「きのこ」「デビュー」「苔」

矢口晃

第1話

 彼がその場所を訪れたのは、その日が初めてでした。彼にとって、その日がデビューの日だったのです。彼は最初、その場所のありかを「ぼんやりと西の方」としか聞いておりませんでしたから、そこにたどりつくまでには、あちらで道を聞き、こちらで道を尋ねして、何日もの日数を費やしたのでした。その間、食べ物さえ碌にありません。彼は道々、樹に成っている渋い柿を食べたり、畑に刈りのこされている稲の、干からびた穂や茎を食べたりして、どうにかこの場所へたどり着きました。髭は伸び、頬はこけ落ち、着衣は汚れ、右肩から胸の辺りまで大きく破れてしまったその衣服からは、彼の右の胸元があらわになっていました。

 彼がこの場所に来て最初に見たのは、荒れ果てた一軒の廃屋でした。山から伐り出して皮を剥ぎ、粗く鉋を掛けただけの杉の丸太を四本の柱とし、柱の間を同じような杉の丸太を寝かせて積み上げ、四面の壁を作っていました。天井も大変粗末なもので、壁よりも細く軽い丸太を左右の地上側へ傾斜をつけて並べ、その上に萱を薄く、乱雑に敷いてありました。丸太は乾燥が不十分だったためか、あるいはもとから形状が統一されていなかったためか、一本一本の間には大きな隙間がいくつもあり、それは覗けば内から外が、外から内がはっきりと見えるほどの大きさでした。天井も同様に荒廃がひどく、雨でも降ろうものなら、雨の滴がしきりに小屋の中を濡らし、小屋の中にさえいられないかもしれません。扉などもちろん無く、丸太の壁の一部に人一人通れるくらいの四角い出入り口がありました。そこに、扉の代わりに簀の子でもかけておくしかなさそうです。

 季節はこれから、冬に向かいます。このような山中にあって、いったい冬の寒さはいかばかりでしょうか。大きな山の傾斜に立つ小屋ですから、雨や雪もきっと多いに違いありません。そのような厳しい環境を、彼は、今にも朽ちて土に還ってしまいそうなこの陋屋でしのがなければならないのです。

 彼の心中には、その小屋を見た途端から、すでに前途を悲観する荒廃した感情が満ちていました。

 小屋には、一面びっしりと苔が生しています。前の住人がこの小屋を離れ、それから彼の来るまでずっと放置されていたその時間の長さを、地面から小屋の壁へと這い上がる青々とした苔の連なりが物語っているようでした。

 一頻り外側から小屋の様子を見まわっていた彼は、ようやく諦めとも観念とも言えない、消極的な決心に至りました。彼の現在の境遇と、これから先の未知の境遇を悲観していても、誰も助けてはくれないのです。彼は、彼自身の力で忍び、与えられた環境の中で生き延びるしかないのです。そう思いいたると、彼は自分の心が急に軽くなったのに驚きました。

 彼はその時、むしろ現況を楽しむようなうっすらとした笑みさえ表情に浮かべ、切り取られた壁の四角い隙間から、小屋の中へ足を踏み入れました。彼の裸足の足の裏は、外の地面の温かさと、小屋の中の土の冷たさの違いを敏感に感じ取りました。

 小屋の中は、大変狭く、暗いところでした。入口から一歩の間隔を置いて、木材で床が作られていました。床の高さは、地面から彼の膝の高さまでの間の、ちょうど中間あたりです。彼が床に右足を踏み上げると、彼の体重を受けた床が、静かにぎいと軋みました。彼は床に穴が開きはしないかと心配しながら、恐る恐る左の足も床の上にあげました。床は、再びぎいと軋みました。彼の重みで、床が下の方へへこんでいるのがわかりました。

 小屋の中には、彼が大の字なりに寝ればすぐにいっぱいになってしまうくらいの床があるばかりです。竈も、囲炉裏も、寝具や水桶さえありません。床の上には、壁の丸太の隙間を通して、外からの光がまだら状にいくつも差していました。そして壁の内側には、見たこともない白いきのこが、彼の頭の高さくらいのところから生えていました。

