七章
○ 抱きしめる。 〈高科由芽〉
律子の部屋のテーブルに、由芽は頬杖をついていた。相変わらず律子はテレビの方を向いていて、無言だった。
由芽の隣では、ユキマサがプリンを食べている。テーブルにはユキマサのプリン以外が二つ――由芽と律子の分――が皿に行儀よく鎮座して並んでいた。由芽はその並んだプリンを、何かの仇のように見入っていた。
「あ」
部屋全体が小さく揺れた。ふよふよと二つのプリンも揺れた。たまに隣の部屋の太った女性がエクササイズをするのだ。が、ものの五分で終わってしまう。なぜかユキマサがテーブルの下に隠れていた。
「ちょっと、ツッコんで! 二人ともツッコんで! 地震とちゃうやろって俺にツッコんで!」
ユキマサがテーブルの下から這い出てわめいた。それは隣の女性の失礼になるのでは……といつもなら言っているところなのだが、そのことにも気が回らずに由芽は、さっきの揺れで何かを彷彿とさせたプリンをしかめっ面で見ていた。
「ねぇ。りっこちゃん。ユキちゃん……」
「ん? どったの? 由芽ちゃん。プリン食わねぇの?」
「やっぱり男の人って、ムネのおっきい女の人がいいのかな?」
ユキマサは飲んでいたジュースを盛大に噴射した。律子がなぜかチャンネルを教育番組に変更した。
「なに? 由芽ちゃん、なに? なんかあったの?」
「ベツにナニも」
由芽はやはり二つのプリンを渋面で眺めながら、はぁ……とため息をついた。
昨日。公園で見知らぬ女性と抱き合うククを見てしまった。いなくなった姉の特別な人の、そんなシーンを目撃してしまった。
やはり彼自身が否定したように、姉と彼とは恋人同士ではなかったのだろうか。ホンモノの恋人はあの女の人なのだろうか、とショックを受けた。
しかし彼は姉の名前を呟いていた。愛しそうに呟いた。これは一体どういうことなのか。
どういうことなのか確かめたかったが、ショックと混乱と、理由のわからない嫌悪感に襲われた。彼らを見ていられなくなり、すぐにその場を後にした。
母の誕生日ケーキを買うことも忘れて、泣きながら家に帰った。帰宅して、父にケーキのことを指摘され、結局父の運転する車に乗せてもらいケーキを買いに行った。夜、ベッドに入った後も、抱き合っていた二人の光景が目に焼きついて離れなかった。なぜだという疑問も離れなかった。
彼は彼女の豊満で美しい体にうずもれるようにして抱きしめられていた。なぜあの女性だったのだろう……。
彼は姉の名前を呟いた。やはり彼が姉のことを好いていたのは間違いがなかったのだ。なら、なぜ彼女に抱きしめられていたのだろう……。
姉がいなくなって、彼もさみしかったのだろうか。そのさみしさを、誰かに埋めて欲しかったのだろうか……。
――それだったら……あたしだってずっと二人っきりでお話してたのになぁ。顔だって、ちょっとくらいならお姉ちゃんに似てなくもないのに……。
そんな考えが頭を掠めた。そのときから、由芽の眉間からはシワが取れなくなってしまった。
――やっぱり、男の人は慰められるなら、ムネのおっきい人の方が……。
「うーん。やっぱそういうのはさ、個人個人の好みっしょ」
ユキマサも由芽につられたようにしかめっ面になり、腕組みをしながら答えた。由芽がユキマサに疑いのまなざしを向ける。
「ん。確かに、一見世の中、皆が巨乳をもてはやしているように見える。そんな世の中でムネの大きさは個人の趣味とか言っても説得力無いのはわかる。しかしだ。よく考えてみようよ。結婚している女性。子持ちで母親になった女性というのはつまり、男性に愛されて結ばれた女性ということだ。――さて、果たして世の母親という女性が皆、巨乳なのだろうか?」
由芽はハッと、雷を打たれたかのように口と目を見開いた。
「な? な? そうでもないだろ? 目から鱗がいっぱい落ちすぎて前が見えなくなるだろ?」
うん、うん、うん。と由芽は何度も縦に首を振る。
