第29話 決闘契約・下

 ぼろぼろの人形が地面にぽとりと落ちた。鋼のかかとが人形を踏み抜いて粉々に砕いた。首に噛みついていた蛇は牙を収め、何事もなかったかのように外套の裾に潜り込んでいった。

 リーフの手の中には両手剣があった。ありふれた真鍮色の柄に、不気味な薄紅色の刃。鍔には不釣り合いなまでに精緻な蛇の飾り。いつも通りの魔剣ギルスムニルである。

 リーフは静かに竜王の方へと振り向いた。表情の乏しい人形じみた顔はそのまま、何ら変わるものではない。

「!」

 だが、その場にいたもの全てが息をのんだ。

 翡翠を埋め込んだような緑白色の目は、今は錆のような朱色に染まっていた。

「……食い尽くしたか」

 竜王はそれまで固く閉ざしていた口を開き、かすれた声で呟いた。短い言葉には酷く侮蔑的な響きがあった。

 エルヴァンを抱えた護衛が素早く後ろに下がった。竜王に声をかけるようなことはしない。

「リーフ? え、ギル?」

「御子息様」

 エルヴァンの目にはギルの姿が消えたことしか理解できなかった。蛇がリーフに噛みついたことも、リーフの目の色が変わったことも理由が全く分からなかった。

 護衛の腕の中でエルヴァンが戸惑っていると、護衛役の戦士は宥めるように声をかけた。

「落ち着いて聞いてください。只今、あの者は死にました」

「え」

「元正義卿の魔剣が、魂を砕いて身体を乗っ取ったのです。あれはもう、中身のない死体です」

「え、あ……なんで、どうして」

 説明されてもエルヴァンに理解することはできなかった。

 理解が及ぶ前にリーフの姿が赤い炎に飲まれた。

 竜王が右手を前にかざしていた。放ったのは放出系呪術〈邪視〉イビルアイ、視線に神性をのせたもので神獣相手には軽く痛みを感じる程度にしかならない。だが、王の有り余る神性で底上げされた神性術は直接的な攻撃となって襲いかかっていた。

 炎の下で、白い翼が広がっているのが見えた。リーフは当然のように翼を盾にしていた。

「……よかった」

 リーフの無事にエルヴァンは安堵した。ギルが何故突然攻撃してきたのかはまだ分からないが、リーフはこちらを守ってくれた。つまり、味方であると信じられたし、景月かげ族の翼を使うということは意識もリーフのままである。

 炎が消え、リーフの姿が再び現れた。外套は何故かまだ暗褐色のまま、白い翼だけが背中にあった。その違和感にエルヴァンの胸がざわついた。

「ひっ……!」

 リーフが背負う翼の全貌を見て、エルヴァンの顔が凍りついた。

 翼の表面は白一色ではなかった。黒い結晶の羽根が複数、翼の付け根の辺りに突き刺さっていた。肩と首にかかる結晶にいたっては、ほぼ黒。首筋の噛み傷を覆う結晶も黒。

 朱い目に黒い結晶――ギルの色に染まりつつあるリーフに、エルヴァンはようやく護衛役の言葉を飲み込めた。

 景月族の翼を背に、リーフギルは竜王へ突進する。

 振り下ろされた刃を阻むように地面から火柱が噴き上がり、竜王とリーフの間の壁になる。構わず追撃すると思いきや、リーフギルは後ろに跳んだ。

 火柱から赤い茨がとび出した。茨は鞭のようにしなってリーフの手足に絡みつこうと蔦を伸ばした。しかし、辿り着く前に魔剣で切り落とされていく。

 魔剣の表面を朱い閃光がはしる。火柱が両断され、茨が炎と霧散した。

 消えた炎の向こうには手をかざしたままの竜王がいた。微動だにせずリーフギルを隻眼で睨みつけていた。その背には後光のように煌めく赤い翼があった。

 翼から白い光が一直線にとんでリーフに着弾する。光は魔剣の腹で受け止められたが、勢いを殺せずさらに後方へと吹き飛ばされた。

 光は魔剣の薄紅色を黒く焦した。剣身から立ち上る煙にリーフギルの朱い目が僅かに細くなった。

 竜王の翼から複数の白い光があふれ、頭上で束ねられて球を形成した。先程不届き者を焼いた熱球と見た目は似ていたが、あれが手のひらに収まる大きさだったのに対し、こちらは頭と比肩するほど巨大だった。

