六章

▼ 行動動機 〈クク・ルーク〉


 ――何をやってんだろう、俺は。


 妹相手に実来の話をして、何をするつもりなのだろう。何のつもりなのだろう。


「ねぇねぇ。クク君とお姉ちゃんはどうやって知り合ったの?」

「単なる幽霊的存在として、実来の部屋を通りかかった。あいつは人間に対しては怖くて話をすることができなかったけど、人間じゃない俺とは話ができた。だから話し相手になった。それだけだ」

「本当に? 本当にただの話し相手だったの? 恋人じゃなくて? だってクク君、『お前の姉ちゃんの彼氏』て言ったでしょ?」

「あほか。冗談だよ。俺みたいな得体の知れない謎生物とマジ恋する人間なんているかよ」

「でも、じゃあ。その指輪は、お姉ちゃんとは関係ないの? 左手の薬指だし……クク君、他に恋人がいるの?」

「別に。あいつに貰ったとか、そんなんじゃねーし。指輪なんてどこにつけたって同じだろ」


 本当に、ククは自分が何をしたくて由芽と話をしているのかわからなかった。

 実来の部屋に行かなければ、由芽との関係は続かないだろう。あるいは自分は人間を殺して生きているということを告げてしまえば、崩壊してしまう関係なのだろう。だが、ククはそれをしなかった。


 眠くなれば実来の部屋に行き、由芽を邪険にすることもせず、自分が何を糧に生きているかということも告げなかった。


 由芽はククに話をするときも、ククの話を聞くときも嬉しそうだった。

 実来のベッドは寝心地が良かった。ベッドを借りるための代償として、由芽に話をして、聞いてやる。おそらくは、そういうことなのだろうと思っている。実来に恋をしていた、だとか、由芽に何がしかの情をかけている、だとか。そんなものは決してないと、ククはそう思っている。



    * * * *



「お前は、もしかすると正義のつもりなのか?」


 《想いの残骸》、という存在なのにも関わらず、《残骸》を殺しているということは、自分は人間の味方をしていることになるのだろうか。なんのつもりなのだろうか。


 瓦屋根の民家の一室。畳の敷かれた部屋で眠っていた男に、不意打ちで斬撃をあびせた。男は紙一重でかわしたものの、肩に太刀を浴び、左腕を落とした。

 目の前で、腕を落とし、激しく息を上げている《残骸》。《陽を取り込む場所》を作った本人である一人の、その男が問いかけてきた。

 男に問いかけられ、ククは、追い討ちをかけようとしていた体の動きを静止させた。


 ――正義?


 目を細め、思考の森の中で答えを探して駆けずり回った。それを見て男が語りだす。


「最近、この地域に住む同胞たちの数が減っている。気配が感じられないのだ。初めは私の知らない間に、どこか遠くへ旅立ったのかと考えていた。だが、お前は私を殺しに来た。争わずとも、私はお前に寿命を差し出してやるといっているのにもかかわらず、お前は私を殺すと言う。寿命ではなく私を殺すことこそがお前の望みであるのだろう。なぜだ? 殺戮が好きなのか? いや、お前は私を殺すことを楽しんでいるようには到底見えぬ。しかし、同胞たちを消し去っているのはお前なのだろう? 一体何のために? 私に思いつく仮説はひとつだ。――人間を喰らう我々を阻止するため」


 ターゲットである《残骸》は、立派な顎鬚をなでながら、見下すようにククを見上げた。ククの刀によって、腕を一本落とされており、片膝を突いているにもかかわらず、彼の言葉はククの心を威圧していた。

 思考の森の中で、ぐるぐると同じところを回り続けているような……それでいて森の中から脱出できたような、奇妙な感覚に陥る。


 ――俺は一体、何がしたいんだ。


「どうやら図星のようだ。なら、もう一度問うとしよう。――お前は、人間の味方をして、それで正義であるつもりか?」

「はっ。んな図星あるわけねぇだろ。俺は壊すのが好きなんだ」

「そうか。お前の心からの返答が聞けず、残念だ」


 髭男の腕の切断面が盛り上がった。盛り上がった切断面は押し出されたクリームのように長さを増し、長さを増したそれは人の腕の形をとった。男はその腕に自分の意思が通っているのか確かめるように、手を開いたり閉じたりしている。


「私は時間さえかければ傷を再生できるのだ。私たち《残骸》はそれぞれどんな能力を持っていてもおかしくはない。やはり、獲物の戯言には耳を貸さず、一気に仕留めてしまう方が上策ということだな」


