沈黙する傍観者
病院の庭の隅で、リーフは壁にもたれかかって噴煙の昇る空を見上げていた。
「完全退院、おめでとうございます」
ひょろりと縦に細長い影がリーフの隣に並んだ。
晴天の中、ぼろぼろの黒いフードをかぶった男は死人と見まごう土気色の顔で、金色の髪にも艶がない。上着から突き出た手足は骨と皮ばかりで、最近健康的な生活を強制させられているリーフよりも細かった。
「ありがとう、これでようやく酒が飲める」
男は足音もなく突然湧いて出たような現れ方だったが、リーフは全く動じなかった。
『敵』に対して過敏すぎるほど鼻がきくリーフでも、この男に関しては時々見失ってしまう。味方として信頼しているからなどという甘っちょろい理由ではなく、気配の消し方を熟知していることと、それなりに長い付き合いからリーフの感覚の死角を掴みかけているからだ。
本来ならば即座に始末して然るべき天敵だが、幸いにも押えが効いているおかげで裏切らない保証がある。
「内臓傷めてるからって、刺激のきついもの禁止でしたからね。そういえば、療養食はどうでした」
「そんなに悪くなかった。時々砂が混ざっているような感じはあったけれども。少し前まで味なんか気にしたことがなかったのに、
リーフは指先を口元にあて、肥えてきた舌が忌々しいとばかりに言い放った。
「美味しく食べられるのが一番ですよ。今は何が食べたいんです?」
「リンと野営してなんか適当な串焼き。モンスターの肉でもいい」
男はへらっと力なく笑った。日は高いが汗をかくほどの陽気ではないというのに、男の血色の悪い首筋を玉のような汗が伝い落ちていた。
「本当にリンさんのこと大好きなんですね」
リーフの眉間に僅かにしわが寄った。
「そういうことになるのかな……よく分からないんだ、この辺りの感情が」
「リーフさんの臆病は筋金入りですねぇ。まあ、あんなことがあったから仕方ないといえばそうですけど」
訳知り顔で男はうんうんと一人頷いた。
「きっとリンさんは離れませんよ、今更」
「むしろ、裏切っているのはボクの方だ。気付いているのだろう?」
「え、ああ、まあ……リンさんも何となく怪しいとは思っているみたいですけど」
「でも君はどちら側にも立たないと」
リーフの瞳がすっと冷たくなった。急速に色彩を失いつつある虹彩は水晶のような硬い色を宿していた。
男の顔に明確な焦りが浮かんだ。
「えぇ……どちらかといえばリーフさん寄りのつもりですよ」
「知ってる」
リーフは硬い光を引っ込めて視線を逸らした。
「今ちょっと肝が冷えました」
「君は昔から学はないけど聡明だからね、蝙蝠の仕方がよく分かっている。まあ君は鴉だけど」
「褒められても怖いんですが」
「脅してるんだよ」
「やっぱり」
「ただの確認さ。君はボクの嘘を報告しなかったから」
リーフは遭遇した謎の
「ということは、会っていたのはやっぱり……」
そこまで言って、男は口を閉じた。二人以外誰もいない庭園に視線をさまよわせ、盗み聞きをしているものがいないか神経質に探った。
「そこで
リーフが最も信頼している暴力装置であるギルは、現在、複数の争炎族の戦士に連行され王城の練兵場で練習試合――ギルに言わせれば戦いたくて仕方がないバカ共の相手をしている。竜王とまがりなりにも渡り合える実力が知れれば、闘争をこよなく愛する争炎族が放っておく訳がなかったのである。
ギル自身も鍛錬不足を自覚しているのか、悪態を吐きつつも彼らの欲求に付き合っていた。
いくらギルが聴覚に優れた竜であったとしても、遠く離れた王城から会話を聞くことなど出来ないし、リーフも心に仕切りをして閉め出していた。
「これからも会うんですか」
おそるおそる尋ねる男に、リーフは軽く肩をすくめた。
「まさか、事態は収拾したのだし、これっきりにする。軽いちょっかいはかけてくるだろうけれども、無理強いはしないだろうさ。そうすれば、ギルに気付かれてしまうからね」
こともなげにリーフは言い切った。
「気付かれたくない、んですかね。ギルさんはそう悪く思ってなさそうですけど」
「何かしらの事情がありそうだ。今のところ、これがボクの奴に対する最後の手札だ」
男の顔が盛大に引きつった。
「諸刃の剣じゃないですか」
それで望まない関係を断てたとして、今までのことを全てさらけ出すことになる。少なくとも、リンをごまかすことは不可能だ。
「元より先のない身だからね。死なば諸共、ただで済ませるつもりはない」
「そうしたら、リンさんは悲しむと思いますよ」
う、とリーフは息を詰めた。裏切り行為に罪悪感はないというのに、その点に焦点を合わせると途端に
「……それで厄介事が減るのであれば、別に良いと思っていた。リンは強いから、きっと乗り越えられると信じている」
リーフは両手を組み、淡々と述べた。
「でも、最近は少しそれが寂しいと思ってしまうんだ」
リンの生きる礎となれば、それだけで良かったはずだった。リンが生きていることがリーフの唯一大きな執着だった。
今は、できることなら、長く傍にいたいと思っていた。
「それが、好きってことなんですよ、多分」
「多分、か」
人外故にヒトを断言して語れない。リーフは男の頼りないアドバイスに苦笑いをした。
「僕もそのあたりよく分からないので。ギルさんの方が詳しいんじゃないですかね」
食欲を何よりも優先する
しかし、リーフは首を横に振った。
「詳しくとも、あれと本当に共感できるヒトはいないよ。ヒトらしく振る舞ってはいるけれど、理性と感情が完全に断絶している」
「ま、所詮、僕らは完全なヒトでなしですから」
「それで、ヒトでなしが一体何の用があるのだい」
リーフの分かりきった問いかけに、ぐぎゅるるるるるぅと分かりやすい音が返事をした。
「その、お腹が空きまして」
「だろうね、この辺りに君の餌になるようなヒトはいないから」
リーフは右腕の袖をまくり上げ、左手に抜き身のナイフを持った。
「こうして餌を恵んでいるんだ。精々裏切らないでくれたまえよ」
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