聖ギリスアン教国 聖都

第6話 天使が死んで、生まれた日・上

 かつて地上で神と人が共に手を取り合い、暮らしていた時代があったという。

 神々は超常の力を人に与え、人はそれを利用して現代と比較にならないほどの高度な文明を築き上げていた。神の力は平等に与えられ、人は飢えも貧困も大きな争いもない、理想郷とも呼べる世界で平和に暮らしていた。

 神も人の知恵に敬意を払い、驕ることなく人を守護し続けた。お互いの関係は永遠に続き、理想郷は完全無欠なものと思われた。

 ——しかし、理想郷は悪魔によって全て破壊されてしまった。

 力なき人の台頭を快く思わなかった幾柱かの神が、悪魔と名乗り神と人に牙を剥いたのだ。

 悪魔となった神の数は全体から見れば極一部でしかなかったが、彼らは有数の戦いの神であり、平穏を望む神々と互角以上の力を有していた。悪魔は人に味方する神々を囚え、神と人が協力して創造した遺産を破壊した。時には、人ごと町を滅ぼすことさえあった。

 善き神は人を庇い悪魔の侵攻を防ごうとしたが、悪魔の振るう絶大な力の前に多くの神は圧倒されていった。

 倒れ臥し悪魔に屈服していく善き神々の中で、只一柱、白き守護の神ロエールは決して悪魔の軍勢に屈しなかった。

 ロエールは神の中でも随一の守りの力で弱き民と争いを好まぬ神を庇護し、眷属と共に悪魔を打ち倒していった。

 そして、遂にロエールは悪魔の頂点に立つ魔王ルイノエを封印し、人の世界を取り戻した。

 人々はロエールを守護神として崇め、ロエールは彼らの信仰に応えるために自らの子を人の世界へと送った。

 それが、敬月ロエール教の——リーフ曰く、今のところ世界で一番救われない宗教の——初まりである。




 平原は、青々とした若い麦の絨毯に覆われていた。

 まだ少し涼やかな春の空気が心地よいが、天上を照らす太陽は夏の日差しを投げかけつつあった。農民たちは日差しを避けるために帽子をかぶり、麦を掻き分けて草取りや水やりに精を出している。

 広大な麦畑の外縁は土で高く堅く盛り上げられ、道になっていた。道の広さは馬車が二台並んで通れる程度で、多少整備された田舎の街道という雰囲気であった。

 薄汚れた一頭の小さな農耕馬に引かれて、農具を積んだ馬車が道を進んでいた。馬車には幌がなく車輪も安い木製で、持ち主があまり裕福ではないことが見て取れた。実際、馬車の所有者はくたびれた壮年の農夫であり、彼は御者台で手綱を握り、その妻は隣で背中を丸めて座っていた。

 自分の馬車のものではない蹄と車輪の音に気付き、農夫が視線を少し上げた。道の先から一台の馬車が近づいてきているのが見えた。

 逞しい二頭の馬に引かれた馬車は屋根付きで、屋根の端に羽根を模した飾りをつり下げていた。国家公認の巡礼者用馬車の証だ。

 農夫は自分の馬車を道の端に寄せて、対向する馬車に道を開けた。農民同士の馬車なら少しぶつかった程度で揉めることはないが、お上の馬車といざこざを起こすのは避けたかったからだ。

 巡礼者用馬車は悠々と農夫達の横を通り過ぎた。農夫は少し帽子を上げて馬車に黙礼した。

 農夫の馬車とすれ違ってからは、特に出会う物もなく、敬虔な信仰者を乗せた馬車は麦畑の間を平穏に進んでいった。

「あらあら、成長不良?」

 リンは馬車の窓から、初めて見る景色をじっくりと眺めていた。今までの道中が森や荒れ地といった人の営みとはかけ離れた場所だったので、人が動いている風景が余計に新鮮だった。

 周辺国ではもう夏麦を刈り取る準備に差し掛かっている頃合いだが、ここの麦は実を結ぶにはまだ背丈が低く穂の成長も進んでいなかった。

「この国は盆地で、春が来るのが少し遅い。そのせいで麦の種まきが遅いけれど、夏の陽気が来れば成長はすぐに追いつく」

 隣に座ったリーフがぼそぼそとした声で言った。窓には一切目を向けていなかったが、リンが何を見て言っているのかは察しがついているようだった。

「へぇー」

 リンは横目でリーフをちらりと見た。

 リーフが髪の色を煤と泥で土色に誤魔化し、男のような振る舞いをしているのはいつものことであったが、服装も普段と少し異なっていた。

 リンから借り受けた革の上着をきっちりと着込み、同じくリンの防塵用マフラーを巻いて顔を隠していた。リーフはさらに帽子も借りてかぶるつもりだったが、煤で帽子の内側が汚れてしまうことを嫌ったリンに却下された。マフラーなら、簡単に洗濯できるので別によごれてしまってもよいらしい。

