日常はすぐに押し寄せて、いつもの忙しない朝がやってきた。

 菜園の世話は早朝、日の射す前からはじまるし、そのためにはもっと早い時間に水汲みをしておかなくてはならない。洗濯や掃除や竈の番、危なっかしい手つきでの繕いもの、そうした雑事のくりかえしの日々。けれど、それらの時間は、以前とすっかり同じものではなかった。

 表面的にはなにひとつ変わっていない。それでも日々のささやかな出来事をとらえるわたしの心は、以前と少しずつ違ってしまっていた。

 菜園で、頭上から降り注ぐ光を受けるたびに、これよりもずっと眩しいのが当たり前だという、火の国のありように思いを馳せずにはいられなかった。ヤァタ・ウイラの足元に刻まれた模様を眺めているとき、天高くに数え切れないほど輝くという、星々のすがたを空想した。

 写本をつくるために、紙束を前に羽根ペンを手にしているときだけが、以前とまったくかわらなかった。心は自然と針のように引き絞られて、目の前の作業に集中した。紙もインクも、とても貴重なものだ。気を散らして書き損じるなんて、とんでもない話だった。

 けして間違いのないよう、一字一句に心をとぎすませて、わたしは古い書物を引き写していった。言葉が古くてわかりづらい言い回しがあれば、紙の余白に注釈を加える。虫に食われたり、インクが劣化して読めなくなった箇所は、導師と相談しながら失われた言葉をさぐり、ときには空白のままとして先に進んだ。写本を作る作業が、わたしはとても好きだった。ひとつの記録と濃密に向きあう、その時間が。

 まだ十四歳だったわたしにとって、一年というのは、途方もなく長い時間だった。そのあいだ、わたしは何度も何度も使者の語った言葉を思い返した。

 火の国には水が乏しいという一方で、なぜ彼らは毎年、あれほどたくさんの品々を運んでこられるのだろう。火の国の天に輝くというしるべの名前が、なぜわたしたちの暦や、わたしの名前に使われているのだろう。考えることはいくらでもあって、けれど、そのほとんどが、答えのみつからない問いだった。

 ひとりで考え込む時間が増えるにつれて、母さんのため息も増えたようだった。けれどその頃のわたしには、人のようすを気にするだけの余裕もなかった。新しく目の前に開けた世界に、夢中だったのだ。

 ようやく母さんの態度の変化をはっきりと意識したのは、その年も終わりに近づいてからのことだ。



 ある日、乾いた洗濯物を抱えて部屋に戻る途中で、誰かの話し声が聞こえてきた。

 声は、知っている人のものだった。ひとりはカナイの母さん。もうひとりはその兄、つまり、カナイの伯父だった。

 盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、部屋の前を通るあいだ、いやでも会話は耳に飛び込んできた。

「カナイにもそろそろ、相手をみつけてやらなきゃならんのだろう」

 わたしは一瞬、部屋のほうを横目に見た。姉さんの縁談がなかなか決まらないという話は、その前にも何度か耳にしていた。

「それがなかなか、いい人がいないのよ」

「バルトレイはどうだ。あれは真面目な、いい男だぞ」

 バルトレイ。その名前は、わたしも知っていた。

 成人前の男の子たちは、ユヴの月になると、この邸に学びにやってくる。ふつうはそのひと月のあいだに限ってのことだけれど、ときには書物に興味を持って、そのあともここに通うようになる人がいる。

 そういう男の人たちがいまも何人かいて、その中から誰かがいずれ、導師のあとを継ぐことになるだろうといわれている。バルトレイは、その中のひとりだった。わたしは直接話をしたことはないけれど、ときどき導師が仰るのを聞くかぎりでは、カナイの伯父のいうとおり、気持ちのいい人物のようだった。

「だめなの。あの人はカナイにとっては、父方のはとこにあたるのよ」

 カナイの母さんはそういって、ため息を落とした。「ままならないものね」

 三代さかのぼるまでに父祖を同じくするものとは、婚姻をゆるされない。その戒律は、わたしも知っていた。

 けれどずっと昔には、そうではなかったのだそうだ。

 わたしたちの祖がこの地に移り住んできたという、あの古い物語のなかには、いとこ同士であるという夫婦が登場した。不思議に思って、導師にお尋ねしたことがある。古い時代にはそうしたことは珍しくなかったようだと、導師は教えてくださった。

