岩砂漠に入って十日目の夜は、もはや寒くはなかった。あたりはむっとするような湿り気に包まれている。海が近づいてきたのだ。

 ほんの数日前には、アシェリが夜の冷え込みに震えていたというのに、いまでは深夜になっても蒸し暑く、ともすればのぼせ上がりそうだった。面覆めんおおいも外套もとっくに外して、荷物の奥にしまいこんでいる。暑さそのものには慣れているヨブでも、空気が孕んだ水気の多さにあてられて、疲労が増すように思われた。

 広大な岩砂漠は途切れ、足元はいつしか水を含んだ土へと変わっていた。風に流される砂でも、硬い岩の大地でもない。それはヨブにとって長いあいだ、世界の涯を象徴する、ひどく特異な光景だった。しかし、アシェリがやってきた砂漠の外では、ほとんどの地面はこのようにやわらかく湿って、風が吹いてもほとんど形を変えないのだという。

 だがアシェリの語る大地には、数え切れないほど多くの草や木が、見渡す限り繁っているということだった。比べていま彼らの足元には、ただ赤茶けた土ばかりが延々と広がっている。

 流れ落ちる汗を拭いながら、アシェリは辺りを見渡した。

「洞窟の中には苔が生えているのに、一歩外に出たとたん、草木の一本もないのだな。見れば地面は湿って、いかにも植物が芽吹きそうに見えるのに」

「夜でこそ、こうして外を出歩くこともできるが、昼間には湯を沸かす鍋の真上のように、熱い蒸気が満ちている。昨日の昼間にいた洞窟でも、ずいぶんと奥のほうまで潜っただろう。そうでもせねば、地上の熱気から逃れられないのだ」

「ここは、死の大地なのか」

 妙に深刻な顔つきで、アシェリがそう囁いた。だが、ヨブは首を振った。

「いいや。まったく生き物がいないわけではない」

「沸き立つ鍋の上のようだという、地上にもか」

 ヨブはうなずいた。嘘ではなかった。しかしいま、辺りは見渡す限り死のような静寂に包まれている。彼らの足音のほかは、風の音が響くばかりだった。アシェリは腑に落ちないという顔をして、もう一度、周囲を見渡した。

「だが、もう夜だというのに、まるで生き物の姿を見ないぞ」

「いまはな」

 素っ気なくいって、ヨブはそれ以上の説明をしなかった。アシェリは首をひねったが、さらに重ねて問うことはしなかった。

 一晩を歩きとおすと、赤茶けた崖に、縦に細長く切れ目が入っているのが見えた。細いといっても遠目に見ての話で、近づいてみれば、充分に人の通れる幅がある。ここは水や風の抉った洞穴ではなく、人の手で作られた空洞だった。

 ここからまた少し西へ進むと、本当に塩の採れる場所がある。だが、そこまでのあいだには、もう天然の洞窟がない。正確にいうと、かつてはあったのが、五十年ほど前に落盤で、すっかり埋まってしまったのだという。それでヨブの遠い祖先たちが、繰り返しここまで足を運び、夜のわずかな時間を縫うようにして、長い時をかけて人工の洞穴を作った。

「ここが最後の中継地だ」

 そういって、ヨブは洞穴の中に驢馬を押し込んだ。人の手で均一に掘られた洞穴には、かなりの奥行きと深さがあり、その奥では、岩壁から冷たい水が滲み出している。彼らは暗闇の中で水を汲んで、体を休めた。

 涯の海まではもうわずかな距離だ。しかし、いまからすぐに発って、夜明けまでに戻ってくるには時間が足りない。もうひとつ昼をやり過ごして、次に陽が沈んでから出立することになる。

「それにしても、すごい霧だな」

 アシェリが唸ったとおり、辺りは白い霧に満ちて、それは洞穴の中にまで忍び込んでいた。外に出たところで、もはや空に星の並びを正確に見出すことなど、望むべくもない。だがそれは、あらかじめわかっていたことだ。煮えたぎる海にほど近いこのあたりでは、いつでもあたりは霧に覆われている。その代わりに、濃い霧を透かして頭上に輝く月を頼りに、方角を知るのだ。そのために、満月の夜に到着するように日程を組まねばならなかった。

「ここまで来れば、海は間近だ」

「そうか」

 アシェリの声音は、どういうわけか、沈鬱に沈んでいた。あれほど来たがっていた場所が、もう目の前だというのに。

 量の少ない食事を終えると、ヨブは壁にもたれかかって眼を閉じた。

 アシェリは、まだこの地を目指した理由を、話してはいない。問いただすべきか、ヨブは迷った。銀に用がないというのならば、理由など何でもかまわなかった。だが長は、それでは納得しないだろう。

