エオンの月が目の前に迫り、ひと月をかけての婚礼がはじまろうとする頃になると、わたしはため息をつくことが増えた。シーリーンが嫁いでしまったら、寂しくなる。

 当のシーリーンはというと、毎日とても忙しそうだった。婚礼衣装を自分で縫うのが近ごろの流行りだったし、そのほかの嫁入り道具だって、いくら支度をしても、しすぎることはないのだそうだ。あれこれと忙しなく母さんたちに相談するシーリーンの声は、いつも明るく弾んで、新しい暮らしへの期待に満ちていた。

 姉さんたちにとっては、このお邸は仮の住まいで、いつか出て行くべき場所だった。わたしだけが多分、そのことを本当にはわかっていなかった。

 それを思えば姉さんたちが、学ぶことにあまり興味をみせなかったのは、賢明なことだったのかもしれない。好きになってもしかたのないものから、距離をおくというのは。

 そんなふうに考えると、自分がいかにも愚かしく、みっともないように思えてきて、気分は重く沈んだ。

 ふつうの衣服や日用品につかう布は、水草からつくる糸で織るけれど、婚礼衣装のそれは、火の国よりもたらされた、特別の布をつかう。滑らかな手触りの、白い布だ。縫いあがった衣装を、試しにまとってみせたシーリーンは、美しかった。

 いよいよ明日からエオンの月になるというその晩、イラバが邸に泊まりにきた。前に嫁いでいった姉さん、わたしにとっては血の繋がった唯一の姉だ。

 シーリーンも嫁いでしまうし、久しぶりに姉妹でゆっくり過ごそうということのようだった。イラバはその腕に、ちいさな男の子を抱いていた。姉たちは歓声をあげて、かわるがわる赤ん坊を抱いた。

「みんな、元気そうでよかったわ。もっと早くに顔を見にきたかったのだけれど、一度出てしまうと、ここはなかなか敷居が高くて」

 そういってはにかんだイラバは、以前よりも、少し痩せたようだった。

 その腕に、青黒く変色したあざがあることに、誰もがすぐに気づいた。ちょっとね、といって、イラバはわけを話そうとしなかったけれど、おそらく赤ん坊の父親が原因だろうということは、誰もが察していた。婚姻のときにはとても優しそうに見えた、イラバの夫。だけどそれを口に出してしまえば、いまからまさにお嫁にゆこうというシーリーンの幸福に、水をさすことになる……。

 わたしは口を引き結んで、姉さんの腕にしがみついた。

「あらあら、小さな子どもみたいね」

 イラバはそう笑ったけれど、わたしはその手を放さなかった。

 間近でみるわたしの甥は、まだ歯も生え揃わないようすだった。その丸い頬にそっとさわると、赤ん坊の肌はおどろくほどすべすべしていて、やわらかかった。くすぐったかったのか、赤ん坊は声を上げて笑い、わたしの指を、そのちいさな手で掴んだ。よだれでべとべとした指がくすぐったくて、わたしは戸惑った。

「可愛いでしょう?」

 イラバが目を細めてそういうのに、頷き返しながら、わたしは唇を噛んだ。母さんのいったことを思い出した。たしかに、子どもは可愛い。だけど……

 姉の腕に広がる痣に、わたしはそっと触れた。イラバは困ったように笑った。

「たいして痛くないのよ。なんでもないの」

 その言葉を素直に信じることは難しかったけれど、それでも寝息を立て始めたわが子を揺するイラバの横顔は、まるで本当になんでもないというように、穏やかだった。姉さんの長く白い指が、赤ん坊のやわらかい髪をそっと梳くのを、わたしは飽かずにじっと見つめていた。

 ――姉さん、いま、幸せ?

 喉のところまで出かかった質問を、わたしは何度も飲み込んだ。そうではないのだといってほしい自分が、浅ましいような気がして。



 もしわたしが、火の国に生まれていれば。

 その考えは、ふとした拍子に何度も胸の奥から立ち上ってきては、わたしの心を遠くへ飛ばした。その考えがあまりに不遜だというのはよくわかっていたつもりだけれど、それでも夢想は、それ以上に魅力的だった。

 もしわたしが、火の国で生まれ育っていたならば、何かが違っていたのだろうか?

