5
岩砂漠に入って十日目の夜は、もはや寒くはなかった。あたりはむっとするような湿り気に包まれている。海が近づいてきたのだ。
ほんの数日前には、アシェリが夜の冷え込みに震えていたというのに、いまでは深夜になっても蒸し暑く、ともすればのぼせ上がりそうだった。
広大な岩砂漠は途切れ、足元はいつしか水を含んだ土へと変わっていた。風に流される砂でも、硬い岩の大地でもない。それはヨブにとって長いあいだ、世界の涯を象徴する、ひどく特異な光景だった。しかし、アシェリがやってきた砂漠の外では、ほとんどの地面はこのようにやわらかく湿って、風が吹いてもほとんど形を変えないのだという。
だがアシェリの語る大地には、数え切れないほど多くの草や木が、見渡す限り繁っているということだった。比べていま彼らの足元には、ただ赤茶けた土ばかりが延々と広がっている。
流れ落ちる汗を拭いながら、アシェリは辺りを見渡した。
「洞窟の中には苔が生えているのに、一歩外に出たとたん、草木の一本もないのだな。見れば地面は湿って、いかにも植物が芽吹きそうに見えるのに」
「夜でこそ、こうして外を出歩くこともできるが、昼間には湯を沸かす鍋の真上のように、熱い蒸気が満ちている。昨日の昼間にいた洞窟でも、ずいぶんと奥のほうまで潜っただろう。そうでもせねば、地上の熱気から逃れられないのだ」
「ここは、死の大地なのか」
妙に深刻な顔つきで、アシェリがそう囁いた。だが、ヨブは首を振った。
「いいや。まったく生き物がいないわけではない」
「沸き立つ鍋の上のようだという、地上にもか」
ヨブはうなずいた。嘘ではなかった。しかしいま、辺りは見渡す限り死のような静寂に包まれている。彼らの足音のほかは、風の音が響くばかりだった。アシェリは腑に落ちないという顔をして、もう一度、周囲を見渡した。
「だが、もう夜だというのに、まるで生き物の姿を見ないぞ」
「いまはな」
素っ気なくいって、ヨブはそれ以上の説明をしなかった。アシェリは首をひねったが、さらに重ねて問うことはしなかった。
一晩を歩きとおすと、赤茶けた崖に、縦に細長く切れ目が入っているのが見えた。細いといっても遠目に見ての話で、近づいてみれば、充分に人の通れる幅がある。ここは水や風の抉った洞穴ではなく、人の手で作られた空洞だった。
ここからまた少し西へ進むと、本当に塩の採れる場所がある。だが、そこまでのあいだには、もう天然の洞窟がない。正確にいうと、かつてはあったのが、五十年ほど前に落盤で、すっかり埋まってしまったのだという。それでヨブの遠い祖先たちが、繰り返しここまで足を運び、夜のわずかな時間を縫うようにして、長い時をかけて人工の洞穴を作った。
「ここが最後の中継地だ」
そういって、ヨブは洞穴の中に驢馬を押し込んだ。人の手で均一に掘られた洞穴には、かなりの奥行きと深さがあり、その奥では、岩壁から冷たい水が滲み出している。彼らは暗闇の中で水を汲んで、体を休めた。
涯の海まではもうわずかな距離だ。しかし、いまからすぐに発って、夜明けまでに戻ってくるには時間が足りない。もうひとつ昼をやり過ごして、次に陽が沈んでから出立することになる。
「それにしても、すごい霧だな」
アシェリが唸ったとおり、辺りは白い霧に満ちて、それは洞穴の中にまで忍び込んでいた。外に出たところで、もはや空に星の並びを正確に見出すことなど、望むべくもない。だがそれは、あらかじめわかっていたことだ。煮えたぎる海にほど近いこのあたりでは、いつでもあたりは霧に覆われている。その代わりに、濃い霧を透かして頭上に輝く月を頼りに、方角を知るのだ。そのために、満月の夜に到着するように日程を組まねばならなかった。
「ここまで来れば、海は間近だ」
「そうか」
アシェリの声音は、どういうわけか、沈鬱に沈んでいた。あれほど来たがっていた場所が、もう目の前だというのに。
量の少ない食事を終えると、ヨブは壁にもたれかかって眼を閉じた。
