第7話 天使が死んで、生まれた日・下

 日はすっかり落ち、空には半月が昇っていた。

 正門区はガス灯こそ道を照らしているものの、すっかり人はいなくなってしまっていた。ガス灯は犯罪抑止として整備されているだけで、夜間に開いている店は少ないのだ。

 しかし夜になっても、大聖堂の奥に控える中央区とミナス城で人気が絶えることはない。

 大聖堂裏の中央区入り口には、昼間と変わらず教会騎士が立っていた。ミナス城の中も同様で、要所毎に警備が敷かれている。

 長年ミナス城で暮らしていたリーフは、中央区の地理も警備の手薄な地点も全て頭に入れていた。

 無論、二ヶ月の間に警備の見直しは行われていたが、詰め所の位置関係等からどうしても手薄な場所はできてしまう。

 その穴を埋めるための警報トラップもイーハンの力で十分無力化できるものが大半で、特に苦難もなく二人はミナス城から中央区へと出た。

 二人は、中央区の隅にある監獄棟へと向かった。

 其処には、捕えられた革新派が収容されている。今までのリーフの行動は、一重に捕まった同志を救い出すためだ。

 煉瓦の壁に囲まれた監獄棟の門の前には、見張りが二人立っていた。

 しかし、リーフは物陰に隠れながらも、躊躇いなく見張りに近づいていった。

 侵入する前に着替え、今の格好は普段通りの漆黒の外套姿だ。前をきっちりと閉めてフードもかぶり、表情を伺い知ることはできない。武装もいつも通り、片手剣と魔剣を装備していた。

 闇夜に紛れやすい色ではあるが、それでもやはり距離が詰まると見張りもリーフの存在に気付いた。

「何者っ……お、おい」

「嘘だろ……死んだって話だったよな」

 リーフの姿に動揺した見張り二名に、リーフが朱い燐光を纏った魔剣ギルを抜いた。

 圧倒的な速さで振り抜かれた斬撃に一拍子遅れて、無傷のまま見張り達が崩れ落ちた。

 傷はないが、もう二度と立ち上がることはないだろう。

——どうだ?

「ほんの少しだけど、反動がある。制御がまだ難しい」

——その程度で済むんなら上出来だっつの。

 リーフの放った一撃には、ギル固有の『魂を引き裂く』異能が込められていた。それを直に食らった見張り達は、精神の面で即座に息の根を止められてしまったのである。

 本来、その力は、ギルが完全に憑依した状態でなければ扱えない。それでも契約者を著しく消耗させ、人としての寿命を縮めてしまうものだ。

 しかし、以前の狩人との戦いの最中、リーフの耐久性を目の当たりにしたギルは、能力を一部預けても大丈夫だろうと判断を下した。

 その予想は裏切られることなく、リーフは少し顔をしかめる程度で能力の使用に耐えていた。

「行くよ」

 リーフはリンに向かって手で合図を送った。リンはイーハンを投げて寄越し、リーフはイーハンの能力で門の鍵を静かに開けた。まだ温かい死体を門の中に蹴り転がし、監獄棟へと進む。