「うん。そう。そうなんだよ。巨乳も貧乳もどちらもいいトコあるんだよ! おっきいと確かにインパクトあるけど! 一見無いように見える女の子でも、『あ、女の子だな』って思ったときのドキッと感がまた…………ぶッ!」
律子の手がすばやく動いて、ユキマサが仰け反り、床に何かが落ちる音がした。テレビのリモコンだった。
額を押さえて床で苦痛にのた打ち回るユキマサを尻目に、律子は淡々と口を開いた。
「高科。あなた、この男に下品な話をさせて、何がしたいの?」
「え?」
「何がしたいの?」
律子の重ねての問いに、由芽の顔は瞬時に上気した。
――う……。あたし、何がしたかったんだろ。
改めて考えると何かとんでもない質問をしてしまった気がする。気がする、ではなくとんでもない質問だ。
恥ずかしさにだらだらと汗をかきながら、由芽はごまかすようにプリンを口の中にかき込んだ。ムクリとユキマサが起き上がった。
「良い子のみんなは人の顔にリモコン投げつけるなんてこと、絶対真似しちゃいけないよーっ。んで、どうなの由芽ちゃん何がしたいの? もしかして由芽ちゃんが巨乳になりたいの? だぁいじょーぶ! 由芽ちゃんは中一なんだしまだまだこれから、将来は明るいよ! なんなら俺がこの手でおっきくしてあ、ゲッ!」
ユキマサが再び律子が与えた衝撃により倒れた。ビデオのリモコンだった。それを尻目に、由芽は頬杖をつきながら、プリンのスプーンをかみながら、もう一度思った。
――あたし、何が訊きたかったんだろ? 何であんなこと訊いたんだろ。
ことの発端を考える。
ククがあの女性と抱きしめあっていたからだ……。
ククは実来がいなくなったさみしさを、他の女性で埋めようとしていたのだろうと思ったからだ。ならなぜあの女性だったのだろうと考えたからだ――――どうして彼が抱きしめたのはあの女性で、自分ではなかったのだろうと考えたからだ……。
――あれ?
由芽の顔が熱を帯びて紅く染まっていく。自分の思考に自分で驚く。
――これって、あたしがクク君を抱きしめてあげたかったってコトじゃないの?
律子が無意味に投げたコンポのリモコンがユキマサに命中する。ユキマサの絶叫とともに、由芽も心の中で悲鳴をあげた。
* * * *
――ちがうちがうちがうちがう! 絶対にちがうよ!
自宅に帰りついた由芽の思考の中は、自らの思考を否定する思考で埋め尽くされていた。
キッチンから、母の作るカレーの匂いがしていた。いつもならこの匂いがすると、すぐさまキッチンをのぞきにいく由芽だったが、今日の由芽は好物の匂いも素通りして、二階の階段を上がった。
姉の部屋の前を通るとき、足を止めて扉をじっと見つめた。
もしかしたら今、彼はこの扉の向こうにいるのだろうか。また勝手に姉の部屋で、姉のベッドで眠っているのだろうか。
そう考えるだけで少女は顔を赤らめる。昨日の出来事を思い出し、自分の思考を思いだし、いたたまれなくなる。
寂しいときなどは姉の部屋で過ごすことが多くなっていた由芽だったが、今は絶対に姉の部屋には入れないと思った。彼と顔をあわせる可能性のあるところには行きたくなかった。
「ごめんね、お姉ちゃん」
別にお姉ちゃんの部屋が嫌いになったわけじゃないからね、と心の中で言い訳をして、自室に向かう。
ドアノブを回して部屋に入る。うつむけた視線を上げて、電灯の紐を引っ張り点灯させる。
明るくなった部屋の光景を見て、由芽は目を丸くした。
「き……やぁあああああああ!」
反射的に部屋の隅に逃げる。口を押さえて悲鳴を押し殺したが遅かった。階下から母の「由芽? どうしたの?」という心配の声が上がった。
「あ、あ。クモ! ただのクモ! 大丈夫だから! 自分で窓から追い出すから大丈夫!」
母はそれで納得してくれたのか、それ以上の声は無かった。
赤髪の青年が由芽のベッドに座っていた。力なく背中を丸め、膝に肘をのせて頬杖をついている。
「なんだよ。お前の家族はクモごときであんな声を上げんのが普通なのか」
「うん。クク君はあげないの?」
「あげるわけねぇえだろ」