 リンが着ていれば可愛らしさと胸を強調する上着なのだが、何故かリーフが着ると男らしさが増し、自然とリンの胸もときめいた。むしろ、リーフの古びた黒い外套より清潔感がある分、機能的かどうかは抜きにして、格好良さはこちらの方が上だった。

 ちなみに、片手剣は布に包んでリンの荷物と一緒に保管し、両手剣だけ見えるように持ち歩いていた。その両手剣は邪魔にならないようリーフの足元に横たえてあった。

 華奢な外見には見合わない大層な武器だが、リーフの妙に堂々とした雰囲気のせいで何故かしっくりときていた。

「それより、もう少し上品に振る舞ったらどうだい」

 リンはきょとんとして、今の自分の体勢をかえりみた。

 リーフに衣服を貸したリンは、代わりにロエール教の修道女の格好をしていた。

 漆黒のワンピースに白い付け襟を重ね、首元は白いスカーフで締めている。さらにスカーフの上には、敬月教のシンボルである月と翼を組み合わせたマークが刻まれた、白銀のブロンズ製のブローチを留めていた。ワンピースは踝にまで届く丈なので、軍用ブーツはあまり目立っていない。

 銃のホルスターやウエストポーチのベルトは全て荷物の中にしまい込んでおり、今に限って言えば、完全に武装解除したごく普通の女の子だった。

 そんな服装をしているというのに、リンはすっかりいつも通りの軍用ズボンを履いている調子で、馬車の座席の上で膝立ちになって外を眺めていた。どこからどう見ても、慎み深い敬月教信者ではなく、田舎から出てきた世間知らずの少女だった。

 そのことに気付くと、リンはばつが悪そうに外を眺めるのをやめてリーフの隣に大人しく座り直した。

「リーフさんはお詳しいのですね」

 馬車に乗っていた別の客がリーフに声を掛けた。

 リーフ達と然程歳の変わらない、修道女の娘だ。栗色の巻き毛と柔和な顔立ちがとても人懐っこそうに見え、そして実際人懐っこい性格のようだった。こちらは本物の信者であり、リンと違って大変お淑やかだ。

「この辺りに、何度か仕事で来たことがあるだけです」

 返事はしたが、リーフは娘と目を合わせようとはせず、視線を避けるように更にマフラーを高くたてて顔を隠した。

 リーフはあまり社交的ではないが、ここまであからさまに人を避けるのは珍しいことだった。

「リーフはね、こう見えてすっごく頼りになる護衛なのよ」

 リンは身を乗り出して、気まずくなる前に娘とリーフの間に割り込んだ。

「私が今年、どうしても聖都を見に行きたいって言ったら、うちの教会の皆が一斉に反対したんだ。でも、リーフがついているんならいいって許可してくれるくらい凄いんだから」

「す、凄いわね」

 リンが目を輝かせながら捲し立て、娘はその勢いに押されて反射的に頷いた。

「リーフがいてくれたら、モンスターだろうが悪魔だろうが目じゃないわ」

——っつーか、多分悪魔より怖ぇだろ。

 リーフは無言で足下に置いた両手剣を踏みつけた。ブーツの踵の、金属が仕込まれた部分でぎりりと剣の柄を踏みにじり、柄は馬車の板に軽くめり込んだ。

 リンもほんの一瞬、両手剣に視線を向けたが、すぐに娘に向かって、リーフの凄いところを演説し始めた。無論、話の殆どが虚構だった。

 リンが語るお伽噺の中では、リーフは突如片田舎に現れ、盗賊を何回も撃退し、家畜を獣から守り、村人に取り憑いた妖魔を祓う手伝いまで買って出た救世主だった。もちろん、その過度に誇張された話を本気で取り合うわけもなく、娘は曖昧に笑って流し聞きしていた。