 その後ろを、リンが警戒しながら続いていく。動き辛い修道女の服を脱ぎ捨て、革の上着に軍用ズボンという、こちらも普段通りの格好になっていた。

 二人は監獄の出入り口の鍵も開け、中へと入り込んだ。

 人を無闇に立ち入らせない場所であるからして、中に火は灯っていない。リンは自前のランプに火を点けた。

 監獄棟の一階は、鉄格子の嵌められた集団牢が並んでいた。

 囚人達は五、六人で纏められて一つの牢に収容されており、看守以外の訪問者に一瞬どよめきが走った。

 一人の囚人が、鉄格子に縋りつく。

「なあ、おい!助けて」

 くれ、と言い終わらないうちに、リーフは騒がしい囚人の喉を剣で突いて即座に黙らせた。

 他の囚人達は即座にその意味を悟り、リーフが牢を一つ一つ覗いていく間、一言も喋らずに大人しくしていた。

 一階を全て見て回ったが、リーフは首を振って二階へと上っていった。

 二階は鉄の扉で閉ざされた個人牢が延々と続いていた。

 その中で、リーフはようやくかつての仲間を見つけた。

 たった一人だけ、個人牢の片隅で忘れ去られたように佇んでいたその男は、驚くべきことに無傷だった。

 手足には拷問の跡もなく、手荒な真似は一切受けていなかった。

 本当に、それは奇跡と呼べる確率なのだろう。

 看守から忘れ去られ、僅かな糧すら与えられず餓死した男は、腐臭の漂う死体と化していた。

 男の口には蛆が湧き、皮膚は変色して床と接している箇所からねっとりとした液体が染み出ていた。

「うへえ、これ昨日今日死んだんじゃないよ。もう一月ひとつきくらい経ってる」

 リーフが死体の顔を確認している間、臭いに耐えかねたリンは鼻をつまんでいた。

「分かるのかい?」

「モンスターの繁殖期なんかは、迎撃が忙し過ぎて味方の埋葬が十日遅れとかたまにあったし。それの数倍酷いからそれぐらい経ってるんじゃない?ていうか、この臭いによく耐えられるわね」

「単純に鼻を塞げないだけなのだけれど」

 リーフは死体の懐を探り、遺品になりそうなものを探していた。だが、牢に入る前に全て没収されてしまっていたようで、めぼしい物は何も持っていなかった。

 服の切れ端か髪の一束でも切り取れればよかったのだが、生憎死体の彼は短髪で、服も死臭と脂が染み付いてとても持って帰れるものではなかった。

「この様子だと、他の人間が生きているのも絶望的だろうね」

 グローブを嵌めた手をはたいて、リーフは立ち上がった。

 リーフが新聞で調べた限り、公的に処刑されたのは革新派のリーダーと幹部クラス、そして雇われていた二人の殺し屋のみだった。そのうちの殺し屋の一人はまだ生きていて、こうして死体を漁っているが。

 しかし、報道とは裏腹に、捕まった者達は一人残らず殺されてしまった可能性が高い。

 この場所で孤独に息を引き取った彼でさえ、革新派の下っ端の下っ端と言って良い程の地位だったのだ。それより上の連中が生きているとは到底思えなかった。

「念のため、上も調べておこうか」

「そうだね」

 二階を探索している間に、二人はさらに上へと続く階段を見つけていた。

 幾つもの鍵と三重になった鉄の扉で厳重に守られていたが、イーハンの持つ魔剣の力にかかれば障害など無いも同然だった。

 扉の向こうには、一階と二階を繋ぐ階段よりも遥かに幅広で、上り下りがしやすい程度の傾斜に抑えられた石段が上へと続いていた。

 石段の先には、さらにもう一枚の鉄の扉が待っていた。それもイーハンが開けた。

 扉の向こうは、監獄の中とは思えない程、調度品が揃えられた部屋だった。

 天井には豪華な燭台、床には絨毯が敷かれ、格子窓には厚い刺繍入りのカーテン、家具も一通り揃えられ、天蓋のついた大きな寝台もあった。

 寝台の布団は一人分くらいの盛り上がりがあり、物音に気付いて、寝ていた何者かが身を起こした。

「えっ」

 その姿を見て、リンは思わず声を漏らした。

 起き上がったのは、薄い寝間着に身を包んだ少女だった。

 腰の位置よりも長い、レース糸のような銀色の髪が華奢な身体を覆い、その下から透かして見える肌はリーフよりもさらに白かった。緑の双眸には不安の色を浮かべ、急に現れた見知らぬ二人を見ていた。

 身体的特徴から見て、リーフと同じ神の血統の半獣だが、そんな存在はこの国に一人を除いているわけがないのだ。

——リーフさん、親戚か何かですか?