 白い球の表面はぎらぎらと明滅し、連動するように翼を構成する赤い結晶もまたたきを繰り返していた。

 争炎そうえん族の奥義〈地陽球〉は竜王の直上に留まったまま白い熱線をリーフに向けて発射した。赤いはずの神性が白く見えるほどの密度で束ねられ、弾丸を超える速度でリーフに迫る。

 リーフギルは地面を蹴り、身を低くして弧を描くように疾駆した。白い翼は畳んでマントのように背負い、掠った熱線を代わりに受け止めた。熱線は翼を削り取っていくが、曲面で逸らすが故に生身には届かない。標的を外した熱線は遥か後方に着弾、水盆にたらしたインクのように炎が広がった。

 翼を削られる苦痛などおくびに出さず、リーフギルは走りながら手首を返し魔剣を構え直した。中央が黒く変色した魔剣の刃にばちんと稲妻が宿った。魔剣を振りかぶると同時に球体が一際強く発光した。

 白い熱線と黒い雷がぶつかり、赤と朱を散らして相殺された。霧散した神性の波が竜王とリーフの顔を撫でた。

 再び熱線と雷が互いを削り合う。互角の撃ち合いに空気がさらに淀んだ。ギルの〈滅雷〉もまた族固有の奥義であり、込められた神性は〈地陽球〉の一閃と遜色ない。

 魔剣の先端で地面を削りながらリーフギルは竜王に迫る。熱線は翼の盾で受け流し、白い結晶の欠片が飛び散った。

われト。ヴレイヴにおげ、いてじょ

 リーフギルの喉から獣の言葉が吐き出される。ヒトの声帯の限界を無視した音で己が何者なのかを圧縮して世界に叩きつけた。

 ぞわり、と足下から朱色の光がリーフの身体にまとわりついた。どこからともなくぴしり、ぴしりと音が響いた。

 竜王の顔色が変わった。喉の奥から地鳴りのような唸りが漏れ、地面を強く蹴りつける。

 役目を失った陣の残る大地が、赤くひび割れた。噴き上がるのは炎ではなく粘性を伴った液体――溶岩と化した高熱の大地だった。地雷原など生温い、本物の不可侵領域が瞬く間に形成された。

 しかしリーフギルの足は止まらない。魔剣に纏った雷が黒い結晶となり、幾重にも重なって刃を覆った。結晶はつばを浸食するまでに厚みを増し魔剣は二回りほども大きくなった。

 竜王もただリーフギルの攻撃を待っているのではなかった。頭上の〈地陽球〉が脈打って収縮し輝きを増した。それに合わせて背の翼も一斉に輝きを放った。

 その姿は、業火を背負っているようにも見えた。

「はあああああっ!」

「うおおおおおっ!」

 リーフギルが黒い魔剣を振り下ろす。

 竜王が腕を振るい熱球を解き放つ。


 漆黒の雷嵐と白熱の津波が衝突した。張り裂けるような轟音、衝撃波、神性が辺りに満ち、遥か遠方の木々すらなぎ倒される。

 護衛役は背を向けてエルヴァンを抱え込み、残りの二頭の火竜も身体を盾にしてエルヴァンを守った。

 弾け飛ぶ黒と白、視界を塗りたくる朱と赤に誰も激突を直視することができない。

 吹き荒れる力の奔流が収まるまでにどれほどの時間を要したのか、五感を奪われた火竜達には知る術がなかった。

 気付いたときには、周囲一帯は更地となっていた。地表には木も草も根の張った跡もなく、乾いた灰色の土が舞う平らな場所に変わっていた。ここが半日前までは豊かな森だったと言っても、信じられる者はいないだろう。