 同じ馬車に乗った他の客達も、苦笑を浮かべて夢見がちな少女を演じるリンを見ていた。

 結果的にリンのはっちゃけっぷりがよく目立ち、リーフの纏う嫌世的な雰囲気も、騒がしい連れに辟易しているように見えた。

 いつもなら、リーフは悪目立ちしない程度に周囲と交流できる。しかし、今のリーフにはそんな余裕はなさそうだった。

 外の様子を少しも見ようとせず、ただただ、険しい顔で視線を床に落としていた。両腕を胸の前でがっちりと組んで座り、馬車が石を踏んで少し揺さぶられた程度では微動だにしない。

 まるで、死地に向かう兵士のようだとリンは思った。

 そしてその見方は、残念なことに間違いではなかった。

 リーフは、これからこの国の最高権力を相手にして、死ぬ覚悟で戦うつもりなのだから。




 聖ギリスアン教国は、守護神ロエールを祀る敬月教の発祥の地であり、その都はロエールの降り立った地として崇められ、聖都と呼ばれている。

 かつて、敬月教はモンスターに怯える人々の心の拠り所として、モンスターの闊歩する外地イパーナと接した殆どの国で厚く信仰を集めていた。

 しかし、銃を始めとする対モンスター兵器の発明と、モンスター防除の植樹活動が確立されると、リドバルド王国のような大国では急速に廃れ始め、王権が擁立する土着の宗教が優勢となり権力を失っていった。

 今となっては、敬月教は資源に乏しく植樹にも不向きな南の荒野の地と、聖地を擁するギリスアンでのみ信仰されている。僅かな武力で小康状態を保っている国々では、未だ宗教による固い結束が必要不可欠なのだ。

 衰退しつつあることは否めないが、それでも敬月教の影響力は十数カ国に根強く残っており、遠い東の地でもその名は知れ渡っている。

 二人を乗せた乗り合い馬車は、聖都に到着した。

 聖都は、長大な白い城壁に囲まれた城塞都市だった。

 白亜の城壁はそれほど高さはないが、四方に併設された巨大な監視棟に武器が備蓄され、モンスターの襲撃から都を守っていたことは想像に難くない。外地との境が遠くなった現代に、かつての暗黒時代の壮絶さを伝えていた。

 城壁の門の前には検問があったが、公認の印を吊り下げた馬車は止められることなく門をくぐった。

 門の先は、広大な通りに続いていた。門の幅よりも内部の通りの方が広く造られ、車道と歩道とを分けて石畳が敷かれている。建物は建築様式が揃えられ、整然とした町並みが通りに沿って形作られていた。

 その広い通りは都の中心にある大聖堂まで真っ直ぐに届いていた。かなり距離があるにもかかわらず、御者台の後ろの小窓からでも門の両脇に傅く天使の像が目視出来るほどだった。

 都市の中枢までの道が真っ直ぐで攻められやすいのは城塞都市としてあまり褒められた造りではないが、これは平和になってから外観重視で町並みを再建したためである。

 馬車は大聖堂に至る前に交差点で右折し、馬車の駅として設けられた広場で足を止めた。

 駅で待機していた役人が御者から乗客名簿を預かり、形ばかりの確認が交わされた後、リーフとリンは馬車を降りた。

「で、これからどうするの?」

 リンは、馬車の中でお喋りの相手をしてもらっていた娘に手を振りながら、リーフに尋ねた。

「その前に、重たそうな振りだけでもしたらどうかと思うのだけれど」

 リンの振る舞いにリーフの指摘が入ったのは本日で二回目だった。

 リンは少しだけ視線を落とした。手元の馬鹿でかい旅行鞄——大の男でも持ち歩くには苦労しそうな大きさと重量を誇る、まるで鈍器のような革張りの箱を、手提げ鞄のように持ち歩いている。

 通行人の何人かは、ごつい鞄と華奢そうに見える少女の組み合わせにちらちらと目を向けていた。リンは今更ながら、年頃の女性の膂力がいかに乏しいものかを思い出して、そっと鞄を路上に下ろした。

「……重たーい、リーフ持ってー」

 リンのわざとらしい悲鳴を聞き届けてから、リーフは無言で旅行鞄を持ち上げた。あまりの重さに少しよろめく。

 それでも両足で踏ん張り、できるだけ重心を安定させてからそろりそろりと歩き出した。

「近くに巡礼者向けの安い宿がある。案内しよう」

 できるだけ市民と目を合わせないようにリーフは宿へと向かった。

「本当に気持ち悪いくらい紳士的ね、ありがと」

 正体を隠すためとはいえ、まともに女の子扱いをされて、リンもまんざらではなかった。いつもなら、リンが煩いくらいに頼み込んでようやく予備の弾薬を肩に提げる程度なのだ。