 彼は、この地に本格的な冬が訪れるより前に、冬を乗り切る支度をしなければならないと感じました。雪の重みに耐えられ、氷のように冷たい滴を小屋の中に落とさない、強固な天井が必要でした。また、寒風を通さない、隙間のない壁も必要でした。扉のないのは差し当たりどうしようもありませんが、寒さを凌ぐ寝具、火をつかえる囲炉裏、冬を乗り切れる十分な薪、そして最低限の水と食料の準備もしなければなりません。

 ここ数日、満足に食事をしていないのですから、本当ならふらふらになっているはずの彼の足取りは、驚くほどしっかりしたものでした。彼は小屋を出ると、相変わらず素足のまま、さらに山の奥へと入って行きました。地面の上は、長年かけて積った木々の小枝や枯葉で覆われています。その上勾配は大変急なものですから、彼は何度も足を滑らせ、転びそうになりながら、木々の幹を手掛かりにしながら、ひたすら山中へと上がっていきました。ここで生きるためには、彼は一時たりとも立ち止まったりしていられなかったのです。生命をつなぎとめる工夫を、自身でしなければならなかったからです。

 頭上では、キツツキか何かの鳥が、甲高い声で遠くにいる鳥と交信していました。そして地面には、コオロギや鈴虫がやかましいくらいに鳴き競っています。彼は、衣服に覆われていない右の腕の上の方をけがしていました。小枝にひっかけたのかもしれません。または、小枝にいた毛虫にでも、さされたのでしょうか。彼の腕は赤く腫れ上がっていますが、彼はそれを気に留める様子もありません。

 さらに山中に分け入ったところに、彼は野ざらしにされた白い石灰の塊のようなものを発見しました。それは自然にできたものではなく、明らかに人の手による造形物のように見えました。彼は胸を躍らせ、その石の方へ急いで歩み寄りました。

 それは、一体の地蔵のようでした。しかし風化が酷く進んでおり、すでに表情や指の形などはわからなくなっていました。彼はその前に膝をつけて、じっと息を凝らして地蔵の様子に見入りました。いったいどれくらいの間、雨や風にさらされたのでしょう。すでにその表情を伺うことはできませんが、その石仏の俯き、胸の前で両手を合わせている様子は、薄々と感じる取ることができました。

 彼は思わず、地蔵に手を合わせました。そして目を閉じ、頭を下げました。この地蔵が、これからの自分を見守ってくれるような気がしてなりませんでした。これからどんな苦境に立たされようと、何とか耐えていけるのではないかという希望が、彼の心に兆しました。

 翌日、彼は夜の明けたばかりの刻に目覚めると、いち早く小屋の外へ駆け出しました。すでに山中には露が生じ、枝が揺れるとその露が雨のように降り注ぎました。彼は途中、樹の幹にいたやもりを見つけると、それを乱暴に捕まえ、生きたまま丸呑みにしました。腹の中を、やもりが必死で上ろうとしてくるのがわかりました。

 彼が朝、一番にやって来たのは、前の日に見つけた、あの地蔵のところでした。地蔵の前に膝をつき懇ろに手を合わせると、彼は腰に巻いてきた縄や鎌を下ろし、地蔵の周囲を散策し始めました。彼は、何をおいてもまず、この地蔵を納める社を作らなければならないと考えていたのです。冬の到来までにすでに一刻を争う時節ですから、本来ならば、彼には地蔵のために社を作るゆとりなどないはずです。それよりもまず、自分の身を案じ、身を守ることに時を割かなければならないはずなのです。しかし彼は、前の日に地蔵を見つけてから、このままにしておくことはできないという気持ちがすでに芽生え、その思いで頭を満たしていたのです。自身へ迫る危険も顧みず、彼は黙々と地蔵のための社作りに没頭しました。

 彼は短い木々を集めては荒縄で縛り、集めては縛りを繰り返しました。手の皮はところどころ擦り切れ、指の腹にはいくつか豆ができていました。それでも、彼は愚痴ひとつこぼさず、夢中で社を作っていったのです。

