その夜、ふたりの姉さんたちと何か話をしたと思うけれど、わたしはやはり、なかば上の空のままだった。カナイにいつもの意地悪をいわれても、気づきもしなかったかもしれない。

 昼にヨブから聞いたたくさんの話を、何度も思い返して、どきどきする胸をおさえては、明日のことを心配した。気を抜くと、悪い考えばかりがどんどん胸の底から浮かび上がってきた。ヨブは忙しくて時間が取れないかもしれない。誰にも見咎められずに勉強室までやってくることができないかもしれない……。

 どうか、明日も話せますように。わたしは何度となく祈ったけれど、それを誰に祈っていいのかは、ちっともわからなかった。

 部族をお守りくださるどの神に祈るにも、それは、あまりにあつかましい願いのように思えた。わたしは部族の禁を破り、導師にさえ隠して、火の国の使者と口をきいているのだった。そのことを思えば、いったいどの神様がわたしの願いなど聞き入れてくださるだろう?

 夜が更けても、なかなか寝付かれなかった。何度も寝返りを打っては、姉さんたちの寝息に耳を澄ました。

 あまりにいつまでも眠りが訪れないので、いっそのこと、そっと抜け出して勉強室へゆこうかとも考えた。そんなことをしたところで、こんな真夜中に、ヨブがやってくるはずもないのだけれど。

 ああ、それにしても、今日の出来事はほんとうにあったことだろうか。ついにはそんな考えまで頭をよぎるようになった。もし眠りに落ちて目覚めたら、何もかも夢だったら?

 けれど昼に交わした会話の記憶はたしかなもので、夢などであるはずがなかった。

 ヨブ・イ・ヤシャル。あの方がいらして、星の話をきかせてくれた。

 夜明けを告げる鐘が鳴り、寝床から出ると、一睡もできなかっただけあって、体が重かった。けれど、頭はしっかりと冴えていた。

 姉さんたちはふたりともまだ寝具のなかにくるまって、寝返りを繰り返していた。

「おはよう!」

 声をかけて二人の肩を揺すると、姉さんたちは、そろって訝しげな顔をした。

「どうしたの、今日はやけにご機嫌ね」

「機嫌がよすぎるんじゃない?」

 カナイは眉をしかめて、手のひらで眼をこすった。「まあ、あんたは好きな本を、めいいっぱい読めるからね」

 寝床を片付けて朝食をとりながら、カナイは唇をすぼめた。

「ああ、つまらないったら。毎年毎年、こんなところに三日も押し込められて」

 けれどそういいながらも、カナイはそれほど不機嫌ではないようだった。どちらかというと、表情は明るい。なにかいいことがあったのだろうかと、わたしはもう一人の姉さんと顔を見合わせた。

 食事を終えたあと、姉さんたちはそれぞれに裁縫道具を広げた。カナイの手にあるのは、いつも使うのとは違う、太い針だった。

 不思議に思って見ていると、姉さんが縫っているのは、どうやら帯のようだった。男の人が身につけるものだ。導師に差し上げるものだろうか、それとも伯父さんにだろうか。

 このごろカナイは、急に裁縫が好きになったようだった。どういう気持ちの変化があったのだろう。不思議に思いはしたのだけれど、それよりもヨブがほんとうに今日もやってくるかどうかのほうに気を取られていたので、わたしはそのことを、あまり深く考えてみようとはしなかった。もともと姉さんは、針の扱い自体は上手だったのだし、最近になって楽しさに目覚めたのかもしれない。そんなふうに考えたきり、忘れてしまった。

 わたしも一応、言い訳ていどに針をつけたけれど、すぐに片付けて、落ち着きなく立ち上がった。

「勉強室のほうにいるわね」

 よく飽きないわね、と呆れたような声が飛んできたけれど、わたしは足を止めもせず、いそいそと裁縫室を出た。

 その日に手にとった書物は、何代か前の導師が遺した、覚え書きのようなものだった。今度は少しまともに読むつもりだった。前日のように不安に押しつぶされそうになりながら待つよりも、少し気を紛らわしていたかった。

 書かれている内容のほとんどが、淡々とした日常の記録だった。誰それのところに女子が生まれた。姪から婚礼の祝いに壁掛けをもらった……。何気なくページを繰っていたわたしは、途中、どきりとして手を止めた。

