翌日は風がなかった。砂は舞い上がらず、空がよく澄んでいる。その分だけ陽射しはより強く、二人は予定よりも日が傾くのを待ってから宿を出た。

「それにしても、砂漠に入って以来、女の姿をほとんど見ないな。いてもガキか、婆さんばかりだ。いったい女たちはどこにいるのだ」

 アシェリがそんなふうにぼやいたのは、市場で食料を買い込んでいる最中だった。固焼きパンと引き換えに、店主へ銅貨を渡しながら、ヨブは振り返らずに答えた。

「女がおいそれと外を出歩くものではない」

「そんな話があるものか。夜中だとでもいうならわかるが、まだ空も明るいのに」

「陽が高かろうが、若い女が、男のいる場所に姿を見せるものではない。そのようなことをするのは、娼婦くらいのものだ」

 ヨブが苦々しくいいきると、アシェリは唖然として、手にしていた荷を取り落としかけた。だがヨブは、男の無知を笑いはしなかった。北の国々では、女たちが顔を晒してそのあたりの道を歩いているところもあると、前に聞いたことがあったからだ。眉唾ものの話だと、耳にしたときには思ったが、アシェリの様子からすると、それも本当のことなのだろう。

「では、どうやって暮らすのだ。水を汲むのは。日々の買い物は」

「売りにくる。それで足りなければ、子どもか下男でも使いに出すだろう」

 それを聞いたアシェリは、頭を振ってため息をついた。

「なるほどなあ。女たちを家の中に隠しているというわけか。値の張る持ち物をそうするように」

 その口調は、皮肉めいてはいなかったが、ヨブは思わず顔をしかめた。

「では訊くが、お前たちは自分の女にそのあたりを出歩かせて、平気だというのか。どこの誰とも知らない男の、目に付くところに」

 くくっと喉の奥で笑って、アシェリはいった。

「なるほど、賢いやり方なのかもしれないな」

 言葉としては肯定だったが、納得したというような口調でもなかった。それからふと思いついたように、アシェリは問いを重ねた。

「それでは、貧しい男たちはどうするのだ。女を家で遊ばせておくような、資産のない男は」

「そのような男に、妻を娶る資格などあるはずがない。小金があるときに、安い娼婦でも買うだろうさ」

 財のある男は何人でも妻を持つのが当然のことだし、逆にそれだけの男でなければ、父親もなかなか娘をやりたがらない。食料を買い込む合間に、ヨブがそう説明すると、アシェリは理解し難いというように、首を降って肩をすくめた。

「娘をやる、というのがまずわからん。女とは、やったりもらったりするものではないだろう」

「では、お前の故郷ではどうするのだ。妻を娶らなければ、子は。家は誰が継ぐのだ」

「ふつうは男も女も、己が生まれた家で一生を終えるものだ」

 アシェリはあっさりとした調子でいった。「女はその家で子を産んで育てる。その顔を見るために、男はせっせと女のもとへ通う」

 あまりの話に、ヨブが言葉をうしなう番だった。アシェリはため息交じりに付け加えた。

「いっておくが、俺の故郷だけではないぞ。いままで見てきた限りでは、そういう国がほとんどだった」

 その家にあまりに女ばかりが生まれすぎるようなら、家を分けるか、養女に出されることもあるが。そう説明しながら、アシェリは未練がましく、女の姿のない雑踏を見渡した。

「しかしそれではいったい誰が、女たちを食わせるのだ。親兄弟か」

「男がわざわざ食わせずとも、女たちは勝手に食うさ」

 なんということもないようにアシェリはいい、ヨブはとっさに天を仰いだ。

 女に外で働かせるなどということは、男にとって、恥以外のなんでもない。戦や病で稼ぎ手を失えば、女もやむに止まれず酌婦もやろうし、体も売ろう。気の毒な話とはいえ、しばしばあることだ。だがアシェリにとっては、女が働くというのは、むごいことでも何でもないようだった。

