途中で一度だけ、砂嵐が激しく足止めをくらった晩があったが、そのほかではごく順調な道行きだった。

 いくつものオアシスを転々と辿たどりながら、南西へ進んでゆくにつれて、砂はいっそう熱さを増す。やがては夜になっても、かなりの時を待たねば、靴をいた足が焼けると思えるほどに。

 各地のオアシスを辿りながら、十二夜をかけて歩いたところで、延々とひろがっていた砂の海は、ひび割れた赤い大地へと変わった。南西の岩砂漠、人の住まぬ不毛の大地だ。

 宙を舞う細かな砂がない分、空はくっきりと澄んで、北の砂漠では見わけることのできない暗い星までが目に映る。空を見上げて、ヨブは目を細めた。流星が南の空へふたつ続けて、尾を引いて落ちていく。

 新月を過ぎて、いまは徐々に月が膨らんでゆく時期にあたる。アシェリがつられたようにあおめた半月を見上げ、ふとため息を漏らした。

「それにしても、不思議なものだ。土地が変われば、月がのぼる高さどころか、色まで変わる。これほど青い月を、俺は初めて見るぞ」

 ヨブは黙って肩をすくめた。案内人としては、この先の道のほうがいっそう神経を使うのだが、岩砂漠に入ってから、アシェリの足取りは、むしろ軽くなったようだった。

「この先には人里がない。辛い道になるぞ」

 そう告げても、そうかとうなずくばかりで、アシェリは不平の一言も口にしない。それがヨブには、意外なように思えた。

「しかし、そういうわりには、水はあまり積まなかったのだな。食糧はずいぶんと、多めに買い込んだようだったが」

 アシェリは不思議そうにいって、荷を運ぶ驢馬の黒い瞳を覗き込んだ。

「ああ。水場を辿ってゆくからな。だが、人の住む町はない」

「水があるのに、住む者がいないのか」

「夜にしか外を歩いていないから、実感が湧かないかもしれないが、ここまでくればもはや、短い時間ならば太陽の下に出ていられるというような土地ではないのだ。人などあっという間に、焼け死んでしまう」

 そのような土地に人は住めまい。そうヨブが説明すると、アシェリはへえ、と感心したような声を上げて、足元を指さした。

「だが、獣や虫はいるようだ」

 その指の先には、赤茶けた毛皮のねずみがいた。器用に虫をつかまえて食べていたのが、こちらの視線に気づいて耳をぴくりとさせると、あっという間に走り去ってしまった。

「砂漠では、夜のほうが賑やかだな。ああしたやつらは、昼間はどこにいるのだろう」

「砂の中に。岩陰に。あるいは地の底に」

「地の底?」

 聞き返されて、ヨブは思わず苦笑した。この男と話していると、まるで小さな子どもにものを教えているようだった。とりわけものを知らないことを、ちっとも恥ずかしがらないところが。

「そうだ。砂漠の地下には、水脈があるといっただろう。地面の下にはところどころ、水に削られた空洞がある。そういう場所を辿って、ここから先の道をゆくのだ」

「日中を、地下にもぐってやり過ごすのか」

「ああ」

 ヨブがうなずくと、ひどく感心したように唸って、アシェリは顎をこすった。

「そういう場所は、たくさんあるのか」

「まれだ。だから、正しく辿る道を知らなければ、このあたりの土地を生きて通ることはできない」

 二度うなずいて、アシェリは遥かにけぶる地平線を、見通すような目をした。ここから海が見えるわけでもあるまいが。

 夜も更けた頃、ヨブは少し休息をとろうといって足を止めた。驢馬にも荷を下ろさせて座ると、赤い大地はすでに熱を失っており、二人の尻を冷やした。

 熱い珈琲を沸かし、塩の欠片を舐めるあいだ、アシェリはいっとき無言で座っていたが、やがてぽつりと問いかけを落とした。

「海までは、あとどれほどだ」

「九夜を歩けば、その次の夜の早い時間には、海をのぞむ場所へ出る」

 ヨブは断言した。砂嵐はここまではやってこない。また、精確な日程と道のりを辿って、かならず陽の昇る前に次の地下洞窟まで辿りつかなければ、どのみち灼熱の陽に焼かれて死んでしまう。

