夜明けを告げる風


 ちょうどいまごろが、一年でもっとも星明かりの眩しい時節だ。ヨブはめざす南西の空を見上げて目を細めた。

 満天の星空の中、下弦の月が天頂をすぎて、ゆっくりと沈みゆこうとしている。西寄りの低い空、ふたつ並んで青白い光を放っているのは《七の導きの星タ・ディハル》。その位置を頭の中で暦と照らし合わせて、ヨブは夜明けまでの時間を数えた。今夜は少し、急いだほうがいいかもしれない。

 ヨブが歩調を早めると、忠実な驢馬は何の不満もみせずに従ったが、人間の連れのほうは、そうはいかなかった。

「急ぐのか」

 ひびわれ、枯れた声だった。慣れないせいで砂を吸い込んでしまうのだろう、歩きながら、ときおり不器用に咳き込んでいる。

「日干しになりたくなければな」

 ヨブが素っ気なく答えると、連れの男は苦笑をひとつ漏らして、急ぎ足になった。砂を踏む音に、疲労がにじんでいる。

 見れば、男は歩きながら震えていた。外套を羽織りなおして、男は白い息を吐いた。「寒いな」

 ヨブは肩をすくめた。これくらいは寒いうちに入らない。

「これほど寒いというのに、ひとたび陽が昇れば灼熱の地になるとはな。この目で見ても信じられない」

 そう呟いて、男は目をしばたいた。

 何を当たり前のことを、といいかけて、ヨブは言葉を発する前に気がついた。砂漠の外は、そうではないのだろう。

 男は砂漠のはてよりさらに遠く、はるか北の土地からやってきたのだという。砂漠に外というものがあることを、ヨブは知識として知ってはいるが、そのことが身に迫って感じられたためしはない。それほどヨブの知る砂漠は広大だった。不毛の海をのぞむ、南西の断崖を別にすれば。

「お前のくにでは、夜は冷えないのか」

 退屈しのぎのつもりでそう訊くと、男は真面目な顔でうなずいた。

「もちろん、昼間に比べれば少しは冷える。だが、これほどではない」

 それから男は目を細めて、故郷の話をした。男の生まれた町は、山の中腹にあるのだという。怪訝けげんな顔をしたヨブに気づいて、男が補足したところによると、山というのは、巨大な砂丘のようなものらしかった。ただし砂ではなく、湿った土と岩とで出来ており、その斜面には数え切れないほどの草木が繁っているという。人々は石と煉瓦れんがではなく、伐り倒した木で家を作る。

 その話の何から何までが、ヨブには眉唾まゆつばもののように思えた。このあたりでは、雨は二月か三月に一度も降ればいいほうだし、木というものが、建物の材になるほど太く育つというのが、まず信じられない。

 だが口を挟みはせずに、ヨブは黙って男の語る風景に耳を傾けた。男がひどく楽しげに、それを語ったからだ。痩せた麦から丁寧に実を外す、年寄りたちのしわぶかい手。高くそびえる樹々の、こずえに繁るあまたの葉。その隙間から漏れる陽射し。その枝に、月が満ちるごとに実るい果実。競うように樹に登ってそれをもぐ子どもらの、泥に汚れた足の裏。

 そうした話を聴きながら、ヨブはオアシスで待つ息子たちのことを思った。この話を聞かせたならば、まだ幼い息子らは、どのような顔をするだろうか。

 彼から濃灰色の瞳を受け継いだ、三人の息子たち。それぞれの顔を思い浮かべて、ヨブは驢馬の背を撫でた。それから小さく首を振った。彼らに再会できる日は、ずっと先のことだ。道行きは長い。



 いかにも異国の風貌ふうぼうをしたこの男が、ヨブの部族が暮らすオアシス、ファナ・イビタルを訪れたのは、三日前、イディスの月の七日の出来事だった。

 それは部族にとって重要な聖祭日、一年の降雨を祈願する祭りの日だった。この日にオアシスを訪れるものは、鳥であれ獣であれ、大変に縁起がいいとされ、古来、殺生を固く禁じられている。

 くたびれた外套がいとうをまとった男は、隊商からはぐれたのか、あるいは驢馬を失ったのか、たったひとりでわずかばかりの荷を背負って、よろよろと歩いてきた。それでも水と食べ物を与えられて顔色を戻すなり、驚くほど必死に人々の間を乞うて回った。砂漠の涯にあるという灼熱の海へと、誰か、案内してはもらえないだろうかと。

 オアシスは騒然そうぜんとなった。その海岸そのものは、何も特別な禁忌きんきの地というわけではない。だがそこは、部族の聖域にほど近かった。よそものが訪れたいといって、けして歓迎される場所ではない。男がやってきたのがその日でさえなければ、物騒な話になっていてもおかしくはなかった。