 しかし、どこか思いつめたように沈黙しているアシェリに向かって、無理に問い詰めることもためらわれた。

 迷ううちに、いつしか眠りに落ちていたらしい。やがて頬をなでる湿った風に起こされて、ヨブは体を伸ばした。洞穴にふたたび、白い霧が流れ込み始めている。夜がやってきたのだ。

 それからさらにしばらくの時を、二人は腹ごしらえをしながら待った。洞窟の奥深くでは、霧はただ湿っているばかりだが、外の熱せられた蒸気がほんとうに冷めるまでには、時間がかかる。

 干した果物は、最後のひとつを半分ずつにわけた。干し肉はまだ余裕があるが、人里のある場所に戻るまでのあいだ、帰り道の食事は、味気のないものになるだろう。

 やがて無言で身支度をして、ヨブは不安げに鼻を鳴らす驢馬の背を、なだめるように叩いた。そして自ら背負ってきた荷物のほとんどを、そのそばに置いて、水の袋とナイフだけを腰に括りつけた。

「こいつは、置いてゆくのか」

「目指す場所までは、じきだ。水だけを持って出ればいい。驢馬は、帰りに迎えに来る」

 説明すると、アシェリが同じように支度をする物音がした。

 二人は無言で洞穴を後にした。空を仰ぎ、丸い月の形と崖の地形とを見比べてから、ヨブは慎重に一歩を踏み出した。このような霧の中では、方向感覚はすぐに狂う。月と、おぼろげに見える地形だけが頼りだった。

 頻々に空を見上げながら歩くうちに、やがてほとんど何年ぶりかに嗅ぐ潮のにおいが、ヨブの鼻をくすぐった。濃い霧と前方の丘とに遮られて、まだ海はこの目に見えないが、あとは時間の問題だった。

 やがて、低くどうどうと響く音が、霧を越えて二人の耳に届き始めた。それは、地下洞窟にいるときにはるか足元から聞こえる音にも、どこか通じるものがあったが、それよりもさらに低く、そしてゆったりとした強弱があった。

潮騒しおさいだ」

 アシェリは呟いて、耳を澄ませた。ヨブは驚いて、勢いよく連れの横顔を振り返った。それが潮騒だとわかるからには、同じ音を、かつて聞いたことがあるに違いなかった。

「お前は、海を見たことがあるのか」

「ああ」

 アシェリはあっさりとうなずいた。

「それならば、いったいなぜ道案内などが必要だったのだ」

 ヨブが納得のいかない思いを抱えて問うと、アシェリはかぶりを振った。

「俺が知っているのはもっと北の、冷たい海だ。見たかったのは、ここの海なのだ。ほかのどの海辺でもない、砂漠の涯の、灼熱の海だ」

 その声は、砂にれたためばかりでなく、ひどく掠れていた。

 アシェリがかつて見たという、煮えたぎっていない海、北の冷たい海というものを、ヨブは想像しようとしてみた。だが叶わなかった。ヨブにとって海とは、いつでもぐらぐらと沸き返り、蒸気を吹き上げて先の見通せない、黒い水のまりのことだった。

 そして、見たかったというわりには、海辺に近づくにつれてアシェリの足取りは鈍く、重くなるようだった。それにつきあって、ヨブもまたゆっくりと歩いた。

 霧の向こうに透ける真円の月が、ぼんやりとした明かりを夜に投げかけている。辺りには潮騒と、二人ぶんの足音が響くばかりだった。

「あんたに鳥の名をつけたという親父さんは、どんな人だ」

 突然、アシェリがそのようなことを聞いてきて、ヨブは面食らった。

「さて。よくは知らないのだ。俺が生まれる前に、死んだというから」

 そうかとうなずいて、アシェリは何かいいよどんだ。

「そら。あの丘を越えれば、海が見える」

 おぼろげに霞む前方の丘を、ヨブが指さして見せると、アシェリは立ち止まり、その指の先をじっと見つめた。それから再び重い足を動かして、ゆっくりと歩き出した。

「俺の親父は、俺がまだほんのガキの頃を最後に、顔をみせなくなった」

 アシェリはヨブのほうを見ずに、正面の丘へと視線をやったまま、きれぎれに話しだした。

「もっともその前から、いつでも旅に出ていて、めったに村には立ち寄らなかったようだ。……風の民、というのだそうだ。俺のようにひとりで好きに旅をして回るのではなく、一族のすべてが一つところにとどまらず、つねに放浪しているのだという。それでもたまには顔をみせていたのだが、ある日を最後に、完全に消息が絶えた。行き先は、お袋も村のほかの連中も、まったく知らなかった」

