第35話 黒幕と、狂言回しと、トリックスター
ふわっと広がった紫煙が微風に散らかされる。後には苦さと仄かな甘みのあるにおいが残った。
執務室の狭いバルコニーで、竜王ヴィーアことエヴァスは立ったままパイプをくゆらせていた。直立不動のまま、隣の面会者に目もくれようとしない。
「――で、これは俺への正式な依頼ということでいいのかな」
面会者は深い紺のマントを纏った男だった。バルコニーの柵にもたれかかり、薄っぺらい笑顔を浮かべていた。右頬が傷痕でえぐれているせいで、表情は左右非対称な歪なものだった。
男の手には巨大な赤い結晶で作られた鏡があった。
『そうだ、くれぐれもエルヴァンのことを頼む』
鏡の表面に文字が現れた。鏡の中に封じられた赤い神性がエヴァスの意思によって凝集したものだ。
「それで、報酬は此の術式と十年間の関税の免除、と――いいだろう、受けようじゃないか」
暇つぶしには丁度いい、と男は喉の奥でくつくつと笑った。
「……エイス…………
掠れ、割れた低い声が男の態度を諌めた。たった二言話しただけで、エヴァスは乾いた咳をした。
「そんなに心配しなくとも、エルヴァンくんの命は保証するよ。俺の手が届かないところに行かせたりはしない、これも誓約に入れておこう」
『南部で貴様の手が届かないのは、炎都くらいなものだろう』
半眼で男を見遣るエヴァスの気持ちが、鏡に乱雑な文字で示された。
エヴァスの背後で屋内に続く大窓が開いた。
「父さん、急に呼んでどうしたの」
顔をのぞかせたエルヴァンは、見知らぬ男に気付いて身を竦ませた。
「君がエルヴァンだね。初めまして、私はエイス。君のお父上の友人だよ」
男は笑顔を咲かせてエルヴァンに挨拶した。
「……えっと」
エルヴァンの目が泳いだ。初めて見る
男はエルヴァンの不安を無視してぐい、と距離をつめた。
「私は祖国の特産品を売り歩いている商人でね、例えば、ほら――」
男が指を振ると黒い蛇がするすると寄ってきた。蛇は尾を小瓶に巻き付けていた。
男は蛇から小瓶を受け取り、封を切った。甘い匂いがふわりと広がった。
「桃の糖蜜漬けだ。こちらでは珍しい果物だろう?」
「桃?」
「薄い赤色の、大きな果物だよ。柔らかくて甘いんだ」
食べてごらん、と男は勧めた。エルヴァンは父親の顔をちらりと見てから、半月のきれを指でつまんで食べた。
「うまい!」
怪訝な顔をしていたエルヴァンが、ぱっと笑顔を咲かせた。
「だろう。うちの息子も大好物でね、きっと気に入ってくれると思った」
エヴァスの口角が僅かに
「エイスおじ……エイスさんも好きなの?」
「おじさんでいいよ。こう見えてお父上とは付き合いが長くてね、多分君が思っているよりも歳はいっているから」
エイスはすぐにエルヴァンと打ち解けてしまった。
やりとりを止めるわけでもなく、エヴァスは煙を吐いた。
これが、一年前の出来事だった。
◇ ◆ ◇
「大枠はあなたが立て、第三者がそれにただ乗りしたのでしょう」
執務室のバルコニーに立っているのは、リーフとエヴァスのみだった。
リーフの手には赤い鏡があり、エヴァスは会話中にもかかわらずパイプを手放さない。
「あなたは反乱の兆しに気付いていた。だから、弱みとなるエルヴァンをわざと遠ざけた、のでしょう?」
リーフの問い、というよりも確認に、エヴァスは何も言葉を発さなかった。
代わりに、赤い鏡の表面に文字が浮かび上がった。
『奴に会ったのだな』
「さて」
リーフは人差し指を右頬にあて、すーっと首筋までなぞった。エヴァスは片方しか開いていない目を不快げに歪めた。
『奴の狙いはおそらく達せられた。そうでなければ、お互い此処には立っていられなかっただろう』
「勇者との縁が切れたのは、あなたにとっても
不本意だといわんばかりの態度をとるエヴァスに、リーフは少し意外そうな顔をした。
『今更気にしてたまるものか。クソ勇者が呑気に過ごしている間、忌々しい誓約を守らされていたのは我だ』
「しかし、そのツケが今回の事態を招いた」
エヴァスは煙をのんだまま沈黙した。
