四日後、五つ目にたどりついた地下洞窟は、ほかとくらべて、ずいぶんと広さがあった。水音も、遠くでひっきりなしに響いている。身体を休めようと横になりながらも、その音が気になるのか、アシェリはなかなか寝付けないようだった。何度も身じろぎするせいで、そばにいる驢馬が落ち着かず、迷惑そうに耳をぴくぴくさせている。

 ずいぶん口数の多い男だと思っていたが、目的地が近づくにつれ、なぜかアシェリの口は、少しずつ重くなっていくようだった。この日はとうとう、歩きながらほとんど何も話さなかった。

 それでもさすがに、やってこない眠気をもてあましたのか、アシェリはほとんど何時間ぶりかで、ものげに口を開いた。

「この奥には、何があるんだろうな」

 その問いに、ヨブは闇の中で険しく目を細めた。それでも声に警戒を出さないように、努力を払いながら、なんでもないように答えた。「滔々とうとうと流れる、冷たい水が」

「この空間は、どこまで続いているんだろうか。途中ですっかり水に埋まってしまうのか」

「さてな。……奥へ入ってみようなどと思うなよ。命の保障はできないぞ」

「あんたは、ずっと奥までいってみたことがあるのか」

「いいや。だが、こういう洞窟の奥には、ときに蛇ばかりではなく、人を襲う獣がいる」

「こんな、日も射さない闇の中にか」

 アシェリは驚いたようだった。ヨブは相手に見えないことを承知でうなずいて、重々しくいった。

「そうだ。目でものを見るかわりに、鼻と耳が利く。鋭い牙と爪を持つ、凶暴な獣だ」

 ヨブは話しながら、自らも闇の奥に目を凝らした。

「足元がもろくなっている場所もある。砂漠の地下水脈は、地上のようすからは想像もつかないような激流だ。落ちれば、ひとたまりもないぞ」

「見てきたようにいうのだな」

 ひやりとしながら、それを声音に出さないように、ヨブは言葉を返した。

「いくつもの話が、語り継がれているのだ。砂漠に暮らすものならば、幼い子どもでも聞き知っている」

 へえ、と感心してみせる声が、いくらか元の明るさを取り戻したようだった。「なにか、聴かせてくれるか」

 アシェリのその言葉に、他意はないように思われた。

「俺はあまり、よい語り手ではないが」

 そう前置きして、ヨブは少し考えた。それから語り始めた。砂漠の地下洞窟に広がる、暗闇について。



 真アディス暦で九八一年のことというから、三百年あまりも昔の話になる。ああ、そうだ。十六と半月で一年だと教えたな。つまりは月が、五千も満ち欠けするほどの遠い昔のことだ。

 いまはとうの昔に枯れた南東部のオアシス、ファナ・ノーヴィスに暮らしていた部族の若者が、遠路えんろはるばるこの南の岩砂漠まで、五人のぜいを率いてやってきた。いや、いま俺たちがいるこの洞穴ではないだろう。正確な位置は知られていないが、おそらくはもっと東のほうの地下洞窟ではないかと思う。

 五人の手下を率いてきた男の名は、イ・ハイダル。まだ十七歳の――成人してさほどたたない歳若い者で、その部族の長の、三番目の息子だった。

 彼は二人の兄に比べれば腕が立たず、学も劣るということで、父である長からは、つねづね軽く扱われていた。それで何とかして功を上げ、その目に留まろうとしたのだな。

 しかしあいにくというべきか、長く戦がない時期が続いていた。当たり前にしていては手柄の立てようもない。それでイ・ハイダルは男たちを従えて、新しい道を拓こうと思った。我々の部族が見つけたような質のよい塩か、そうでなければ砂漠のどこかに眠っているかもしれない、何らかの新しい資源を求めて。