 火の国でも、部族の記録をあつかうのは一部の男の人たちなのだと、ヨブはいった。それなら火の国でもやはり、女が学びたがるのは喜ばれないのかもしれない。そういえば、賢い女を好まない男もいるともいっていた。

 もしも、わたしが火の国の、それも男として生まれていたなら。それならもっと気兼ねなくいろいろなことを学んで、その知恵を、ひとの役に立てていられたのだろうか。あるいは天に輝くというしるべを読んで、みわたすかぎりに広がるという砂の大地を、自在に渡ることができただろうか。

 空想はひどく胸を高揚させたけれど、いつもそんな夢物語ばかりを考えていられたわけではなかった。

 エオンの月には、婚姻にまつわるさまざまな儀式が執り行われる。花嫁であるシーリーンの身内として、わたしも当然、それを手伝わなくてはならなかった。

 シーリーンの夫となる人とも、何度か言葉をかわす機会があった。なんだか気弱そうな話し方をする人だな、と思ったけれど、それ以上の印象はなかった。

 姉さんはこのひとのことを、好きになるのだろうか。ただ漠然と、そんなことを思った。そうして、幸せになるのだろうか。

 普段よりも忙しくはあったけれど、慌しいのはほかの人たちも同じことで、誰も勉強室を使わない日は、普段より多かった。それでかえって、わたしは本を読む時間をとることができた。

 ある日、古い帳面をながめていた。火の国からの荷について書かれたものだ。そのほとんどが、ごく淡々とした記録だったけれど、そのときの変わった出来事や、使者の仰った言葉なども、併せて書き留められていた。

 じきに日暮れというころだった。ト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしは本を手に立ち上がった。誰か男のひとがここを使うのなら、いそいで出て行かなければならないので。

「入るよ」

 穏やかな声に、わたしはほっとして、本を机に戻した。いらしたのは導師だった。

 垂れ布をくぐって中に入ると、導師はわたしの顔を見て、微笑まれた。

「ゆっくりお前の顔を見るのは、何日ぶりだろうね」

 導師には、新たに生まれた夫婦への祝福をさずけるお役目があって、毎日のように、色々な祝いの場に呼ばれていた。なんせこの年には、里じゅうで十二組もの婚姻があったのだ。

 書棚に向かうと、導師は一番手前の棚から、一冊の厚い書物を取り出した。それがあまりに分厚く、重そうだったので、わたしは思わず駆け寄って導師を手伝った。

「ことし夫婦になった者たちの名を、控えておかねばな。早いうちに手をつけねばと思いながら、いまになってしまった。手伝ってくれるかね、トゥイヤ」

 近ごろ導師は眼のぐあいがあまりよくなくて、普通に過ごすにはともかく、読み書きに不自由するようになった。わたしは導師の口にした名前を、ひとつずつていねいに帳面に記していった。その中にはもちろん、シーリーンの名もあった。

 全ての名を書き終えると、導師は感慨深げに、ため息をついた。

「シーリーンが嫁いで、寂しくなったな」

 はい、とうなずいて、わたしはそっと、羽根ペンを拭った。ときおり蝋燭の灯芯がくすぶって、炎が大きく揺れる。その明かりに照らされて、導師はいっとき瞑目した。それから目を開いて、わたしの手元を見た。

「今日は、何を読んでいたのかね」

「火の国の記録です」

 わたしは答えて、さっきまで読んでいた記録を開いてみせた。導師はうなずいて、かすかに首を傾けた。

「何か、面白いことは書いてあったかね」

「荷の中身が、その年によってずいぶん違うのを、なぜだろうと考えていました。この年には、麦が不作だったのだろうかとか、次の年にはずいぶんたくさんの銀を運んでいかれたのだなとか……」

