6
一晩中座っていたせいか、アシェリはいくらか足元がふらつくようだったが、それでも自分で歩き出した。
「大丈夫か」
歩きながら訊くと、アシェリはちらりと笑ってみせた。
「当たり前だ。べつに何も、薄情者の親父のあとなど、追うつもりはなかったさ。親が子のために命を懸けるというならわかるが、子が死んだ親のあとを追うなど、馬鹿げているにもほどがある」
そういう口調は、もとのあっけらかんとした調子を取り戻していた。
丘を越える前に、アシェリは一度だけ海を振り返った。じきに陽の光を受けて再びぐらぐらと沸き返るだろう、
急いで引き返すうちに、薄くなった霧越しに、東の空が端のほうから赤みがかってゆくのが見えた。それもじきに白へと色を変えて、辺りは徐々に明るくなってゆく。途中からは走りに走って、二人は驢馬を置いてきた洞穴を目指した。話をする余裕もなかった。
あと少しというところで、二人は太陽に追いつかれた。正面、洞穴のある崖の上から、白い鮮烈な
「急げ!」
いわずもがなのことを叫んで、走る速度を上げたヨブは、アシェリが何かに気を取られて足を緩めたことに気がついた。
「あれは、なんだ」
アシェリが指さした先で、霧の合間の地面が
説明する余裕はなかった。ヨブは怒鳴った。
「いいから走れ!」
走る二人の足元で、大地から緑の
草が次々と芽吹いていく。その周りを飛びまわる、虫のようなものも、流れてゆく視界の隅をよぎった。驚きにアシェリが息をのむのが、ヨブの耳に聞こえたが、かまってはいられなかった。
洞穴の周りには、出るときには見かけなかった緑の草々が、朝陽を受けて葉を揺らしている。その上を駆け抜けて、二人は洞穴に飛び込んだ。
それまでの眩しい光景とうってかわって、洞窟の中は暗かった。乱れた呼吸が収まるまで、二人はいっとき、無言で肩を上下させていた。
奥のほうで驢馬がいななくのが、かすかに聞こえている。
「さっきの草、あれは、なんだったのだ」
「いっただろう、この辺りにも、命がないわけではないのだと」
ヨブは言葉を切って、歩きながら水を飲んだ。喉がひどく渇いていた。アシェリはといえば、疲れよりも驚きが勝つのか、見えるはずもないというのに、何度も入り口のほうを振り返っている気配がした。
俺も詳しいわけではないが、と前置きして、ヨブは説明した。
「あれはどうやら、ああした植物なのだ。普段は地の中に隠れている。だが、ふつう草木というものは、陽の光がなくては生きられないものだろう。だから夜明けの、まだ辺りが灼熱の大地へと変わる前のわずかな時間だけ、外に顔をのぞかせるようだ。次の日に外に出ると、すっかり枯れきって土にまぎれ、元の姿の想像もつかない」
アシェリはいっとき沈黙していたが、やがてぽつりと呟いた。「あの断崖にも、同じような草が生えるのだろうか」
ああ、多分な。うなずいて、ヨブは驢馬の足元においていた荷から、食料を取り出した。あの場所で夜明かしするつもりなどなかったから、一晩何も食べていない。ひどく空腹だった。
包みを押し付けると、アシェリは黙って暗闇のなかで、それを手元に引き寄せた。硬くなったパンを、水で喉の奥に押し込むようにして、二人は食事をとった。
「さっき、あの草の生えていた場所を覚えたか。発つときに、少し掘ってゆこう」
「どうするんだ」
「食うのさ。地面の下の茎に、こぶのような芋がある」
へえ、と感心して、それからアシェリは少し笑った。「空腹も忘れていたようだ。今ごろ腹が減っている」
「そうだろうな、あの様子では」
呆れて見せてから、ヨブは水を飲み、そして息を吸い込んだ。今度は、話すべきことは自然に口から滑り出てきた。
「ずいぶん、寡黙な男だった」
途端に、アシェリが神経を張り詰めてこちらの話を聞いている気配が、暗闇の中で感じられた。ヨブは語り急がないようにと、つとめてゆっくり話し出した。
イーハという名は、夜明けという意味だと、あの男はいった。たしかに砂漠の夜明けを思わせる、濃い青の眼をしていた。涯の海を見たいという、その理由については、
ただ、そうだな。後になって思えばひどく顔色が悪く、それに、
最初にいったが、とにかく口数の少ない男だった。こちらから何か話しかければ、じっくり考えて、言葉少なに返事をした。砂漠の旅には、あまり慣れていないようだった。まだ若造の俺から、あれこれと頭ごなしに指図をされても、ちっとも気を悪くする様子がなく、真剣に耳を傾けていた。
あの男も俺の名を、いい名だなといった。
言葉こそ足りなかったが、それは
俺はあの男のことが、嫌いではなかった。お前の故郷でどうかはしらないが、そうした人間、行動で語る男は、砂漠では尊敬されるものだ。ああ、そうだな。誰にもいったことはなかったが、俺はあの男に、憧れていた。