 だがこの岩砂漠を生きて通ろうと思えば、いま俺たちがそうしているように、日のないうちに次の洞穴へとたどりつかねば、まず命はない。しかし彼らは初めてその土地に足を踏み入れたのだし、夜更けまであてもなく彷徨さまよい、あるかないかもわからない洞穴を探さねばならなかった。それも、身を潜めて陽を避けるに充分な深さのものでなければ、意味がない。そうした場所が見つからなければ、夜明けまでに急いで引き返すよりほかはない。

 それだけでもイ・ハイダルの手下たちにとっては、貧乏くじであったのに、さらに、この若者は血気盛んで、年若いものにありがちなように、無謀さをこそ勇敢な男の証だと思い込んでいた。

 彼らは最後のオアシスを拠点に、夜毎に岩砂漠を歩きとおしては、そのたびに肩を落として引き返した。また次の夜には、何の確信もないままに、前の夜と違う方角へと向かう。そのようにして、十日目の夜更け、ようやく彼らは最初の水場を見つけた。

 それは長い長い地割れの跡で、まるで地面を切り裂く巨人の爪あとのようだったという。その底に、苦労して体をひねってようやく入れるほどの隙間が、ぽっかりと暗い口を開いていた。

 彼らが行き当たった洞穴には、かなりの奥行きがあるようだった。地下洞窟の中には、入ってすぐに水に埋もれてしまうところもあれば、かなりの距離にわたって、長い空洞が続いている場所もある。地下洞窟を抜けて、別の地上の出口につながっている場所も、中にはまれにあると聞く。そうした道を見つければ、夜明けのせまるのを恐れることなく、長い距離を稼げるかもしれぬ。見つけた洞穴の奥へ奥へと、イ・ハイダルは進んでいった。連れてきた男たちが引き止めるのも聞かず、手には雄雄しく松明を持って。

 ああ、俺は洞穴の中で、火を使わないだろう。炎はこうした暗闇の中で、多くの危険を退けるものでもあるが、その反面、ひどく危険な場合もあるのだ。地下にはごくまれに、火薬のような性質を帯びた空気が、よどんでいることがあるから。

 いまこの場所がそうであるように、イ・ハイダルの入ったその洞穴でも、遠く足元より、水音がと響いていた。その音を聞きながら歩くうちに、とつぜん何かが崩れる音がして、男たちの一人の姿が、一瞬にしてほかの五人の視界から消えた。ひきつれたような悲鳴が暗闇の中で長々と響きわたり、その声は急激に遠ざかりながら、やがて水音にまぎれて消えた。

 イ・ハイダルが松明を足元によせると、そこには黒い穴が、ぱっくりと口をあけていた。その先は果てのない奈落の闇で、落ちた男の姿どころか、水面が松明の光を反射することさえなく、形のあるものは何ひとつ見出すことはできなかった。

 残る四人の男たちは怖気づいたが、イ・ハイダルは仲間の犠牲を無駄にする気かといって彼らを叱咤し、さらに洞穴の奥へ奥へと足を進めた。

 やがてイ・ハイダルは、足に激痛を覚えて悲鳴を上げた。驚いた男たちが、ハイダルの足元に駆け寄ると、そこには目のない小さな蛇がいて、ハイダルの脛に、服の上からしっかりと牙を突き立てていた。

 怒って蛇をつかみ、打ち殺して投げ捨てたハイダルは、なに、大したことではないと強がって、また歩き出した。蛇が思いのほかに小さかったことに気づいて、大げさな悲鳴を上げた己を恥じたのだろう。大またに歩んでゆくハイダルの背を追いかけながら、男たちは顔を見合わせて肩をすくめた。

 いっとき歩くと、道は二股に分かれていた。壁に手をついて、左手の道へと彼らは進んだ。そちらから、より強く水音が響いたように思われたからだった。

 どれほど歩き続けた頃だろうか、やがて四人の手下のうち、二人が突然よろめいて、ほとんど倒れこむように、その場にうずくまった。

 その段になってイ・ハイダルは、手にもつ松明の火が、ひどく暗くなっていることに気がついた。長さは充分にあり、湿気しけっているわけでもないというのに。

 地下に溜まる毒気の中には、火薬のような働きをするものもあれば、なんの臭いもせずに、ただ静かに人の息を止めてしまうようなものもある。そうした空気は、ときに炎を弱める働きをするものだ。