 事情をよく知らないイーハンだけは、場違いに呑気な声をリーフにかけた。

「……」

 リーフは黙ったまま、フードを脱ぎ外套の前を少し開けて、顔を露わにした。煤けた髪は、フードと擦れたせいで元の銀色が所々見えていた。

 さらに髪についた煤を手で払い、銀に黒が混じった月色の髪を少女によく見せた。

「え……」

 少女の目がまるくなった。

「もしかして、リーフ……なの?」

 その言葉に、リーフもまた目を見開く。

「どうして、ボクの名前を?」

「リーフよね、そうよ、リーフよ!私のこと覚えてないの、ドロリスよ、私はドロリスよ!」

 少女は寝台から這い出て、リーフに縋り付いた。少女の虚弱そうな見た目と違わず手足は棒のように細く、背丈はリーフの胸元にやっと届くくらいしかなかった。

 リーフは女の平均よりも背が高いが、それでも男ならば小柄な部類に入る。そのリーフが胸元に飛び込んできた少女を真上から見下ろし、後頭部に二房の黒髪を見つけられるということは、かなり小柄だ。

「ねえ、まさか、知り合い?」

 リンは少女の頭をちょいちょいと指差した。リーフが許すならば、今すぐ少女を階段に突き飛ばして偶然にも転落死を装いそうな顔をしていた。

 リーフは首を少し傾げた後、軽く首を横に振った。音を立てずにリンが舌打ちする。

 表情には一切出さなかったが、内心ではかなり混乱していた。

 リーフという名を知っているのは革新派とリンのみ、しかも革新派で素顔を知っている者は死に絶えた今、その名を呼ぶ者はいなくなった筈だった。だが、このドロリスという少女は顔を見ただけで言い当ててみせた。それに、彼女は絶えてしまった筈の教皇の——魔戦士タクシディードの血統を受け継いでいるように見える。

「どうして、君は……」

「ああ本当に夢みたい!リーフが私を助けにきてくれたなんて、ここから出られるなんて!」

 ドロリスはリーフにしがみついたままうわごとのように言葉を紡ぎ、とても会話ができるような状態ではなかった。

 リーフには確認したいことが山程あったというのに。

 埒が明かないので、リーフは仕方なくドロリスの肩にそっと手を置き、できるだけ優しく引き離した。

「ここに留まるのは危険だ。早く行こう」

「え、ええ、ええ!そうね、早く帰ろう!」

 ドロリスの手を引き、リーフは階下へと降りた。その後ろを、面白くなさそうな顔でリンが続いた。

「ねえリーフ、リーフが無事ってことはセイラも……ううん、ごめんね、この場にいないってことはそういうことよね、だってあなたがセイラを連れていないわけがない筈だし」

 階段を下りていく途中でも、ドロリスの独り言は続いた。時々、その内容に気になる点がいくつかあったが、途切れることのない言葉にリーフが口を挟む隙は全くなかった。

「怖かったわ、みんなから引き離されてずっとずっとずっと一人だったもの、怖い人たちに囲まれる度にリーフが助けにきてほしいって思っていたわ。だから本当に嬉しいの、リーフが来てくれたことが。ねえ、本当よ」

 監獄棟から出る一歩手前で、リーフが急に立ち止まった。

 立ち止まるのが遅れて半歩前に出たドロリスの肩を掴んで、強引に後ろへとさがらせる。

「どうやら、もうボクらのことは知れ渡っているみたいだ」

「どうしたの?」

 ドロリスはリーフの言葉にぴんとこなかったようで、背伸びをして前を覗こうとした。

「数は?」

 リンは散弾銃〈森狼〉の機関部を開き、弾が装填済みであることを確認した。

 リーフ程に特化した感覚は持っていないが、リンとて戦いで飯を食っていた身である。壁越しに待ち伏せの気配を勘付くことは容易い。

「後衛だけで三十、いやそれ以上。前衛も含めると百超え。罠を警戒しているのか、門の外で待ち構えている」

 リーフは壁越しに兵の配置を読み取り、事前に決めていた手信号でリンに布陣を伝えた。

 リーフの持つ特異な感覚——〈害覚〉は、相手がこちらに抱いている敵意を感じ取ることができる。精度も高く、分厚い石壁に囲まれていても、やぐらの上に立っているかの如く敵の位置を把握していた。