 そう答えると、導師はゆっくりと頷いた。

「さて、天つ国の方々にも、なにか私たちにはわからないご事情が、おありなのだろうが」

 導師はそこで言葉を切って、やわらかく苦笑した。

「お前は昔から、なぜ、と問うのが得意だった」

 わたしは反応に困って、首をかしげた。導師は懐かしげに目を細めて、机の上で、ゆっくりと指を組んだ。

「答えるのには、なかなか骨が折れた。思いもつかぬことを訊いてくるのでな」

「ごめんなさい」

 とっさに謝りはしたけれど、わたしはあまり悪びれてはいなかった。笑いを含んだ導師の声は、あきれているというよりも、むしろ楽しげだったので。

「火の国のことに、興味があるのかね」

 どきりとして、わたしはとっさに背筋をのばした。「少しだけ」

 導師は頷いて、わたしの顔をまじまじと覗き込んだ。その瞳は、母さんのそれと同じように、白い薄膜のかかったようになっていた。けれどその瞳にはいつでも、ほかの誰の目にも見たことのない、ふしぎな輝きがあった。

 導師はなにかご存知なのだろうか。内心では不安を感じていたけれど、わたしはなんでもないふうをよそおって、言葉を足した。

「わたしには、不思議に思えてしかたがないのです。火の燃え盛るという国で、どうして人が生きていられるのか。そのようなおそろしい場所で、どうしてあんなふうにたくさんの豊かな品々が得られるのか……」

 その言葉に、嘘はなかった。導師はゆっくりとうなずいた。

「古い物語もそうだが、トゥイヤ、お前は、いまここにないものに、心を惹かれる向きがあるようだ」

 わたしは叱られているように感じて、首を縮めた。けれど導師は、いつもどおりの穏やかな声で、ゆっくりと続けた。

「遠くのものに思いをめぐらせるのは、悪いことではない。だが、すぐ傍にあるものにも、もっと目を向けてみるといい。みなお前のことを、心配している」

 わたしははっとして顔を上げた。みな、というのは誰のことだろう。姉さんたちか、母さんか。母さんが嫁ぐのを厭うわたしの強情さに困って、導師に相談したというのは、いかにもありそうなことだった。

 何か反論の糸口をさがそうとしたけれど、導師の眼を見つめかえしているうちに、何もいえることはないような気がした。導師は本当のことを仰っている。母さんはわたしのことを心配している。わたしの幸せを願ってくれている……。

 わかっている、間違っているのはわたしのほうなのだ。

 導師に頭を下げて、記録をもとの棚に片付けると、わたしは静かに勉強室を後にした。

 ヤァタ・ウイラを歩きながら、急に悲しくなって、わたしは唇を引き結んだ。どうしてわたしは自分の気持ちを、導師に打ち明けてしまわなかったのだろう。いえばよかったのだ。わたしは嫁ぎたくはないのです。ずっとこの邸においていただけませんかと。

 いえなかったのは、隠していることの重さが、胸をふさいだからだった。ああ、どうして秘密というものは、あんなに魅力的なくせに、ときが経つにつれて心に重くのしかかってくるのだろう?



 その年も終わりに近づき、ソトゥの月も残りわずかとなった頃、とうとう母さんが口火をきった。

「あなたも、名前くらいは知っているかしら。ムトという人がいてね。シーリーンのいとこにあたるのだけど。年が明けたら十七になるそうだから、あなたの二つ上ね」

 わたしは身構えて、手にしていた食器を置いた。けれど母さんは、何気ない調子をよそおって続けた。

「とても穏やかで、真面目な人らしいのよ。導師にもお聞きしてみたけれど、いい青年だと仰ったわ。導師がそう仰るなら、何の心配もないわね」

「母さん」

 わたしはとっさに声を上げたけれど、母さんはそれを無視した。「導師のほかにも、いろいろな人から話をきいたのよ。ほかにも評判のいい人は何人もいたけれど、この人が、一番あなたに合っていると思うの」