 ヨブは黙ってうなずき、よけいな相槌をはさむことは控えた。アシェリが約束通り、この海を求めた理由を話しているのがわかったので。

 砂漠では、人はよく旅をするなと、アシェリはいった。

「とりわけ、あんたらのような商売人は。だが俺の故郷のあたりでは、人はめったに、旅などはしないものだ。どの父親だって、村の、すぐ近くの家に住んでいて、数日とあけず子どもらの顔を見に通ってくる」

 風が鳴り、二人の背中をゆったりと押していた。ヨブの知る限り、このあたりではいつも、風は海に向けて吹いている。アシェリは淡々と続けた。

「なぜ自分の親父だけが、いつまでも戻ってこないのか、なぜ遠くに旅に出る必要があるのか、俺にはわからなかった。近所のガキどもにもわからなかっただろう。お袋と俺は、親父から捨てられたのだと、皆が思っていたし、俺もいつからか、そう思っていた」

 小さく息をついて、アシェリは続けた。

「ずいぶんと時が経ち、やがてもう二度と戻ってはこないのだろうと、すっかり諦めた。俺はやがて、自らもあてのない旅に出るようになった。べつに、親父を探すという意識はなかったんだがな。だがそうなってみると皮肉なもので、最近になって、旅先で偶然、親父と同じ一族の人間に行きあったのだ」

 アシェリは言葉を切って立ち止まり、いっとき眼を閉じた。

「親父は最期に、この灼熱の海を目指したという。そうして煮えたぎる海へと入って、命を落としたらしいと、その人はいった」

 己の心臓が強く跳ねるのを感じて、ヨブは唾を飲み込んだ。だが、とっさに言葉は出てこなかった。アシェリはヨブの様子が変わったことに、気がついているのかいないのか、再び歩き出しながら、話を続けた。

「もし会うことがあれば、いってやりたい文句は山ほどあった。会えないままだったのは残念だが、もう死んだというものはしかたがない。せめて親父が最期に見た風景を、この目で見てみたいと、そう思った」

 丘のいただきを踏みしめると、足もとにはもう海が見えていた。

 アシェリは口をつぐんで、眼下に広がる光景を見つめた。ヨブもまた、蒸気の立ち込める水面へと、視線を向けた。海といっても、その全貌ぜんぼうが見通せるわけではない。もうもうと立ち上る白い蒸気の切れ間に、ときおりわずかに黒い波間がのぞき、月明かりを鈍く弾いている。

「……だが俺は、心のどこかで思っていたのだ。煮えたぎる海などというものは、面白おかしく誇張こちょうされた話に過ぎないのではないか。その光景を見たものがいるというのならば、そこにも人が生きて通る道があるのだろう。それならば案外、親父はその海を渡って、海の向こうにある別の天地を、呑気に旅でもしているのではないか。胸のどこかでは、そんなふうに思っていたのだ」

 そうした話を、いままであんたに出来なかったのは、なんのことはない。そんなわけがないといって、あっけなく否定されるのが、怖かったからだ。灼熱の海がどうしたものなのか、あんたはとっくに知っているはずだから。アシェリは力の篭もらない声で、そのようなことをいった。

 波の音が轟々とうなり、しかとは見定めがたい水の存在を、強く主張している。風が渦巻き、熱い蒸気が二人に吹き付けた。

 ふ、と息をついて、アシェリは顔をこすった。どうやら、自分のいったことを、笑いとばそうとしたようだった。だがその息は低く掠れて、いかにも力のない音にしかならなかった。

「だがこのような海に入って、人が生きていられるはずがないな」

 アシェリは言葉を途切れさせて、ふと思いついたように座り込むと、そのままじっと海を見つめた。夜になってさえもうもうと蒸気を吹き上げる、灼熱の海を。

 ヨブは黙って、その隣に腰を下ろした。小高い丘の上から見下ろしていると、とうの砕ける音が、轟々と地響きのように押し寄せてくる。立ち上る蒸気のせいで、ひどく蒸し暑かった。アシェリは黙り込んで、ただ爛々らんらんと光る目で、じっと海を見つめている。

