて体験した。立ち止まるたびに、自分の耳がおかしくなったのかと思って、何度も頭を振った。死者の川を下った先にある、水底の国というのは、こんな場所だろうかと、そう考えたのを覚えている。
その静まり返った場所で、かすかな生き物の気配がするたびに、わたしは震え上がって足を止めた。母さんから寝物語に聞かされていた、暗闇の路にひそむおそろしい獣、毒をもつ蜘蛛や蛇たちや、ひとの心に忍び込んで惑わすという姿のない魔物の話が、頭の中をぐるぐると回っていた。
里から遠ざかるほど暗闇はますます深くなり、まったく何も見えなくなるまでに、たいした時間はかからなかった。
分かれ道がたくさんあって、迷えば戻れないという話が、きゅうに身に迫って感じられた。わたしは歩きながらずっと、片方の手をごつごつした岩肌に触れさせていた。この壁を辿りながら引き返せば、必ずもとの場所にたどり着くはずだと、自分に言い聞かせて。
やがてわたしは暗がりで転び、膝をすりむいて、ひとりで泣いた。その声が暗闇の中で幾重にも反響することに怯え、泣き止んで、嗚咽をこらえた。跳ね返るうちに篭もって歪んだ自分の声が、魔物のそれのように思えたのだ。実際に、残響が暗闇に吸い込まれて消える一瞬、わたしは自分のものではありえない誰かの呼びかけを、その中に聞いたように思った。こっちへおいで、と。
怖くて、怖くて、それでも勢いよく走って逃げるには、あたりは暗すぎた。足を引き摺り、泣きべそをかきながらもと来た路を辿って、ようやく里の明かりが見えたときには、わたしの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。邸に戻って家族に顔を見られる前に、どうやって人にしられずに顔を洗うか、わたしは子どもなりに知恵を絞らねばならなかった。あのとき、まるで半日もずっと歩き続けていたかのように思えていたけれど、帰ってすぐに、日暮れの鐘が鳴った。実際にはたいした時間は過ぎていなかったのだ……。
あの静寂、おそろしいもののひそむ真の暗闇にくらべたら、ヤァタ・ウイラのちょっとした暗がりなどは、どうということもなかった。すぐ近くに誰かが寝息をたてていることがわかっている、このような場所では。
菜園にたどりついて、わたしは足を止めた。
空気は、とても清々しかった。首を上げて、わたしは深呼吸を繰り返した。ここの天井は、とても高い。高すぎて、どこに天井があるのかわからないほどだ。
もっとも、天井が見えないのはそのためばかりではなく、いつも光が差し込んでいるからでもある。明るすぎて、たしかには見定めがたいのだ。
夜に降り注ぐ光は、その時どきによってずいぶん明るさが変わる。それでも昼間とは違って、もっとも明るいときでさえ、眩しすぎて目のつぶれるほどにはならない。
隅に座り込んで、胸元からそっと髪飾りを取り出すと、銀細工は天からの光を受けて、きらきらと輝いた。
いつ見ても、細工の鳥は美しかった。その生き物が、高いところを優雅に飛ぶという様子を、わたしは想像した。
髪に挿すといいとはいわれたけれど、けしてほかの人に見られるわけにはいかなかった。わたしはこの細工をずっと身につけて、水浴びのときにも、けしてほかの娘たちの目に触れることのないように、慎重に衣服のあいだに隠していた。
それにしても、この細工のきれいなこと!
銀なんて、あんな重たいばかりの塊をたくさんもっていって、火の国の人たちはいったい何に使うのだろう――以前にはそんなふうに不思議に思っていたのだけれど、その答えが手の中にあった。磨いてこれほど美しくなるというのなら、ひと月も歩いて運ぶだけの甲斐もあるだろう。それにこうやって光の中で眩しく煌めくのなら、ここよりもずっと明るいという火の国にあっては、いっそう美しく輝くに違いなかった。
この細工を差し出したヨブの手を、わたしは何度も思い出した。大きな浅黒い手の甲。長く、節くれだった指。それでもわたしたちの手と、それほど大きくは違わないのだと、そう思ったことを。
ああ、けれどヨブはたしか、はじめてわたしたちの姿を見たときには、驚いたといっていた。目が青く光るとも。だけど、手が二本しかないとはいわなかったし、怪物のように違うということはないだろう。
ヨブと話していて、驚くことは数え切れないほどあったけれど、それでも彼が、人間ではないもっと特別の存在で、ひとのいうような神の使いなのだとは、わたしは思っていなかった。そう、導師がとても偉い方であるのと同時に、ひとりの人だと思うように。
こんなことを口に出していえば、それこそ不遜だといって咎められてしまうだろうけれど。
不遜。不遜というなら、わたしはもっととんでもないことを考えていた。
きっかけは、暦だった。ヨブの話を聞いたとき、わたしたちの暦はかつて火の国からもたらされたのだろうと、わたしはそう考えた。
だけど、自分で思いついたこととはいえ、その仮定は、どこか妙な気がした。わたしは何度となく、その違和感の理由を考えてみた。そうしてあるとき気付いた。わたしたちの祖先のもとに、この里にはじめて火の国からの使者がおいでになったのは、いつのことだったのか?