「母さん、待って」

「話を進めるけれど、いいわね?」

 呆然として、わたしは母さんの眼を見つめた。母さんは微笑んでいたけれど、その眼はとても真剣だった。有無を言わせない、強いまなざしが、わたしをじっと見つめ返していた。

 けれどわたしは、引かなかった。

「ちっともよくなんかないわ。わたしは――わたしは、お嫁になんかいきたくない」

 母さんは笑顔を消して、眉をひそめた。

「まだそんなことをいっているの?」

「いつまでだっていうわ――」

 わたしはいって、まっすぐに母さんの目を見つめ返した。息を吸い込むと、喉がひきつれた。

「女が本なんか読んでも仕方がないなんて、どうして母さんはそんなふうに思うの? たくさん勉強しても、何の役にも立たないの? ただ女だというだけで?」

 言い募るうちに、涙が滲んだ。「このお邸から引き離されて、もう本も読めなくなって、それでわたしが幸せになれるなんて、どうしてそんなことがいえるの? 相手がいいひとかどうかなんて、そんなことじゃないの。わたしは――」

「少し落ち着きなさい」

 母さんはぴしゃりといって、短くため息をついた。その目の色を見て、わたしは失望した。母さんの瞳には、理解の色どころか、わたしのいい分について考えてみようとする気配さえ、ちっとも見当たらなかった。

「そんなにすぐのことではないのよ」

 母さんは、静かな声――なるべく穏やかな調子を心がけようとしているのがわかる声で、噛み含めるようにいった。「でも、あなたもじきに十五になるのよ。もう子どもではないわ」

 母さんはわたしに喋らせまいとするように、早口に続けた。なにも心配いらないのよ、お前はずっとこのお邸で育ったから、不安になるのもわかるわ。だけどみんな最初はそうなのよ。わたしもそうだった、嫁ぐ前にはお前と同じように、不安でいっぱいだったわ。うんと悪い想像もした。でもね、あの人と一緒になれてとても幸せだった。イラバやお前を産んで、幸せだった。大丈夫、トゥイヤにも、これからたくさんの幸せが待っているわ――

 わたしは耐えられなくなって、部屋を飛び出した。母さんが慌てて追いかけてくるのがわかったけれど、足を止めはしなかった。走って、走って、闇雲に邸から遠ざかろうとした。

 悲しかった。どんなに言葉を尽くしても、なにひとつ伝わらないことが。母さんがちっともわたしのことをわかろうとしてくれないことが。それなのに、母さんはあくまでわたしの幸せを考えてくれているのだということが。

 走って、走って、途中でカナイの母さんとすれちがって叱られたけれど、それも振り切って、わたしは邸の外に飛び出した。誰とも話したくなかった。

 邸からずいぶん離れて、水辺へたどりつくと、わたしはやっと足をとめて、壁のくぼみに背中を預けた。ここには夜は誰もやってこないし、もし近くを誰かが通っても、ここなら水音がわたしの気配を押し包んでくれるのではないかと思ったのだ。

 そのままずるずると座り込むと、服越しに岩壁の冷たく硬い感触が伝わってきた。そこでじっと膝を抱えて、長い時間、水の流れを見つめていた。

 水面は黒々として、ところどころが白くきらめいている。ここの天井はひどく高くなっていて、菜園ほどではないけれど、上からかすかに光が降ってくる。ヒカリゴケの淡い明かりとはまた違う、その独特の光は、夜にはあるかないかのわずかなものだけれど、昼間にはもっとはっきりしていて、水面できらきらとまばゆく輝く。いまは、黒い水面がわずかにきらめく程度だった。

 水のそばは、空気が冷たく澄んでいる。わたしは何度も大きく息を吸って、気持ちを落ち着けようとしたけれど、その試みは、なかなかうまくいかなかった。

 嫁ぎたくないというのは、わたしのわがままなのだろう。本が読みたいというのも。里の多くの女たちは、書物になど触れることさえないまま生きてゆく。みなそれで不自由なく暮らしている。母さんのいうとおりだ。