 リーフは首筋をじっとりと汗で濡らしながら、宿まで荷物を運んだ。

 宿に着いて部屋に荷物を放り込むまでの間も、リーフは努めてリンを気遣うような態度を周囲に見せていた。部屋に入った後は、荷解きを全てリンに任せて宿から借りた新聞を広げていたが。

「明日は準備と休息に費やす。作戦の決行は二日後だ」

 宿から借りた二冊の新聞の記事を読み比べながらリーフはそっけなく言った。

「外出しても大丈夫?」

 リンは、普段着ている方のシャツを鞄から引っ張り出して皺を伸ばしながらリーフに問いかけた。

 観光目的で来たのではないが、珍しい町並みにリンの目は輝いていた。

 リーフは少し視線を上げ、顎に軽く指を当てた。

「大聖堂に近づかなければいい。ボクは外に出られないから、食事を頼みたい」

 変装をしているとはいえ、リーフは顔見知りに出会えば見破られる可能性が高い。その点、この国に一度として立ち入った事の無いリンならば余程のドジを踏まない限り自由に行動することができると考えたのだ。

「分かった、何かご注文は?」

「果物とパン、後は任せる」

 いつもと代わり映えのしない食事内容かつ曖昧な注文だったが、この町で出回っているものなら高い物から安い物まで大体食べた事があったので、リーフとしては地雷になるような食べ物がないことは知っていた。

「じゃ、観光楽しんできまーす」

 広げかけていた荷物を放り出し、修道女の格好のままリンは部屋を飛び出した。

 散々リーフが淑女らしくしろと言ったにもかかわらず、リンの足取りはとてつもなく軽やかで、宿の廊下を兎の如く駆け抜けていくのが聞こえた。

「リンに、貞淑な乙女の真似事はできないらしい」

——本性が猟犬か狼みてぇな奴に無茶言いやがるなぁ、テメェも。

 リーフの溜め息を伴った呟きに、どこからともなく声が応えた。軽薄そうな若い男の声で、神経を少し逆撫でするような響きがあった。

「ボクはいつでも切り替えができるのだけれど」

 姿の見えない声に対して、リーフは別に取り乱す風もなく冷静に返した。

 声の主は、リーフの所有する魔剣ギルスムニルに宿る魂だった。馬車の中で踏み躙ったあの両手剣である。リーフやリンのような魔戦士タクシディードにしかその声を聞く事はできないが、外では他の魔戦士と遭遇したときのことも考えて滅多に言葉を交わす事はない。今は周囲に盗み聞きするような者もいないので、リーフも特に罰を与えず相手にしていた。

——テメェが器用すぎんだよ。

 事も無げに言うリーフに対し、ギルは若干呆れていた。

——っつーか、何でテメェみたいなのにあの狼女はついてくるのかよく分かんねぇんだけど。骨でも投げて手なずけたのか?

「その言葉選びを意図的にやっているなら、やめておいた方がお前の頭の出来から考えて身の為だと言っておこうか」

——……はあ?

 リーフの忠告の意味を理解できなかったようで、ギルは生返事をした。

「分からないのなら別にいい。それで、リンがどうしてボクについてくるのかと言うと、それは退屈が嫌いだからだ」

 リーフは広げていた新聞をたたみ始めた。

「女の身で外地警備隊に所属し、縁談を全て蹴ってきたらしい。となると、己を国へと捧げる程の盲目的な愛国心を持っているか、平穏な日常が嫌いで死ぬ程の刺激を求める馬鹿のどちらかということになる。そして、ボクにくっついて国を出た時点で愛国者という線は消える。つまり、リンは只の狩人バカだ」

 本人の前ではとても口にできないような、身も蓋もない評価をリーフは下した。否、本人がいたとしてもリーフは堂々と言っていただろう。

——いや、そうじゃなくてだな。

「何か反論でもあるのかい」

 煮え切らない様子でギルはしばらくもごもご言っていたが、足りない頭なりに適切な言葉を組み立てられたのか、一息でこう叫んだ。

——俺はな、どうしてアイツがテメェにべた惚れしたのか聞いてんだよ!だからついてきてんだろ。

「惚れてるの?」

 リーフは目を見開いて、衝撃の事実を受け止めた。それなりに好意は抱かれていると思っていたが、そこまでとは予想外だった。

——いや、アレはどう見ても惚れてるだろ。女同士だが、まあテメェはほぼ男みてぇなもんだし。

 リンと出会ってからは一度もリーフは女性として振る舞ったことはなかった。女二人旅は目立つ上に馬鹿な輩が寄りつきやすく、都合の悪いことが多い。その点、男女組ならそれほど珍しくもなければ宿で一部屋取るのも楽である。

「否定はしない」

——それで、身に覚えは?