 髭の男は目を見開くと同時に自身を発光させた。強烈な光で、ククは反射的に手で目をかばうが効果は薄く、視力を奪われた。


「ぅざってぇ……! んなことしても、気配でわかるっつーんだよ!」


 男の気配が部屋から逃げていく。男が二階の部屋から跳躍。隣家の屋根に着地する。連続して跳躍を繰り返し、逃走を図る。

 くらんだ目を無理矢理に開き、ククは男を追い、夜に躍り出る。男よりもスピードの乗った跳躍を繰り返し、目標を追尾する。


 射程の範囲内。髑髏のついた指輪が嵌る、左の人差し指に血管が浮き上がる。髑髏がわずかに震え、血管は左手全体に浮き上がり、もう一度髑髏が震えると、浮き出る血管は腕、肩へと駆け上った。

 建物と建物との間を跳躍するのと同時に、血管がひしめく腕を振り上げ、着地と同時に振り下ろす。


 目標の口から短い悲鳴が上がる。見えない巨大な手で押さえつけられたように、その場に倒れ付した。

 赤髪は止まることなく目標に接近する。マンションの屋上に無様に寝そべる目標に、刀で止めを刺すべく腕を振り上げた。


「っ!」


 突然、体が重くなった。己の体を支えられなくなり、屋上の床に吸いつけられるように倒れた。体を起こそうにも腕を立てることすらままならない。


 ――力が反射した、のか?


 自分を今床に押しつぶしているのは、自分が目標に向けて放った、相手を押しつぶす能力と同じものだと理解する。


「くっそ、ダッセ」


 このままでは埒が明かないと判断したククは、男に仕掛けた力を解除した。瞬時に髭の男は起き上がり、走り出す。ククはまだ起き上がれない。反射した力は同じ時間だけ継続する。反射した力を受け、発動の遅かったククの体はまだ重力に押しつぶされていた。


「逃がさねぇっつんだよ」


 ククが呟くと右手首についている腕輪の周りに血管が浮き上がる。同時に左手首の腕時計の力を発動させる。


 髭の男の進行方向、その少し先が爆発した。もし踏み込んでいれば、脚が吹き飛んでいただろう規模の爆発。民家の屋根の上で、男は足を止める。男の逃走経路。そこを、先ほどと同じ規模の爆発が、横切り走っていくように連続して爆発が起こる。


 男は足を踏み出す事をやめ、そこに留まる。すばやく辺りを見回した。だがどこを見回しても男の目は、赤髪の青年の姿を捉えることはなかった。あたりを警戒して視線をめぐらせつつ、荒い呼吸を整える。一度息を呑み、口を開く。


「確かに私たちは人間を踏みにじって生きている。人間の心を《誘導》し、幸せやあるいは絶望などを与え、そしてその心を踏みにじるように魂を吸収する。人間に愛着を持っているのならば、そんな我らに怒りを感じることもあるのかもしれない。しかし、お前は同胞たちをどう思っているのだ。私たち同胞と人間は違う生き物だ。この《陽を取り込む場所》は、人間を我々の家畜にするための場所だ。この場所があれば、同胞同士争う必要なく寿命を得られる。そのために人間に家畜になってもらうのだ。人間は家畜なのだ。人間にとっての豚や牛だ。同情する対象ではない。それなのにお前は同胞よりも人間の命の方が尊いと言うのか?」

「んなもん関係ねぇっつってんだろうがぁあああ!」


 声とともに、男の目の前――それまでそこに何もなかった空間に突然、脚が現れた。脚は男の顔面を蹴り飛ばし、男を体ごと吹き飛ばした。吹き飛んだ体は勢いよく落下していき、車の止まっていない駐車場の中央に落ちる。同時に、駐車場を埋め尽くすほどの炎の破裂。夜のすべてを震撼させる爆音。


「はッ。くどい馬鹿は困る。ドカーンと少ないノーミソさらして逝け。一瞬で粉々にすりゃ、能力反射も糞もねぇだろ」


 男を蹴り飛ばした脚、胴、腕、頭……透明になっていたククの体が徐々に姿を現した。姿を現した彼の瞳は蔑みの色を浮かべ、爆発した場所を見ていた。

 爆発が巻き起こった駐車場には、爆発の痕跡は何一つついていない。一塊の砂が――髭の男の体だったものが、落ちているだけだった。音も何もなくなり、静まり返った夜だけがあった。


「……ああ。帰るか」


 爆破の跡から目をそらし、気の緩んだ声で呟いた。

 実来の部屋に足を向けた。



    * * * *



 なぜこんなにも苛立ちがつのるのか。何故こんなにも虚しさを感じるのか。

 正義だの、人間に味方しているだの、どうでもいいことのはずなのに。

 本当に自分が何をしたいのか、わからなくなっている。なんなのだろう。なんのつもりなのだろう。


 ――けど、こいつは、自分がなに考えてんのかわかんなくなるなんてコト、ねぇん

だろうな。


 夕暮れの時間。太陽が橙色に染めている公園のベンチで、一人座っている女の肩を軽く手で叩いた。


「よぉ」


 公園と同様に、太陽の色に染められている女が振り向く。赤髪の青年の顔を認めると、懐かしさに目を細めた。


「あら、ひさしぶりね。元気だった」


 胸まで伸ばした少しウェーブのかかった髪。その髪がかかる、ふくよかで大胆に強調されている胸。世の中のすべての穢れを知っているようで、世の中の穢れをすべて知らないような、妖艶で無邪気な微笑。