 まだ歩ける三人があわてて仲間の肩を支えて、彼らは道を戻りにかかった。そして、先の分岐のところまで来たところで、支えてきた二人を地面に横たえると、ひとりはじきに顔色を戻したが、ひとりはもう二度と、目覚めなかった。

 そこで残った手下のひとりが、泣き言を漏らした。命あってのものだねだ、このような場所に長くとどまるべきではない。一刻も早く引き返そう。そうしないというのなら、もうあんたの指図には従わないと。

 だが、イ・ハイダルはなかなかうなずかなかった。もう一方の右手の道をゆけば、その先は豊かな水場につながっているかもしれない。しかしすでに二人を失ったあとのことだし、ほかならぬハイダルの足も、ひどく膨れ上がっていた。蛇の毒が回ったのだ。それにもかかわらず、ハイダルは右の道を、そこから続くかもしれない栄光を、諦めきれぬようだった。いや、本音のところでは、彼も引き返したかったのかも知れない。だが意地が、彼を引き止めていた。

 ほかの二人の男たちは、顔を見合わせて、どうしたものか決めかねた。二人とも、本音のところでは引き返したかったし、ハイダルへの忠誠心もさしてあったわけではないが、しかし彼の父親のことは恐ろしかった。

 だが結果的に、彼らはその道をゆくことはできなかった。右手の道から、低いうなり声が響いたのだ。

 あっと思ったときには、風がイ・ハイダルの頬をなでていた。その次の瞬間には、死したる男の亡骸が、彼の腕の中から失われていた。

 何が起きたのか、誰にもわからなかった。やがて暗闇の中に、ふたつの青白い光が見えた。それは白濁はくだくしたふたつの目であり、ものが見えているとも思えないにもかかわらず、あやしく輝いて、彼らのひとりひとりを見据えた。

 やがてどさりと音がして、何かを食いちぎる濡れた音が、闇の中から響いた。それから、固いものを噛み砕く音が。ようやく男たちの誰かが悲鳴を上げると、化け物はゆるりと足を動かして、松明の光の届くところへと姿をあらわした。

 それは獅子に似た、大きな獣だった。獅子よりは小柄だが、その牙は異様なほどに尖っていた。口元がてらてらと血に濡れているのが、彼らの目にもよく見えた。逃げねばならぬとわかっていても、彼らの足は凍りついたようにその場から動かなかった。

 自分のわがままにつき合わせて、すまないことをした。突然ハイダルが口にしたその言葉の内容を、手下の者たちが理解したときには、彼はすでに走り出していた。出口ではなく、怪物のいるほうへと向かって。

 それでもまだ三人は、動かなかった。己の目で見ているものが、理解できなかったのかもしれない。彼らは立ちすくんだまま、化け物の牙がイ・ハイダルの肩に喰らいつくのを見た。そして部族の若い英雄が、必死の形相ぎょうそうで怪物の首を締めようとするところを。

 逃げろ。しぼり出すようなその声にされて、ようやく三人は駆け出した。

 地割れの外に顔を出したとき、満月が彼らの頭上に輝き、それはとうに中天をすぎて、ゆっくりと下ってゆこうとしていた。急いで、オアシスまで引き返さねばならなかった。旅立ちが遅れれば道半ばにして夜が明け、灼熱の太陽が彼らを焼くだろう。次の晩まで留まれば、化け物が次なる獲物を求めて、暗闇の底から這い出してくるだろう。

 命からがらオアシスまで逃げ延びた若者たちは、次の晩、大勢の男たちを引き連れて、くだんの洞窟を目指した。だがそこで彼らが見たものは、首をへし折られて息絶えた盲目の獣と、その巨大な首にしがみつき、目を見開いたまま冷たくなっている、イ・ハイダルの亡骸だった。

