八章

○ 外へ……? 〈高科由芽〉


 律子の部屋で、二人きりで一緒にバナナケーキを食べている。会話はなく、テレビも珍しく消えている。律子の手が、自分が作ったケーキを食べるために動いている。由芽はそれを眺めて、顔をほころばせた。


「高科」

「えっ」


 律子から会話を始めるのは珍しいので、由芽はほころんでいた顔から弾んだ声を出して聞き返した。


「あなたのその指輪は何なの?」


 律子が由芽の右手を眺めていた。中指には、ククから渡された白い指輪がはまっている。

 男のククが嵌めていた指輪だ。華奢な手をした由芽が嵌めれば、当然するりと抜け落ちてしまうだろう大きさのリングだった。しかし今は由芽の指にあつらえたようにぴったりと嵌っている。ぶかぶかなのを承知でなんとなく嵌めてみると、なぜだか由芽の指にちょうど良くぴったりと嵌ったのだ。不思議な指輪だった。


「んーっと……。お姉ちゃんの形見、なのかな……」


 律子の問いに、由芽は少しだけ考える間をおいて、そう答えを口にした。

 由芽も自身の右手を――指輪を眺めた。少女の眼差しは、愛しさがたくさんたたえられていた。ククが言った、『それは実来自身だから』と言う言葉どおりに、指輪を姉だと信じているかのように。


「高科。あなたは私をどうしたいの」

「えっ?」


 指輪から顔を上げる。律子がフォークを皿の上に置き、傍らにおいてあったテレビのリモコンを手に取り、蓋を開け閉めしている。開け閉めしながら、由芽の指輪を凝視している。


「あなたは私をどうしたいの、他に友達が居るにもかかわらず、こうして私の部屋にやってきて、色々して、何の目的があるっていうの、私にあなたの作るものがおいしいと言わせて何がしたいの、それでどうしてあなたは笑顔になってるの」

「え? え……?」


 急にまくし立て始めた律子に、由芽は笑顔に戸惑いを混じらせる。律子はリモコンの蓋を開け閉めし続ける。


「あなたは私を外に連れ出したいとか、思ってるの?」


 蓋の開け閉めをやめて、律子の指が、電源のスイッチを押す。テレビの画面にお笑い番組が映った。律子の指は音量のボタンを押す。テレビの音はどんどんと大きくなっていき、コントで起こる笑い声が部屋に充満していく。律子の指が電源ボタンを押した。笑いが途切れ、静寂がやってくる。


 戸惑いながらも、由芽の脳裏に、ひきこもっていたころの姉のことが思い出された。外に出てきて欲しくて、無理矢理部屋に押し入った。そして、さらに傷つけてしまった苦い思い出が。


「あたしは……りっこちゃんと居られればそれでいいよ。外には、りっこちゃんが『外に出たいなー』って思ったら、一緒に遊びにいこうね」


 そう言って、由芽は笑った。ふにゃりと、無邪気に笑った。

 再びテレビの電源が入る。さっき大きくしたままの音量が、部屋を一気に圧迫する。


「馬鹿じゃないの?」


 律子はさらに音量を大きくする。音量のボタンを何度も何度も連打する。


「ちょ……と、りっこちゃん、どうしたの?」


 由芽が顔をしかめながら耳をふさぐ。


「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿なんじゃないの?」


 テレビの音量と共に、律子の声も大きくなっていく。目が見開かれていく。


「出たいと思ってるわよ、ずっとずっと! だけど怖いの! 出られるわけ無いじゃない!」


 由芽は部屋に溢れる音も忘れて耳から手を離す。テレビの大音量を上回る叫び声に何も考えられなくなる。律子はリモコンを放り投げ、何も見たくないと言う風に膝に顔を埋めた。隣の住人が怒りに任せて壁を叩く音がする。由芽は我に返り慌てて這い進み、テレビ本体の電源ボタンを押し、大音量の根源を消した。静寂が呼び戻される。呼び戻された静寂の中で、すすり泣きが聞こえる。


「帰ってよ、帰ってよ。あんたなんかいらない……あんたなんかいらないんだから……」


 由芽の頭の中は完全に痺れていた。すすり泣く律子を見ながら、ゆっくりと立ち上がる。


 ――あんたなんかいらない……。


 由芽は酩酊したような足取りで玄関に向かう。頭の中では律子の言葉が繰り返し繰り返し、由芽の事を責めていた。


 ――あんたなんかいらないあんたなんかいらない……。


 玄関の扉を開けて外に出る。廊下を歩く。歩き出した後ろで、扉の閉まる音がする。何かを断ち切ったような音だった。


 ――うるさいな自分でできる帰ってよ出て行ってくれあんたなんかいらない馬鹿じゃないのいらないんだから――――


 姉を傷つけてしまったときの姉の声。律子に拒絶されたときの律子の声が、混じりあいながら一緒に由芽を責め立てる。

 家についても放心した心は戻らなかった。料理を作りながら鼻歌を歌う母親に帰ってきたことも告げず、二階に上がる。実来の部屋の扉を開ける。中に入り扉を閉める。部屋は昼と夜の狭間の薄闇で満たされていた。


 ――やっぱり……いた……。


 ベッドの布団が盛り上がっている。布団から赤い髪がはみ出している。


「クク君……」


 ベッドに近づき膝をついて、彼の体を揺り動かした。

 彼は目を閉じたまま、小さな溜息のように声を漏らした。


「実来……」


 彼は夢うつつの中でそう呟いた後、跳ね起きた。由芽の存在に気づき、今の自分の寝言を聞かれたことを理解したのか、薄闇の中でもわかるほどに顔を紅潮させた。


「あ……。わ……るい。由芽、俺、今日、お前と話してる時間、ない……んだ……。すぐ、行かなきゃ……」


 彼は言葉の通り、すぐに立ち上がり、壁をすり抜けて逃げるように去ってしまった。

 それをぼんやりと眺めた後、由芽は姉のベッドにのぼった。布団をかぶった。彼の体温が残る布団にくるまった。姉の布団なのに、すでに姉の匂いもない。涙が流れてきた。


 ――あたしは……やっぱり誰にも必要とされないコなんだなぁ……。


 目を閉じる。目を閉じて訪れた暗闇の世界も、安らぎにはならなかった。



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