「結構開けた場所だったよねー。跳弾は心配しなくていいけど、バラけられるとちょっと面倒かも」

 リンはひとまず散弾銃を小脇に抱えると、昨日買ったばかりの陶器の瓶を取り出した。蝋で固められた栓を瓶の中に落とし込み、固い綿を瓶の口に詰めた。

——なぁ、今回は俺を出させろよ。乱戦なら任せとけ。

 リーフの意識の表層をギルの声が撫でた。久々の戦いの気配に、少し語尾に高ぶりが垣間見えた。

「別にいいけれど、リンと喧嘩はしないように」

——そーいうのは向こうに言ってくれねぇか。

「分かってるわよ、それぐらい。骨董品のくせに一言多いわね」

 リンは少しむくれながら、腰に提げた火口箱から火打ちを取り出した。

「ね、ねぇ、一体——」

 まだ状況が理解できていない様子で、ドロリスはリーフの外套の袖を引っ張った。

 リーフは無言でドロリスの手を振り解くと、有無を言わせずイーハンを押し付けた。

「下がってな、お嬢ちゃん」

 リーフギルは口の左端を釣り上げて笑うと、背の魔剣に手をかけた。

 リンが瓶の口に火を点けた。

「仕事しろよ、クソ狼」

「言われなくてもやってやるっての」

 扉の隙間から高く放り投げられた瓶に続いて、リーフギルが外に飛び出した。

 目視で確認した相手の布陣は地上に軽歩兵と銃士の一団、左右の高台に支援の銃士隊、後詰には重歩兵隊——リーフが読んだ通りだった。

 抜き放たれた魔剣が一番手前の騎士を両断、同時に火炎瓶が地上の銃士隊の真ん中に命中。間髪入れずにさらに火炎瓶が飛来、魔剣の一閃で三人纏めて薙ぎ払われる。

 炎の赤と、血の朱が夜闇を鮮やかに彩った。

「怯むな、行けい!」

 布陣の後方で、指揮官と思しき男が一喝した。磨きぬかれた紋章入りの鎧を纏い、業物と思しき剣を腰に携えていることから高位騎士であることが分かる。

 既に逃げ腰になっていた前衛は指揮官の声に再び奮い立ったが、轟く銃声と共に指揮官の頭の半分が吹き飛んだ。

「暗いからって油断しすぎ」

 難度の高い夜の狙撃を事も無げに行い、リンは呟いた。

 続けて炎にまかれて混乱状態の銃士隊に向けて適当に銃弾を放ち、リンは慣れた手つきで次弾を装填した。一発の銃声で複数の人影が倒れていった。

 モンスターの防弾性に優れた皮や鉄のような甲殻を破壊できるよう、対モンスター弾は貫通力に重点が置かれている。勿論、破壊力も折り紙つきだ。東部ではそれを対人戦に転用し、装甲車や重武装兵の駆逐に用いているというえぐい噂もある。

 身に纏える程度の薄い鋼や厚みがあるだけの柔らかい肉壁など、人を蹂躙する獣を狩る武器の前では紙も同然、縦列を纏めて貫くことも容易い。

 指揮官を討ち取られたことで、騎士団の混乱は加速した。最も前衛に近い銃士隊は完全に麻痺、他の銃士隊も狼狽えている者が多い。派手に暴れ回るリーフギルに惑わされずリンの方を狙う者もいたが、リンも安易に外に顔を出す馬鹿ではない。

 その間にも、魔剣によって前衛の数は瞬く間に減っていった。銃士隊がうかつに攻撃できないよう、巧みに兵との間合いを詰めては斬り捨て、時に壁としてまだ息のある者を前に押し出しては纏めて両断。そのくせ、リンの射線上には立たず後方支援にも抜かりはない。

 たかが一人の剣士、然れど魔剣を携えた魔戦士は時に一騎当千の活躍をする。

 リーフギルの外套が血を吸い、暗い色に染まりきった頃、前衛の最後の一人の頭が宙を舞った。

 残るは、リンの狙撃で徐々に数を減らしつつある二つの銃士隊と、遥か後方で未だに静観を続けている重装の近衛騎士だけだった。

 リーフギルの周囲にはもう敵がいない、となれば銃士隊の狙いは一点へと定まる。

 そうなることを見越し、リーフギルは近衛に向かって疾走した。

——こっから先は、テメェの専門だろ。

 乱戦という名の一方的な蹂躙で十分に舌鼓を打ったギルは、大変満足した様子だった。身体の支配をあっさりとリーフへと返し、意識の片隅へと引っ込んだ。

 リーフは背中に十数の殺意を感じた。銃弾が放たれるまで猶予はない。

 絶え間ない炸裂音と共に銃弾の雨が地面を穿った。リーフの背中にも数発命中し、重たい衝撃と共に外套を引き裂いた。

 だが、弾丸は皮膚の表面を滑って弾かれた。着弾の瞬間、リーフの肌が白い鱗状に変化していることに気付く者はいない。リーフに流れる守りに秀でた神獣の血の力の前には、唯の鉛玉など豆鉄砲の威力しかない。