 うなだれて自分たちのオアシスまで戻った三人の若者は、長の足元に這いつくばって詫び、彼の息子の勇敢なる死を伝えた。厳格なことで知られた長は、彼らの話を聞き終えて、滂沱ぼうだの涙を流したという。それから、死して面目をほどこした末の息子のために、壮麗そうれい墓碑ぼひを築き、そこに彼の物語を刻ませた。

 いまもその碑は、水枯れて人の住まなくなったファナ・ノーヴィスの地に、変わらずそびえている。



「あんたはうまい話し手ではないといったが」

 ヨブが語り終えると、アシェリはそういって、息を吐いた。「それが本当なら、砂漠の人々はそろって、語りの名手なのに違いない」

 大仰おおぎょう賛辞さんじを聞き流して、ヨブは水で唇を湿らせた。

「これくらいは、道で寝ている乞食でも語るだろうさ。そのあたりのオアシスで聞いてみればいい。砂漠の地下洞窟にまつわる危険ならば、百と語り継がれている」

「他の話も、聞かせてもらいたいところだが」

 あんがい世辞でもなさそうに、アシェリはそういったが、ヨブは首を横に振って、体を横たえた。

「いや、今日はよしておこう。もう休んだほうがいい。明日は今日よりも、もっと早く歩かねばならない」

 アシェリの影は、いっときのあいだ暗闇の奥を見据えるようにしていたが、じきに横たわった。

 ヨブは自分が語った話を振り返り、暗闇の中で苦笑した。語りつがれる話のうちの半分は事実であり、残りの半分は、このあたりの地下洞窟から人を遠ざけるために、故意に広められた話だった。

 地下道の中には実際に、毒の空気に満ちた空間もあれば、足元の脆くなった場所もある。蛇や盲目の獣も、ところによっては実際にいる。だが、それはよく道に通じているものならば、どうあっても避けて通れぬたぐいの危険ではない。

 いま彼らがいる洞窟もまた、ずっと奥へと続いている。そして、険しく長い道には違いないにせよ、複雑に分岐する迷宮のような道を、正しく辿ることさえできれば、その先には、秘された入り口がある。この洞穴もまた、エルトーハ・ファティスまで通じているのだ。地下深くに眠る、銀の鉱脈へと。

 同胞とともにその道を通り、かの町に住まう人々と荷をとり交わしたことが、ヨブにはある。

 あの場所に住む人々は、壁にまばらに生えたヒカリゴケと、蝋燭の明かりのほかには、地上のわずかな亀裂から差し込むごく弱い陽射ししか知らない。瞳の色が薄く、夜目が利くのか耳がよいのか、暗がりの中でもまるでよくものが見えているかのようにふるまう。

 はるか昔に一族からわかたれた、遠い血族けつぞくたち。眼の色ばかりか、話す言葉の抑揚よくようまでもが異なる、近しくて遠い人々の姿を、ヨブは暗闇の中で思い浮かべた。かの地へ続く道をかたく秘するべしという掟には、オアシスに暮らす同胞の利益ばかりでなく、彼らの安全もまた、かかっているのだ。

 ヨブは己が語った物語の、若くして命を落とした男へと思いを馳せた。命を賭して己の愚かさを償った息子を、滅びた部族の長は、涙を流して惜しんだという。それまで軽んじられていたイ・ハイダルは、命を失ってようやく父親の関心を引いた。

 暗闇の中で、ヨブはいっときのあいだ身じろぎもせずに横たわっていた。暗闇の中は息苦しく、わかっているなと念を押した長の眼の色が、何度となく瞼の裏にちらついた。

 ヨブは神経を張り詰めて耳を澄ませ、アシェリの寝息が深くなるのを待って、ようやく浅い眠りについた。

 そうして長い昼のうちに何度も目覚めては、アシェリが姿を消していないかをくりかえし確かめながら、きれぎれの夢の中に、十年前の旅路をかいま見た。あのとき、たった一人で辿った帰途、果てしないように思われた、長い道のりを。

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