 なぜ、わたしはそれで満足できないのだろうか。ほかの多くの女たちのように。

 ただ知りたいのだ。まだ見ぬものを、この眼で見てみたい。

 そう考えること自体が、強欲なのだろうか。戒律は、欲得をかたく戒めている。人より多くのものを得ようと思ってはならない。すべてのものは平等に分け与えられなければならない。

 食べ物や着るものを、欲張ったことはないつもりだったけれど、不相応に知識を得たいと思うのも、それと同じことだろうか。考えてもわからなかった。わかりたくなかっただけかもしれない。

 それでも、水の音をずっと聞いているうちに、いくらか気分がやわらいできた。

 日をおいて、母さんともう一度話をしてみよう。今度はできるだけ、感情的にならないように。そんなふうにようやく考えられるようになった頃には、かなりの時間が経っていた。

 遠くで、慌しい足音が交錯していた。探されているのかもしれない。

 母さんは心配しているだろう。気づくと急にいたたまれなくなって、わたしは立ち上がった。

 そこに、カナイがやってきた。

 姉さんはわたしに気づくと、足を止めて、うんざりしたように首を振った。それから来たほうを振り返って、こっちにいたわ、と一声叫んだ。その声が通路に反響して尾を引いて、遠くで誰かが叫び返した。

「あの……」

「馬鹿じゃないの」

 怒った声で、カナイはいった。「皆があんたに甘いからって、いくらわがままをいっても通ると思ってるんなら、あんたは馬鹿だわ。自分がどれだけ恵まれてるか、わかってるの?」

 何も言い返せなくて、わたしは黙り込んだ。いつものようにカナイに腹を立てるのも難しかった。

 カナイからしてみたら、わたしはさぞ腹立たしいにちがいなかった。姉さんは早く嫁ぎたいのに、うまくゆかない。わたしは嫁ぎたくないのに、お嫁にいかされそうになっている……。

 どうして逆ではなかったのだろう。代われるものなら代わりたかった。

「ごめんなさい」

 謝ると、カナイは舌打ちして歩き出した。足音がひどく怒っている。話しかければ、ますます機嫌を損ねそうだった。

 カナイの背中を追いかけて歩きながら、わたしは子どもの頃のことを思い出していた。小さい頃、わたしが道に迷って戻れなくなったり、おかしなところに入り込んだまま眠り込んでしまったとき、いつだって探し出してくれたのは、カナイだったのだ。ずっと昔には、わたしたちは、仲のいい姉妹だった。

 あの頃に戻ってしまったかのような錯覚を覚えて、わたしは切なくなった。本当にそうだったなら、どんなにいいだろう。まだカナイと険悪になる前。いつかお邸を出なければいけないだなんて、そんなことを考えてもみなかった頃に。




 そしてサフィドラの月がやってきた。

 姉さんたちに断って、わたしは早朝から勉強室に向かった。書き物机の上にそっと手燭を置くと、灯心が揺れて炎が躍った。

 わたしはまだ読んだことのない本を選んで、机に広げたけれど、内容はちっとも頭に入ってこなかった。ページをめくるたびに顔をあげて、落ち着かない思いでト・ウイラ側の戸口を見た。そうしていればヨブが早くやってくるというわけでもないだろうに。

 裁縫室のほうでカナイが歌っているのが、かすかに聞こえていた。炎の乙女の歌。ああ、一年前にも、誰かがあの歌を歌っていた……。

 待つあいだ、次から次に不安が差し込んでは、わたしの胸を引き絞った。ヨブは約束を覚えているだろうか。覚えていたとして、ここまでうまく人目をさけてやってこれるのだろうか。

 短くなった蝋燭をかえたとき、かすかな足音が耳に届いた。はっと顔を上げて、わたしはト・ウイラのほうを凝視した。あわてて駆け寄るのは、かろうじてこらえた。もしかしたら、導師かもしれないのだから。