 深秋の足早な天日が、彼の頭の真上に上がったころ、地蔵のための社はようやく完成しました。彼が貴重な時間を割いた割に、出来上がった社はみすぼらしい者でした。地蔵が一体やっと納まる程度の、ただの箱型の粗末な社です。しかし、それでも彼の気持ちは満たされていました。少なくとも、今までのように地蔵が直に雨や風に晒されることからだけは、守ることができると考えたからです。彼は箱に入った地蔵の前に膝を折ると、手を合わせ、申し訳なさそうに頭を垂れました。

 そうこうしているうちに、季節はいよいよ冬となりました。小屋での彼の生活が、過酷であったことは言うまでもありません。天井の修理はすべては終わらず、雨の日は雨漏りの少ない方へ寄り、体を小さく折り畳んでいました。間に合わせでどうにか炉は切ったものの、肝心の炉の上に雨が漏るため、彼は一晩中火を守りながら雨の過ぎるのを待つこともありました。雪の積もった日は、すぐに屋根から雪を下ろしました。さもないと、雪の重みで天井ごと落ちてきてしまいかねなかったからです。イノシシの皮を二等分剥ぎ、それを毛布代わりにして身を包みましたが、もちろん冬の寒さは、それでしのげるほど優しくはありませんでした。いくら火をおこしても、壁の隙間を通過し来る風は、肌が凍るかと思われるほどの冷たさです。彼は夜中眠りに落ちている際、まれにじんわりと体の芯から温かくなってくるのを感じることがありました。そのような時には彼はすぐに飛び起き、自身の頬や腕の皮を強くつねって眠気を覚まそうとしました。この極寒の中、温かくなるわけはないのです。彼はそれが、命のともしびが消えかかろうとするときの温かさだと知っていたのです。

 寒さのことばかりに頭が向かうため、彼は空腹を感じる暇もないことは却って幸いだと感じました。いくらかは兎や山鳥の肉を乾燥させ備蓄してありますが、それももちろん豊富にあるわけではありません。彼はどうしても腹が減った時には、薪の皮を剥いで水に晒して食べたり、囲炉裏の燃えかすを歯で削って食べたりもしました。しかし、小屋の内側に生えた、あの不気味な白いきのこだけはどうしても食べる気にならず、彼はそのきのこにはいっさい見向きもしませんでした。

 数か月間に及ぶ冬をどうにか乗り越えると、山中にようやく緑の季節が訪れました。鳥たちは囀り、虫たちは活発に動き、木々は産毛の生えた緑の葉を広げました。太陽にはぬくもりがもどり、日が差すと、小屋は全体から濛々と白い靄を立ち上らせます。

 彼は山菜などを摘みながら、ようやく食事らしい食事にありつけることを心から喜びました。そして日を置かずあの地蔵の元を訪れ、その様子を案じ、手を合わせることも忘れませんでした。

 山桜が散り終わると、季節は足早に夏に向かいます。樹幹に鳴き交わす無数のクマゼミの声は、重く、地を這うように響きます。山中ではマムシやスズメバチなどと遭遇することも稀ではありませんでしたが、すでに冬の間に命の危機にさらされ、それを乗り越えてきた彼にとっては、ヘビやハチの毒など、恐れるには足りませんでした。

 夏の盛りのある夜、彼は小屋の中に寝ころびながら、ふと不思議な感覚を覚えました。なぜか、暑くないのです。小屋の修繕は急いでいるものの、遅々として思うように進まず、彼の初めて来たころから、ほとんど同じままです。ですから、壁の隙間から絶えず風が流れ込み、それで幾分かは暑さを和らげられているのかもしれません。しかし、それにもまして、涼しすぎると彼は感じたのです。それは風のせいではなく、何か小屋の内部だけが、別の世界のように冷やされているような感覚がしました。彼は不思議に思い、起き上がるとそのまま小屋の外へ出てみました。途端に、じっとりと纏わりつくような蒸し暑さに、彼の体は包まれました。