 しかし男はほかでもないその祭日にオアシスを訪れたのだし、その上、真摯しんしに彼らの助力じょりょくを乞うたのだった。どこで身につけてきたものか、それはたどたどしいながらも砂漠の部族であればどこでも通用する、正式な作法にのっとった請願せいがんだった。また、男はその無理な願いにふさわしいだけの報酬を積んだ。

 古来より交易で身を立ててきたファナ・イビタルの男たちは、砂漠の案内人として名高い。その知恵を頼んでやってくる者は珍しくもないが、それにしてもこのような妙な出来事は、そうあるものではない。

 だが、ヨブの知っている限りでは、かつて一度だけ、似たような来訪者があった。その男もやはりイディスの聖祭日にオアシスを訪れ、灼熱の海への案内を乞うた。もう十年も前のことになる。

 そのときの男を案内したのが、ヨブだった。十年を経て、奇妙な類似を思わせる二人目の男がやってきたことを知ったとき、ヨブは喧騒けんそうに満ちた広場の隅で、眩暈めまいを覚えて立ちすくんだ。

 その晩、長が呼んでいると遣いの男が告げたとき、ヨブはその呼び出しが来ることを、なかば予期していた。できることならばその予感が外れてほしいと願いながら。だが夜更けになって、遣いはやってきた。不安げな顔をする末の息子の肩を叩いて、ヨブは急ぎ足に長の邸へと向かった。

 ――入るがいい。

 声にしたがって垂れぎぬをくぐると、銀糸で施されたきらびやかな刺繍が、視界の端に尾を引いた。

 常にそうであるように、部屋の脇には二人の番兵が控えていた。ヨブは視線を伏せたまま、部屋の半ばまで進み出た。奥にしつらえられた椅子の主を、直視することが耐えがたかった。ヨブは頭を垂れたまま、長の言葉を待った。

 ――奇妙なものだ。

 長は重々しくいって、言葉を切った。それから、ヨブが身じろぎひとつしないのを確かめるように、じっと見下ろす気配があった。

 長すぎる沈黙のあとに、長は言葉を続けた。

 ――あのような不毛の海へと、案内を請う男があらわれるとは。それも二人目だ。

 ヨブは相槌あいづちをはさまなかった。うなずきもしなかった。ただ伏せた顔の下で、床を凝視ぎょうししていた。敷き詰められた数え切れない日干し煉瓦、そのひとつひとつに職人の手によって彫られた、精緻せいちな彫刻を。

 表に出すことを許されない反発の、それが精一杯のあらわれだった。だが、長がそうしたヨブの感情に気づいているとは、とうてい思えなかった。長がおもむろに椅子から立ちあがる音が、ヨブの耳に届いた。

 ――ヨブ・イ・ヤシャル。お前ならば、今度もまた、立派につとめを果たしてくれるだろう。

 それはすでに定められたことがらを語る声だった。

 たとえ脇に控える番兵がおらずとも、逆らうことなどできるはずがなかった。無言のまま顔を上げると、長の掛けていた椅子、その肘置きに施された装飾が、まっさきにヨブの目に飛び込んだ。それは床の彫刻と同じ短刀の意匠で、部族の威をあらわすものだ。

 長はじっとヨブを見下ろして、皺ぶかい顔に微笑を浮かべていた。それはいかにも、部族の優秀な若者に期待をかけているというような表情に見えた。ただその中で、濃灰色の眼だけが、ひどく温度の低い光を宿していた。

 ――亡き父の、名誉にかけて。

 ヨブは低く答えて、長の顔を見つめたが、その表情には、欠片ほどの変化も見られなかった。立ち上がり、ヨブは一礼して踵を返した。

 日取りを考えれば、翌日の晩には発たねばならなかった。すぐに退出しようとしたヨブの背中を、低い声が追いかけてきた。

 ――わかっているな。

 振り返ると、長はもう微笑を浮かべてはいなかった。ヨブはうなずき、振り返らずに部屋を出た。背中にいやな汗をかいていた。悪夢にうなされたあとのように。

 次の夜には、ヨブは旅支度をすませて、驢馬の一頭を借り受けた。そうして会ったばかりの男と二人、はるかな旅路についた。



 十年前に涯の海へ導いた旅人と、いまヨブの隣を歩く男の顔立ちは、どこか似通っているように、ヨブの目には映った。異国の者はたいてい似たり寄ったりの顔に見えるものだが、もしかするとそればかりではなく、出身が近いのかもしれなかった。