「山あいの、畑だの織物だので食っていくような村ならば、女たちのほうが、男よりもよほど働く。まあそうした按配は、土地ごとに違うものだが」

 ヨブは首を振って、それ以上の質問を差し控えた。聞けば聞くほど、頭の痛くなるような話だった。

 妻たちが自分の知らない間に出歩いて、気軽にほかの男と口を訊くところを思い浮かべて、ヨブは己の想像に勝手に腹を立てた。



 風がない分、昨夜よりいっそう星明かりが眩しかった。その中を歩きながら、アシェリは砂漠の暮らしについて、飽きずにあれこれと質問をかさねた。それにひとつずつ答えてやりながら、それにしても口数の多い男だと、ヨブは面覆いの下で苦笑した。

 やがて夜ふけになり、背後から上ってきた月に照らされて、二人分の影が細く伸びた。自分の影と、その横でより長く落ちる連れの影を見ながら、そういえば十年前のあの男も、アシェリと同じようにひどく背が高かったと、ヨブはふとそのことを思った。

「砂漠の外では、みなお前のように背が高いのか」

 アシェリはさて、と首をかしげた。

「俺はまあ、故郷のほかの連中と比べれば、かなり背のあるほうだったが。しかし、土地によってさまざまのようだ。ずっと北のほうの土地には、まるで巨人のような大男たちがいるからなあ」

「まるでおとぎ話だな」

 半信半疑でそう返すと、アシェリは笑ってうなずいた。「遠い国の話というのは、そのように聞こえるものだ」

 砂漠は広い。異なる三つの言葉を話す何百万もの人々が、四つの国と五十を越える部族にわかれて、各地の水場に点在するように暮らしている。いま目指している南西の海岸をのぞけば、まるで涯がないように思えるが、その砂漠にも限りがあるのだという。そのことに、ふと眩惑されるような思いがして、ヨブは首を振った。

「世界は、砂漠をいくつも集めたよりも、ずっと広いのだというが」

 ヨブの呟きに対して、アシェリはどこか厳かな調子でうなずいた。ヨブはいっとき無言で、砂漠よりも広い大地というものを、想像してみようとしたが、じきに諦めた。途方もない話だ。

「この砂漠では、太陽や月は、ほとんど頭の上を通るだろう」

 アシェリが突然、そのようなことを言い出したので、ヨブは面食らった。怪訝な思いを隠しもせずに、それでもいちおううなずいて見せると、アシェリは楽しそうに目を輝かせていった。

「では、北にゆけばゆくほど、その通り道が低くなるのを、あんたは知っているか」

 この問いにも、ヨブはうなずいた。南北へ旅をすると、月や星の高さはわずかに変わる。地平線の向こうに隠れて見えなくなる星もある。そのようなことも知らずに、砂漠の旅などできようはずがない。

「へえ、さすがは旅人の国だな。俺の故郷では、誰ひとりその話を知らず、何をいっても信じようとはしなかった。俺はあの村では、頭のおかしい男だと思われているのだ」

 そういうわりには、それを気に病むふうもなく、アシェリはさも可笑しそうにくつくつと笑った。

「それではあんたは、さらにどこまでも北を目指すと、その涯にはどのような場所があるか、知っているか」

「冷たい海があるのだろう」

 聞きかじりの知識でヨブが答えると、アシェリは笑って首を振った。「そのさらに北だ」

 ヨブが降参の意味で首を振ってみせると、アシェリはにやりとした。

「北の涯の、そのさらに最果てまでゆくとな、そこには太陽の沈まない国があるのだそうだ」

「なんだ、馬鹿馬鹿しい」

 ヨブは一蹴して、真面目に話を聞いた自分の馬鹿らしさに腹を立てた。

「信じないか」

「信じられるはずがないだろう」

 ヨブがいうと、アシェリはあっさりとうなずいた。

「そうだな。俺も実は、まだ信じられない。自分の目で見たわけではないからな。だが、いつかは行って、確かめてみたいものだ」

 そういうアシェリの目は、楽しげに輝いている。その少年じみた表情を見て、ヨブは首をひねった。外見からは自分と同じ年頃のように見えていたが、もしかするとこの男は、思っていたよりも若いのではないかという気がした。