 空気に重圧すら感じる程の濃い神性の中で、二つの人影が立っていた。夕闇に包まれつつある荒野の中央で、翼のある影を長く落とし双方とも肩で息をしていた。

 片方がよろめき、地面に膝をついた。

「……っが、は!」

 倒れたのは竜王だった。咳き込むと同時に赤い血が口元を伝って落ちた。

 竜王の背の翼は右側が半分に折れていた。右肩は力なくだらんと垂れ、左腕で身体を支えている。赤く焼けた足元に手をつけば、手のひらからジュッと音がした。

「……」

 一方、リーフギルの翼は末端が砕けこそしていたものの無事だった。ギルが支配した景月かげの堅牢な肉体と神性は、もろさを補って余りある。最強の盾と矛を揃えたも同然だ。

 結晶が剥がれた魔剣を携え、リーフギルはゆっくりと竜王に歩み寄った。

 竜王の周りは溶岩が囲ったままだった。あらゆるものを焼き尽くす灼熱の流れがリーフギルとの間を隔てていた。

 しかし、リーフギルはお構いなしにブーツで赤く輝く流体を踏みつけた。足は少し沈んだだけで、飲み込まれることはなかった。溶岩の表面には透けるほどに薄く白い結晶が張られていた。もう一歩踏み出せば、同じように白い結晶が咲いた。

 溶岩の海を渡りきり、リーフギルは竜王の前で立ち止まった。

 竜王はその場を動かない。大粒の汗を流しながら歯を食いしばり、炎のような右目でリーフギルを睨みつけていた。翼の損壊は竜種にとって四肢を落とされたに等しい重傷である。再生するまでは歩くことすら困難になるのだ。

 リーフは無言で魔剣を竜王の眼前に突きつけた。

 魔剣の表面には亀裂がはしっていた。高熱に炙られた薄紅色の鋼は毒々しい虹色に焼け、細かい傷に光沢を削ぎ落とされていた。


  ぴしり


 乾いた音とともに魔剣の表面が弾けた。薄紅色の皮膜が剥がれて地金が現れた。暮れゆく空など及びもつかない漆黒が、薄いめっの下に隠れていたのだ。

 そとづらが剥げた刃をリーフギルが日没の空に掲げた。刃の真下には竜王のこうべがある。

「い、いやだああっ!」

 エルヴァンの悲痛な声が響いた。

 護衛役はエルヴァンを守ったまま動かなかった。誓約を知った今となっては、竜王と正義卿の取り決めは彼らの行動も縛っていた。

「やめてぇ! お願いだから! リーフっ! ギルぅっ!」

 抱えられ身動きがとれないまま、それでも精一杯手を伸ばして懇願する。

 しかし、リーフギルの朱色に染まった目は少しも揺るがない。

「終わりだ」

 剣を振り下ろそうとするリーフギルの前髪を、突風が散らした。


「リーーーフッ!」


 空から声が降ってきた。エルヴァンが見上げると、黒い怪鳥が頭上で旋回していた。

「リン」

 涙で腫れた顔で、エルヴァンは縋るように鳥の背に乗る人物の名前を呼んだ。

 エルヴァンの前に火竜が一頭降り立った。竜王の護衛をしていた争炎族の最後の一人、ラムペルラスである。ラムペルラスはリンと共に誘拐犯集団を殲滅し、追いかけてきたのだった。

「こらーーーーっ! ギルーーーッ! なに馬鹿やってんの!」

 リーフギルの視線がゆっくりと黒い鳥――イーハンに向けられた。

 イーハンは視線に明らかに動揺し、おっかなびっくりという体たらくでエルヴァンよりさらに後方へと着地した。これでもまだリーフに近付いた方で、離れようとする度に背中に乗ったリンが殴るため妥協してぎりぎり一撃で塵にされない位置についた。