 熱い珈琲を、苦そうにちびちびと舐めながら、アシェリはふと思いついたように、話を蒸し返した。

「なあ、このあたりに人里は、まったくないのか」

「そういっただろう」

 呆れたように答えながら、ヨブはひやりとするものを胸のうちに覚えた。

「そうか。そうだよなあ」

「なぜ、こんな不毛の大地に、人が住むと思うのだ」

 穏やかならぬ内心を押し殺して、ヨブは訊いた。

「あんたが道をよく知っているから」

 アシェリはなんでもないようにいって、辺りを見渡した。「用もないのに、こんな遠くの土地まで、道を知り尽くしている必要はないだろう」

「塩を取りにくるのだ」

 用意していた言葉を口にして、ヨブはアシェリの表情を観察した。だがいくら見ても、言葉以上の他意をそこに見出すことはできなかった。

「目的の海辺からは少し離れるが、よい塩が採れる場所がある。だがそこは、我々の聖地でもある。けして盗もうなどと思うなよ。神罰が下るぞ」

 嘘ではないが、事実のすべてでもないことを告げて、ヨブは厳しい目を向けた。だがアシェリは肩をすくめて、あっさりと笑いとばした。

「盗むもなにも、あんたが道を教えてでもくれないかぎりは、俺はそこにたどりつけもしないだろうさ。それに、あんたらにとって塩は貴重品かもしれないが、ほかのたいていの土地では、それほど高価なものでもない」

 そんなふうに答えたアシェリの表情は、こちらの言い分をまるきり信じているように、ヨブの目には見えた。

 真実は、塩どころの話ではなかった。もしもアシェリが、聖地の真実を知り、あるいは探るそぶりを見せようものならば、それなりの手段に出ねばならなかった。長の冷ややかな眼を思い出して、ヨブは暗澹あんたんたる思いをもてあました。

 秘された聖地の名を、エルトーハ・ファティスという。いま彼らがいるこの場所から、歩いてほんの数日の距離に、その場所への入り口がある。

 ヨブはアシェリに、こんな場所に人は住めないといったが、それは地上の話だ。地下深くには何千人という人々が、身を寄せ合って暮らしている。

 彼らは遥か遠い過去にイビタルの一族から分かれた、遠い遠い血族だ。豊かな水を湛える暗がりの町で暮らす彼らと、毎年さだめられた日にファナ・イビタルから訪れた商隊とは、ひそかに荷のやりとりをする。

 なぜ聖地の存在が、固く秘されなければならないのか。人々がなぜそうまでして、このような不毛の地に隠れ住まなければならないのか。

 エルトーハ・ファティスでは、尽きせぬ銀が採れるのだ。



 明け方まで間もない時刻に、二人は最初の地下洞窟の入り口へとたどりついた。

 ひたすら平坦な地面にときおり岩の転がる、広大な岩砂漠の中で、その辺りだけ地面にいくつも亀裂が入り、あるいは突如盛り上がって崖を為している。その崖にひび割れが開いて、そのまま奥深くまで続いていた。

 こうした洞穴には天然のものもあれば、かつて掘られた鉱脈のなごりもある。この場所は前者だった。

 最後のオアシスから距離があったため、ふたりはこれまでの旅路よりも、早足で歩かねばならなかった。旅の前半では、アシェリのほうが疲れをあらわにしていたのだが、打って変わって、いまではヨブよりよほど余裕があるように見える。それがヨブには意外に思えたのだが、訊けば、アシェリはあっさりと笑って説明した。これまでは砂に足をとられることに慣れていなかったため、体力を消耗したのだという。なるほど、もともと世界じゅうを旅してまわっているというだけのことはあった。

 空の端はもう白みかかっている。驢馬を先にくぐらせてから、洞穴の入り口で、ヨブはふと立ち止まった。

「どうした」

 怪訝そうな声を上げるアシェリを、ヨブは手で制した。

「少し待て。長くはかからない」

「急がなくて大丈夫なのか。陽射しは危険なんだろう」

「そうだが、夜が明けた直後までは、まあ大丈夫だ。地面が熱せられるまでに、少しは間があるから」

 なるほど、とうなずいて、アシェリは首をかしげた。

「ならばいいが、いったい何を待っているんだ」

 ヨブは答えず、入り口の岸壁にもたれて空を見あげた。

 断ったとおり、長くは待たなかった。じきにヨブは、白みがかった空の端を、無言のうちに指さした。アシェリが顔を上げて、その指の先を見つめる。

 白い影がいくつも、薄明はくめいに包まれた空を切り裂くようにして、空を横切っていく。最初に三羽。あっというまにそれらが通り過ぎていき、そのあとを、次の四羽が追いかけてゆく。数羽ずつの小さな群れとなってやってきた鳥たちは、はるか地平線の彼方へと、次々に吸い込まれていく。