 いつ頃から、どうして禁じられるようになったのか。気になるならば、自分で調べてごらん。導師はそうも仰った。古い記録を順に紐解けば、そうした戒律が出来たのは、いまから三百年ほど前のことのようだった。そしてそれは、当時の火の国の使者よりもたらされた助言なのだという。そうすることが何の役にたつのかは、記録の中には見当たらなかったのだけれど……。

 ともかく、その戒めがさまたげとなって、姉さんの婚約は、なかなか決まらないらしかった。カナイの曽祖父というひとには、とてもたくさんの子どもがいたのだそうだ。そのためにカナイには、血縁のある人が多い。

 部屋の前を通り過ぎていくらもいかないうちに、当のカナイが向かい側からやってくるのが見えた。

「姉さん」

 わたしはとっさに、カナイを呼び止めていた。このまま歩いていけば、二人の話が聞こえてしまうに違いなかった。そうなればカナイの機嫌は悪くなるだろう。

 なかなか相手が決まらないことを、姉はどうも、屈辱的なことのように感じているふしがあった。まだ嫁ぐのに遅すぎるという年齢ではないし、相手が決まらないのは、カナイのせいではないのだけれど。

 足を止めて、カナイは怪訝そうな顔をした。それもそうだろう、わたしのほうからカナイに話しかけることは、近ごろではあまり多くなかった。

「なによ」

「母さんを見なかった?」

 とっさの思いつきでそうたずねると、カナイは迷惑そうに首をすくめた。「さあ、知らないわ」

 そう、とあいづちをうったはいいけれど、あとに続ける話は何も思い当たらなかった。迷っていると、カナイのほうから口を開いた。

「それより、あんた、まだ洗濯も終わらせてなかったの? あんたひとりだけ裁縫も料理もへたなんだから、せめてほかのことぐらい、手早くこなしたら?」

 とげのある声でそれだけ言い捨てると、カナイはさっさと歩き出してしまった。

 わたしはため息をついて、自分の手の中の洗濯物を見つめた。

 どうしてカナイはわたしを嫌うのだろう。

 カナイが誰にでもおなじように意地の悪い口をきくのなら、がまんできる。でも、ほかの姉さんたちとは、仲良くしているのだ。ちょっとした失敗を、いちいち咎め立てることもなく。

 わたしの何が、あんなにカナイを苛立たせるのだろう。手先が不器用なことが? それとも、おかしなものばかりに興味をもつことが?

 いつからわたしたちは、こんなに険悪になってしまったのだろう。わたしは肩を落とした。昔からずっとそうだったわけではなかった……。

 わたしは気を取り直して、顔を上げた。わたしたちの交わした声はそれなりに大きかったから、向こうで話していたふたりも、カナイがいることに気づいただろう。

 カナイの相手が、早く決まるといい。あまり褒められたことではないかもしれないけれど、そのころ、わたしはよくそんなふうに考えていた。カナイも嫁いだあとまで、わざわざわたしに意地悪をいうために顔をだしたりはしないだろうから。



 そんなことがあってから、数日も経たないうちだった。じぐざぐになってしまった縫い目を相手に、わたしが苦戦していると、母さんが自分の針を止めて、ふと思い出したようにいった。

「そろそろあなたの嫁ぎ先のことも、考えなくてはならないわね」

 わたしはぎょっとして顔を上げ、その拍子に針を指に刺した。

「ほら、気をつけて。なにやってるの」

 わたしは慌てていった。「母さん、わたし、まだ十四よ」

 だけど、母さんは眉を吊り上げた。

「早すぎることはありませんよ。それに、話が決まってすぐにお嫁にいくわけではないもの。準備だっていろいろあるのだし」

 カナイの件といい、母さんたちが急にそろってそんなことをいいだしたのには、理由があった。エオンの月が迫ってきているのだ。

 婚礼は毎年きまって、エオンの月に執り行われる。去年はイラバが嫁いでいった。今年は、いまいる姉たちのうちで一番年かさの姉、シーリーンが。いま母さんが縫っているのは、その祝いに贈るための壁掛けだった。