「……さあ、ボクには分からない。あまり碌なことはなかった気がするのだけれど」

 リーフはリンに出会った時のことを思い出した。

 野盗に見間違えられて一戦交えた末、僅差でリーフがリンを殴り倒したのだ。今にして思えば、リンがただの怪力で頑丈さが並より上程度だったからリーフが勝てたのだ。もう少し戦いが長引けば、逆にリーフが撲殺されていてもおかしくはなかった。

 そんな血みどろの出会いの中でリンがリーフに好意を持った切っ掛けが、リーフには全く思い当たらなかった。

——テメェが死んだら、アイツはどんな反応するだろうなぁ。

「リンは強かだからね、ボクがいなくてもやっていけるだろう。ここまで付き合ってくれたんだ、リンの分の帰り道くらいは確保してあげよう」




 日暮れ頃、宿に戻ってきたリンは大量のお土産を買い占めていた。

 食料だけでも瓶詰めにされた干し杏に、臭いの薄いチーズ、煮豆と肉のサンドイッチ、瓶入りの薄いビールと真水が一本ずつ、人参のピクルスの瓶、油紙に包まれた堅い焼き菓子、そして小瓶に詰められた蜂蜜。

 さすがにか弱い信者の格好で武器を買うことは控えたようだが、灯り用の油と安物の陶器の小瓶に真綿という怪しい材料が揃えられていた。先日、狩人とのギルの争奪戦で手持ちの火炎瓶を使い果たしていたので、その補充のようだ。

「さあ、ご飯にしよ!」

 最後に、簡素な木の額縁をテーブルの上に伏せて置くと、リンはサンドイッチの包みを開いた。

 リーフはサンドイッチよりも先にビールへと手を伸ばし、ラッパ飲みで喉を潤した。リンは酒を飲まないので、これはリーフの分だ。

「短い時間だったけど、見て回った感触としてはかなり治安がよさそうな都市ね。警吏が巡回してるから揉め事が起きにくいし、こっちの区画には掃き溜めもなかったし」

 サンドイッチをちまちま齧りながら、リンは外の様子をリーフに報告した。観光を楽しみつつも、自分達が此処に何をしにきたのかは忘れていなかった。

「食べ物はそこそこの値段で美味しいものが食べられるし、水も綺麗なのが比較的簡単に手に入る部類かな。経済的にも安定している感じ?後、大聖堂には近づかなかったけど、怖ーい教会騎士が警備しているのがちらほら見えたよ」

「……」

 リーフは黙々とサンドイッチを食べていた。まるでリンに意識を向けていないように見えたが、リンは構わず喋り続けた。

「で、こっそり近づいて——あ、見つかってないからね——教会騎士が身につけている剣を見てびっくりしちゃった。だって、リーフがいつも腰に提げてるヤツとそっくりなんだもん。さらに、巡礼者向けの土産物を取り扱っているところでもう一度びっくり」

 リンはサンドイッチを持っていない左手で、テーブルに伏せた額縁を起こした。

 安っぽい額縁の中には、一枚の版画が収まっていた。柔らかな黄色の漂白されていない紙に、黒と白のインクで少女の肖像画が刷られている。豊かな白い長髪を持つ、修道女の服を着た美しい少女だった。

 少女の顔は、険の無い時のリーフと酷似していた。

 リーフは版画にちらりと目を向けただけで、すぐにサンドイッチを食べる作業に戻った。

「この虫も殺せそうにないか弱い女の子は、次の敬月教の教皇の最有力候補らしいよ。一枚買ったついでに店員に聞いてみれば、二月ふたつき程前に異端者共に襲われて負傷して、それから表には出ていないって」

 敬月教には幾つかの宗派があり、現代において正統とされるもの以外は、異端として弾圧されている。

 異端と目される集団のうち、弾圧に耐え忍びながらも聖都で活動を広げていたのが、革新派と自称する一派だった。

 敬月教の教皇は、守護神ロエールが民の下に遣わせた実子の子孫から選出される決まりとなっている。それも、単純に血統を継いでいるだけではなく、ロエールの身体的特徴である生まれながらの月色の髪——則ち銀色に黒が少し混ざった髪色を持つ者でなければならなかった。