 着弾の衝撃に耐えながら、リーフは近衛騎士の中央に魔剣を振りかぶり突進し——転倒した。

「——っが」

 左足を貫く激痛、続いて両腕から熱い血潮が噴き出した。

 自らの血で赤く染まる視界の中、リーフは腕にくいこんだ鋼の牙を気力を振り絞って睨みつけた。

 リーフの両腕と左足にそれぞれ食らいついているのは、獣の頭を模したトラバサミだった。黒光りする牙に歯車の毛並み、目玉はおぞましいまでに白い呪具の玉、喉を飾る剃刀のような刃物。首から下は無く、鎖が繋がっていた。

——っ、このくそったれが!ここまで質の悪ぃクソ魔剣は久しぶりだぜ!

 ギルの悪態が響いた。トラバサミは魔剣だった。しかも、魔戦士タクシディードとの契約を放棄し、ただ命を貪ることに特化したケダモノだ。肉を断つ力だけならギルにも劣らない。

 弾丸に紛れていしゆみで打ち出された魔剣は、飛び道具の威力を軽視していたリーフに致命的な一撃を与えていた。

 リーフは自分の油断を呪った。殆ど潰えたとはいえ、嘗ては本物の神がいた地だ。強力な魔剣を上層部が未だ保有している可能性を血統が絶えたことを理由に甘く見ていた。

「代々の教皇に伝わる神の御霊をも食らう魔剣です。封を解いて正解でしたね」

 震えた女の声がした。

 リーフは声の方を見ようとしたが、両腕の肉を引き裂かれながら押さえつけられた状態ではそれすら叶わなかった。

 声の主はリーフへと歩み寄った。

「触……るな」

 視界の隅に見えた細い指に、リーフは唸った。

 しかし、指はリーフの意に反して血に濡れた髪に触れた。

「シルヴィア……どうして、あなたは、嗚呼……」

 掌がリーフの顔を包み、ゆっくりと持ち上げた。ようやくリーフは見たくもない相手の顔を見ることができた。

 銀の長髪に一筋だけ暗い色を流した、美しい女性だった。だが、女の盛りを過ぎた肌にはどこか張りがなく、飾り立てた美しさに陰りが見え始めていた。リーフの顔を映す深い緑の瞳は何処か虚ろで、涙を目尻に貯めていた。

 リーフが最後に彼女の顔を見たときに負っていた深い悲しみは、まだ彼女を蝕んでいるようだった。

「嗚呼……どうして、変わってしまったの。私は、私は血は繋がっていなくても貴女を愛していたのにっ。お願い……だから、嘘だと言って……」

 その言葉を聞くのは、初めてではなかった。聖都から脱出する前、騎士たちに組み伏せられたリーフにも同じ言葉がかけられた。その時には、リーフが返す前に引き離され、そのまま軟禁された。

 だから、リーフはその時言おうとしていた言葉を紡いだ。

「嘘……だと、したら」

「え?」

「全てが……嘘だと、愛が……あると、信じられたら、敵がいないと……無邪気に、信じられた、なら……」

 止まらない出血で朦朧とする意識の中、リーフは一言一言を噛み締めた。

 リーフの脳裏には十一年に渡るこの国で過ごした記憶がよぎった。

 周りから一方的に与えられる感情、夜に自分の上に覆いかぶさる影、毒を呷り踏み躙る小さな命、外から訪れた異邦の民の手をとった月の無い夜。鉄の味がする敵意を感じない日はなかった。

 それでも、荒んだ感情が渦巻く日常の中で、心は敵意を超える何か素晴らしい感情を欲していた。もしかしたら、それは『愛』というもので、誰かを今度こそ守りきれたなら手に入るのではないか、自分でも感じることができるのではないかと思った。