「だけど、母さん」

 わたしが抗議の声を上げると、母さんは眉をひそめた。それでもくじけずに、わたしはいった。「わたし、お嫁になんか行きたくないわ」

「馬鹿なことをいわないの」

 母さんがそんなふうに強い剣幕でものをいうのは、めったにあることではなかった。わたしは首をすくめたけれど、引き下がりはしなかった。

「だって、お嫁にいったら、もう本は読めないのでしょう」

 母さんは手にしていた縫い物を床に置いた。その表情は、初めて見るくらい、険しかった。

「本を読むのが、お前の仕事ではないのよ」

「だけど……」

「わきまえなさい」

 ぴしゃりといって、母さんは首を振った。「いつまでもここにご厄介になっているわけにはいかないのよ」

 ぐっと言葉に詰まって、顎を引くと、母さんは眉間を指先で押さえて、ため息をついた。

 わたしは邸の厄介者なのだろうか。その考えは、ひどい悲しみをわたしにもたらした。導師はわたしがいつまでもここにいたら、お困りになるのだろうか……。

「トゥイヤ、よく聞きなさい。嫁いで子どもを産み育てるのは、すべての女の大切なつとめなのよ。いい家庭を作って、幸せになることもね」

 ふっと声音をやわらげて、母さんはいった。「心配しなくても、かならずいい人を探してあげるから。あなたを不幸せにするような、おかしな人のところになんて、お嫁にやったりしませんよ」

 わたしを安心させようとするように、母さんは微笑んだ。けれどわたしの心はちっとも晴れなかった。

 母さんは矛盾したことをいっている。二度と書物に触れることもなく、この世界について新たに何も学ぶことができないというのなら、夫となる人がどんなにいいひとだろうと、わたしの幸せはそこにはない。

 だけどわたしがそういうと、母さんはそんなものは甘えだといって、また眉を吊り上げるのだった。

 母さんが、わたしのためを思ってくれているのはわかっていた。だけどわたしは嫁ぐ相手に不満があるのではなく、このお邸を出てよそに嫁ぐということそのものが、嫌でたまらないのだ。

 微笑したまま、母さんはいった。

「不安に思うかもしれないけれど、子どもを持ってみればわかるわ。わたしはお前を産んで、とても幸せでしたよ」

 話がかみ合わないのが悲しくて、悔しくて、わたしはそれこそ子どものように、声を荒げてわめいた。「そうじゃないの。そういうことじゃないのよ……」

 いいあう声は、響いていたらしかった。次の日になって、姉さんたちにからかわれた。

「おかしな子ね。わたしは早いことお嫁にいきたいわ。この辛気臭いお邸をさっさと出て!」

 そう明るく笑ったのは、三番目の姉だった。

「あんたの母さんのいうとおりよ。ここを出て行きたくないなんて、そんなのあんたが甘ったれてるだけだわ。どうせおおかた、男のひとが怖いんでしょ」

 カナイは鼻の頭にしわをよせて、そんなふうにいった。「自分の父親だって知らないんだから、無理もないかもしれないけどね」

「カナイ、それはあんまり意地悪ないいかただわ」

 シーリーンが眉をひそめて、そんなふうにカナイをたしなめたけれど、わたしは打たれたように固まっていた。カナイは鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。

「大丈夫よ、きっといいひとが見つかるわ」

「そうよ。心配いらないわ、うんと優しくて、トゥイヤのことを大事にしてくれるようなひとが、きっと見つかるから」

 ふたりの姉さんたちは、口々に慰めてくれたけれど、それらの言葉はわたしの心に、ろくに届かなかった。

 カナイのいうとおりなのだろうか? わたしは黙り込んだまま、そのことを考えた。父さんは、わたしが生まれる少し前に死んでしまったという。わたしは生まれたときから、ずっとこのお邸にいた。たまたまほかの姉さんたちにも、兄や弟はいないし、導師にも子どもがない。だから、わたしにとって男の家族は、導師ひとりだった。

 わたしにとっては、ずっとそれが当たり前のことだったけれど、姉さんたちは違う。姉さんたちにはみな、多かれ少なかれ、それぞれの父さんが生きていたときの記憶がある。それまで暮らしていた場所、ここではない家についての思い出が。

 だからわたしは、こんなに嫁ぐことがいやなのだろうか? 男のひとのことを知らないから、漠然と不安を感じているだけなのだろうか。だから姉さんたちのように、恋物語に強く心を惹かれたりしないのだろうか。

