エピローグ 空の下で
晴れ渡った青空のもとに出ていくと、石畳を敷いた玄関前の広場では、エメラルド色の鱗を陽光に輝かせたフレチャが尻尾を振って、私たちを待っていた。
おはよう、と。「キュー」と一声を響かせる。
私とエスクードは連れだって、フレチャの下に駆け寄る。これから皇太子さまのお城へ出勤だ。
「おはよう、フレチャ」
私はフレチャの首に抱きついて朝の挨拶を交わしてから、エスクードの手を借りて、ドラゴンの背中に乗る。フレチャはゆっくりと翼をはためかせ、空へと舞い上がった。
眼下に広がる街並みを眺めながら、「今日もよいお天気ね」と私は肩越しにエスクードを振り返ると、彼はそっと笑いかけて耳元で囁いた。
「このまま、二人でのんびりしていたいな」
「そんなことを言ったら、皇太子さまが拗ねちゃうかも」
第一に真面目なエスクードがお仕事をさぼったりするはずない。彼の軽口に私は笑って返す。
「まったく、殿下には困ったものだな。新婚のアリスに早々と仕事を持ちこんでくるなんて」
エスパーダの保護観察という立場もあって、エスクードが生活の基盤をお城から実家に移した際、私も彼と結婚することを報告し、お暇を貰う予定だった。
エスクードの家にも使用人は大勢いて、今さら私が女主人として出張る必要もないけれど、だからと言って皇太子さまのお城に居座り続けられるとは思わなかった。
皇太子さまは私たち二人が結婚するという報告をすると、
『ようやくか。しかしお前たちもそろって奥手というか。私は見ていて、ヤキモキしたぞ』
にやりと笑いつつ、祝福してくれた。
けれど、私たちがお城から出ていくと言うと、途端に血相を変えた。
『何だと? そんなことをしたら、私が一人ぼっちになるではないか。二人とも今まで通り、この城で暮らせばよいではないか。何なら、エスパーダも連れてこい』
『…………あのですね』
エスクードはがっくりと肩を落としながら、
『薄々、そう言われるだろうと思っていましたが。こればかりは譲れません』
と、キッパリ拒否した。
『何故だ?』
皇太子さまは驚愕に深紅の瞳を見張った。
『殿下のことですから、新婚であることを知りながら、俺たちの部屋に毎夜、入り浸るに決まっています』
『何を言う? 私がそこまで野暮だと言うのか』
『退屈を紛らわせるためなら、それくらいするでしょう』
『馬鹿にするな。私だってそう毎日、暇ではない。最近、創作意欲が戻ってきたからな、傑作を一枚上げようとしているところだ』
『つまり、毎日ではないが、それなりに邪魔する予定ということでしょう?』
『否定はせん』
皇太子さまはそう言って、胸を軽く反らした。そこは否定すべきだと思います!
『そういうわけで、邪魔して貰いたくありません。やっと、アリスと気持ちが通じ合えたんです。新婚であることを考慮して、どうか遠慮してください』
『新婚、新婚と。エスクード……お前、さりげなく惚気てないか?』
皇太子さまの視線に私は赤くなる。気持ちが通じ合ってから、エスクードは割と積極的だ。ううん、前から積極的だったのかもしれない。
単に、私が鈍感だっただけで……。
『気付くのが遅いと思います』
そう言って、エスクードは私の肩を抱いた。少し恥ずかしいけれど、それだけ好きでいてくれているようで、嬉しいような。
頬っぺたの辺りがむず痒い感じで、表情に困っていると、皇太子さまは一つの提案をしてきた。
それは私に今まで通りお城に来て、仕事をしないかということだった。
『仕事って何をすれば……』
今までの雑用だろうか? と、首を傾げる私を前に皇太子さまはニッと笑って告げた。
『簡単だ、私の絵のヌードモデルを……』
ザンと何かを断ち切る音がして目を見張れば、エスクードが皇太子さまの机の上にあった書類の束に剣の切っ先を突き立てていた。
氷のような冷やかな視線で、エスクードは皇太子さまを見据える。
『斬りますよ?』
『待て、冗談に決まっているだろう』
『冗談でも、場合によっては許しませんので、以後気を付けてください』
『うむ。肝に銘じよう』
真顔で皇太子さまは頷くけれど、エスクードは『どうだか』と、剣を鞘に収めながら半眼で皇太子さまを睥睨している。
『……それにしても殿下は、エスパーダのこと……お許し頂けるのですか』
エスパーダを城にという皇太子さまの発言に、エスクードは改めて真意を問うように目線を向ける。公式的にエスパーダは魔力を失ったことで処分が確定したわけだけれど、個人的な感情は割り切れるものなのだろうか。
深刻な面持ちになるエスクードの憂いを払うよう、
『まあ、彼女を求めた奴の気持ちもわかるからな。それほどまでに、私が愛した彼女は魅力的だっと言うことだろう』
『……開き直りましたね』
エスクードが小さく苦笑すれば、
『これが本来の私らしさであろう?』
皇太子さまは笑いながら軽く肩を竦めると、私に視線を向けながら言った。
『エスクード、お前も魅力的な妻を持つと大変だぞ。なあ、アリス? 先程の件だか考えてみないか。今この時の美を永遠に私の画布に留めておくというのも悪くない話であろう?』
片目を瞑って、誘ってくる。先程の件って、ヌードモデル?