 しかし、リーフの素性を知った仲間は一人を除いて背を向けた。その一人はリーフを逃がすために散り、信じてもらえなくとも必死の思いで仲間に伸ばした手は空を切った。

 目の前には仲間の無惨な死体、背後にはその数倍の死体の山を築いて、結局何も果たせなかった。

 其れ等の事象が示す結果とは、則ち——

「愛は……嘘だ」

 苦痛に歯を食いしばりながらリーフが告げた言葉には、どうしようもない絶望と拒絶が滲んでいた。

 女の顔から表情が抜け落ちた。

 女の手から力が抜け、リーフは頭を地面にぶつけた。衝撃が傷口に響いてリーフの口から呻き声が漏れた。

「リーフッ!」

 少女の金切り声が響いた。

 ドロリスが倒れたリーフの側へと駆け寄っていった。さすがのリンも、戦闘の片手間にドロリスの暴走を食い止めることは無理だったようで、苦い顔をして扉の隙間を限界まで閉ざして籠城の構えをとった。前衛がやられた状態では時間稼ぎにしかならないが、それが最善の選択肢だった。

 騎士たちは監獄から飛び出してきた少女の、月の色をした髪を見て唖然としたまま誰も状況が理解出来ずに動けなかった。

「あなた、一体」

「リーフ!お願い、死なないでっ!」

 ドロリスは女になど目もくれず、地面に倒れ伏したリーフの側に膝をついた。

 重傷のリーフの身体を揺すり、ドロリスは涙を流した。

 リーフは揺すられて広がる傷口に、呻き声をあげること以外できなかった。長時間の出血に、血の気も引き始めている。

「あん畜生め……」

 籠城中のリンの口から本日一番の殺気が篭った台詞が零れた。

 遠くから見守るしかないリンとしてはドロリスの頭をぶち抜きたい衝動に駆られたが、的がリーフに近すぎるため安易に狙うことができない。

——あのー、リンさんお願いですから早まった真似は……

「分かってるわよ、それくらい」

 ドロリスにほっぽり出されて床の上に転がるイーハンの忠告に、リンは不機嫌そうに返した。此処で外に出れば、部外者である彼女は間違いなく蜂の巣にされてしまう。

 今、五体満足で動けるのはリンだけなのだ。感情的に動くよりも、あるのかないのか分からない奇跡に賭ける方が勝算があるのは正直癪だったが、その時を待つより他はない。

 女の勘、と言うより他にないが、リンには不思議と奇跡が起こる確信があった。


「ああ、分かった。シルヴィアなのね」

 二人の似た髪色を持つ者を見比べるうちに、女の絶望した目に狂気が宿っていた。

 女は泣き叫ぶドロリスの肩にそっと手を置いた。

「嫌っ!」

 ドロリスは女の手を跳ね除けた。女がリーフの敵であることには気付いているようだ。

「あら、シルヴィアはこんなにお転婆だったかしら、ロギエ?」

 いつの間にか、女の背後には騎士が一人立っていた。ロギエと呼ばれた彼は抵抗させる暇すら与えずドロリスを拘束した。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!助けてリーフッ!」

 ドロリスは暴れたが、か細い腕で足掻いてみせても拘束は微塵も揺るがなかった。

「ええそうね、これはリーフ、処刑し損ねた大罪人だわ」

 女は立ち上がり、血の池に沈むリーフを見下した。

「そして、あなたはシルヴィア、私の愛しい娘よ」

 女は嫌がるドロリスの頭を優しく撫でた。目には狂気と共に優しさがあった。

「違うっ、私はドロリス! 助けてリーフ!」

「いいえ、あなたはシルヴィアよ。ああ、シルヴィア、あなたはもう一度私にやり直させてくれるのね」

 女は喚き続けるドロリスの頭を力尽くで押さえつけ、祈るように目を閉じた。

「ロエール様、これも御身の導きなのですね」

「教皇陛下、この者はいかが致しましょう」

 騎士は女に問いかけた。

 答えなど、既に決まっているも同然だった。

「これは、シルヴィアではないわ。ただの異端者、ただの殺し屋よ」

 女がリーフを見る目は、先程と打って変わって冷たいものだった。悲しみのあまり狂気に堕ちた彼女を諌める者は誰もいない。

「放っておきなさい。このまま捨て置けば、いずれ魔剣に食われて死ぬでしょう」

(やっぱり、そうなのか……)