 たしかな答えは、すぐに見いだせそうにはなかったけれど、わたしはひとつ、大事なことに気がついた。少なくとも、母さんはそう思っているのだ。

 そう考えれば、これまでの母さんの頑なな態度のわけが、わかったような気がした。

 もうすぐお嫁にいくシーリーンが、ぽつりといった。

「不安になるのも、ちょっと、わからないではないわ」

 とっさにわたしが縋るような目を向けると、シーリーンはわたしを安心させるように、微笑を返した。「でも、大丈夫よ。イラバだって、いい人のところに嫁いだじゃない」

 わたしは落胆して肩を落とした。

 誰にもわかってもらえないのだと、そう思った。悲しくてたまらなかった。姉さんたちは、書物にも、その中に記されている世界のありようのことにも、ちっとも興味がないのだ。本が読めなくなるということが、わたしにとってどれだけつらいものなのか、誰もわかってはくれない。

 それに嫁いでしまえば、もう使者さまとお話しできる機会だって……。

 けれどそれは、誰にもいえないことだった。母さんにも、姉さんたちにも。

 ほかの人には絶対にいわないでと、そんなふうに秘密をわかちあえるほど親しい女の子は、わたしにはいなかった。ただのひとりも。

 菜園や水場、あるいは竈で、近くの家の女たちとは、毎日のように顔をあわせる。年の近い子も何人かいる。雑事の合間に、ちょっとした短い会話をかわすことは多い。だけど、それだけだった。

 彼女たちの興味は、まだ見ぬ婚約者や、恋物語や、そうでなければ彼女らの家族のことに限られていた。わたしは本ばかり読んでいる変わり者で、そのうえ、導師のお邸の娘なのだった。

 何も、特別に避けられたり、嫌われたりというようなことではない。けれど彼女らとわたしのあいだの距離は、いつまでも埋まることがなかった。わたしがほんのちょっとでも真面目な話をすると――それが書物のことや、導師のお話のことではなくて、たとえば菜園に埋める肥料のくふうだったり、暦のなかに見出した不思議な法則のことだったりといった、彼女らにとってもけして全くの無縁ではないはずの内容であっても、彼女らはちょっと目を瞠って、首をかしげるのだ。トゥイヤはとてもかしこいのね。あなたのお話は難しくて、わたしにはよくわからないわ。導師のおそばで育ったひとは、やはり違うわね。

 そう、非はいつだって、わたしのほうにあるのだった。自分でも、よくわかっていた。ほかの女の子たちが好きなことに興味をもてず、皆が関心のもてないことばかりを愛するわたしがいけないのだ。

 どうしてわたしひとり、こんなふうなのだろう。

 ことさらに天邪鬼になって、わざとみんなと違うことを好きになろうとしたつもりはなかった。気づいたときには、皆が好むことをあまり好きになれず、皆があたりまえにできることがうまくやれなかった。人より得意なこともいくつかはあったけれど、それはほとんど誰からも喜ばれず、姉さんたちを呆れさせ、母さんの眉をひそめさせるばかりで。

 わたしが情熱をもって語ることを、導師だけはいつだって微笑んで聴いてくださる。だけど導師は誰のいうことにだって、やさしく耳を傾けてくださるのだ。わたしのいうことは、ほかのひとにはいつだって、まともに理解されることも、共感されることもなかった。しかたのない子ねと、やさしく呆れられることはあっても。

 そう、ヨブ・イ・ヤシャル、あの方のほかには。

 あのひとがわたしの話に興味があるといってくれたことが、わたしには、とても大切だった。たとえそれが、単なるものめずらしさのためだったとしても。

 遠く離れた国の使者さまには伝わる言葉が、いつも一緒にいる母さんや姉さんたちには、どうしてこんなにも伝わらないのだろう。

 いくらそばにいても、たくさん言葉を交わしても、本当にいいたいことをちっともわかってもらえないのは、もどかしくて、寂しい。

 そんなふうに思うのは、とてもぜいたくなことだ。わかっている。この邸のなかでいちばん末のわたしは、母さんたちからも、姉さんたちからも、よけいに甘やかされて、可愛がられてきた。それなのに、それ以上の何を望むというのか。そんなのは、ただのわがままだ。

 だけど、わかっていても、わたしはいつでも寂しかった。

 わたしはずっと、理解者に餓えていたのだ……。

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