「お前、名はなんというのだったか」

 いまさらのようにヨブが問うと、男は困惑したふうに目を瞬いた。

「悪い。すっかり名乗ったつもりになっていた」

「いいや。皆の前で名乗るのを聞いていたが、覚え切れなかった。音が、耳になじみがないから」

 ヨブがそういうと、男はああ、とうなずいて、気を悪くしたようすもなく名乗りなおした。

「俺の名はアシェリという。故郷では、風を意味する言葉だ」

 アシェリ。口の中で二度呟いて、ヨブはうなずいた。

「今度は覚えた」

 それを聞いた男は、歯を見せて人懐こく笑った。

「あんたのヨブという名には、どういう意味があるんだ」

 ヨブは面覆いの下で、わずかに顔をしかめた。それに気づいたのか、アシェリは困惑したふうに首をかしげた。

「俺は何か、失礼なことを訊いただろうか」

「いや。ヨブというのは、鳥の名前だ」

「へえ。気に入っていないのか」

「そうではないが。どうせなら父も、もう少したくましそうな名をつけてくれればよかったのにとは思う」

 ははあ、とうなずいて、アシェリは笑った。「なるほど、たしかにあんたには、もっと強そうな名前が似合うかもしれないな」

 肩をすくめながら、ヨブは奇妙な既視感を覚えていた。十年前の道行きで、似たような会話を交わしたのだった。

 あのときの男はイーハと名乗り、アシェリがそうしたように、続けてその名の意味するところを説明したのだった。それは男の育った土地の言葉で、夜明けを意味する名だということだった。

 いわれてみれば、男の眼は、黎明れいめいの空を思わせるような紺青こんじょう色をしていた。しかしヨブがそういうと、イーハは怪訝けげんそうに首をかしげた。そうだろうか。そのようにいわれたことはなかったが。

 やがて旅の途中、明けゆく東の空を見て、イーハはようやくに落ちたようにいった。なるほど、砂漠の夜明けとはこうしたものなのか。長年さまざまな地を旅してきたが、このような空を、初めてこの目に見た。俺の父親の生まれは砂漠地帯のどこかだと聞いていた。お前のいうように、この空を思って、俺にこの名をつけたのかもしれないな。

 ほかでは言葉少なだった男が、ゆいいつ自ら長く語ったのが、その話だった。男はいかにも異国の者らしい風貌をしていたが、それでも黒い髪と浅黒い肌とを持っており、砂漠の民族の血を引いているといわれれば、うなずけないことはなかった。

 十年前のあのとき、あの異国の男を連れて歩いた旅路で、ほかにどのような話をしたのだったか。ヨブは口をつぐんで、遠い記憶を探った。静かなまなざしをした男だったのが、印象に残っている。寡黙かもくで、ぽつりぽつりと切れ切れに言葉を落とした。

 アシェリはしばらくのあいだ、ヨブの沈黙につきあっていたが、ふと思い立ったように、慣れない手つきで驢馬の背を撫でた。

「それにしても、こいつは変わった馬だなあ。前に通った町でも、何度か似たようなのをみかけたが、砂漠の馬は、みなこのような姿をしているのか」

 ヨブは振り返って、思わずアシェリの顔をまじまじと見上げた。表情を見る限りは、どうやら真面目にいっているらしかった。

「お前、驢馬を知らないのか」

「へえ。これは驢馬というのか。なかなか愛嬌のある顔をしている。こいつの名前は、なんというんだ」

「驢馬に名前などつけるものか。……お前、驢馬もしらずに、どうやってファナ・イビタルまでたどりついたというのだ」

 思わず強い剣幕で問いただすと、アシェリは肩をすくめた。

「金がなかったのだ。あんたたちへの謝礼をかき集めるだけで、精一杯だった。あんたたちの町へ向かう星のたどり方は、ひとつ手前のオアシスで、地元の少年に教わったのだが」

 それでも最後の一日は水も食糧も尽きて、あやうくのたれ死ぬかと思った。アシェリはあっけらかんとそういった。

「それにしても、あの少年は、やけに熱心に道を教えてくれるものだと思ったが、あれはもしかすると、俺の無謀さに同情してくれたのだったかな」

「そうだろうな」

 ヨブが呆れてうなずくと、アシェリは照れ隠しのように笑って頭を掻いた。

「それにしても、あんたたちの星の読み方は、信じられないほど詳しいなあ。俺もどうにか、いくつかは覚えたのだが」

 アシェリはそういって、進行方向の低い空にある、ひときわ眩しい星を指した。「あの白い大きな星が縦に並んでいるのが、《賢人の杖イオ・イディス》。南西にある二連のものがタ・ディハル……」