手すりにもたれ掛かり、リーフは細く白い指を一本立てた。傷もタコもない、淑女のような美しい指先だった。
「今回の件、私からも貸し一つ、ということで。よろしいですね」
『短い一生、くたばる前に使い道を見つけるがよい、
ふうっ、とエヴァスが煙を吐いた。淀んだ甘い匂いが広がった。
「あのときの力については、正直私もよく分かっていないのです。むしろ、あなたの方がよくご存知では」
リーフの指が赤い鏡の
『
分かりやすいおねだりに応じて、エヴァスが切り出した。
「二つの神獣の混血のことだと聞き及んでいます。例えば、エルヴァンも――」
『そうだ。だが、それでは定義の半分だ』
「半分?」
『半獣の中でも
リーフの目が僅かに見開いた。
『半獣が代を重ねると、五代程度で神の血が失せる。だが、それを逆に濃くしていくと稀に奇形が生まれる』
ヒトの
『さながら、先祖返りとでも言うべきか……大抵はろくなことにならんがな。
「……」
リーフは無言で肯定した。神獣ばかりの土地でもエルヴァンの存在が騒動の火種になったのだ。ヒトに近い世界でより大きな災難になるのは目に見えていた。
『しかし、貴様は普通の半獣にしか見えんが』
リーフが見せた
「
『馬鹿を言うな』
エヴァスは鼻でわらった。
『どこぞの色狂いと同列にするな。それに、貴様が
「まあ、おそらくそうでしょうね。そうであれば、誰かが気付いていた筈ですので」
リーフの含んだ物言いに、エヴァスは唸った。
『色狂いは貴様の方もか』
「否定はしませんよ、数少ない趣味のようなものですから」
『竜種にあるまじき尻軽共が』
「乗ってきたのはあちらです。それなりに回数を重ねた割に、きちんとした名前も何も教えてもらえてはいないですが」
『それも我に問うか。無礼千万であるな』
「奴の行いに礼儀があるとでも?」
『確かに』
エヴァスがパイプから口を離した。ひっくり返してこぼれた灰が、はるか下方へと舞い散った。
薄い煙を吐き出し、エヴァスの思考が鏡の表層に文字を刻んでいった。
『奴の名はエイス、敬名は正義を指し示すもの、ヴレヴィアレス』
行いから逸脱した名を告げ、エヴァスは鼻をならした。
『かつての魔王軍の副将であり一ノ剣筆頭だ。戦後は封じられた魔王に代わり月喰族の王になっていたこともある、古竜の中の古竜……そして、既に気付いているとは思うが、奴はくそったれな勇者の、ギルスムニル・ヴレイヴル・レイジェアトの……』
◆ ◇ ◆
ギルは唇をひん曲げて窓の外を睨んでいた。両腕を胸の前で組み、不動の体勢で噴煙が昇る空を見ていた。
「ねぇギルー、ギルってばーーーー」
「アホ魔剣ー、アホまーけーんーっ!」
不動の体勢のギル――その左からエルヴァンが服の裾をひっぱり、右からはリンが細木の楊枝で顔をつついていた。
「陛下って誰なんだよー。なんでギルそっくりなんだよー」
「アホ魔剣ー、パパのことなんて呼んでいるんでちゅかぁ~~」
「……」
ギルは無言で左右からの攻撃に耐えていた。
一ノ炎の反乱騒ぎでリーフが再び病院送りになったのが五日前。それからエルヴァンの護衛にギルとリンはつけられたのだが、すっかりギルは二人のおもちゃにされていた。
「ねぇねぇ、今日こそ教えてくれたっていいじゃんー」
「ぷぷぷぅ~、そうでちゅね~、ギルちゃんはおとうちゃまのこと大好きでちゅね~」
これまではあまり粘らずに嫌がらせを終えていた二人だったが、今日はやたらとしつこくギルに迫っていた。ギルの表情がすっかりうんざりしているのを見て、勝機をみたのかもしれない。
エルヴァンの護衛にはギルとリンだけでなくエヴァスの子飼いの戦士もいたが、楽しく遊ぶ三人を遠巻きにして見守っていた。
「リン、ギル、それからエルヴァンも。変わりはないかい」
護衛が守る扉を堂々と開いて、リーフが部屋に顔を出した。
「――我が主ぃっ!」
リーフの声を聞いたが早いか、ギルが反転して足を踏み切り宙を舞った。リーフの頭部に黒い切っ先がすっ飛ぶ。
即死の一撃をリーフは頭を下げてかわした。逃げ遅れた銀髪を数本とばして黒い魔剣がリーフの背後に刺さった。
――我が主ぃ~、こいつらがいじめてくるんだけど!
「君、ボクの呼び方をまた変えたのかい」
命のやり取りを空気扱いしてリーフとギルの会話が始まった。
「こんのクソ魔剣ーーーーっ!」
命のやり取りを空気扱いできなかったリンが黒い魔剣を蹴り飛ばした。
――んぎゃあああっ!
廊下にすっとんでいったギルが壁に突き刺さった。
「やりやがったなクソメス狼ぃ!」
ヒト型に戻ったギルが怒鳴った。連日のストレスもあって珍しく額に青筋がたっていた。
「こっちの言葉よそれはぁ! リーフを殺す気ぃ!」
「俺はいつでも殺せるけど?」
――ギルさん、本心でも言ってもいいことと悪いこ……
「死ねぇ!」
イーハンの取りなしも甲斐なく、銃ケースがギルの脳天に振り下ろされた。ちなみに銃ケースの中身はイーハンである。
棍棒代わりにされたイーハンは一撃で気絶した。
「リーフ、もう身体は大丈夫なのか?」
「今度こそ無理するなって医者には言われているけれどね。だからボクは護衛ではなくてお喋りをしにきただけさ」
喧嘩と呼べない暴力沙汰に発展しつつある乱闘を背景に、エルヴァンがリーフに話しかけた。もう一ヶ月以上一緒にいて、エルヴァンも突然のじゃれ合いにすっかり慣れてしまっていた。
他の護衛達も最初は無視していたが、廊下がどかんどかんと騒がしくなりさすがに気にし始めた。暴力だけではなく罵倒も激しさを増していた。
「二人とも、ボクに何か話があるんじゃあないのかい」
見かねたリーフが口を挟むと、乱れた服装の二人が帰ってきた。(手加減した)掴み合いまでしていたようだった。
「私もっていうか、話あるのギルだけでしょ」
「なんでだよ」
「あれぇー、絵に描いてあった人の件、リーフにまで内緒にしちゃうのぉー」
「後で覚えとけよクソ狼……」
ギルは唇をひん曲げてリンを睨んだ。
「それで、リンとエルヴァンが聞きたがっている件について話してくれるのかい」
リーフが話を促した。
部屋の中の椅子をかき集めて全員座った。エルヴァンの護衛になっている争炎族は話が聞こえる場所で待機していたが、ギルは構わないと言い切った。
「……別に、隠しているわけじゃねぇし、知っている奴はふつーに知ってることだし。やましいとかそんなこともねぇし……」
「早く話せー、話しちゃえー」
「締めるぞメス狼」
「二人とも」
また喧嘩の気配を感じて、リーフが間に入った。
詰めかかっていた二人の距離が適正に戻った。
「あの絵に描いてあったのは、魔王ルイノエ陛下と、俺のおと……お父様である一ノ剣筆頭、正導卿閣下だ」
少しどもりながらもギルは話し始めた。
「お、お父様が結婚したのは陛下の妹の対晶卿だったから、陛下は俺の伯父上にあたる」
「それで顔が似てるんだー」
エルヴァンが納得してうなずいた。
「逆にお父様とは似てないでやんのー、ぷぷ」
「うるせぇっ! 俺だって気にしてんだ!」
「お父様って言っちゃうのにさあー、あーお腹痛い」
笑い転げるリンに、ギルは迫力不足の怒鳴り声で返した。恥ずかしさで涙目にすらなっていた。
「だってすげぇし格好いいし、おと、お父様……」
ギルがすがるようにリーフを見た。
「父親というものを知らないからなんとも言えません」
「我が主ぃ~」
リーフは他人行儀にばっさりと切った。ギルは力なくうなだれた。
「でも、一ノ剣で一番強いってすごいな。だって王の次に強いってことじゃん」
「そうだよ、そう! お前は分かってくれるよなあエルヴァン!」
フォローしたエルヴァンが抱きしめられて撫で繰り回された。これまでのことがあるからか、エルヴァンは嫌がる素振りをみせなかった。顔は盛大にひきつっていた。
ギルがふとリーフの顔に視線を戻した。
「そういや、リーフ、お前その目どうしたんだ」
「え」
リーフが目をまたたかせた。
「誰も言わねぇから聞かなかったんだけどな、ひょっとして誰も気付いてねぇのか」
ギルから見えるリーフの瞳は、灰色だった。緑の色彩はほぼ抜け落ち、淡い残り香が虹彩の縁に残っているのみ。瞳孔の周囲は水晶のように透き通った灰色になっていた。
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