 それに対して革新派は、現在の神族血統主義を時代遅れのものとし、教皇を血統ではなく枢機卿から選出すべきだと主張した。その思想は、途絶えつつある教皇の血統に不安を抱く一部の教会幹部からも徐々に支持を集め始めていた。

 しかし、神の直系である教皇の絶対性を疑わない一般教徒からの声は冷たく、殺し屋を雇い入れているとの噂も相まって、恐怖の対象として見られていた。

 それがとうとう正統派と武力衝突し、敗北した——というのが表向きの顛末である。

「虫も殺せそうにない……って、本気で思っているのかい?」

 ようやくリーフが口を開いた。表情は全く動いていない。

「少なくとも、一般市民はそう思ってるっぽい。でも、私は何故かもの凄くよく似た美人が遠慮容赦なく人斬ってるのを飽きちゃうくらい見てるから、血の海の真ん中で立っていても驚かないかも」

——俺なら、このお嬢様がナイフで死体の目ん玉くり貫こうが、女子供を蹴り殺そうが驚かねぇぜ。

 おどけたリンに乗っかって、ギルが血なまぐさいことを口走ったが、リンの口がちまちまとサンドイッチを齧る動きは鈍らなかった。

「よく似ているんじゃなくて、実際本人なのだけれど」

 ぶはっ、とリンは折角食べ終わりかけていたサンドイッチを噴き出した。気管に入りかけた豆の欠片を出すために、更に大きくむせた。

 しばらく咳き込んで、ようやく呼吸が落ち着いてから、リンは苦笑とも呆れともつかない顔でリンに問いかけた。

「……断言しちゃって、いいわけ?」

「他人のそら似か、生き別れの双子の姉か妹とでも誤摩化してしまった方が良かったのかい。別に、君にボクの正体が知られても何も困らないし」

 三つ目のサンドイッチに手を付けながら、リーフは静かに言った。

「その通り、ボクがローエル教現教皇の養女にして次期教皇候補の、シルヴィア・アンネ・ギリスアンだ」

 まあ、もう教皇にはなれないけどね、そもそもボクは元から教皇の血筋とは違うみたいだし、とリーフはどうでもよさそうに付け加えた。

「困るわけじゃなかったら、どうして教えてくれなかったの」

 少し拗ねた口調で、リンがリーフに問いかけた。

「言ったところで信じられるわけがないだろう?ボクの振る舞いと目的には見事に合致しないのだから」

「……確かに」

——まあ、頭イカれちまったって思うな。

 リンとギルは、すぐに腑に落ちたようだった。

 リーフがリンと二人きりでいるときに時折見せる女性としての仕草に、貴族の作法がにじみ出てきてしまうことはあった。だが、村を一つ潰して魔剣を奪い、ちょっかいをかけてきた狩人を血祭りにあげるような人物を誰が聖職者だと思うだろうか。

 むしろ、何故そんな深窓の令嬢が剣を振るえるのか問い詰めてもよいくらいだ。尤も、これはリンにも言えることだがリンには軍属だったという職歴がある。

「ということは、聖都に流れている噂は……」

「勿論全て出鱈目さ。事実が外に漏れ出せば、暴動が起きるだろうからね」

 リーフは食べかけのサンドイッチをテーブルに置いて、残ったビールを一気に煽った。

「事実はこうだ。教会幹部を暗殺しようとした殺し屋を取り押さえたら、それがボクだった。たったそれだけのことだよ」

 リンの指の上に自分の指を重ね、リーフはそっと額縁を伏せた。




 治安の良い聖都にも、寂れた区画が存在した。

 正門区から南へと向かった先の、住居が密集した南聖徒区の更に奥、城壁に塞がれてしまった門の跡が残る区画だ。

 旧教区と呼ばれる、四百年前までは聖都の中心として機能していた場所である。

 そこは多くの異端派や異国からの流れ者、或いは訳あって聖徒区から追われた住民が隠れ住んでいた。しかし、教会騎士によって一掃され、今では殆ど住民がいない様子だった。

 二人が宿泊していた正門区からは遠く離れていたために、リンも旧教区の存在には当初気付かなかった。

 正門区の整備された町並みとは異なり、道の石畳は傷んで所々ひび割れ、雑草が隙間から芽を出していた。古びた家々の塗装も長年風雨に晒されたことによってあちらこちら剥がれており、ドアの壊れた廃屋も目立った。

 ガス灯のない黄昏時の通りは不安をかき立てる程に薄暗く、リンは警戒心を募らせた。まだ修道女のふりをしているため武装しておらず、奇襲には対応しきれない可能性がある。

 しかし、リーフは勝手知ったる様子で、通りを奥へ奥へと進んでいった。

 迷路のような狭い路地を抜け、裏通りを進んだ先には古い教会が建っていた。

 周囲の建物と同様に外壁はぼろぼろで、白く塗られた壁の所々から中の煉瓦がむき出しになっていた。取り壊されたのか、それとも取り外されたのか、窓には硝子もない。

 信徒達を受け入れるための観音開きの扉には杭が打たれ、その上から何重にも鎖をかけられている。

 それだけを見れば只の廃れた教会だった。

 だが、リンは其処に何かがいることに気付いていた。人ならざるものの血は、リンに常識はずれの膂力だけでなく、優れた直感ももたらしていた。

 この教会は意図的に外部から隔絶されている、とリンは確信した。

 誰かが中に入り込まないように、何かが外に出ないように。

「待って」

 リンの静止に、リーフは立ち止まって振り返った。

「何か、気味が悪いんだけど」

「それはそうだろう、此処には魔剣が封印されているから」

 リーフは背中の魔剣を抜き放つと、扉の鎖を叩き斬った。

  ばんっ!

 鎖が切れただけで、教会の扉が勢いよく外へと開いた。リンは反射的に半歩後ずさり、いつもならホルスターのある右腰に手を伸ばした。

——行動がいちいち煩ぇな、騒動霊ポルターか?

「今日は察しがいいね」

 突然開いた扉に驚くこともなく、リーフは魔剣を携えたまま教会の中へと入った。

 一瞬躊躇ったが、リンもその後に続いた。

 教会の礼拝堂の中は、伽藍としてとても寒々しかった。

 本来なら、長椅子が整然と扉から祭壇までの間を埋めているのだが、重たい筈のそれらは一切撤去され、枯れ葉と埃が無秩序に散乱していた。

 表と同様にどの窓にも硝子はなく、空っぽだった。祭壇の後ろに控える大窓に至っては、朽ちかけた木材で塞がれるという屈辱的な仕打ちを受けており、教会の中で最も明るい場所である祭壇を、暗く陰気な場所に仕立て上げていた。

 リンは、大窓を覆う木材のうち右下の板が剥がされ、人一人が通れるくらいの穴が開いていることに気付いた。

「もしかして、この穴開けたのってリーフ?」

 穴を指差し、リンはリーフの背中に問いかけた。

 リーフは、祭壇の死角にある錆び付いた鉄の扉を開けようして苦戦していた。

「そうだよ、ボクが中央区から逃げ出すときに開けた。無闇に覗き込まない方がいい、裏は低地なうえに真下は墓石だよ」

 リーフの忠告に、穴に近づき身を乗り出そうとしていたリンは、一瞬固まった後、前のめりにならないように注意しながらそっと外を覗いた。

 教会の裏は小さな墓所になっていた。教会同様、草の生えた荒れ放題の墓所で、言われた通りリンが覗いている真下には崩れていない墓石が建っていた。頭から落ちれば、間違いなく頭蓋をかち割られてしまうだろう。

 背後から聞こえたずしん、という重たい音に、リンは穴から頭を引っ込めた。

 思い通りに動かない錆び付いた扉に業を煮やしたリーフが、魔剣で扉を破壊していた。

 扉の向こう側は、地下へと続く階段がのびていた。どことなく嫌な空気が、階段の奥から漂っていた。

——この先だな。

「下に降りるよ」

 リーフは魔剣を背負い直し、扉の残骸を越えて階段を降りていった。リンもその後に続く。

 それほど長くない階段の終点は、地下墓所だった。

 半地下であるらしく、天井付近には鉄格子の嵌められた明かり取りの窓があった。

 そのおかげでランプを取り出さずとも、日没間近の頼りない光を頼りになんとか室内の様子を確認することができた。

 壁は一面タイルで装飾され、部屋の中央には棺が安置されていた。棺のその奥には、馬に乗った聖人の彫刻が、本物の短槍を小脇に抱えた形で飾られていた。

 それなりに威厳のある彫像なのだろうが、見る影もなく汚れがこびりついてしまっている。

 一部の汚れは長年降り積もった埃と、窓から吹き込んだ泥だ。その他の大半は、乾いた血痕と肉片だった。彫像の足下を見れば、ミイラとなった小動物の潰れた死骸が積み重ねられていた。