アシェリは、まだこの地を目指した理由を、話してはいない。問いただすべきか、ヨブは迷った。銀に用がないというのならば、理由など何でもかまわなかった。だが長は、それでは納得しないだろう。
しかし、どこか思いつめたように沈黙しているアシェリに向かって、無理に問い詰めることもためらわれた。
迷ううちに、いつしか眠りに落ちていたらしい。やがて頬をなでる湿った風に起こされて、ヨブは体を伸ばした。洞穴にふたたび、白い霧が流れ込み始めている。夜がやってきたのだ。
それからさらにしばらくの時を、二人は腹ごしらえをしながら待った。洞窟の奥深くでは、霧はただ湿っているばかりだが、外の熱せられた蒸気がほんとうに冷めるまでには、時間がかかる。
干した果物は、最後のひとつを半分ずつにわけた。干し肉はまだ余裕があるが、人里のある場所に戻るまでのあいだ、帰り道の食事は、味気のないものになるだろう。
やがて無言で身支度をして、ヨブは不安げに鼻を鳴らす驢馬の背を、なだめるように叩いた。そして自ら背負ってきた荷物のほとんどを、そのそばに置いて、水の袋とナイフだけを腰に括りつけた。
「こいつは、置いてゆくのか」
「目指す場所までは、じきだ。水だけを持って出ればいい。驢馬は、帰りに迎えに来る」
説明すると、アシェリが同じように支度をする物音がした。
二人は無言で洞穴を後にした。空を仰ぎ、丸い月の形と崖の地形とを見比べてから、ヨブは慎重に一歩を踏み出した。このような霧の中では、方向感覚はすぐに狂う。月と、おぼろげに見える地形だけが頼りだった。
頻々に空を見上げながら歩くうちに、やがてほとんど何年ぶりかに嗅ぐ潮のにおいが、ヨブの鼻をくすぐった。濃い霧と前方の丘とに遮られて、まだ海はこの目に見えないが、あとは時間の問題だった。
やがて、低くどうどうと響く音が、霧を越えて二人の耳に届き始めた。それは、地下洞窟にいるときにはるか足元から聞こえる音にも、どこか通じるものがあったが、それよりもさらに低く、そしてゆったりとした強弱があった。
「
アシェリは呟いて、耳を澄ませた。ヨブは驚いて、勢いよく連れの横顔を振り返った。それが潮騒だとわかるからには、同じ音を、かつて聞いたことがあるに違いなかった。
「お前は、海を見たことがあるのか」
「ああ」
アシェリはあっさりとうなずいた。
「それならば、いったいなぜ道案内などが必要だったのだ」
ヨブが納得のいかない思いを抱えて問うと、アシェリはかぶりを振った。
「俺が知っているのはもっと北の、冷たい海だ。見たかったのは、ここの海なのだ。ほかのどの海辺でもない、砂漠の涯の、灼熱の海だ」
その声は、砂に
アシェリがかつて見たという、煮えたぎっていない海、北の冷たい海というものを、ヨブは想像しようとしてみた。だが叶わなかった。ヨブにとって海とは、いつでもぐらぐらと沸き返り、蒸気を吹き上げて先の見通せない、黒い水の
そして、見たかったというわりには、海辺に近づくにつれてアシェリの足取りは鈍く、重くなるようだった。それにつきあって、ヨブもまたゆっくりと歩いた。
霧の向こうに透ける真円の月が、ぼんやりとした明かりを夜に投げかけている。辺りには潮騒と、二人ぶんの足音が響くばかりだった。
「あんたに鳥の名をつけたという親父さんは、どんな人だ」
突然、アシェリがそのようなことを聞いてきて、ヨブは面食らった。
「さて。よくは知らないのだ。俺が生まれる前に、死んだというから」
そうかとうなずいて、アシェリは何かいいよどんだ。
「そら。あの丘を越えれば、海が見える」
おぼろげに霞む前方の丘を、ヨブが指さして見せると、アシェリは立ち止まり、その指の先をじっと見つめた。それから再び重い足を動かして、ゆっくりと歩き出した。
「俺の親父は、俺がまだほんのガキの頃を最後に、顔をみせなくなった」
アシェリはヨブのほうを見ずに、正面の丘へと視線をやったまま、きれぎれに話しだした。