「お前、歳はいくつだ」

「歳?」

 鸚鵡返しに聞き返されて、ヨブはまさか、と思った。

「お前、自分の歳も知らないのか」

「歳というのは、いったいなんのことだ」

 ヨブは目を剥いた。異国の者だけに、ただ単に歳という単語を知らないだけかとも思った。

 だが、何度か訊き方を変えてみても、アシェリは困ったように首をかしげるばかりだった。ヨブは恐る恐る質問を変えた。

「まさかお前たちの土地では、自分が生まれてから何年が経ったかを、数えないのか」

「待ってくれ。年、というのはなんだ」

 絶句して、ヨブは目の前の男の顔をまじまじと見た。だが、そこにはとぼけてみせるような調子は、まるで見当たらない。

「……空の星は時間が経つにつれて、ゆっくりと空を巡るだろう。あの位置が、日を追うごとに少しずつずれていくのは知っているな」

 もちろんだといって、アシェリはうなずいた。そのことにいくらか安堵しながら、ヨブは続けて確認した。

「では、月が満ち欠けするのを十六と半分かぞえると、星の位置がすっかりもとに戻るということも、知っているだろうな」

 ヨブとしては、まさかというつもりで訊いたのだが、アシェリの相槌はあろうことか、「へえ、そうなのか」という呑気なものだった。

 とっさに言葉を失って、ヨブは額を押さえた。アシェリは感心したように唸って、空の星を目で追いかけている。

「お前によほど学がないのか、それともお前の故郷では、誰もそのことをしらないのか」

 訊くと、アシェリは困ったような顔をした。

「俺はたしかに、学問がない。だがこれまでどこの国を旅していても、そのようなことを真剣に数える人々を見たことがなかった。ただ、砂漠に住む人々が数を大変に重んじるというのは、たしかに耳にしたことがある」

 日が何度昇り、月が何度満ち欠けしたか。そうした以上の長い単位で時を数える必要を、これまでに感じたことがなかった。アシェリはあっさりとそんなふうにいった。

 確かに、砂漠の暦はほかのどの場所のそれよりも、はるかに優れているのだという話は、どこかで聞いたことがあった。だが、そもそも暦を数えない人々がいるということは、ヨブの想像の外のことだった。

 いっとき打ちのめされてから、ヨブは唸った。

「学問は俺にもないが、それにしても暦くらいは、子どもにでも読めるだろう。お前はいくつもの土地を旅してきたというが、暦を知らずに、どうやって星を読むというのだ」

 ああ、とアシェリはうなずいて、急にわかったような顔になった。何を納得したものか察しがつかず、ヨブが眉をひそめていると、アシェリは面白がるような目をして説明した。

「きっと、それだよ。この砂漠では、星をよく読まなければ旅ができない。だからあんたたちの間では、そうしたことが重んじられるのだろう」

 いっていることの意味がわからず、ヨブが聞き返そうとしたとき、急に強い風が吹いて、驢馬がいち早く身を伏せた。

 彼らはいっとき足を止めて、その場で姿勢を低くした。砂が舞い上がり、激しく体を打つ。ヨブは面覆いを引き上げて、しっかりと目を閉じた。アシェリが咳き込むのが、風の音にまぎれて聞こえる。

 やがて風が止むと、彼らは立ち上がって目を開けた。服を手で払い、顔についた砂をぬぐう。足元には、つい先ほどまでとはまるで違う風紋が広がり、やってきたときの足跡は、すっかり砂に埋もれてしまっている。方角を確かめるために空を仰ぐと、《七の導きの星》は空の端で、ほとんど沈みかかっていた。

