第30話 魔獣■■■■■■

第30話 魔獣ギルスムニル



 荒野にうずくまる黒い影は、ヒトと然程変わらぬ大きさだった。丸めた背の左側には黒い翼があった。もう一方の対となる筈の翼は根本から引き千切られたような有様で、六角や五角の黒い石柱が肉に突き刺さっているようにも見えた。

 背中を覆うのは目の覚めるような青い上衣ではなく、ぴったりと密着した黒一色だった。

「……」

 リーフのすいの目が鋭い光を宿した。

 目の前のそれが、ヒトの形を保っていないことに気付いたからだ。

 黒い服のように見えたのは、一面に鱗の生えた皮膚だった。さらに鱗の上にはこびりついた血のような臓物のようなえん色の模様が散っていた。

 すっ、と腕が伸びて焼けた地面に手をついた。腕の表層は鱗が生えている範囲が半分、火傷で赤くだんだらにただれた肌が半分という有様。指は剣を掴むことすらあやぶまれるくらいに太く節くれ立ち、先端には黒いかぎづめ――ヒトというよりも肉食獣の前脚に近い形だった。

 足にも同様に黒い鉤爪があった。さらにかかとが長くなり、一方で太股は太く短く変形し元の骨格が見る影もない。

 だが、それでもまだ辛うじてヒトの輪郭を保っていると言えた――背骨の延長線上に生えた長い尻尾を除いて。尻尾はせきついが剥き出しになったような甲殻で構成され、身の丈を悠に超える長さと脚と同等の太さを有していた。尾ではなく、脚がもう一本増えたと思うほどの存在感だった。

 影は前傾姿勢で立ち上がった。

 上半身を覆う鱗は黒よりも臙脂色が多かった。特に胸元は僅かに残った皮膚すら赤く染まっていた。臙脂色の模様は身体に生来のあざのように染みついていたが、焼き印のような不自然さと痛々しさがあった。


  しゅううう、しううう


 裂けた口元から呼気が音を立てて漏れた。あごからほお、目元まで黒い鱗が浸食し、顔の輪郭に沿って生えるとげは太さと鋭さを度外視するなら獅子のたてがみのようだ。

 リーフの前に立つそれは、正しくヒトと獣を粘土のようにねて混ぜた化物スコタードだった。


  うううううう、うううう


 朱い目の形も色も変わらず、しかしそこには楽しむふりをした作り笑いも、どこか幼い無邪気さも、感情を取り払った冷酷さもない。ただの獣性を宿した瞳で、満身創痍のリーフを見ていた。

「君からそんな目で見られるとはね」

 朱い目に映りこんだリーフはやつれた苦笑いを浮かべた。

「リーフ……」

「リン、君は間違っても前に出るな。確実に死ぬよ」

 白い外套を纏ったリーフは静かに剣を抜いた。不安そうな顔をするリンに厳命し、自身は一歩前に出た。

 連戦とギルによる酷使で既に身体は限界まで消耗し、意識も緩めた途端に二度と浮上してこない気がしていた。それでもリーフは立ち向かうことをやめなかった。

 背後に膝をついたままの竜王を置いて、リーフは化物の方へと歩みを進めた。

「……」

 竜王は口元の血を拭ってリーフの白い背中を見やり、軽く目を閉じた。

 リーフの足元でジッと焦げる音が湧き、消し炭の大地にうっすらと文字が刻まれた。

『貴様は何故進む』

 力のかなめである翼を壊され神性を使うことがままならないのか、竜王の問いかけは短く明快だった。

わたしとエルヴァンの約束のため、残りは私の意地です」

 リーフは外套の左袖から見える生身の手首に、既にこぼれした刃をあてた。剣を引くと肌がぴりっと破れて血が溢れる。流れ出た血を刃に塗りたくり、最後に右手の甲で押さえながら傷口を結晶で覆い止血した。

 剣に塗られた血は柄から霜が降りるようにじわじわと白く変わっていき、刃全体を白く染め上げた。

 神性は宿す血肉に伝達しやすく、また増幅されるという性質がある――リンのひろ族の皮革を素材とした上着と耳当てしかり、リーフの毛髪を縫い込んだ外套然り、神獣の骨を溶かし込んだ魔剣然り。ならば、生き血が神性の触媒となることは道理である。