そのときの記録を、わたしはたしかに、この目で見たことがあった。そしてその記録には、すでに暦が記されていたのだ。ファティス暦三年、サフィドラの月の一日と。
どういうことだろう? 暦が火の国からもたらされたというのは間違いで、使者がやってくる前から、すでにわたしたちはそれを用いていたのだろうか。けれどそれならば、月の名前に、火の国に独自の言葉を使っていたのはおかしい。
いや――わたしは首を振った。そもそもその記録自体、最初に書かれたものの写しなのだ。あとになって、誰かが後年の暦にあわせて日付を書き換えたのかもしれなかった。
それとも、移住よりももっと前から、わたしたちの祖先は、火の国の人々と何かしらの親交があったのだろうか。そう考えれば、無理がないように思えた。
そんなふうに考えていたとき、突拍子もない思いつきが、わたしのなかにぽっかりと浮かび上がってきた。
わたしたちの祖先は、はるか昔、神々から水を奪われて、やむなくこの里へ移り住んできたのだという。長くけわしい、暗闇の路をこえて。
――暗闇の路の、そのむこうには、何がある?
その考えに至った瞬間、わたしは激しく首を振って、あわてて自分の思いつきを打ち消そうとした。けれど一度考えついたことは、消えてなくなってはくれなかった。
わたしたちの祖先は、火の国からやってきたのではないの?
だからわたしたちは、星の名前を用いた、かれらと同じ暦を使っているのではない?
セイラ・ウェルヤ。星の数ほど、というその言葉のことを、わたしは思い出した。そのいいまわしもまた、火の国からやってきたのだろうか? そんなふうに、遠い異国の想像しがたいようなたとえが、わたしたちの言葉に、当たり前のように深く根付くものだろうか? 誰も疑問には思わなかったのだろうか、
わたしたちの祖先は、空に広がる数えきれないほどの星々を、その目で見ていたのではないの?
暗闇の路はとても複雑に入り組んで、長く広く、どこまでも続いているという。火の国へ続く路は、そのなかのひとつに過ぎないのだと。だからその考えは、ほんとうにただの思いつきで、何も確証のあることではなかった。
だけどもし。もしもその突拍子もない思いつきが、本当のことだったとしたら。
わたしたちは、火の国へゆくことだって、出来るのではないだろうか。この眼でみわたすかぎりの砂漠を、星のしるべが無数に煌くという天を見ることだって、できるのではないか。
ひとの暮らす火の国が、燃え盛る炎に包まれた土地だなんて、ほんとうにそんなことがあるだろうか。火の国の人々は、神の加護によって炎に焼かれることのない肌を持っているのだと、これまでいわれたとおりに信じてきたけれど、そのようすを目の当たりにした者が、いったいどこにいるだろう。
かつて炎の乙女は、火の国に踏み入って、炎に焼かれて死んでしまった。けれど、あの歌がただの作り話ではないのだと、誰に証を立てることができるだろう?
その考えが頭をよぎるたびに、わたしはぎくりとして身をすくませた。心臓は恐怖に縮み上がり、忙しない鼓動を鳴らした。
何度となく、自分に言い聞かせようとした。そんなのは子どもじみた空想だ、自分につごうのいい夢物語だと。
だって、もし仮にその考えが当たっているのだとしたら、どうして誰も火の国へいってみようとしないの? そう思う一方で、もうひとりの自分がいう。みな、まさかそのようなことは、夢物語にも思わないからだ。
火の国へゆけば、炎に焼かれて死んでしまう。もしそれらの話が嘘だとしたら、誰がなんのために、そのような嘘をついたのか。
あれほど詳細な記録を残しつづけている代々の導師が、なぜ移住の前のことは、ほとんど記していないのだろう。もっとも古い記録は、そう、あの神話なのだった。一族の移住にまつわる英雄譚。あれよりも古い記録は、残されていないのだ。
そのことを、これまで一度も疑問に思わなかったわけではなかった。けれど、過酷な旅のあいだには、誰も書物を持ち歩くような余裕はなかったのだろうと、そんなふうに納得していた。以前の記録はそのときに失われてしまったのだろうと。
だけど、それがもし、故意に隠されているのだとしたら?
――智恵が必ずしも、人を幸福にするとは限らぬ。
導師の声が、ふいに耳に蘇った。知らないままでいるほうが幸せなこともある。導師が引用したもとの書物は、そのような訓話ではなかっただろうか。
考えは四方に散り、だからといって何ができるでもなく、わたしは自分の想像に怯えた。
ああ、人にはいえないようなことばかり!
炎を待たずとも、自らの考えの罪深さに焼かれて死んでしまうのではないか。ときにはそんなふうに考えることさえあった。そんなとき、わたしは手の中の銀細工を握り締めて、恐怖が去るまで、じっと膝を抱えていた。
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