「もっともその前から、いつでも旅に出ていて、めったに村には立ち寄らなかったようだ。……風の民、というのだそうだ。俺のようにひとりで好きに旅をして回るのではなく、一族のすべてが一つところにとどまらず、つねに放浪しているのだという。それでもたまには顔をみせていたのだが、ある日を最後に、完全に消息が絶えた。行き先は、お袋も村のほかの連中も、まったく知らなかった」
ヨブは黙ってうなずき、よけいな相槌をはさむことは控えた。アシェリが約束通り、この海を求めた理由を話しているのがわかったので。
砂漠では、人はよく旅をするなと、アシェリはいった。
「とりわけ、あんたらのような商売人は。だが俺の故郷のあたりでは、人はめったに、旅などはしないものだ。どの父親だって、村の、すぐ近くの家に住んでいて、数日とあけず子どもらの顔を見に通ってくる」
風が鳴り、二人の背中をゆったりと押していた。ヨブの知る限り、このあたりではいつも、風は海に向けて吹いている。アシェリは淡々と続けた。
「なぜ自分の親父だけが、いつまでも戻ってこないのか、なぜ遠くに旅に出る必要があるのか、俺にはわからなかった。近所のガキどもにもわからなかっただろう。お袋と俺は、親父から捨てられたのだと、皆が思っていたし、俺もいつからか、そう思っていた」
小さく息をついて、アシェリは続けた。
「ずいぶんと時が経ち、やがてもう二度と戻ってはこないのだろうと、すっかり諦めた。俺はやがて、自らもあてのない旅に出るようになった。べつに、親父を探すという意識はなかったんだがな。だがそうなってみると皮肉なもので、最近になって、旅先で偶然、親父と同じ一族の人間に行きあったのだ」
アシェリは言葉を切って立ち止まり、いっとき眼を閉じた。
「親父は最期に、この灼熱の海を目指したという。そうして煮えたぎる海へと入って、命を落としたらしいと、その人はいった」
己の心臓が強く跳ねるのを感じて、ヨブは唾を飲み込んだ。だが、とっさに言葉は出てこなかった。アシェリはヨブの様子が変わったことに、気がついているのかいないのか、再び歩き出しながら、話を続けた。
「もし会うことがあれば、いってやりたい文句は山ほどあった。会えないままだったのは残念だが、もう死んだというものはしかたがない。せめて親父が最期に見た風景を、この目で見てみたいと、そう思った」
丘の
アシェリは口をつぐんで、眼下に広がる光景を見つめた。ヨブもまた、蒸気の立ち込める水面へと、視線を向けた。海といっても、その
「……だが俺は、心のどこかで思っていたのだ。煮えたぎる海などというものは、面白おかしく
そうした話を、いままであんたに出来なかったのは、なんのことはない。そんなわけがないといって、あっけなく否定されるのが、怖かったからだ。灼熱の海がどうしたものなのか、あんたはとっくに知っているはずだから。アシェリは力の篭もらない声で、そのようなことをいった。
波の音が轟々とうなり、しかとは見定めがたい水の存在を、強く主張している。風が渦巻き、熱い蒸気が二人に吹き付けた。
ふ、と息をついて、アシェリは顔をこすった。どうやら、自分のいったことを、笑いとばそうとしたようだった。だがその息は低く掠れて、いかにも力のない音にしかならなかった。
「だがこのような海に入って、人が生きていられるはずがないな」
アシェリは言葉を途切れさせて、ふと思いついたように座り込むと、そのままじっと海を見つめた。夜になってさえもうもうと蒸気を吹き上げる、灼熱の海を。
ヨブは黙って、その隣に腰を下ろした。小高い丘の上から見下ろしていると、
気が進まなかったが、確かめねばならなかった。ヨブは息を吸い込んで、重い口を開いた。
「お前の父親の名は、なんという」
アシェリは振り返らないまま、力のない声で囁いた。
「イーハ。あんたたちのような、姓はない。ただのイーハだ」
ああ。思わず漏れた息が、震えていた。ヨブは天を仰いで、手のひらで顔を覆った。
「その男をこの海まで連れてきたのは、俺だ」