「あの鳥がヨブだ」

 アシェリは空を見上げたまま、眩しげに目を細めた。

「きれいな鳥だな」

 鳥たちの姿はじきになくなり、二人はひび割れの奥へ向かった。洞窟は、ゆるやかな下りの勾配こうばいになっている。中は暗闇で、入り口から遠ざかると、すぐに足元が危うくなる。ひとりずつ、岩壁に手をつきながらゆっくり進まねばならなかった。

 岩肌はひんやりと湿っていた。さらに奥のほうでは、かすかに水音が響いている。先に入らせた驢馬は、陽の届かない場所でおとなしくうずくまっていた。砂漠に生まれた獣の本能で、いわれずとも太陽の恐ろしさを知っているのだろう。

 暗闇の中で軽く食事を済ませて、驢馬のそばで待っているようにアシェリへ言い残すと、ヨブは手探りで奥に向かった。少し距離はあるが、それでも歩いて下れるところに、細い水の流れがある。

 二人ぶんの皮袋に水を満たして、ヨブは何度も暗闇の中を往復した。次の水場まで、ここで汲んだ水でもたせなくてはならない。

 やがてじゅうぶんな量を汲んだところで、ヨブも腰を下ろし、体を休めた。先に眠っていたかと思ったアシェリは、岩壁に背中をもたれかけさせて、水音に耳をすませていたようだった。

「不思議なものだ。外はもう、灼熱の大地へと変わっているのだろう。さっきの鳥たちは、どうやって生きているのだろうか」

 まだどこか心を空に残したような声で、アシェリが呟いた。

「あの種類は、翼が強い。この目で見たわけではないが、話にきくところによると、焼け死ぬ前に砂漠の上空を抜けて、さらに遠くの空まで飛んで行くのだそうだ」

 へえ、と感心したようにいって、アシェリは笑った。「いい名前じゃないか」

 洞窟の中は暗すぎて、ヨブにその表情は見えなかったが、目じりに皺を寄せて笑うそのようすが、目に浮かぶような気がした。

 この妙な男を気に入っている自分に、ヨブは気がついていた。そしてそれは、けして都合のいいことではなかった。もし、アシェリが聖地の存在をかぎつけたとして、果たして自分にこの男を殺せるのだろうか。ヨブは自問したが、答えは見出せなかった。

「なぜお前は、灼熱の海などを見たいというのだ」

 ほとんど切実な思いで、ヨブは何度目かの問いを口にした。

 アシェリは笑ってごまかす代わりに、言葉を探しあぐねるような沈黙を置いた。何度か、なにかを言いかけては、口ごもる。

 どうか話してくれと心のうちに念じながら、ヨブは待った。何か、俺が納得し、安心してお前を連れ帰ることができるような、そういう理由を聞かせてくれ。

「もう少し」やがてアシェリは、ぽつりといった。「もう少しして、海が見えたなら、そこで話そう。いまはまだ、どうにもうまい言葉が見つからない」

 そうかと答えて、ヨブは嘆息たんそくをこらえた。

 ヨブは眠る前に、自分の荷を引き寄せた。香料を取り出して、壁にこすり付ける。闇になれた目が、かすかにものの影を捉えている。真暗闇に見えても、入り口の亀裂からの光が壁に弾かれて届くのだろう。

「何か、妙なにおいがするな。薄荷はっかのような……」

 アシェリがいって、落ち着かないように影が揺れた。

「我慢しろ。蛇よけの香だ」

 へえ、と感心したように相槌をうって、いっとき沈黙してから、アシェリは感慨深げに呟いた。

「蛇というものは、どこにでも仲間がいるのだなあ。山の中しかり、水の中しかり……」

 何にそれほど感心するのかわからなかったが、ヨブは口をはさまずに、アシェリが話すに任せて耳を傾けていた。

「俺は実際にやってくるまで、砂漠というものは、もっと生き物のいない、不毛の地だと思っていた。だが、人は大勢住んでいるし、ちゃんと虫も獣も、蛇までいる。セスはさすがに、いないだろうなあ」

「セスとはなんだ」

「水の中の生き物だ。蛇のような鱗があって、蛇ほど細長くはない」

「ああ、魚のことか」

 いるのか、と驚いたような声を上げたアシェリに苦笑して、ヨブはいった。

「いるさ。なんなら帰りにオアシスの水を、のぞいて見るといい。ただし、水泥棒に間違えられないよう、気をつけることだ」

 話しながら、この男を連れてファナ・イビタルへ戻るつもりでいる自分に気がついて、ヨブは暗闇の中で目を伏せた。


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