 レヴェの月の第五日、早朝より水が濁り、それを口にした二人の男児が、高熱を出して命を落とした。記録には、そのようなことが書かれていた。

 動揺したのは、少年たちの痛ましい話に同情したためだけではなかった。わたしの父もまた、急な病で落命したと聞いていたからだ。

 あとに続く文面は簡潔なものだったけれど、その筆致は乱れていた。疫が出たときの作法に従い、二人の亡骸は速やかに死者の川へと運ばれた。二人の父親が、ちょうど銀を掘りに出ているところで、流す前に会わせてやることのできなかったのが、哀れだった……。

 病によって死んだ人の亡骸は、弔いさえ待たずに、すぐに死者の川に流される。それは、古くからの定めだった。そうしなければ死の穢れが凝って、ほかの人々にも障るのだという。疫神が、その骸に依って力をふるうのだそうだ。だから遺された者がどれほど泣いて縋っても、けして遺体を運ぶ足をゆるめてはならない……。

 父さんもそんなふうにして、大急ぎで川に流されてしまったのだろうか。母さんはそのときのことを、詳しくは語りたがらなかったから、わたしのほうから改めて訊ねたことはなかった。

 手記によると、そのあと半日ほどで、用水の濁りは元通りになったそうだ。それからも大事をとって、さらに丸一日は水を使わなかった……。

 水以外のものには異常がなかったか、そのときの導師が里を見回って気づいたことや、ほかの人々から集まってきた話の仔細が、事細かに書き取られていた。そのページには、さらに後年のものだろう、別の人物の手跡による検討や覚え書きが、いくつも重ねられていた。

 智とはこうしたものかと、一年前、ヨブはいった。過去を詳細に記録し、それについて複数の人が考えをめぐらせ、時とともに工夫を重ねてゆく。知恵とは、書物とは、そのようなものだ。

 里の男のひとたちが重んじている、そうしたものごとに、なぜ女だというだけで、触れることを望まれないのだろう。そんなことは男の人たちにまかせておきなさいと、母さんはいう。

 ゆううつな物思いに捉えられかけたころ、待ちかねていた足音が響いて、わたしは顔を上げた。駆け寄りたいのをこらえて待つ、ほんのひと呼吸ほどのあいだが、とても長く感じられた。やがて衣擦れの音とともに、ヨブの声がした。

「来ているか」

 わたしは戸口のそばに駆け寄ると、いつものように、そこで膝を抱えた。「来年の荷のお話は、もう済んだの?」

「いいや。いまはみな、まだ休んでいるのでな」

「こんな時間に?」

 わたしが驚いて訊きかえすと、ヨブはなんでもないように答えた。

「砂漠では、夜に旅をするのだ」

 深夜にここを発つと、翌日の昼過ぎに暗闇の路の果てにたどり着く。そこでしばし休んで、日が暮れるのを待ってから火の国に入るのだと、ヨブはいった。

「そうなの……」

 なぜ夜に、と訊ねることは、そのときには思いつきもしなかった。不思議に思ったのは、ずっと後になってからのことだ。それよりも、出発の話が出たことに寂しさを覚えて、わたしは黙りこんだ。

 話ができるのは、今日まで。明日にはまたヨブは旅立ちの支度におわれて、その夜に、発ってしまうのだ……。

 わたしの元気のないのに気づいたのかどうか、ヨブはふと、声を和らげた。

「今日も、本を読みながら待っていたのか」

 ええ。うなずくと、ヨブは感心したように唸った。

「ここにどれほどの書物があるのか知らないが、その調子では、じきに読みつくしてしまうのではないか?」

 その声には、からかうような調子があったけれど、わたしはますます悲しくなった。

「無理よ」

 その声は、自分でそうと思うよりも、悄然としていた。垂れ布の向こうで、ヨブが首をかしげたのだろう、かすかに影が揺れた。

「なぜ」

「ここは、男の人たちが使っていないときだけしか、わたしには使わせてもらえないし、それに……」

 わたしはうつむいた。喉の奥に、熱いかたまりがあるようで、言葉はなかなか出てこなかった。「いつか嫁いでこのお邸を出ることになれば、もう本を読むことなんて、できなくなるわ」