ぎょっと目を剥く私の前で、エスクードが再び剣を抜こうとするのを、皇太子さまは慌てて遮った。
『待て待て待て。エスクード、アリスのこととなると強気だな』
『殿下は甘くするとつけ上がりますからね』
二人の間に剣呑な空気がながれ出したような気がして、私は慌てて口を挟む。
『あの、お仕事って何ですか?』
『うむ、今まで通り仕事中に茶を用意しておくれ。アリスの茶を飲むと、仕事が捗るし疲れも取れる』
『殿下の体調も考えて、茶を用意してくれますからね、アリスは』
エスクードが笑って私を振り返った。お茶にハーブを調合していることは気付かれてないと思っていたけれど、エスクードは見ていてくれたらしい。
『それに宮仕えをすれば、エスクードとも一緒に居られる時間が長くなるぞ』
という言葉に、私が反応する前に、エスクードが『わかりました、引き受けましょう』と頷いていた。
……何だか、いつかのやり取りを思い出すんですけど。
私の意向なんてそっちのけですか?
少し膨れそうになったけれど、次の言葉に私の怒りは吹き飛んだ。
『アリスも、城の皆と会えなくなるのは寂しいですしね』
用もない人間が、そう簡単に皇太子さまのお城に出入りできるはずがない。
そうなれば、レーナさんや他のお城の皆さんとはもう会えなくなる。それはちょっと寂しいと思えば、エスクードの心配りが嬉しかった。
『アリス、良いか?』
皇太子さまの確認に、私は『はい』と、笑って大きく頷いた。
それから私は毎日、エスクードとお城通いをしているというわけだ。
お城の中では、私が喋れることや違う世界から来た事はそれとなく広まっていた。色々と騙していたような罪悪感を覚えていた私だったけれど、レーナさんを始めとして他の皆も今まで通りに優しく接してくれた。
エスクードと結婚することを報告すれば、自分ことのように喜んでくれ、結婚式には花嫁衣装を作るとまで言ってくれた。こちらの世界では、友人たちに手作りして貰ったドレスやヴェールで式を上げると、幸せになれると言われているのだという。
改めて、私はここの人たちが好きだと思った。ここに残って、良かったと思った。
その想いを皆に伝えるにはどうすればいいのか、まだよくわからない。それでも、あの人たちのために自分ができることを探していきたい、私はそう心の底から思ったの。
フレチャが滑るように空を翔ける。頬を撫でる風が私の意識を回想から引き戻した。
風が流れる中をエスクードの腕がしっかりと私を抱きとめていてくれる。その腕にそっと手を重ねて、私は思う。
例えこの先、何があったとしても、私はこの腕に、この人に出会えたことを後悔することはないだろう。
今ならば、言えるかもしれない。
一人ぼっちだった、昔の私に。
両親を亡くしたときの痛みに、どうして自分だけが生き残ったのだろうと、考えた日の私に。
忙しさにかまけることで、色々なことを誤魔化していた私に。
不器用だけど、それでも今日までの日々を繋いできてくれた過去の私に。
里桜という私がいたから、今日の
だから……。
――ありがとう。
「蒼天の君 完」
蒼天の君 松原冬夜 @yorunoyume
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