 碌に精度も高めていない神性を付与することで何処まで耐えられるのかは未知数だが、ただの鋼の剣よりかはマシだろうという判断だった。

 リーフの目の前にいる獣ともヒトともつかない化物は、しううう、と不規則に息を吐きながらその光景をじっと見ていた。

「……」

 リーフは無言で剣を正眼に構えた。化物はまだ動かない。だらんと両腕を垂らして、目だけはリーフを捉えていた。


  しううう、しっ


 化物の呼気が途切れた瞬間、リーフの眼前に黒い鉤爪が迫っていた。直前に鉤爪の軌道へずらした剣がぶつかった。


  ぎいんっ


 剣を覆う結晶と黒い鉤爪が唸り、不快な不協和音を奏でた。衝撃で砕けた白い結晶は灰色の霧に、黒い結晶は朱色の光に変わった後で消えていった。

(速すぎる!)

 リーフは化物の動きを視覚で全く捉えられていなかった。〈害覚〉で完全に先読みをしていたから受け止められただけで、五感を頼りにしていれば既に首が刎ねられていた。

 焦る暇すら与えない爪の猛攻をリーフは紙一重で捌き続けた。剣に宿した神性が黒い爪と反発するため、打ち合っては弾かれることを繰り返す。力押しにならないのはリーフにとってせめてもの救いだった。

 僅かに化物が重心をずらすと同時に、リーフは左腕を結晶で覆った。


  があんっ


 リーフが脇を締め、左腕で打ちすえられた尾を受け止める。鐘を叩いたような音と共に白と黒の結晶がとび散った。鞭で打たれるというよりも棍棒で殴られたような衝撃にリーフの体勢は否応なく崩された。

 宙を泳いだ右足の底で白い結晶が杭を作った。

 硬く焼けた地面にがっ、と右足を叩きつけて杭を無理やり打ち込んだ。固定した右足を軸にして踏ん張り、腹を抉りにきた爪に剣閃を合わせて弾いた。

 白い結晶と黒い結晶がぶつかると、常に黒い方がより大きく割れて欠けた。剃刀かみそりの如く鋭利な黒は、脆く崩れる度に新たな刃がぞろりと現れた。


  ぴしり


 化物の古い鉤爪が捨てられ、新しい結晶が生えると同時に醜く歪んだ手に亀裂がはしった。結晶の爪は幾度も再生を繰り返していたが、支える骨と肉にはその恩恵が届いていなかった。亀裂は既に腕にまで達し、黒い体液が流れ出ていた。

 獣の俊敏さを強制された歪な両脚にもひびが広がり、動く度に周囲へと黒い染みを広げていた。

 ヒトの似姿よりも遥かに早く化物の身体は朽ち始めていた。このまま力を行使し続ければ、日が沈むのを待たずに化物は崩れて消えるだろう。

 しかし、それにリーフの表情が緩むことはない。元より戦闘中に見せかけでも喜色を示すような性ではないが、疲弊した顔には焦燥が見え隠れしていた。

 何十回と打ちあわせた剣から、半分以上の結晶が剥がれ落ちていた。

 黒い結晶に比べると破損は少ないとはいえ、神性の仲介となっている血糊ごと剣から失われていた。

 鋼が露出した箇所は周囲の強度に支えられてなんとか持ちこたえていたが、それも長くは続きそうになかった。

 リーフにはまだ肉体と密着していないものに付与を張り直す技術はない。速度も実戦には足りない。

 化物が自壊して倒れるのが早いか、リーフの剣が折れるのが早いか。

 その答えを考える暇もなく剣士と化物は戦い続けていた。


  ◆ ◆ ◆


 死合っている白い剣士と黒い化物を、誰もが遠巻きに眺めているしかなかった。

 争炎族は竜王の命によって干渉を禁じられ、竜王のてきを討ちたくとも剣士に加勢することはできない。リンは言われなくとも即死するような死地に飛び込むつもりはない。

 となると、攻撃の余波から身を守るために一同は自然と集まった。

 すらりとした四つ足にわにのようなあごをそなえた火竜と、そのヒト体である赤髪赤眼の男たちが共にいるのは当然といえる。だが、その違和感のない集まりのど真ん中に不協和音をぶち込んで居座っている黒髪の乙女がいた。