 再び小屋の中へ戻ると、彼はもう一つの発見をしました。それは、小屋の中が異様に明るいということです。それまで気に留めていませんでしたが、今、外の闇から小屋の中へ戻って聞見ると、同じ夜のはずなのに、小屋の中は何やらぼんやりと明るいのです。鎌や鉈、草鞋などがどこに置いてあるか、夜目にもはっきりとわかるくらいです。もちろん、夏場ですので炉に日など起こしていません。

 月明かりだろうか、と彼は思いましたが、そうではありません。満月の夜ならまだしも、この日は半月です。とても月明かりだけで、こんなにはっきりとものが見えるほど明るくなるとは思えませんし、第一月の明かりのせいならば、小屋の外も同様に明るくなくてはならないはずです。しかし、そうではないのです。外は暗く、小屋の中だけがぼんやりと明るいのです。

 彼は息を飲みました。小屋の中を照らしているものの正体を、発見したからです。それは、彼がこの小屋を初めて訪れた時からあった、あの白い不気味なきのこでした。きのこは、内側から強い光を放っており、それが小屋の中全体を照らしていたのでした。

 彼が驚いたのは、そればかりではありません。夏の終わりに、強い風と雨が彼の小屋を襲いました。周囲の木々はなぎ倒されんばかりに撓り、樹の先端同士がこすれ合い、その音で山全体がうなっているようでした。

 彼はなすすべもなく、小屋の中に身をひそめ、体を小さくして嵐の過ぎるのを待っていました。その時です。彼ははっとしました。小屋の外がこれほどの大嵐であるにも関わらず、小屋の中はいたって静かなのです。小屋の修繕は思うように進まず、壁はいまだに隙間だらけです。外と同じくらいの強い風が、小屋の中を襲っていても不思議ではありません。ですが、小屋の内側は、同じ山中にあるとは思えないほど、平穏なのです。壁に掛けた縄も、草鞋も、入口の簀の子も、一切揺れていません。彼は、もしや、と思い小屋の外へ出ました。折れた小枝や木々の葉が飛び交う強風を押して小屋の脇へ立つと、壁を覆う苔に指を一本立てて、小屋の内側に押し込みました。指は苔を通り抜け、小屋の内部に突き出しました。

 急いで小屋の中へ戻ると、彼は今空けた指一本分の穴のところへ、自分の右の耳を当ててみました。すると驚いたことに、その指一本分の穴からだけ、かすかな風が吹き込んできたのです。

 彼の予感は、あたっていました。小屋中を覆っていたあの青々とした苔が、彼のこの小屋を、外の風雨から守ってくれていたのです。

 ご利益があったのかもしれない。彼はそう思って、手を合わせました。そして心中に、あの地蔵のことを思い浮かべました。何遍も感謝の言葉を口にしているうち、彼の目からは、自然と熱い涙がこぼれてきました。

 季節は、彼がここへ来て二回目の冬を迎えましたが、状況は一年前とは一変していました。彼の小屋は、青い苔によって寒さから守られ、彼はどんなに冷え込んだ日でも、小屋の中では上着一枚で過ごすことができました。雨は苔によってはじかれ、屋根には不思議と、雪さえ積もりませんでした。そして白いきのこは、いつでも小屋の中を明るく照らします。彼は、これらの不思議がきっとあの地蔵のお蔭に違いないと思い、毎日地蔵のもとを訪れ、その周囲を清め、手を合わせました。社も傷めば繕い、模様も少しずつそれなりのものへ作り変えていきました。

 その後、彼がどれくらいの間その小屋で暮らしたのかは、今では誰も知りません。現在、彼の暮らしていた小屋はすっかりなくなってしまいましたが、彼の小屋の跡には、いったい誰が祀ったのか、小さな地蔵が一体立っています。地蔵にはびっしりと青い苔が生え、人々はそれを「苔地蔵」と呼んで、大変ありがたがられているそうです。そして地蔵の社から続く二百段ばかりの階段を上って行った先には、三抱えほどもある立派な幹をした、樹齢千年とも言われる杉が、厳かに立っています。その杉を見た、ある人は言いました。

 それは樹というよりは、むしろ、神のような御姿であった、と。

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「きのこ」「デビュー」「苔」 矢口晃 @yaguti

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