アシェリは振り返って、信じられない話を聞いたというように、ヨブを見た。それから言葉を捜して、何度か息を飲み込んだ。
「……だが、それにしては、あんたは若いだろう。親父が死んだのは、ずいぶん前のことだというぞ」
「ちょうど十年前のことだ」
ヨブは答えて、眼を伏せた。アシェリの目を見て話せる自信がなかった。「俺は十五になり、ようやく一人前と認められたばかりだった」
アシェリが絶句して己の横顔を見つめているのが、ヨブには見なくともわかった。
波が砕ける音が響き、それに遅れて熱気が海より吹き戻ってくる。背後から吹き付けているのは、風ばかりだろうか。何者かの手のひらが、自分の背を海に向かって押しているかのように、ヨブには感じられた。
やがてアシェリが、再び口を開いた。
「親父が死ぬところを、あんたは見たのか」
「いいや。だが……」
言いよどんで、ヨブは唇を引き結んだ。それからゆっくりと、首を横に振った。
問い詰めてくるかと思ったが、アシェリはどうしたことか、無言のまま、黒い海に視線を戻した。波頭がはじけて、蒸気を巻き上げる。風がときおり乱れて渦となり、また海に向かって吹きおりる。ただ座っているだけでも、のぼせそうに暑かったが、石のように動かないアシェリに付き合って、ヨブもじっと海を見つめていた。
ヨブは言葉をさがして、話しあぐねた。何から話すべきか、どう話せばいいのか。語るべきことは、いくらでもあるような気がした。十年前、夜明けの名を持つあの男と、何について言葉を交わし、どんなふうにこの海までの道を辿ったのか。あるいはどのようにして、ひとりきりの帰路についたのかを。
アシェリは父親について、何を知っていて、何を知らないのだろう。自分はあの男について、どれほどのことを知っているというのだろうか。
考えれば考えるほど、言葉はみつからず、ヨブはじっと、何かを待った。何を待っているのかは、自分でもわかっていなかった。アシェリが口を開いて己を問い詰めるのをだろうか。あるいは夜が終わりに近づくのをか。
だが、満月が中天を過ぎて緩やかに下り、やがて低い空に滑り落ちても、アシェリは口をきかず、ヨブが隣にいることも忘れたかのように、じっと海を見つめていた。
その表情は、
気の済むまで待っていてやりたかったが、月がじきに沈もうかという頃になれば、そうもいっていられなかった。やがてヨブは立ち上がり、アシェリの肩を叩いた。
アシェリは振り返らなかった。肩を叩かれたことにも、気づいていないかもしれない。それほど反応が薄かった。
「戻るぞ」
ああ、と生返事をかえして、しかしアシェリは動かない。ヨブは月を見上げて、それから黒々とした水面を見た。さすがに蒸気はいくらか落ち着いて、海は、打ち寄せる波の動きが見て取れるほどになっている。
「どうしても離れがたいというのなら、いったん引き返して、また夜が更けてから来ればいい」
帰り道を考えながら、ヨブはいった。食料の残りは心もとなかったが、幸い、洞穴まで戻れば水はある。だが、それでもアシェリは腰を上げなかった。ヨブは思わず、声を荒げた。
「お前が死に急ぐのは勝手だが、俺には待つ者たちがいる。こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ」
アシェリは振り返らずにいった。「先に戻ってくれ。すぐに追いかける」
そういって海を見つめる眼は、感情の読めない、奇妙な色をしていた。それが一瞬、十年前の記憶と重なって、ヨブはとっさにアシェリの肩をつかんだ。そしてほとんど怒鳴るようにいった。
「俺に二度、死にゆく友を見捨てさせる気か」
はっと顔を上げて、アシェリはようやく振り返った。その
アシェリはゆっくりと目を伏せて、悪い、と呟いた。掠れた声だった。それからようやく腰を上げて、海に背を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます