第8話 黒の聖騎士・上
空高く昇った半月には薄く雲がかかり、唯でさえ頼りなさげな光は余計に弱々しかった。
そんな弱い光の下でも行動できるように、聖都の中央区の夜間警備に従事している騎士にはカンテラが支給されていた。
正門区や信徒区といった城下にはガス灯が配備され始めているので、カンテラは必要ない。
だが、ロエール神の加護が深い中央区の古い建造物や聖都を取り囲む城壁は、人の手で壊すことができないため、警備にカンテラが必須だった。
壊せる技術が開発されない限り、カンテラ持ちの警備がこれからも延々と続くことだろう。
警備の騎士は二人一組で行動し、一人が灯したカンテラを持ち、もう一人が剣を持って警戒に当たるのが常だった。
その日も、二人組の騎士はいつも通り持ち場を巡回していた。彼らの持ち場は神官見習いが勉学に励む講堂周辺から監獄棟前の広場までだった。
広場に着いたら、監獄棟の警備に声をかけて、それから詰所に戻って煙草で一服するのが恒例だ。
二人は監獄棟の方向へと進もうと講堂の角を曲がった。だが、二人共そこで足を止めた。
監獄棟へと続く道の真ん中に、小さな置物が置かれていた。月と翼を組み合わせた紋章を胸に掲げた騎士の像で、騎士が被った兜の上には小さな水晶が埋め込まれていた。
この像は近衛騎士以外の立ち入りを禁ずる印であり、例え警備でも滅多なことがない限り、先に進むことを許されない。
カンテラを持った騎士が首を傾げた。今日の巡回は二回目だが、一回目のときにはこの像はなかった。
「おい、今日は何か行事があったっけか?」
剣を持った騎士も顎に籠手を嵌めた手を当てた。
「いや、特に何も」
二人はその場でしばらく記憶を探っていたが、思い当たる節はなかった。しかし、禁じられた場所に入るわけにもいかず、仕方なしに道順を変更して警備に戻ることにした。
二人が像に背を向けると、像とその周辺は再び闇の中へと沈んだ。
その時、像のある通路の先からかちゃり、と微かな音が響いた。
立ち入り禁止の場所に我関せずと決めた二人には、その音が届かない。何処を廻るのかを小声で話し合いながら、その場を立ち去った。
月の光が届かない講堂の影で、かちゃり、ちゃりと硬質な音が響いた。騎士の
音を立てている何かは、赤ん坊が這うようにゆっくりと、像の横を抜けていった。
音が曲がり角に差し掛かった時、二人組の騎士は既に遥か遠く、カンテラの灯りで判別できる程度の場所にいた。大きな講堂の側を歩いていた彼らは、まだ曲がり角から目視できる場所にいた。
金属でできたそれは、カンテラの灯りにまず気付き、続いて騎士達の存在を認識した。
粘性の液体に塗れた鋼の顎がかちんと鳴り、刃のような歯車ががちがちと音を立てながら狂ったように回り始めた。
人の頭よりも一回り程大きい、兜のような形をしたその鋼の何かは、内蔵された歯車の振動を使って弾けるように地面を走り、騎士達へと迫った。
歯車が立てる異常な金属音に、騎士達は反射的に振り向いた。
カンテラの灯りによって照らし出されたのは、疾走する鋼でできた肉食獣の頭部だった。
目は白玉、鬣は歯車、顎にはナイフの牙がずらりと並び、舌は波打つ剃刀――その全てに赤い色を散らしていた。
からくり仕掛けの獣の頭は薄明かりの中を野兎のように跳ね、がばりと口を開けて騎士達に飛び掛かった。
金属製の口腔は、どこもかしこも鋭く、何故か獣のような生臭さを放っていた。
「っ!?」
初めて見る異様な物体に若干怯みながらも、騎士は咄嗟に獣の頭の側面を剣で切りつけた。金属のぶつかる音が響き、講堂の外壁に獣の頭が叩きつけられる。
獣の頭は壁にぶつかると軽々と跳ね返り、二人から少し離れた位置に硬質な音を立てて転がった。
「な、なんだこれ」
「知るか、また来るぞ」
カンテラを持った騎士も利き腕で剣を抜いた。カンテラは左手で高く掲げ、異形の獣の頭の動向を照らした。
壁にいくらかの傷と赤い液体が付着したが、獣の頭に目立った破損はなかった。
獣の頭はかちかちと顎を鳴らしながら騎士達に向き直り、また剣を構えた騎士に襲い掛かった。
騎士は獣の頭に向かって剣を突き出し、この怪物をできるだけ遠くへと弾こうとした。手持ちの武器では鋼でできた謎の化け物を駆逐するのは不可能なので、せめて時間を稼ごうとしての行動だった。
だが、獣の頭にはさしたる障害ではなかった。
獣の頭は突き出された剣に迷わず噛み付いた。刃は硝子のように砕け散り、牙は一回空を噛んでから剣の柄を握る手に籠手ごとかぶりついた。
「あ?」
くしゃっ、と音を立てて騎士の手が潰れた。
目を剥いた騎士の手は、鋼の牙と舌によって幾重にも切り刻まれ一瞬で崩壊した。
「ああああああああああーーーーーーーっ!」
騎士が絶叫しのたうち回るが獣の頭は食らいついたまま離れない。
獣の頭は、蛇が獲物を飲み込むように徐々に腕を這い登っていった。腕は若枝が細かく折られていくような音を奏で、鮮血と鎧の欠片を撒き散らし、みるみるうちに挽肉へと変貌した。
「ば、化け物めっ」
あまりにおぞましい光景に腰が引けながら、それでも同僚を助けようと、カンテラを持った騎士が獣の頭へと剣を我武者羅に振りかぶった。
だが、闇雲に振られた剣よりも獣の頭の方が速かった。
獣の頭は出鱈目な剣筋をかいくぐり、ねっとりとした血と脂に塗れた牙が騎士の鼻先に触れた。
林檎を齧るような音が響いた。
カンテラが地面に放り出され、ばりんと音を立てて硝子に無数の亀裂が走った。
壊れたカンテラの灯りが消えた頃、そこには右半身をすり潰された騎士と頭のない騎士が残されていた。
夜更け頃、中央区を獣の頭が徘徊していることが分かるまでに十余名の騎士が食い殺され、監獄棟の周辺に散らばる惨殺死体が発見されるのにはさらにもう少しの時間を要した。
司教のチュニックの上に豪奢な青いローブを重ねた枢機卿は、扉の前で白髪混じりの栗毛を撫でつけた。
その間に従者が早足で乱れた枢機卿の襟を正し、ローブに付着した埃を払った。光を反射し、ローブに縫い取られた黒い天使が
近衛騎士によって議事堂の扉が開かれ、チェクルス卿は背筋を伸ばして静かに中へと進んだ。
煌びやかな筈の議事堂内は、昼間にもかかわらず光が陰っていた。陰りの元を辿ると、最も日当たりの良い南側の化粧硝子の窓に幕が降ろされていた。
その窓の下にしつらえてある、金細工の花と銀細工の翼で彩られた灰色の
本来ならこの場に教皇も出席する筈なのだが、その席には教皇の冠と一輪の白薔薇が添えられていた。
チェクルス卿はその席に黙礼し、自らの椅子に座った。
遅れたという立場上、痛い視線が複数突き刺さった。
「全くもって、此度の一大事に何をなされていたのかね、チェクルス卿。会議は既に始まって幾分か経つというのに」
息をつく間もなくラセルト卿から嫌味が飛んだ。ケルセビエ・ラセルトは元革新派の枢機卿で、原理派のチェクルス卿とは対立関係にある。
先日の騒動で革新派は表向き解体されているが、未だに権力闘争の派閥は続いていた。
「会議に遅れたことは大変申し訳なく思っている。だが、今日は礼拝を予定していたのでね。いくら緊急事態とはいえ、何も知らない無辜の民との約束は守らねばならぬだろう」
予想通りの言葉に、チェクルス卿は冷静に切り返した。非常時でも冷静さを保つ胆力を誇示し、今回の案件は一先ず外部に伏せておくという意思表示だった。
「卿は事を軽く考えすぎているのではないか、此度はこの敬月教の全てを揺るがす一大事なのだぞ!」
最年少の枢機卿フィーデルハルト・ゲッコーが声を荒げた。まだ三十代の若造でありながら、その頭脳から異例の出世を遂げた天才は、それでも老成した周囲と比べて感情的になりやすかった。
しかし、チェクルス卿は全く動じなかった。
「重々理解しているとも。監獄棟の門兵二名、及び近衛騎士団第一隊より第三隊までが壊滅」
チェクルス卿は、今回の被害について語り始めた。
「加えて、霊廟にて封印されていた魔剣〈神罰の楔〉の暴走により数十名の騎士が死傷。そして、何よりも心を悼めるべきは――」
一度言葉を切ってから、目を空席へと向けた。
「――ランシア教皇陛下の崩御、正確には暗殺でしょうな」
既に枢機卿内で周知の事実――外部にはまだ伏せられているが――とはいえ、チェクルス卿の言葉に表情を陰らせる者は多かった。
敬月教において、教皇は最高位の聖職者という意味のみに留まらない存在だ。後継者のいない今、敬月教は岐路に立たされていると表現しても過言ではない。
「チェクルス卿は、教皇陛下が暗殺されたとお考えですか」
エドワード・カメロイディエ卿が質問した。法務に詳しい、老齢の枢機卿だ。
「何らかの原因により、枷の外れた魔剣によって襲われたものではないと」
チェクルス卿が現れるまで、議会では教皇陛下の死因が議論されていた。
何しろ、当事者が誰一人として生き残っていないのだ。
あの場を立ち入り禁止にしたのは、現場で冷たくなっていた近衛騎士団の団長。その指示を出したのはおそらく教皇御自らだが、こちらも同様だ。近衛騎士団の副団長は生きているが、それは今回の件に何も関わりがなかったからで、団長から伝え聞いていたことはなかったそうだ。
教皇が近衛騎士団を動かした理由も、それが全滅した原因も、厳重に戒められていた筈の魔剣が解き放たれた過程の全てが不明だった。
余りにも情報不足な現状に、会議では魔剣の暴走による事故だの、暗殺集団の襲撃だの、或いは先日事実上粛清された革新派による誅殺という過激な説でさえ平気で飛び交っていた。
それ以外にも議論すべき事案は山のようにあるが、まずは誰が関わっているのかについて明らかにしなければ話は進まない。
なぜなら、中央区を含む聖都で最も権力を持っているのは、教皇と枢機卿だからだ。従って、不祥事には一人以上の枢機卿が何らかの関係性を持っているのは必然でもある。
要は、責任のなすりつけ合いをしていたのだ。
遅れてきたと文句をつけながら、何も進展していない議論に、チェクルス卿は内心で溜息を吐いた。
「実は、会議にはせ参じる前に現場を検分し、恐れながら陛下の遺体も確認した」
チェクルス卿の発言に、議事堂にざわめきが走った。
チェクルス家は由緒正しい騎士の家系であり、家長であるチェクルス卿は騎士団の実権を握る者の一人だ。騎士団に手を回すことは容易い。
それに、元騎士ということもあり、屍体の検分にも慣れていた。
「件の魔剣は人間に食らいついた後、死に至るまで肉を咀嚼するという特徴がある。しかし、陛下の遺体にそのような跡はなかった。陛下の遺体は、力任せに首を引き千切られていた――断面が非常に荒く、脊椎が引き抜かれていたので、これはほぼ間違いないでしょう。死角からいきなり首をもぎ取られたようで、陛下の顔には苦痛が浮かんでいなかったのが、唯一の幸いと言っていいでしょう」
血生臭い話題に不慣れな枢機卿達の顔が青くなっていたが、チェクルス卿は構わず続けた。
「とても人間業とは思えない様だったが、あれが魔剣のみの仕業ではないことは確か。他にも、監獄棟前の多くの遺体には刃物や銃による傷が確認されている。教皇陛下が近衛を連れ、人払をしてまであの場にいた理由は定かではないが、何者かに殺されたのは純然たる事実、と私の名誉にかけて公言しよう」
妄想に近い憶測しか口に出せなかった枢機卿達に、その言葉の重みがのしかかった。胆力のない者は、左右に視線を彷徨わせていた。
「それが事実であるなら、近衛騎士団に少なからず落ち度があるのではないか」
ラセルト卿が発言した。
ラセルト卿は生粋の文官だが、チェクルス卿の言葉に微塵も揺らがなかった。舞台は違えど、彼もまた歴戦の雄である。
「どのような事態が起こったにしろ、それが人為的なものであるならば、止めようもあった筈。責任の追及をしようにも、当事者達がいない今となっては誰が大罪の咎を負うべきか――」
元教会騎士総帥であるチェクルス卿が責任を取るべきだ、と暗に言っていた。現教会騎士総帥に問いただしたとしても、彼はチェクルス卿の長男なので結局はチェクルス卿に責任は収束する。
ラセルト卿は、この厄介極まりない事態の全てをチェクルス卿へと背負わせる腹積りだった。
それに対する反発はあって当然と思われたが、チェクルス卿は素直に手を挙げた。
「宜しい、この件の責任については、一先ず私が預かろう」
ただし、と付け加えた。
「この件で最終的に責任を負うべき者が現れた場合は、しかるべき処置をとらせてもらおう」
そう言って、チェクルス卿は鋭い
元教会騎士の眼光は、剣よりも鋭く枢機卿達を牽制していた。
「時に、
石畳の上に、
軌跡は蛇行しながらも騎士の稽古場へと伸びていた。
そして、稽古場には、大量の血と脂をこびり付かせた獣の頭が三つ揃って不満そうに顎を打ち鳴らしていた。
獣の頭達は稽古場の壁際に集められていた。
その周囲には銃を構えた軽装の騎士達が隊列を作り、獣の頭に銃口を向けていた。
一つの頭が痺れを切らし、がちがちと音を立てながら騎士隊ににじり寄った。
瞬間、複数の発砲音と共に獣の頭は後方へと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて転がった。
「発砲、止め!」
隊長の指示で散発的な発砲音は一斉に止んだ。
獣の頭は銃弾の衝撃で目を回したのか、動きが鈍くなっていた。
すかさず、発砲した騎士達は銃弾を再装填した。その間も、他の騎士達は油断なく獣の頭に照準を定めていた。
多大な犠牲を払い、教会騎士団は三つの獣の頭を稽古場の一角へと封じ込めていた。
獣の頭は武器ごと騎士を食うため接近戦は無謀以外の何物でもなかったが、幸い質量がそれほどない。破壊できないまでも、手持ちの銃器を掃射することで行動の制限をすることが可能だった。
今のところ、それが騎士団が行える最善の策だ。
第六騎士隊隊長は部下を大勢殺した憎い相手を目の前にして、歯噛みしていた。
「……いつまでこんなことを続けなければいけないのだ」
槌が根菜のように噛み砕かれなければ、騎士隊長はとっくの昔に槌を持って突撃していただろう。
果敢にも槌で挑んだ彼の部下は、肩ごと腕をもぎ取られてしまった。
教会騎士の通常装備は決して貧弱ではない。暴徒の鎮圧はもちろんのこと、中型モンスター程度であれば狩ることも可能だろう。
だが、暴徒以上の残虐さとモンスターを超える頑丈さを併せ持った、鋼で構成された化け物を叩き潰すことは不可能だった。
「エイファス殿!」
名前を呼ばれ、騎士隊長はさっとそちらへ目を向けた。
大仰な鎧で武装した五人の騎士が近づいてきた。
両肩から肘までを黒い板金で大きく膨らませ、太腿も同様の拵えで覆われている。兜は翼の装飾が施されていて、目元まで覆いが付いている。まるで重歩兵のような鎧だが、籠手や長靴は革製で薄い鋼を控えめに貼り付けているのみだった。
不自然に膨らんだシルエットの騎士集団のうち、隊長の名を呼んだのは先頭の男だった。
兜で顔が見えなかったが、騎士隊長はその声に聞き覚えがあった。
「ガルドか」
「はい、兜を取れない非礼はどうか免じてください」
ガルドは兜をつけたまま敬礼した。まだ若い、清涼感のある声が兜の下から響いた。
「非常時だ、仕方がない。それより、許可が下りたのか」
騎士隊長はガルドの武装が意味するところを改めて確認した。
ガルドの武装は対モンスター白兵戦に特化した翼殻鎧と呼ばれるものだ。モンスターに近い魔剣相手にも一定の効果は見込めた。
「父上が責任を持つとのことで、〈聖剣〉の使用が中枢会議で承認されました」
「そうか……だが、お前はいけるのか」
現状、あの憎き獣の頭を仕留められるのは、教会が持つ最高戦力において他は無いと分かっていたが、彼のことをよく知る騎士隊長は
少しでもしくじれば、待っているのは死なのだ。
「確約はできませんが、〈紅玉の聖剣〉の担い手として出来うる限りまで戦う所存です」
兜に遮られてなお、真剣な目をしている様が騎士隊長には分かった。
死の恐怖を目の前にして一歩も退かないその姿勢に、騎士隊長も覚悟を決めた。
「こちらからも、援護は行う。危機を感じたら直ぐに退け」
「承知しました」
ガルドは腰の剣に手をかけた。
剣の種類としては両手剣に該当する。両手剣は、教会騎士が用いる一般的な装備品だ。近接戦闘において優れた間合いと威力を有している。
だが、教会騎士に支給されいるものとは異なり、その剣の柄は黒く、親指大にカットされた紅玉が剣身に埋め込まれていた。
ガルドはその剣を構えながら銃士隊の前へと進み出た。
「〈紅玉の聖剣〉メリディアニ、俺に炎の祝福を」
ガルドの口上に、剣の紅玉が淡い真紅の光を放った。
光は火の粉へと変わり、ガルドの周囲を舞い飛ぶ。まるで、剣がガルドを守っているようだった。
ガルドと同じ鎧を纏った四人の騎士はガルドを中心として扇状に散開、各々の手には鉄と麻紐でできた流星錘が握られていた。
「手筈通り、足止めを頼みます。反翼の天使ヴレイヴルの加護があらんことを!」
「あらんことを!」
ガルドが獣の頭目掛けて突進した。
半拍遅れて流星錘が放たれ、二つの獣の頭へと命中した。硬質な音を響かせて獣の頭は後退した。
大口を開けてガルドを待ち構えていたもう一つの獣の頭は〈紅玉の聖剣〉によって上顎が切り飛ばされていた。
作り物の目をぎょろりとさせながら宙を舞う上顎を、容赦の無い追撃が真っ二つに割る。
地面に落ちたとき、獣の頭はただの趣味の悪いがらくたとなっていた。
自分たちを破壊できる存在を認識したのか、それともただ一番近くにいる餌と思ったのか、二つの獣の頭はガルドに食らいつこうと襲い掛かった。
妨害する流星錘の紐を食いちぎって、片方の獣の頭が足を狙う。
しかし、聖剣の鋭い突きによって獣の頭は地面に縫い留められた。
聖剣の剣身が真紅の光を放ち、巻き起こった炎が獣の頭を飲み込んだ。じゅうっ、と獣の頭に付着していた血と脂が焦げる。
「副隊長、危ない!」
流星錘を躱した獣の頭が、ガルドの兜に噛み付いた。
兜の中材に阻まれ、牙は内部まで届いていなかったが、頭が噛み砕かれるのは時間の問題だった。
しかし、ガルドは慌てることなく大きく頭を横に振った。
兜は獣の頭が食らいついたまますっぽ抜けた。モンスターとの戦いを考慮した翼殻鎧は、取りつかれるのを防ぐために部品が簡単に剥がれるのだ。
獣の頭が空中で兜を潰し、不味そうにぺっと吐き出した。
獣の頭は、無防備になったガルドの頭に再び噛みつこうと跳躍したが、下段から振り上げられた聖剣によって断ち切られた。
断片は炎に包まれて動きを止めた。
地表で炙られていた獣の頭は原型を留めていたが、煤けた鋼の塊は二度と動かなくなっていた。
ガルドは聖剣を腰に吊るし、胸に手を当てて天へと黙祷を捧げた。
「さすがは四聖剣の一つに選ばれた騎士だな、ガイエラフ・チェクルス第十二隊副隊長」
血を流さずに三つの魔剣を同時に屠ってみせた後輩騎士を見て、騎士隊長がぽつりと呟いた。援護を約束したものの、そんなものは必要がなかった。
ひしゃげた兜と、屠られた三つの魔剣を背に帰還するガルドは、声に違わず非常に若い顔立ちをしていた。
鋭角的な顎の輪郭の右半分を栗色の髪で隠し、逆に左側は髪に飾り紐を編み込んで露出させている。髪に隠れていない左目は鳶色で、少し釣りあがっている。そこだけ見れば刃のようなとっつきにくさを覚えるが、気弱そうな垂れ眉のおかげで全体の印象は中和されていた。
年は二十歳前後に見え、言うまでもなく騎士隊副隊長の中では最も若かった。
彼がその地位に就いているのは、妬む輩が言うように、枢機卿の三男であるからではない。
ギリスアンの建国当初から伝わる四本の聖剣の名を冠した魔剣のうち、〈紅玉の聖剣〉に選ばれた魔剣使いであるからである。
聖剣の使い手は常に存在するのではなく、剣が選定した優れた騎士のみ資格を有している。現在、聖剣の使い手は二人のみで、〈黄玉の聖剣〉の使い手は足の故障で前線に立っていない。
つまり、ガイエラフ・チェクルスこそが教会騎士団の保有する最高戦力だった。
「状況終了しました。エイファス隊長、援護ありがとうございます」
兜が外れたガルドは、騎士隊長に正しく敬礼した。
騎士隊長も礼を返す。
「いや、私は何もしていないのだが」
「何を言っているのですか、ここでずっと魔剣を釘付けにしていたじゃありませんか。それがなければ、今頃どれだけ被害が拡大していたか」
ガルドの謙虚な言葉に、騎士隊長はぐっと口を引き結んだ。噛み殺された部下のことを思い、目頭が熱くなっていた。
このままでは後輩の前で不甲斐ない顔になってしまうと、騎士団長は話題を変えた。
「しかし、まだ当分騒ぎは終わらんぞ」
「……はい、そうなると思います」
無理やり顰め面を作った騎士団長の言葉に、ガルドの顔も陰った。
「せめて、シルヴィア様がご健在であればな」
ガルドの左目が少し揺らいだが、騎士隊長は気付かなかった。
「ガルド副隊長、シルヴィア様の容体について何か知っていることはないか。シルヴィア様の侍従だったのだろう?」
騎士隊長に向けられたガルドの目に揺らぎはなかった。
「いえ、私も体調が思わしくない、としか伝えられていません」
「そうか」
「では、私は報告があるので戻ります。僭越ながら、後始末をお願い致します」
「ああ、分かった」
ガルドと騎士隊長は敬礼を交わした。
稽古場を後にするガルドの後ろには、翼殻鎧で武装した四人の部下が続いた。
真っ直ぐチェクルス家の邸宅へと向かうガルドに、騎士達は皆道を譲った。慌てて敬礼するものさえいた。
騎士達は獣の頭による被害状況を確認していた。まだ建物や道の至る所に血痕や肉塊が残っていた。
ガルドは拳を強く握った。
(シルヴィア様、貴女は本当に敬月教を……いや、俺を憎んでいるのか)
その言葉は、音になる前に嚥下された。
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