 リンは鋭い爪と牙が息のかかる距離にあっても、力ある純血の神獣にうろんげに見られても、ふてぶてしい面構えで争炎族の守りを間借りしていた。

 自前で神性術の結界を作れないリンがこの場に長時間留まるためには争炎族の力を借りなければならなかったが、あまりにも堂々と入り込むものだから竜種一同誰も拒む言葉を言い出せなかった。

 リーフとギルの一進一退の戦いを観察する最中、リンはふとエルヴァンに目を向けた。

 護衛役の腕の中で、エルヴァンが耳と目を塞いで小さくなっていた。肩を震わせ、顔も青白くなっている。両足の怪我が痛むだけではなく、己が発端となった周囲の有様に心が耐えきれなくなっていた。

「どうして、あいつはあんなになってまであんたたちの王を殺そうとしてるわけ」

 リンはエルヴァンを抱えた護衛役に問いかけた。

「貴様のような混血ネロッド風情、しかも竜種にあらざるものに分かるものか。我らは誓約に従うほかないのだ」

 馬鹿にしたような口調で護衛役が答えた。今までの態度からして、実際に馬鹿にしているのだろう。

「そんなに大事なわけ? 契約書もない口約束なのに」

 リンは手持ち無沙汰に銃の薬室をかしゃんかしゃんと開けては閉じた。二つの穴には大きな銃弾が既に込められている。装填されているのは上級の対モンスター用一発スラッグ弾、結界がなければ神獣の命にも手が届く過剰火力である。

「書面など必要ない。我らは名を通して魂に刻むのだ」

 護衛役は語った。

「魂に刻んだ誓約は果たされるまで消えることはない。懸けた名の重さでせんしんはあれど、竜種の全ては誓約に優先される。かつてヒトは神獣に心がないと言ったというが、竜種にとっては己の感情などちりも同然よ」

 竜種は他の神獣よりもあらゆる耐性が優れ、強大な神性と空を飛ぶ特権を保有している。その代償を体現したのが、ギルの有様なのだ。魂を契約にがんじがらめに縛られ、意思も感情も無視されて役割を押しつけられた生贄。

 千年経とうとも逃れられない呪縛は、ギルを一向に離すつもりはないらしい。

「つまり、ギルはどんなに嫌でもエルヴァンの親を殺さないといけないってことか。あいつが本当にいやって思ってるかどうかは知んないけど」

 こんなに晴れているのに明日は雨が降るなんて、という程度の意外性をのせてリンが言った。

 リンとて貴族の腹芸は分かっているし、笑顔で接している裏で憎み合うことが稀な事象ではないことも理解している。ただ、ギルがエルヴァンと楽しそうにしていたことが嘘だとは思えなかった。

 だからこそ、リーフは一歩も退かないのだ。二人分の感情を細い身体に背負って戦うリーフのことをリンも止めなかった。代理とはいえ、リーフの中でくすぶった感情からの衝動を否定することはできなかった。

「他の神獣では感情で多少鈍ることもあるが、竜種は衝動に抗えぬ。我らが王が御子息をかばえたのは誓約に含まれないからだ。が制限されていれば、おそらく王はちゅうちょなく御子息を見捨てていただろう」

 当人が聞いているというのに、護衛役はあっさりと言い切った。

 抱えられているエルヴァンがびくりと震えた。下唇を噛み締めて半泣きの顔をそれ以上崩さないように耐えていた。

「バッカみたい。そんなの約束の奴隷じゃん」

「竜種であるが故の責務だ」

 吐き捨てたリンに対し、護衛役は胸をはって言った。

「そんなの犬の餌にもならないわよ」

 リンはべっ、と舌を出した。

「なーんだ、竜種もそれなりにクソじゃないの」

 誓約を優先し護衛役が守るべきものすら放棄する。そして、それを当然と受け入れる精神にリンは嫌悪感しか湧かなかった。

 ギルのことを人間に擬態した人でなしと思っていたが、あれでも相当ましな部類だったようだ。

ひろ風情がよく吼える」

 炎色の瞳がリンをじろりと睨んだが、少女は涼しい顔で撤回しなかった。


  ぴしっ


「っ!」

 高く響いた音に、リンは即座に源を目で追った。

 化物の右腕を弾いたリーフの剣に、亀裂がはしっていた。結晶が固定していることでまだ刃は崩壊していないが、結晶もほとんど剥がれ落ちてしまっている。

 外套に局所的に張った白い結晶の盾も、無数の傷とひびに覆われていつ砕けてもおかしくないように見えた。


  ぴし、ぴし


「……」

 化物の右腕からも異様な音が聞こえていた。

 肘まで達した裂傷が鱗を弾いて落とす音だった。

 裂傷から滴る黒い血が結晶へと変わり、裂け目を埋めようと肉に刺さっていく。結晶が刺さることでさらに傷口が広がる。新たな傷口を結晶が埋める――自壊の連鎖で化物の右腕が石へと変わっていっていた。