お前もそうだったように、イーハはこの海辺に近づくにつれて、ますます口数が少なくなっていった。あのとき、あの男はいったい何を考えていたのだろうか。あとになって何度も考えてみたが、いまでもよくわからない。
イーハはこの涯の海までやってくると、さっきの丘よりもさらに先、あともう一歩を踏み出せば真っ逆さまに落ちるだろうという、断崖の
夜明けの色をした眼は、海面ではなくその向こう、涯の海のさらに果てを見通そうとしているかのように、俺の目には映った。どうせ蒸気のせいで、何も見えはしないというのにな。
海の向こうに、いったい何があるのだろうな。あのような恐ろしい場所の先に、見るべきに値するような何かが、果たしてあるのだろうか。
お前も、呆れるほど食い入るように、海を見ていたな。あれは、父親の面影ばかりを探していたのではあるまい。
蒸気の吹き上げる海を見つめたまま、あの男は夜明けが迫っても、腰を上げなかった。何をどういっても、俺が
ぎりぎりまで俺はその場にとどまって、あの男を説得しようとした。だがイーハは何をいっても、頑として耳を貸さなかった。殴り飛ばして、無理やりかついででも連れてゆこうかと思ったが、大の男、それも自分よりもよほど体の大きな男をかついで、陽の昇る前に戻ることなど、到底できないと思った。だからといって、一緒に死んでやるわけにはいかなかった。
俺は友を見捨てて、夜の海辺に背を向けた。
次の晩、再びあの海辺に戻って、俺は誰もいない崖を見た。あの男の座っていた場所のすぐそばまでいってみたが、そこには、あの男がいたという何の
あの夜明け、友を置いてひとり逃げながら、
あの笑みの意味が、お前にわかるのならば、俺に教えてくれないか。イーハの息子よ。
暗闇に慣れた目に、アシェリがゆっくりと首を振ったのが映った。長らく会ったこともない父親の心がわからずとも、当然のことだ。ヨブは短く謝って、口を閉じた。
息子がいるということを、イーハは話さなかった。このような地の果てで、たったひとりで最期のときを迎えるよりも、なぜ故郷に帰って、この男に顔をみせてやらなかったのだ。ヨブは十年越しに、胸のうちで友の面影に呼びかけたが、当然ながら暗闇の中からは、何の答えも返ってはこなかった。
「さあ、もう休め。外が冷えたら、今夜は出立を急ぐぞ。芋も掘らねばならないからな」
「ああ、そうだな」
そういってすぐに横になったわりには、アシェリはなかなか眠れないようだった。硬い岩の上で何度も寝返りをうつ気配を、ヨブは聞いた。
「寝付けないのなら、驢馬の腹を枕にして眠るといい」
見かねてそう声をかけると、返事は返ってこなかったが、黙ってそのようにする気配があった。
暗闇に沈む岩天井をみつめながら、ヨブは十年前の帰途を思い出していた。
ひとりきりでオアシスに戻ったヨブに向かって、長は厳かにうなずいて、よくやったと、そういったのだ。
俺は殺してはいないと、ヨブはいった。だが長は、わかっているとうなずいて、満足そうに微笑むばかりだった。その眼を見て、それ以上の言葉を、ヨブは飲み込んだ。
長は、ときにぞっとするほど冷酷になる。しかしそれは、
だがそれでもあのとき、ヨブは声を上げていいたかった。俺があの男を殺したのではないと。
帰りの道もまた、長かった。同じだけの日数をかけて岩砂漠を越え、オアシスを辿らなくてはならない。ヨブは星を見上げながら、胸のうちで旅立ってからの日数を数えた。
アシェリはもとの陽気な男に戻り、道々、見かける生き物や、星の名前など、思いつく端からヨブに訊ねた。
「それにしても、わかったようなことをいいたくはないが……」
話が途切れたとき、ヨブは前置きをして、それからいった。「父親というものは、勝手なものだな」
己の口からこぼれ出てみれば、言葉はあまりにも
北の空には、ほのかに赤みをおびた《
だがアシェリは、思いのほかに静かな声で、話の先を促してきた。「あんたが生まれる前に死んだという親父さんのことか」
ヨブはかぶりを振った。残されるわが子のことを思いもせずに、さっさと死んでしまう男たちのことも、勝手といえば勝手に違いなかったが、頭にあったのは、そのことではなかった。
「いいや。俺は、
言いよどんで、ヨブは唇を湿した。それから続けた。
「俺の父親は、戦で死んだ男ということになっている」
それは、部族の人々の前では口に出来ないことだった。だが、いや、だからこそ、この男に聞いてほしいような気がした。
「だが、皆が知っている。それでは計算が合わないということを。そして長が、夫を失ったばかりの母のもとを、何度となく訪れたことも」
「では、あんたに名前をつけたのは……」
ヨブは皮肉に笑って、アシェリの言葉をひきとった。「いつか息子が生まれたら、ヨブと名づけよう。そう話していたという、亡き夫がつけた名を、母はそのまま、不義の子へと与えたのだ。そ知らぬ顔をして」