 いって、わたしは唇を噛んだ。無性に悲しくなった。ヨブと話せる時間はかぎられている。こんな話をしたいわけじゃなかった。

 そうかといって、ヨブは黙り込んでしまった。沈黙のなかに言葉をさがす気配を感じて、わたしは無理に明るい声を作った。

「だからいまのうちに、なるべくたくさんの本を読んでおくの。ねえ、火の国のお話を、聞かせてくださる?」沈黙をおそれたわたしは、いそいで言葉をかさねた。「わたしくらいの年のころには、剣の練習をしていたと仰っていたけれど」

 ああ、とヨブは頷いた。

「砂漠の男なら、誰でもそうだ」

「誰でも? ひとり残らず?」

「そうだ。男にとって剣を使えないのは、恥だからな」

「そんなの、古いお話の中だけのことだと思っていたわ。いまも、剣をもっている?」

 答えのかわりに、金属のぶつかる音がした。それは美しい音だったけれど、わたしはどきりとした。刈り入れの鎌よりも大きな刃物なんて、目にしたこともなかった。

「ときには水をもとめて、他の部族と争うこともある。砂漠をわたるときには、追いはぎのたぐいも出るしな」

 追いはぎ、という言葉を、わたしはしらなかった。けれどその言葉の物騒な響きだけは感じ取って、とっさに身を縮めた。

「わたしたちの祖先は、あまりに争ってばかりいたせいで、神々の怒りにふれて、水を奪われたのだそうよ」

「そしてお前たちは、ここへやってきた。すべての争いを捨てて……」

 歌うような声で、ヨブはいった。その言葉の中にある、憧憬のような気配に、わたしは戸惑った。

「争いなど、遠い過去のものとして生きてゆけるのなら、それがいい」

 言葉をきって、ヨブは少しのあいだ、何かを考えるようだった。

「だが、あいにく砂漠に争いは絶えぬ。それに、気の荒い獣もいることだしな。……お前たちの一族の男たちも、暗闇の路と呼ぶのだったか、里の外に出るときには、短刀のひとつもさげてゆくだろう?」

 その問いに、わたしは答えられなかった。

「よく知らないの。わたしにはずっと、男の家族がいたことがないから。父さんは、わたしが生まれる前に死んでしまったのだそうよ」

 その日の朝に思い浮かべた、死者の流れてゆく光景が、話すわたしの瞼の裏をよぎった。

「俺と同じだな」

 ヨブはぽつりと、言葉を落とした。「俺も、父という人の顔を知らぬのだ。戦で命を落としたのだというが」

 ああ。意味のない音が、唇からこぼれた。何か、いうべきことがあるような気がしたけれど、そうしたことに対してふさわしい言葉を、わたしは知らなかった。顔も知らない父さん。ときおり母さんの話の中に顔を出し、言葉の端々にわずかな気配ばかりの残る、影だけの家族……。

 少しのあいだ、ふたりとも黙っていた。やがてわたしは静かに口を開いた。喋ろうと思ったというよりも、言葉が勝手に唇からすべりでてきたようだった。

「この里では、死んだ人の亡骸を、死者の川に流してしまうの。そこの水はね、ほかの水場と違って、とても冷たくて、すごい勢いで流れてゆくのよ。火の国にもそういう場所がある?」

 いいや。囁くように、ヨブはいった。「砂漠では、死者がでると地面に穴を掘って、そこに埋めてしまう」

「ああ、では死んでしまった人たちも、ずっとそばにいるのね」

 死んだあとも近くにいるのならば、残されたものは心強いだろう。わたしは単純にそう考えたのだけれど、ヨブはわたしの言葉を、意外に思ったようだった。

「面白いことをいう。だが、なるほど、そのように考えることもできるのだな」

 布一枚を隔てているだけで、話している距離はとても近いのに、それは、どこか遠いような声だった。歩いてひと月かかるという彼のオアシスに、ヨブは、心を飛ばしているのかもしれなかった。

「ふつう、死者の魂は肉体を離れて、冥府に旅立ってゆくのだという。地の底には、抜け殻となった体だけが残って……」

 冥府、という言葉には、おぼえがあった。古い物語のなかで使われていたのだ。それは、死者の国の別称のようだった。

「わたしたちのほうでは、死者の流れをずっと下っていった先に、水底の国があるというの。死んだひとたちは皆、そこで静かに眠っているのですって」

 そこはきっと、とても寂しい場所だろう。子どものころ、はじめて水底の国のことを聞かされたときに感じたことを、わたしは鮮やかに思い出した。眠れる死者のゆらゆらとたゆたう、冷たくて暗い水……。