 偽りの肉体すら捨てて、遥かに鋭く遥かに脆い身体へと化物は近付いていた。

「よくもまあ、保ったものだ」

 護衛役が感心半分、呆れ半分といった口ぶりで言った。

 リンは無言で銃身を強く握った。握力で部品が軋みをあげた。


  ◇ ◆ ◇


 既に感覚がない右手を結晶で指先まで固め、リーフは折れる寸前の剣を構えた。

 化物も結晶に蝕まれた右腕を掲げた。骨と腱に黒い鉱石がはりついた右手の表面で、朱い光がはじけた。

「……っ」

 次に来るであろう攻撃の殺意が、リーフの身体をゆさぶった。今までのやりとりよりも濃密な気配に、一瞬息がつまる。

 次で仕留めにくると悟り、リーフは大きく空気を吸った。

「はあああああっ!」

 気合いの声と共に、背中に白い翼が広がった。実のところ、リーフは翼を使うことがあまり得意ではない。普段はギルの意識が支えているからこそ自在に動かして飛行できるのだ。今の翼は、ただの鈍重で大きな急所にすぎない。

 それでも、次の攻撃を防ぐには翼が必要だと直感した。

 リーフは翼を身体の左前に突き出し、盾のように左腕に沿わせた。

 剣と盾をたずさえ、リーフが化物に突っ込んだ。

 化物が右の鉤爪が振り下ろす。地面を三閃の閃光が切り裂いた。

 リーフは化物の側面に回り込み化物の首めがけて剣を振るう。

 化物の尾がしなり、剣を砕こうと一撃が放たれた。剣を引いてリーフは盾で尾を防いだ。反発していた神性を突き破り、尾が盾に叩きつけられた。今までの攻撃と異なり、弾かれずに叩き潰そうと力をさらにこめてきた。

 尾の表面に宿っていた朱色が散乱して周囲に破壊を撒き散らす。翼の表面が削られ、白い結晶が散った。

「がああああっ!」

 翼を削られる痛みを感じながらもリーフは気合いで尾を押し返した。

 勢い余って跳ね上がった白い翼の向こうで、再び化物の右腕が朱く輝いていた。回避できる間合いではない。

「うるあああああっ!」

 リーフは雄叫びをあげて化物の右腕を剣で突いた。半分鉱石と化した腕にあっさりと切っ先が貫通し、剣を覆う結晶がばちっと朱い閃光を霧散させた。

 しかし、剣の結晶も全て弾けとんだ。剣身の亀裂があっという間に進行し、真ん中から砕け散った。

 必殺の一撃を止めたが、リーフは武器を失った。

 化物が左腕を振り上げた。右手に比べればまだ生身が多いが、鉤爪に宿した雷が肉をずたずたにしていく。


  おぐああああああっ!


 雄叫びを上げ、黒い血を飛ばしながら化物が爪を振り下ろした。リーフの白い翼が受け止める。

 翼の表面に朱い雷が直撃した。

 白い結晶が砕け散った。

「――っ!」

 リーフが目を見開く。身体を真っ二つに裂かれたような苦痛に声をあげる余裕もない。ただ、その場にくずおれた。

 そこに蹴りが叩き込まれ、リーフは後方へ吹っ飛ばされた。受け身を取ることもなく、無様に地面に転がった。

 それからはもう、動かなくなっていた。左の手首から結晶が剥がれ落ち、どくどくと血が流れ出した。



「リーフっ!」

 リンの叫びが焼け野原に虚しく響いた。


「本当によく保ったものだ。半獣風情でここまで粘るとは」

 護衛役は想定していた結末が長引いたことに驚いていた。

 リーフが敗れることは、彼にとって何ら意外なものではなかった。

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