オアシスで帰りを待つ老母の顔を思い浮かべながら、ヨブは眉を寄せた。
「女が外を出歩くのが当たり前だと、お前がそういったとき、俺はそのことを馬鹿にしたな。だが、女を家の中に隠したところで、何のことはない、それでも俺のようなものは生まれる」
驢馬が水を求めて、顔をすり寄せてきた。ヨブは休憩にするぞといって、まだ熱のなごりの残る岩の地面に腰を下ろした。
火を
「いいや、だんだんその苦いのが、くせになってきた」
アシェリは笑ってそういった。部族に独特の、とびきり香りの立つやり方で珈琲をいれながら、ヨブは軽い調子を作っていった。
「それにしても、女とは怖ろしいものだ。口を
「ははあ。どのような土地にいっても、そればかりは変わらないものか」
ヨブの意図につきあって、アシェリは声を立てて笑った。それからやはり苦そうに、珈琲をちびちびと舐めた。
「しかし、お前たちのように女が家を継ぐのであれば、相続には争わずに済むかもしれないな」
「いや、どこでもそうしたことは、こじれるものさ。女が生まれず、家が絶えることもあるし」
アシェリはそういって、にやりとした。「じつは俺のところが、まさにそうだ。生きている間に、片付け方を考えておかねばなるまいよ。とはいえ、あるのは小さな家がひとつばかりだ。まあ、娘にやってしまうだろうなあ」
面倒ごとのようにいいながらも、目を細めるアシェリの声は、楽しげなものだった。
「なんだ。お前、娘がいるのか」
あきれてヨブがいうと、アシェリはうなずいて、北の空を仰いだ。そちらに故郷があるのだろう。
「ああ。まだほんのガキだが。そろそろ一度戻って、顔をみせてやらねばなるまいな。ふ、しばらく見ない間に、でかくなっているんだろうなあ」
まったく父親というのは、つくづく身勝手なものだ。アシェリはヨブのいった言葉を繰り返して、くつくつと喉で笑った。
「それならば、さっさと帰ってやれ」
呆れ混じりにそういいながら、ヨブはため息をついた。アシェリはそうだなと笑って、顔を上げた。
「お、あれはなんだ」
アシェリが指さしたのは、遠い崖にのぞく、古い廃坑の入り口だった。もう使われていないもので、特別に知られて困るものでもない。ヨブは説明してやりながら、つくづく呆れた。
「それにしてもお前、そのように好奇心をむき出しにしていては、嫌がられることも、物騒な目にあうこともあるだろう。興味のないふりも肝要だぞ。秘密を探られたくないものは、ときに過剰なほどに、慎重を期するものだ」
そう言いきかせると、アシェリはにやりとした。
「ああ、あんたも、何度か物騒な顔をしたものな」
ヨブはぎょっとして、思わず顔をこすった。
「そうか?」
「ああ。……だが俺は別に、あんたらの秘密だかお宝だかに、興味はないぜ。何を隠したがってるのかは、まあ、聞かないほうがいいんだろうな」
両の掌をひらひらさせて、アシェリは人の悪い笑い方をした。思わずため息をついて、ヨブは首を振った。
「お前は案外、油断のならないやつだな」
アシェリはからからと笑って立ち上がり、外套の土ぼこりを払った。
迷った挙句、ヨブはファナ・イビタルよりもひとつ手前のオアシスで、アシェリと道をわかつことにした。
長が、アシェリを生かして連れ帰ったことをどう受け止めるか、そのことを考えたとき、心配はいらないと説得できるだけの自信はなかった。長が話を信じた振りをして、その晩にアシェリの枕元に
本来であれば、砂漠の旅は隊商とともにゆくのが一番安全だ。危険な獣もいれば、道に迷うおそれもある。信頼の置ける商人に渡りをつけて、砂漠の外まで安全にゆけるように、交渉してやりたいところではあった。
だがヨブはアシェリに星の辿り方と、食料や水の
満天の星空の下、荷を担ぎなおしながら、アシェリはいった。
「案内人が、あんたでよかった」
親父の話も聴けたことだしなと、アシェリはそんなふうに笑って、
「気をつけてゆけ」
「ああ。また会おう」
そういって手を差し出したアシェリに、ヨブは思わず苦笑した。もう会うこともないだろうに、それでもそのようにいうのが、砂漠の外の
「このあたりでは、こういうのだ。星の導きが、お前とともにあるように、と」
アシェリは
何度となく振り返りながら、アシェリは宵闇に包まれた砂漠の道なき道を、ゆっくりと遠ざかっていった。
その姿が遠く離れ、とうとう見えなくなると、ヨブは驢馬の背を叩いて、自らの帰るべきオアシスへと足を向けた。それから胸のうちで独りごちた。さて、怪訝な顔をするだろう長へと、下手な話を聞かせてみせねばなるまいな。あの男が秘密をかぎつけて
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