「あなたがたの冥府は、わたしたちのゆく死者の国とは、きっと違う場所ね」

 そういったとたん、なぜだか胸が痛んで、わたしは戸惑った。

 ヨブがふと、優しい声を出した。「さて、どうだろうな。いずれ、いやでもわかるだろう」

 その声が、まるでおさない子どもをあやすときのような柔らかさをもっていたので、わたしは急に恥ずかしくなった。

「あきれてる?」

「いいや。何故?」

「わたしが、あんまり何もしらないから」

 ヨブが首を振る気配があった。

「人はみな、己が暮らす場所のほかのことは、驚くほど知らぬものだ」

 その言葉はわたしの胸にふわりと落ちて、そのままお腹の底まで、染みとおっていった。そんなことも知らないのといって、カナイに無知を笑われるたびに、わたしはいつも恥ずかしくて、悔しかった。姉さんこそ、書物の中に書かれているようなことを、何もしらないじゃない。そんな反発を、こらえて飲み込むばかりで。

 ヨブは柔らかな声で続けた。「遠い異国には、驚くほど奇妙な暮らしを送る人々がいるという。それこそつくりごととしか思えないような……」

「遠い国?」

 わたしは自分の耳をうたがって、目を見開いた。

 さきほどまでの話の中身など、どこかに吹き飛んでしまうくらい、ヨブの言葉は、大きな衝撃をともなっていた。「遠い国って? ねえ、火の国のほかにも、まだべつの国があるの?」

 勢い込んで訊いたけれど、ヨブはなぜか、返事をためらったようだった。そのわずかな間に、わたしは違和感を覚えた。昨日もヨブが一度、答えを言いよどんだことを思い出した。

 うっかり口を滑らせたというふうに、その間合いは感じられた。ヨブには何かわたしに、あるいはこの里の人間に、教えてはならないこと、隠さなければならないことがあるのだろうか。そのことにやっと思い至った。けれど、飛び出した問いをひっこめて口の中に押し戻せるほどには、わたしは器用ではなかった。

 それでもヨブは、かすかなため息のあとに、ゆっくりと話を続けた。

「ああ。だが俺も、あまり詳しいことは知らないのだ。この世界にいくつの国があって、どれほどの数の人々が暮らしているのか……。そうしたことを正しく知っている者は、おそらく、どこにもいないだろう」

 わたしは今度こそ、言葉をうしなった。

 この瞬間まで、わたしにとって世界とは、このエルトーハ・ファティスと、そこから続く暗闇の路とのことだった。その範囲、手で触れることのできる世界でさえ、自由に歩き回れるところはかぎられており、まだ見ぬ場所はいくらでもあった。火の国のことも、ヨブからその話を聞くまでは、本当に存在する場所だという実感をもてずにいた。

 けれど、その外にもさらに広がる世界があるという。ヨブの話しぶりからすれば、おそらくは、たくさんの国と、果てしなく続く、途方もないほど広大な大地が。

 それは、どのような土地だろう。どの場所も火の国のように、炎の燃え盛る乾いた土地なのだろうか。それとも中には、こことよく似た、水の豊かな場所もあるのだろうか。そこにはどのような人々が住んでいるのだろう。ヨブのいう、まるで異なる暮らしというのは、どういうものだろうか。

 勢い込んで、わたしはたずねようとした。けれどヨブは、それを制するように、静かにいった。

「だが、それらの国々は、ほんとうに遠い場所にあるのだ。歩いてひと月どころではない、遥かなところに。俺も、これまで一度も行ったことはないし、おそらく生きているうちに、行くことはないだろう」

 ああ。わたしはため息をついた。無知の闇の向こうから鮮やかに立ち上ってきた世界は、ふたたび物語の中の幻想へ戻っていった。けして見ることも触れることもかなわない場所に。

 わたしの声は、よほどがっかりしていたのだろう。ヨブはすこし、慌てたようだった。

「だが、そう。人から人へ、遠い異国より、荷が受け渡されることはある。俺がこうして年に一度、この里までやってくるように。……そら」

 声がして、垂れ布が揺れた。見ればその下、布の端が床にふれている部分から、何かが差しこまれるところだった。

 ほんの一瞬、わたしはヨブの手を見た。大きく骨ばった、手の甲を。

 記録にあった使者の風体から漠然と想像していたような、漆黒の色ではなかった。自分の手とくらべれば、いくらか浅黒い色をしてはいるけれど、ごくあたりまえの人間の手に見えた。