 けれど足音が近くに迫ると、そうでないことがわかった。足取りが違う。それに、衣擦れに混じって、金属のかすかに擦れあう音がした。ほとんど椅子を蹴立てるような勢いで、わたしは立ち上がった。

「使者さま」

 戸口に駆け寄って呼びかけると、笑いを含んだ声が返ってきた。「久しいな」

 記憶の中とたがわない、語尾のやわらかく溶ける声だった。

 その声を聞いた途端、あれから一年もの時間が経ったというのが、嘘のように思えた。あの日の続きが、そのまま目の前にあるような気がした。

 逸る気持ちを抑えて、わたしはたずねた。

「今年もまた、ひと月ちかくも歩いていらしたの?」

「ああ」

 使者はうなずいて、それからまた少し、笑ったようだった。

「去年、俺が話したのを、覚えていたのか」

 わたしは目を見開いた。覚えていたか? 覚えていたのかですって!

 忘れられるはずがなかった。叫びだしたい衝動を堪えて、わたしは何度も強くうなずいた。

「覚えているわ。砂漠のなかの美しいオアシス。夜になると天に輝く、道しるべの光――」その声は、自分でも気恥ずかしくなるほど弾んでいた。「ねえ、また星の話を聞かせてくださる?」

 使者が、喉の奥で笑うのが聞こえた。

「まるで幼い子どものようだな。好奇心でいつもはちきれそうになっている……」

 わたしはうろたえて、熱くなった頬を手で押さえた。

「だってこんな話、ほかの誰ともできないし、一年も……」

 しどろもどろになって言い訳をすると、使者は小さく笑い声を立てた。それから、ゆっくりと星にまつわる話を語りだした。

 ときおり天から降ってきて、天の神々の言伝てをつげるという、ほうき星のこと。地上に落ちてきた星を、拾ってしまった男の話。空の上でぐるぐると永遠に追いかけっこをしている、二匹の鼠の話もあった。思わず笑い声を立ててしまったわたしは、あわてて自分の口元を抑えた。姉さんたちに聞こえてしまわなかっただろうか?

 しばらく耳を澄ましたけれど、幸い、誰かがやってくる気配はなかった。

「火の国の天は、とてもにぎやかなのね」

 わたしがため息とともにそういうと、ヨブはまじめな調子でうなずいた。

「ああ。空に輝く星の数は、とても多い。とうてい数えきれぬほどにな」

 それからヨブは、星の数を数えようとして、毎夜毎夜、砂漠の真ん中に座り続けて、いつしかすっかりお爺さんになってしまった男の話を教えてくれた。ひとが老いて死ぬまでずっと数え続けても、なお数え切れないほどの数というのは、どれほどのものだろう?