「遠いっ!」

 案の定、わざわざ遠くに運ばれたリンはイーハンの後頭部を平手でぶっ叩いた。怪力による折檻に大鴉はなさけない声を上げた。

 リンはイーハンの背から滑るように降りると、エルヴァンと火竜達など眼中にないように走って通り過ぎた。

 しかし、決してリーフの傍までは近付かない。リーフの足元はまだ煮え滾っていたからだ。

「リーフってば、いつまでギルに好き勝手させとくの。もう周りめちゃくちゃじゃん、早くやめさせなさいよ。私まで叔母様に怒られちゃうでしょーがっ」

 びしっ、と指を突きつけてリンは堂々と言い放った。気分が悪くなるほどの濃い神性にも顔色を変えない。後ろに置いてきたイーハンはとっくにダウンして銃に戻っていた。

「……リリルット・チャーコウル」

 リーフギルは剣を掲げたまま、呟くように言った。朱い瞳には変わらず感情が無く、リンの顔に焦点が合っているようには見えなかった。

「狼の、あの者はもう」

「黙りなさい」

 エルヴァンを抱きかかえている護衛が口を挟んだが、リンはぎっ、と睨んで黙らせた。

「ていうか、さっき置いて行かれたのも私的にはちょっとイラついてるんですけど。私のこと守ってくれるんじゃなかったの。ほっぽり出しといて全部片付くまでギルにお任せはいダンマリはないでしょ、今この場でちょっと謝りなさいよぉっ」

 リンが一気にまくしたてた。後半は声がかすれて上ずっていたが一文字も欠けることなくリーフに届いた。

「聞こえてるんでしょ! とっとと出てきなさいって言ってんの、リーフッ!」

 朱い目が鬱陶しそうに歪み、再び竜王に向けられた。

 剣を持つ手が振り下ろされた。

「っ!」

 エルヴァンが惨劇から目を逸らした。最早、嗚咽を堪えるので精一杯だった。


 からん、と軽い音が響いた。

 魔剣は後方に投げ捨てられていた。

「そもそも、君はボクに期待しすぎなんだよ」

 リーフの背を覆っていた翼がぼろぼろと崩れ落ちていった。地面に落ちた欠片は蒸発し、跡形も残らない。

「ボク一人で出来ることなんて、数えるくらいしかない」

 リーフがリンを見た。翡翠のような瞳には、しっかりとリンが映っていた。

「ギルをぶちのめすのだって、君の方が得意だろうに」

「でも、言うこときかせられるのはリーフだけじゃん」

「確かにそうだ」

 リンの軽口にリーフは薄く微笑んだ。顔に疲労が滲んでいたが、表情はとても柔らかかった。

 そして、リーフは振り返って背後に転がる魔剣を見た。

「――ということだ。最早お前の手足はない。その毒牙だけで竜の首は落とせないだろう、ギルスムニル・ヴレイヴル・レイジェアト」

 リーフの手が首筋に穿たれた牙の痕を撫でた。既に傷口の流血は止まり、自己治癒が始まっていた。

 ギルは沈黙を貫いていた。先程までの殺意すら潜めて、ただの剣のように焦土の上で佇んでいた。

「あっ」

 突然エルヴァンが声をあげた。

 リーフとリンが一斉に振り返った。細い黒い姿が地表を滑るように移動するのが見えた。

 いつの間にか這い出していた翼蛇ニドヘグが、魔剣の黒い刃へと絡みついた。

 翼蛇の尾の先は、鉄のひとがたに巻きつけてあった。

「あれ、イーハンの!」

 リンが舌打ちした。

 ギルはダウンしたイーハンから人形を奪い取っていた。

 イーハンの人形はギルが使っていたものとは基本の設計からして異なる。ギルの人形はヒトの似姿でのみ使える省力指向で頑丈なものだが、イーハンは安定性よりも拡張性に重きを置いていた。

 それは端的にいうと、脆いが獣の姿になれるということ。

 魔剣のあった場所には、獣のような何かがうずくまっていた。

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