 中々気味が悪い光景だったが、リンには魔剣の仕業だろうとすぐに想像がついた。

 おそらく、彫像が抱え込んでいる槍が魔剣なのだろう。餌として、外から小動物を引き込んでいたようだ。

「久しぶりだね、イーハン」

 リーフは、槍に向かって声を掛けた。

 その瞬間、辺りに漂っていた陰気な空気が吹き飛んだ。

——ああ、誰かと思えばリーフさんでしたか。

 弱々しい男の声が、短槍のある方向から聞こえた。

「契約通り、助けにきた」

——本当に、本当に僕も外へ出られるんですね!

 喜びを噛み締め、像に埋もれた槍は僅かに震えて埃を立てた。

「リーフ、こいつは何?」

「魔剣イルハールス、歴代の教皇に一時の自由を与えてくれていた、隠し通路の番人だよ。尤も、ここ百年は神の血も薄れて、契約者がいなくなってしまっていたけれどね」

「それで此処が封鎖されていたわけね」

 リンはようやく納得がいった。

 魔剣を単に武器として扱うならば、理論的には誰にでもできる。しかし、複雑な意思疎通をするためには——特に騒動霊の場合は——魔戦士タクシディードである必要がある。

 例えこの道の存在を知る者がいたとしても、魔戦士でなければ入り口を開く鍵すら見つけられず、契約していない魔戦士にも道は開かれないだろう。同系統の魔剣なら、こじ開けられる可能性はあるが。

 教皇の家系が魔戦士であるからこそ可能な、安全な通路だ。

 その血が殆ど絶えてしまった現在、誰にも通ることができなくなったため、簡単に封鎖して放置してあった。それが皮肉にも、教皇に反旗を翻したリーフに発見されたのである。

「イーハン、道を開いてほしい。そうすれば君を戒めから解放してあげよう」

——分かりました。

 言うが早いか、かちりと音がして壁の一部が窪んだ。

 リンが窪んだ場所を軽く手で押すと、抵抗なく壁は下がり、ぽっかりと空洞が見えた。

 リーフは魔剣ギルを抜き、彫刻に向かって二度振り下ろした。

 聖人の彫刻の腕と馬の頭の一部が切り落とされ、短槍は死骸の上に転がった。リーフが短槍を拾い上げた。

「もう少し、この先も付き合ってくれないかな」

——また契約をするのなら、いいですよ。

——俺の方の契約はどうなんだ?

 少し拗ねたような口調でギルが口を挟んだ。リーフが二重に契約していたことを黙っていたせいで、少し機嫌が悪いようだった。

「リンと契約すればいい」

「ええー」

 リンは反射的に嫌な顔をした。騒動霊は憑依霊デモニアより契約者の負担が軽いことを聞かされていたが、それでも契約に対する忌避感はまだ残っていた。

「イーハンが望むのは、十分な食事だよ。仕事終わりに動物を与えておけばいい」

——ええ、僕はお腹がいっぱいなれば満足です。

 意思が強く残っている魔剣は、契約で魔戦士との妥協点を見出すか、封印具の類で押さえつけなければ言うことを聞かない場合が多い。

 ギルのように半ば投げやりで契約するのも珍しいが、目的自体が単純な魔剣はもっと珍しかった。

「お手軽だね」

「それに、ギルと違ってそんなに強力な魔剣じゃあない」

——だろうな。さっきも、表は開けれたが鉄の扉は開けれなかったみてぇだし。

 木製の扉を開けることはできたが、錆びついた重い鉄の扉を開ける程の力はなかった。強力なものになると家一つを震わせる力を有する騒動霊の中では、イーハンは特別強いわけではなさそうだ。

——確かにそうですけど、お腹が減っていたせいでもあるんですってば。

「取り敢えず、今日の手伝い分として鶏三羽でどう?追加でもしかしたら人間の一人や二人いっちゃうかもしれないけど」

——最高です! ぜひお伴させてください!

 リンが契約の手始めとして報酬を提示すると、イーハンはすぐにのった。さりげなく敵の命も勘定に入れているが、リンの中では敵は人ではないので良心はちっとも傷まなかった。

——こんな単純で大丈夫か?

 ギルが少し心配そうにリーフに言った。

「これくらいの方がリンも割り切りやすいし、良い組み合わせだと思うけれど」

 そう言いながら、リーフは魔剣のベルトを外し、上着を脱ぎ始めた。

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