 星のひとつひとつはごく小さな光だけれど、それがあまりにたくさん空に輝いているものだから、その明かりで、くっきりと足元に影が落ちるのだと、ヨブはいった。

「いまの時節でもそうだが、イディスの月の頃になると、見上げるのが眩しいほどになる」

 はっとして、わたしは顔を上げた。

「月のイディスという名前は、星と関わりがあるの?」

 ヨブはなぜか、その問いに答えるのを、わずかにためらったようだった。ひと呼吸ほどの間のあとに、返事があった。

「その月の夜半によく見える星の名前が、そのまま月の名前にあたる。いまならばちょうど真夜中に、青白く輝くセタ=サフィドラを見ることができるという具合に」

 ああ、やっぱり月の名前には、ちゃんとしたわけがあったのだ! 嬉しくなって、わたしはさっきの不自然な間のことも、すぐに忘れてしまった。

「わたしたちの暦は、あなた方からもたらされたものだったのね。ねえ、ソトゥの月がほかの半分しかないのはなぜ?」

「ああ、それは、星のめぐりのためだ」

 今度はあっさりと、ヨブは答えた。

「星は、ゆっくりと天を巡るといっただろう。その周期が、一年なのだ。十六か月と半分でちょうど、星がもとの位置に戻る」

 ため息をついて、わたしは頭上を見上げた。そんなことをしても、この眼に星が見えるはずもないのだけれど。

 天井に描かれた模様が、いつも決まったとおりの速さでゆっくりと巡っていくようすを、わたしは想像しようとした。それはとても、不思議なことのように思えた。

「どの星もそろって、同じ速さで動いているの?」

 そうだ、とヨブはいった。わたしは首をかしげて、考えた。

「星ではなくて、星の描かれた天井が、まるごと動いているのかしら……。だけど、それは誰が動かしているの? どうやって?」

「さて。神々の偉大なる御手によって、と話にはいうが」

 ヨブは言葉を切って、一呼吸おいてから、ゆっくりと話し出した。火の国に伝わる古い話によれば、星が天を巡るようになったのは、世界のはじまりから、長いときが経ったあとのことだったという。

 世界のはじまりには、ただ暗闇のみがあり、やがてその中で闇がこごって、大地が生まれた。大地の上には、死があった。死せるものと死せる獣だけが、そこに存在していた。やがて途方もなく長い時が過ぎた頃、星が生まれ、火の国の空に光がともされるようになった……。

「星ははじめ、空を巡ることのない、ただの光の粒だったという。あるとき空がゆっくりと回り始め、そうして昼と夜とが生まれた。生きた人間、生きた獣が大地の上に暮らすようになったのは、それからのことなのだそうだ」

 それはとても、不思議な話だった。聞き終える前から、いくつもの疑問がわたしの頭の中に渦巻いていた。

「でも、そのときのようすを誰が伝えたの? 人はまだその頃、生きていなかったのでしょう。それとも、死者が書物を残したの? 死者はそのころには、生きているもののようにふるまえたのかしら……」

 口に出してそういってから、自分で恥ずかしくなった。それこそ子どものような疑問だった。これはお話なのだ。神話は、なにもかもが本当に起こったこととは限らない。

「さて、どうだろうな」

 ヨブも堪えかねたように笑ったけれど、その声音は温かかった。そのことに勇気付けられて、わたしは話を続けた。

「でも、どうしてかしら。死者が先にいたことになっているのね。生きていた人が死んで、死者になるのがふつうでしょう?」

「生まれてくる前には、誰もが死んでいる」

 歌うような抑揚で、ヨブはいった。「砂漠ではそのようにいうが、さて、どうだろうな。少なくとも俺は、自分の生まれてくる前のことを、覚えてはいない。覚えているという者に会ったことも、まだないな」

 それにしても、学問に興味を持たなかったというわりに、ヨブは、いろいろな話を知っているようだった。わたしがそういうと、苦笑が返ってきた。

「これは学問や書物とは、かかわりのないことだ。砂漠の男なら誰でも、物語や詩の百や二百は諳んじてみせる。お前たちだって、書物ばかりではなく、歌や物語によって子どもらにものを教えたりするだろう?」

 それはそのとおりだった。書物には興味のない姉さんたちが、炎の乙女の物語には、目を輝かせる。

「そのような物語は、それぞれに示唆に満ちてはいるが、お前がそうしてみせたように、遠い先を見通すような知恵は、そこにはない」

 ヨブはそんなふうにいったけれど、わたしは首をかしげた。そんなふうに考えてみたことはなかった。むしろ古い予言などは、お話として語り継がれてこそいるけれど、書物にはほとんど残されていない。

 だけどわたしがそのことを口にするよりも先に、垂れ布の向こうで影がゆれ、かすかな衣擦れの音がした。

 もう行ってしまうの。そういいたいのを、かろうじて飲み込んだ。話したいことは尽きなかったけれど、引き止めるわけにはいかなかった。

 わたしはおそるおそる、去年にたずねたのと同じ言葉を口にした。

「また明日もいらっしゃる?」

 訊きながら、これもまたわたしのわがままだろうかと、そう思った。

 迷惑に決まっている。帰りの支度もあるだろうし、長い道のりにそなえて、しっかり身体も休めなければならないのだから。

「ああ。また明日」

 けれどヨブは、そう答えて、その声には、かすかに微笑みの気配があった。

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