 リーフの指先はもう冷たくなっていた。最早、剣を握れる程の力も感覚も残っていない。

(最初から愛など無かったんだ。それなら、は……)

 許してはならない、『彼女』の名の下に——




「ああああクッソうぜええええっ!」

 黒い影がひび割れた石畳の間から染み出す暗い灰色のもやを薙ぎ払った。

 其処は、赤黒い光が天上を覆う廃墟だった。壊れた絞首刑台に見渡す限りの死体の山——ギルが決して忘れてはならないと誓った惨劇の舞台を模した、彼だけの居場所だ。最近は、リーフを招き入れた時のために綺麗な椅子と机も用意している。

 本来ならば、ギルが自ら招いた者しか覗くことができない場所だが、其処に無粋な侵入者が押し寄せていた。

 ギルの居場所に無理やり入り込めるのは、ギルと同じ魔剣の魂のみ。

 今はまだ小手調べとしてもやのようなものしか届いていないが、ギルが力尽きる頃合いを狙って本体の魂も顔を出すだろう。

「ちょこちょこ手ぇ伸ばさずに男らしくバシッと来いやぁっ! どうせ魔剣なんざ男ばっかりなんだろ、知ってんだかんな!」

 影は牙を剥き出して吼えた。不揃いな両腕は刃のように鋭く、振るう度にもやは千切れとんで消えた。

 向こうの真の狙いは、ギルが守るリーフの魂である。

 憑依霊デモニアのギルが立ち塞がる限り、他の魔剣は直接リーフの魂に触れて食らうことはできない。故に、ギルの攻撃をくぐり抜けてその奥に守られた魂を掠め取るか、ギルごと魂を食らうかの二択を迫られる。

 敵は前者を選択した。例え限界まで疲労していても、ギルが食らわれるような存在ではないことを本能で悟っていたからだ。

 そこで、ギルがリーフの魂を守り続ける限り攻勢に打って出られないのをいいことに、じわじわと攻めてギルの疲労を蓄積させていた。

 ぜえぜえと息を切らせながらも、影はもやを全て追い払っていた。しかし、限界は意外にも早く訪れた。リーフの生命力が急激に弱り始めたのだ。ギルの力の供給源であるリーフが先にくたばってしまっては、元も子もない。