 アシェリが顔についた砂をこすりながら、話の続きをはじめた。

「ほかの土地では、何も星を読まなくとも、旅はできる。前後左右、どちらを見ても同じような景色というのは、砂漠の外ではそうそうないものだ。たいていもっと、地形がはっきりしている」

 歩きながら、アシェリは説明した。驢馬の手綱を引きながら、ヨブは信じられないような思いでその話を聞いた。

「だが、歳を数えないというのなら、お前の郷の男たちは、どうやって兵役につくのだ」

 その質問に、アシェリは妙な顔をした。

「俺の故郷か。ほかの人里からずいぶんと離れた小さな村で、役人がわざわざ兵士を募りにくるような場所ではなかった。だが、そうだな、俺がこれまで立ち寄った土地では、たいてい兵隊には、なりたいものがなるようだったが」

「なりたくないものがいるのか」

「いるさ、そりゃあ」

 ごく普通のことをいうように、アシェリはいった。「あんたらは違うのかい」

「当たり前だ。そんな臆病者がいるはずがない。いるとすれば、それは男ではない」

 あきれ果てて、ヨブは吐き捨てるようにいった。アシェリは反論せず、小さく口の端を上げて、感心してみせた。

「そうか。砂漠の男は皆、戦士なのか。そいつはすごい」

 言葉自体は賛辞だったが、その声は本気の調子ではなかった。ヨブは憮然として問い返した。

「それではお前たちの土地では、敵に攻め込まれたら、どうするのだ。兵士でない男は、女子どものように、敵から逃げ惑うのか」

 そうだなあ、と首をひねって、アシェリはいった。「まあ、逃げるやつもいるだろうし、いざとなれば鍬でも持って、なりふりかまわず戦うやつもいるだろうな」

「ろくな訓練も受けずにか」

「そうとなればな」

 アシェリはうなずいて、それから小さく笑った。

「でも、まあ、俺の故郷では、戦に巻き込まれることなど、まずないからなあ。なんせ、貧しいところだから」

 のんびりとそういって、アシェリは目をこすった。砂が入ったのだろう。面覆いをきちんとつけていないからだとヨブは思ったが、それよりも、話の内容のほうが気になった。

「そんな土地が、あるのか」

「ある。奪ってもうまみのない土地というものは、けっこうどこにでもあるものだ。そんなところにでも住む人間はいる、というべきだろうかな。……ここらでは、戦は多いのか」

「戦など、珍しくもない。水が枯れればすぐだ」

「よそのオアシスを襲って、水を奪うのか」

「ほかにどうする。移住できるような距離に、ほかの水源があるならば、話は別だが」

 だがそのような場所は、めったにあるものではない。ヨブがそう続けると、アシェリは何か、考えこむようだった。顎を撫で、鬚の中に絡んだ砂をつまみながら、いっとき沈黙していたが、やがて口を開いた。

「金を払って、分けてもらうことはできないのか」

 面食らって、ヨブは目をしばたいた。連れの男の正気を疑いかけたが、アシェリの表情を見る限りでは、どうやら真面目にいっているらしかった。

「隣のオアシスが枯れたということは、地下水脈の動きが変わったということだ。こちらのオアシスも、じきに枯れる可能性がある。そのようなときによそものに水を分けて、自分の一族を渇かせる危険をおかす長など、そういるものか。いるとすれば、よほど金に目の眩んだ愚か者だ」

「そういうものか」

 アシェリは納得しがたいように首をひねって、遠く、地平線を見渡すような仕草をした。そんなことをしても、砂漠の遥か地下の水脈が、透けて見えるわけでもないだろうが。

 やがてふたたび風が吹いて、砂が舞い上がり始めた。今度は足を止めねばならないほどのものではなかった。砂が目や口に入らぬよう、ヨブは面覆いを上げて、足を速めた。

 歩きながら、ヨブは渇きを恐れずにいられる世界に思いをめぐらせた。いつでも雨が降り、女たちが自由に外を出歩く土地。年月を数えることを知らぬ人々の暮らすという土地に。

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