 その手が布の向こうに戻ると、何か細長いものが残った。手のひらに収まるほどの、小さな塊。それは蝋燭の光を受けて、眩しくきらめいた。

「もともとお前たちの里で採れた銀を、異国の細工師が彫ったものだ。……手にとって、見てみるといい」

 わたしは長くためらったあとに、おそるおそる手を伸ばした。指先にふれた感触は、ひやりと冷たく、見た目からは意外なほど重かった。

 手のひらに載せると、それはとてもなめらかな手触りをしていた。

 わたしは眼を凝らし、まじまじとそれを眺めた。銀というものは、もっとごつごつとした、鈍い色の塊であるはずだった。いずれ火の国へわたる荷のひとつとして、お邸に運び込まれた銀の塊を、見せてもらったことがある。こんなものを運んでいって、どうするのだろうと、そんなふうに思っていた。けれど目の前にある細工は、記憶の中の銀塊とは、まるで違うものとしか見えなかった。

 銀の表面には、細かな彫りが入っていた。顔を近づけてよく見れば、それは、なにかの生き物をかたどっているようだった。

 それが何かに似ていると思って、わたしは首をかしげた。それから思い出した。菜園の入り口の壁に彫ってある、守り神の彫刻に、よく似ているのだ。

「この獣は、火の国の神様?」

「いいや」

 ヨブは首を振った。「それは、鳥だ」

「とり……? それは、その遠い国の生き物なの?」

「そうだ。砂漠の空にも、ときおり舞っている。翼があるだろう。それで空を飛ぶのだ」

「蝙蝠みたいに?」

「蝙蝠より、ずっと高いところを、優雅に飛ぶ。……そうだな、書き物をするといったが、鳥の羽で出来たペンを、見たことがないか」

 とっさに振り返って、わたしは書き物机へ視線を走らせた。紙は里の男たちが作るけれど、ものを書くときに使うペンは、火の国から持ち込まれたものだと聞いている。

 あの複雑なつくりをした羽が、もとは生き物の体の一部なのだという事実に、わたしは驚いた。けれど同時に、腑に落ちるような気もした。はじめて導師に字をおそわった幼い日、いったいどのような人間の手が、これほどにこまかい造形をなしえるのだろうと、しげしげと眺めてはため息をついた。あれは、細工ではなかったのだ。

 手の中に視線を戻せば、銀色の小さな鳥は、とても優美な姿をしていた。この生き物が、どのように翼を動かして空を舞うのか、知りたいと思った。

「俺たちの部族はいつも、この里の銀を外へ運んでゆくばかりだからな。回りまわって、お前たちの手元に戻るものが、ひとつくらいあってもいいだろう」

 その言葉の意味を理解するのには、すこし時間が必要だった。何度か瞬きをしたあと、わたしはようやく気付いた。つまり彼はそれを、わたしにくれるといっているのだ。

「それは髪飾りだ。髪に挿してみるといい」

 わたしは喜ぶよりも、むしろ恐れた。「でも、こんな……」

 手の中の鳥と、垂れ布の向こうの影とを交互に見て、わたしはうろたえた。遠い異国からはるばる運ばれてきたというくらいだから、とても価値のある品なのではないだろうか。

 もし彼がそれを、使者のひとりとして、里の皆に対してくだされるのであれば、わたしは気にしなかったかもしれない。けれどわたしが個人として、おいそれと受け取っていいようなものだとは、とても思えなかった。

 迷うわたしを促すように、ヨブはいった。「それは俺の私財だから、気にしなくていい」

 その声には、まるで気負うようすはなかったけれど、それでもわたしは、なおためらった。受け取るにも、返すにも思い切りが足らなくて、いつまでも戸惑っていると、やがてヨブが、ふと思いついたようにいった。