「クッソ、コレだから話の通じねぇ頭が俺より馬鹿なケダモノ共は嫌いなんだよ。こうなったら——」

 影は湧き上がり続けるもやに背を向けて一直線に駆けた。

「すまねぇけど先に報酬を頂くぜ、リーフ」

 罪悪感に襲われながらも、影は一番先にリーフの魂を食らうため廃墟を走り抜ける。その足取りに一切の迷いはなかった。

「さて、それはどうかな」

 影が側を通った建物の陰から、見知った人影が現れた。

 白い衣服に身を包んだ、月色の髪の涼やかな顔の男だ。

「あ、テメ——」

 次の瞬間、突風が押し寄せた。影は完全に不意を突かれ、為す術もなく来た道へと吹き飛ばされた。

 突風には白いものが混ざっていて、まるで吹雪のようだった。




  ぐしゃり


 その音は喉から発せられた。

「ぐへあ?」

 女の目が驚きで見開かられる。

 女の視界は突然上下に反転し、次の瞬間赤へ、そして永遠の闇へと落ちた。

 もし女の目が事切れる直前までの光景を見ていたならば、首の無い自身の身体が吹き飛ぶ様が見えていた筈だ。

 女が立っていた場所のすぐ側に立ち尽くすリーフは真正面から女の鮮血を浴び、元々血塗れだった身体が頭まで更に赤く染まった。

 あまりの予想できない事態に、泣き喚いていたドロリスも一時言葉を失った。

 リーフの口元には千切れた銀髪が数本垂れていたが、軽い音と共に吐き出されて宙を舞った。赤い雫がリーフの顎を伝って落ちた。

「き、きさ、きさま、貴様ぁ!」

 騎士の一人がリーフに斬りかかった。リーフは両腕と左足を魔剣に食いつかれたまま、剣も手に持たずにただ立っていた。

「ぎゃあっ!」

 リーフは一歩も動かなかった。騎士の姿さえ視界に入れていなかった。

 騎士は、リーフに食らいついていた魔剣に切り裂かれた。三つのトラバサミはあっさりとリーフから離れ騎士の肉を貪り食い始めた。

 魔剣が離れたリーフの傷口を鱗のような白い結晶が覆い、出血が止まった。結晶はそのまま成長して肩を這い登り、翼のような形へと変わっていった。

 白く、しかし所々に黒い羽根の混ざった両翼はリーフの髪と同じ色をしていた。

「きゃっ」

「貴様!」

 拘束していたドロリスを脇に投げ捨て、騎士が剣を抜いた。

 リーフもまた、騎士の動きに呼応するように腰の剣を抜いた。敬月教の騎士が扱う、三日月の意匠が入った剣だ。

 勝負は一瞬。騎士の目に剣が突き立てられ、目玉もろとも脳を切り裂いて即死。剣を引き抜いた傷口からは血と脳漿がこぼれ落ちた。

 倒れる騎士の死体に、ドロリスは息を呑んで震えた。

 リーフは死体を踏み越え、後詰の部隊へと歩を進めた。

「き、教皇陛下の仇ーーーーーっ!」

「うおおおおおおおっ!」

「討ち取れえええええええええっ!」

 リーフの只ならぬ雰囲気に押されながらも、近衛騎士たちは鬨の声をあげて一斉に突撃した。

 月色の翼が羽ばたき、一人の騎士の喉に剣が生えた。間髪入れずに別の騎士の首がとんだ。鎧ごと心臓を貫き、耐え切れずに剣が折れた。

 リーフはあっさりと剣から手を離し、事切れた騎士が腰につっていた同じ剣を奪う。

 それでまた何人も屠り自らを血に染め、剣を折り、また奪い、再び鮮血を散らせ、折り、奪い、殺し、殺し、殺し、奪い、殺し、殺し、殺し、殺し、奪い——いつの間にか、全ては死んでいた。

 重武装の近衛騎士隊はぬらぬらと鮮血で光る剣の欠片と共に葬り去られていた。高台から銃撃していた支援部隊も、誰一人として立ち上がらない。

 血の匂いが強く香る広場で立っているのはリーフ唯一人。

 その足元には、四つん這いで震えるドロリスの姿があった。

 惨劇を目にして、ドロリスは激しく嘔吐していた。

「酷い、酷いよ、リーフぅ、あんまりだよ……」

 ドロリスは泣きじゃくりながらリーフの顔を見上げ、ひっと声を上げた。

 リーフの顔は人のそれではなかった。表情が無い、などと言う表現でさえ生温い人形の面で、僅かな怒りも悲しみも喜びさえもなく、条理のためだけにただ殲滅する異形の戦士の姿だった。

「あんた誰ぇっ! あんたなんかリーフじゃないっ、リーフじゃ」

 狂乱するドロリスの胸が斜めに裂け、それきり動かなくなった。

 リーフは剣に付いた血を払い、腰の鞘へと戻す。同じ規格で製造された剣は、異なる鞘であるのにぴったりと収まった。

 リーフの背中の翼は静かに空気へと溶けて消え、空いた背に落ちていた魔剣ギルを拾って戻す。リーフの格好に比べて、魔剣はとても綺麗な状態だった。

 監獄の扉がゆっくりと開き、一部始終を見ていたリンが恐る恐る外へと出た。

 今のリーフに近づいて下手を打てば殺されかねない。

 ふと、リーフは地面に膝をついた。

「おげええぇぇぇぇっ!」

 びちゃびちゃと水音が響き、赤いものが混ざった液体が地面に跳ねた。

「おいそこのクソ女、とっとと手を貸しやがれ。コイツ立ったまま気絶しやがっ——うっ」

 場の雰囲気にそぐわない軽快な言葉遣いに、リンはぶん殴りたくなる気持ちを抑えてリーフギルに駆け寄った。

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