今、最も会いたくないと思ってい相手がそこにいた。相変わらず長い前髪で隠された目で、こちらを見据えてくる。
戸惑いながらも由芽の視線は、ククの腕と手に吸い寄せられる。筋肉質というほどでもないが、それなりに肉付きが良くたくましい腕。指輪がいくつかはまる指は白く長く、大きく広い手はまぎれもなく大人の男性の手だった。その手であの女性を抱きしめていたのだ……。
「え、あ……どうして? お姉ちゃんの部屋、隣だよ?」
あの女性は誰なのかという問いを押し殺し、由芽は口を開いた。
「お前に用があってまってたんだよ」
由芽は目を瞬かせた。ククの右の白く長い指が、左の薬指の白いリングを引き抜いていく。引き抜いたそれを指ではじいた。
「わっ」
指輪は孤を描きながら由芽のところへ飛んできた。受け取ろうと両手を出した由芽だったが、受け止め損ねて何度かお手玉をした後、何とか自分の手の中に収めた。
手の中におさまった指輪は、以前彼が、実来とは何の関係もないと語っていた指輪だった。左手の薬指に嵌めているが、指輪などどこに嵌めても同じだと語っていた指輪だった。
由芽はククに疑問の目を向ける。
「それ、お前持ってろ。お前が持ってた方がいい。それは……実来自身だから……」
「え……。お姉ちゃん……自身……?」
彼がコクリと頷いた。頷いたまま、彼は顔を上げず、由芽の疑問の表情には答えなかった。
指輪には彼の体温が残っていた。その温もりは彼の、姉への想いの熱さのような気がして、胸が締めつけられた。
「クク君は……。やっぱり、お姉ちゃんのこと……好き、なんでしょ?」
由芽は震えながら、恐る恐る、ゆっくりと訊ねた。ククは首を振る。
「違う……」
由芽は手の中の指輪を痛いほどに握り締める。
「好きなんでしょ?」
「違う! 絶対に違う!」
「じゃあなんで泣いてるの」
ハッと体を震わせて、彼は手で自らの頬に触れる。震える息を吐く。嗚咽を漏らしながら手で口を覆う。涙を押しとどめようとする彼の意思に反して、次々と涙が頬を伝っていく。
「違うって……ちがうっつってんだろ……」
不覚にも涙を流してしまった自分を嫌悪するように、赤い前髪の下で涙を流し続ける目を、手で覆う。
彼の心の中で一体どういった感情が渦巻いているのかはわからない。実来への愛しさかもしれない。亡くしたことへの悲しみかもしれない。いなくなってしまった者への想いなど、認めてもしょうがないという諦めの気持ちかもしれない。由芽には想像もつかない他の何かかもしれない。
ただ、今、彼の心をかき乱しているのは間違いなく、姉の実来なのだろう。姉のために泣いているのだろう。
由芽は一歩、彼に向けて歩みを進める。さらに歩みを進める。
彼の側まで行くと、彼は涙に濡れた顔を上げて、由芽を見た。その顔を、由芽は自分の胸へと導く。
彼の体は震えており、由芽も震えた。
「おまえ……」
彼が驚きの声で呟く。
由芽は震えながらも目を閉じ、精一杯の想いで彼を抱きしめた。
「おまえ……ムネなさすぎ」
「そっ!」
由芽は顔を真っ赤にして、相手を突き飛ばす勢いで身を放す。
「そ、そそ、そんなこと言うならもうしない!」
由芽は目じりに涙を溜めて逃げ出そうとした。逃げ出そうとしたが、彼の手が由芽の腰を引き寄せる。顔が胸に押し付けられ、強く抱きしめられる。抵抗してみたが放してくれなかった。
彼は無言で抱きしめ続けた。抵抗していた由芽の手が止まる。恐る恐る彼の夕日色の頭に、手を回し、そっと抱きしめた。
腕の中で、彼の嗚咽の声がする。由芽の目にも涙が溢れて、こぼれた。姉の死が悲しすぎて受け止め切れなくて、ずっと流すことができなかった涙がこぼれた。
――やっぱり、あたし。クク君を抱きしめてあげたかったんだ……。
そう自分の心を確認し、由芽は、自分の胸で体を震わせて泣いている青年の背中を、ゆっくりと撫でた。
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