「どうしても気になるというのなら、それの代価と思って、何か歌を、歌ってくれないか」

「歌?」

 わたしはびっくりして、聞き返した。からかわれているのかとも思った。わたしの歌なんかが、こんな細工に見合うとは、とても思えなかったので。

 けれどヨブは、どうやら真面目にいっているようだった。はじめて会った日のことを、わたしは思い出した。いい声だといった、あのときのヨブの声が、まだ耳に残っていた。

 ためらいを振り切って、わたしは腹をくくった。

「――何の歌を?」

「お前の好きなものを」

 そういわれて、なぜわたしは、あの歌を選んだのだろう。

 いや、そのときには選んだという自覚もなかった。最初の一節は、それくらい自然に、唇から滑り出ていた。


 ――麗しき乙女、ひとり、

   明け方、水辺にて憩う。


 それは、自分の声ではないようだった。いったいわたしの歌声は、こんなふうにやわらかい響きをしていただろうか? 歌うこと自体が久しぶりだったせいか、わたしは自分の耳に届く音に、戸惑った。


 ――迷い込みたる男、

   乙女をみとがめていう。

   うるわしき者、汝が名は。


 歌が終わらないうちから、後悔していた。

 炎の乙女は、その場にいるはずのない男の人の存在に驚いて、あわてて逃げ出してしまう。けれどなぜか彼女は、その日のできごとを誰にもいえないまま、次の日の朝、ふたたび水辺へやってくる。二人はすぐに惹かれあい……。

 途中で、わたしは歌い止んだ。その続きでは、乙女は去ってしまった使者を追って、暗闇の路へと入り込んでしまう。男のことを思う一心で、乙女は暗く恐ろしい路を越え、そして命を落としてしまう。火の国の炎に焼かれて。

 悲しい気持ちになって、わたしは俯いた。どうしてこの歌にしたのだろう。自分の愚かしさが胸を刺した。歌なんて、ほかにいくらでもあるのに。もっと明るくて、聴いていて幸せな気持ちになれるような歌、贈り物の礼にふさわしい歌が。

「よい歌だ」

 だけどヨブはそういって、静かな声で、続きはあるのかと聞いた。わたしは首を横に振った。「あるはずだけれど、詞を忘れてしまったわ」

 わたしの嘘にヨブが気づいたかどうかは、わからなかった。ヨブはそうかといって、立ち上がった。わたしははっとして、書き物机のほうを振り返った。蝋燭は短くなって、じきに燃え尽きてしまいそうだった。

「もういってしまうの?」

 前の日には飲み込むことのできた問いを、このときは押しとどめることができなかった。ヨブは少しためらうような素振りをみせたけれど、無理をいっていることは、自分でよくわかっていた。彼がなにかを答えるよりも先に、わたしは言葉を重ねた。

「また来年も、いらっしゃる?」

 ヨブは少し、返事をためらったようだった。困らせているのだと思うと、悲しくて、けれどもう来ないといわれたらと思うと、もっと辛かった。

「――おそらくは。そのときは、またここで」

 柔らかな声の残響を残して、ヨブはいってしまった。

 遠ざかっていく足音を耳で追いながら、わたしはじっと座り込んで、自分の膝を抱えていた。垂れ布をくぐってト・ウイラに踏み込み、ヨブを追いかけて引き留めたいと、そんな馬鹿げたことを考えている自分に、戸惑いながら。

 追いかけて、それでどうするというのだろう。追いすがって、もう少しだけここにいてと、そう懇願すれば、ヨブは彼の役目を後回しにして、足を止めてくれるだろうか? それでほかの使者さま方や、あるいは導師が、姿の見えないヨブを探しにきたら、わたしはどう言い訳をする気なのか?

 やがてすっかり足音が聞こえなくなると、わたしはきつく自分の腕を掴んで、目を閉じた。去年のように、夢見心地でぼうっとしてはいられなかった。

 一年! 一年後なんて、どうしようもなく遠い未来のこととしか思えなかった。わたしはほんとうに一年後、まだこのお邸にいられるのだろうか?

 母さんはわたしの結婚を、そんなにすぐのことではないといった。おそらく今年のエオンの月ということはないだろう。まだ嫁入り道具の用意だって、手付かずだ。けれど、ヨブは来年のことをはっきりとは約束しなかった。おそらく彼にだって、確実なことはわからないのだ。来年がだめだったとして、その次の年は? わたしには、二年後はもうここにいないかもしれない。

 もう一度会えるという、確信が欲しかった。

 わたしは手のひらの熱でぬくもった鳥を握り締めて、いつまでもじっと、その場にうずくまっていた。

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