 気が進まなかったが、確かめねばならなかった。ヨブは息を吸い込んで、重い口を開いた。

「お前の父親の名は、なんという」

 アシェリは振り返らないまま、力のない声で囁いた。

「イーハ。あんたたちのような、姓はない。ただのイーハだ」

 ああ。思わず漏れた息が、震えていた。ヨブは天を仰いで、手のひらで顔を覆った。

「その男をこの海まで連れてきたのは、俺だ」

 アシェリは振り返って、信じられない話を聞いたというように、ヨブを見た。それから言葉を捜して、何度か息を飲み込んだ。

「……だが、それにしては、あんたは若いだろう。親父が死んだのは、ずいぶん前のことだというぞ」

「ちょうど十年前のことだ」

 ヨブは答えて、眼を伏せた。アシェリの目を見て話せる自信がなかった。「俺は十五になり、ようやく一人前と認められたばかりだった」

 アシェリが絶句して己の横顔を見つめているのが、ヨブには見なくともわかった。

 波が砕ける音が響き、それに遅れて熱気が海より吹き戻ってくる。背後から吹き付けているのは、風ばかりだろうか。何者かの手のひらが、自分の背を海に向かって押しているかのように、ヨブには感じられた。

 やがてアシェリが、再び口を開いた。

「親父が死ぬところを、あんたは見たのか」

「いいや。だが……」

 言いよどんで、ヨブは唇を引き結んだ。それからゆっくりと、首を横に振った。

 問い詰めてくるかと思ったが、アシェリはどうしたことか、無言のまま、黒い海に視線を戻した。波頭がはじけて、蒸気を巻き上げる。風がときおり乱れて渦となり、また海に向かって吹きおりる。ただ座っているだけでも、のぼせそうに暑かったが、石のように動かないアシェリに付き合って、ヨブもじっと海を見つめていた。

 ヨブは言葉をさがして、話しあぐねた。何から話すべきか、どう話せばいいのか。語るべきことは、いくらでもあるような気がした。十年前、夜明けの名を持つあの男と、何について言葉を交わし、どんなふうにこの海までの道を辿ったのか。あるいはどのようにして、ひとりきりの帰路についたのかを。

 アシェリは父親について、何を知っていて、何を知らないのだろう。自分はあの男について、どれほどのことを知っているというのだろうか。

 考えれば考えるほど、言葉はみつからず、ヨブはじっと、何かを待った。何を待っているのかは、自分でもわかっていなかった。アシェリが口を開いて己を問い詰めるのをだろうか。あるいは夜が終わりに近づくのをか。

 だが、満月が中天を過ぎて緩やかに下り、やがて低い空に滑り落ちても、アシェリは口をきかず、ヨブが隣にいることも忘れたかのように、じっと海を見つめていた。

 その表情は、悲嘆ひたんに暮れているというには静かで、感傷に浸っているというには硬かった。

 気の済むまで待っていてやりたかったが、月がじきに沈もうかという頃になれば、そうもいっていられなかった。やがてヨブは立ち上がり、アシェリの肩を叩いた。

 アシェリは振り返らなかった。肩を叩かれたことにも、気づいていないかもしれない。それほど反応が薄かった。

「戻るぞ」

 ああ、と生返事をかえして、しかしアシェリは動かない。ヨブは月を見上げて、それから黒々とした水面を見た。さすがに蒸気はいくらか落ち着いて、海は、打ち寄せる波の動きが見て取れるほどになっている。

「どうしても離れがたいというのなら、いったん引き返して、また夜が更けてから来ればいい」

 帰り道を考えながら、ヨブはいった。食料の残りは心もとなかったが、幸い、洞穴まで戻れば水はある。だが、それでもアシェリは腰を上げなかった。ヨブは思わず、声を荒げた。

「お前が死に急ぐのは勝手だが、俺には待つ者たちがいる。こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ」

 アシェリは振り返らずにいった。「先に戻ってくれ。すぐに追いかける」

 そういって海を見つめる眼は、感情の読めない、奇妙な色をしていた。それが一瞬、十年前の記憶と重なって、ヨブはとっさにアシェリの肩をつかんだ。そしてほとんど怒鳴るようにいった。

「俺に二度、死にゆく友を見捨てさせる気か」

 はっと顔を上げて、アシェリはようやく振り返った。その鳶色とびいろの瞳に、自分の顔が映りこんでいるのを、ヨブは見た。立派な戦士だと胸を張ってはいえそうもない、情けない顔を。

 アシェリはゆっくりと目を伏せて、悪い、と呟いた。掠れた声だった。それからようやく腰を上げて、海に背を向けた。

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