 つられて遠景に目を投げたヨブは、遠くの地平に町の明かりを見いだした。

「ああ、見えてきたな」

 夜明けにはまだいっとき時間がある。間に合ったことに安堵しながらそういうと、アシェリは訝しげな表情になった。

「どこだ」

「そら、あそこに灯があるだろう」

 指さしてみせても、アシェリは首をひねるばかりだった。

「ちっともわからない。砂漠の人間は目がいいと、噂には聞いていたが、ほんとうなのだなあ」

 感心するようにいって、アシェリは笑った。

 それにしても、よく笑う男だった。これほど頻繁ひんぱんに表情を変える男を、ヨブはほかに知らない。女子どもならいざしらず、立派な男は、おいそれと感情を顔に出すものではないからだ。

 だがアシェリは、そうしたことを、ちっとも恥とは思っていないように見えた。そのことに毒気を抜かれるような思いをしながら、ヨブは驢馬の手綱を引いて足を速めた。



 オアシスに辿たどりついた二人は、安宿をたずねて大部屋の一角を借り、水の値についてそれなりに満足のいく交渉をすませた。前払いの代金を銅貨で支払ったヨブが、驢馬に水を飲ませていると、アシェリが感心したようにうなった。

「あれだけの水で足りるものだろうかと、正直なところ不安に思っていたのだが。着いてみれば、ずいぶんと余裕があったな。さすがは名に聞く、イビタルの案内人だ」

 何をいうかと思えばと、ヨブは肩をすくめた。

「ふたつ先のオアシスまでもつだけの水を用意するのは、砂漠を旅するものの鉄則だ」

「へえ、そういうものか」

「あてにしていたオアシスに、ようようたどりついてみれば、すっかり水が枯れていたということも珍しくはないのだ。それがたとえ、何百年と続いた町であっても」

 声を落として、ヨブは説明した。この町もまた、二百年あまりの歴史を誇るオアシスだった。

「それで、二つ先か。なるほどなあ」

 いちいち感心したように、アシェリはうなずいている。ヨブは呆れて首を振った。

 しかし通常の道行きであれば、そもそももっと水場の多い道を通るものだった。砂漠の中ほどを横切るように大河が流れており、その周囲には人里もまた多い。河の流域に沿って旅をできるときには、多少遠まわりをしてでもそのようにする。大河ならばオアシスに湧く水と違って、水量が減ることはあっても、枯れることはまずないからだ。

 だが今度の道行きは、まったく別の方角で、しかも人里の少ないほうへ、少ないほうへと向かっていく。途中からは、よほど正確に進路をとらなければ、灼熱の太陽に焼かれてあっという間にひからびてしまう。交易を生業とする旅なれた者でも、避けたがる道だ。

 アシェリは軽い気持ちで持ち上げてみせたのかもしれないが、ファナ・イビタルの者、それもよほど南部の地理に精通せいつうしている一握りの男以外では、灼熱の海へ生きて案内することは、まずできない。ヨブにはそれだけの自負があった。

 そうした場所へ、大金を積んでまで、なぜ行こうというのか。案内された大部屋で隅のほうの寝台へ陣取りながら、ヨブは何度目かの問いを口に乗せた。

「なぜお前は、涯の海などへ行きたがるのだ」

 アシェリは曖昧あいまいに笑うだけで、答えない。だがヨブとしては、なんとしてでも確かめねばならないわけがあった。その近くには、禁域きんいきがあるからだ。

 部族の中でさえ一握りの者以外にはその場所をかたく秘された土地が、砂漠の南西にはある。アシェリがもしも言葉どおりに海へ向かいたいのではなく、その存在をかぎつけて秘密を探ろうとしているのならば、捨て置くわけにはいかなかった。

 だがこの男が何も知らない場合、下手な問い詰め方をすれば、かえって隠したいものがあることを勘ぐらせてしまうかもしれない。ヨブはひとまず追及することを諦めて、嘆息した。

「まあいい。午後遅くに買出しに出かけて、日が沈んだ直後に発つ。しっかり休んでおけ」

「わかった」

 アシェリは素直にうなずいて、さっさと寝台にもぐりこんだ。

 その場所に近づくまでに、うまく聞き出す方法を考え出さねばならない。のみの跳ねる掛布にもぐりこんで、ヨブは目を閉じた。

 考え事のせいか、眠りはなかなか訪れなかった。空が白んだあとになって、ようやくヨブは浅い眠りについた。そしてきれぎれの夢の中で、この旅を命じた長の、表情のない顔を見た。わかっているなと念を押した、温度のない眼を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る