 数年ぶりに見るジュリー・ラヴァルは、相変わらず美しく、吸い込まれそうになる。数分後にはこの女は死んでいるんだなと思うと、少し惜しいような気もしたが、彼女を殺さないことには《陽を取り込む場所》は壊れない。女だろうと美しくあろうと、殺意が揺らぐことはなかった。

 自分で自分がどうしてその行動を起こしているのか、よくわからなくなっている。しかし、だからといってここでやめるつもりはなかった。


 ターゲットの中に顔見知りが混じっているとは驚きだったが、彼女は人間と触れ合いたいと強く願っていた。この結界をつくる手段を見つけたのだとしたら、彼女は迷いなどはしなかっただろう。

 そんな青年の殺伐とした思考とは正反対に、女は細めた瞳を嬉しそうに輝かせた。


「私の気配を感じて、会いにきてくれたのかしら」

「うん、アタリ。会いたかったよジュリー」

「あはは。すぐにわかるウソなんてつかないの」

「お前も、答えのわかってる質問なんてするなっての」


 彼女の言葉に青年は、無邪気に見えるつもりの笑みを、顔に浮かべてみた。

 別に彼はウソはついているつもりはなかった。この手で殺すためには、会わなければならないのだから。

 彼女と過ごした一年ほどは、ギブアンドテイクでやっていたのだ。借りがあるわけでも、恩義を感じるものでもない。他の《残骸》に対してと同じで、殺すことに躊躇いは感じない。


「で? お前。人間と触れ合いたいとか言ってたけど、触れられる場所に来て、どうよ」

「もちろん、幸せよ。愛しいものすべてに手を触れることができる。困っている人に手を差し伸べたり、一緒に笑いあったりできるもの。楽しいわ」


 彼女の美しさは相変わらずだが、何もかもが愛しいという理解不能な嗜好も相変わらずだ。美しいのに、気持ち悪い女だと思う。


「いま、何か私に仕掛けたわね」

「そうか? 気のせいじゃねぇの」

「破壊衝動が含まれてる。残念ながら私にとってはあまり気持ちのいい力じゃない。すぐにわかるわ」

「……だよな」


 《心寿》を持って対象に触れると、そこに《心寿》の意識を残すことができる。意識を残したその場所は、《心寿》の力を自由に行使できる場所となる。

 先ほど彼女の肩に触れた時。手首の腕時計の形をした《心寿》の意識を残した。時限爆弾を植えつけた。

 今、彼女の肩の上で不可視の爆弾が息づいている。腕時計が起爆までのカウントダウンを始めている。


 何か仕掛けられたことを知っても、彼女には特に焦りの表情は見られなかった。紅く沈んでいく夕日を眺めていた。

 彼女が実体化しているので、こちらも彼女に合わせて実体化している。まだ暑さの残る不快な空気と共に、夏の終わりの風を心地よく感じる。


 夕暮れの公園には人影はない。静かだった。誰一人おらず、恋人同士ならば二人だけの時間を満喫するにはうってつけの場所だった。殺し合いをするのにも邪魔が入らず、うってつけの場所だった。


「言っとくけどさぁ、その力。俺を殺しても解除されないから。俺殺して助かろうとしても無駄だぜ」

「でしょうね」


 ジュリーの座るベンチから少し離れ、隣に設置されているブランコの方に腰を下ろす。ククは自嘲じみた笑みを浮かべながら、小さくブランコを揺らしながら訊ねる。


「『なんでこんなことするの?』とか、訊かねぇの?」


 たとえそのことを訊ねられたとして、その答えを自分が答えられないだろうにもかかわらず、自虐的な質問をした。


「人間に触れられる場所に来て、そうして……大切な人でもできたの?」

「は?」


 思わぬ返答だった。揺らしていたブランコをとめる。

 なぜか実来の顔が思い浮かんで、体が火照った。


「アタリ……みたいね」

「ちが……! ちげーよ。お前、俺が誰かを大切に思うとか好きになるとか、愛するだとか惚れるだとか、あると思うか? あいつは違う。絶対に違う」


 彼女は、してやったりと言う風な満足気な顔をして微笑んだ。


「『あいつ』って誰のこと? ほら。具体的に顔が思い浮かぶ人がいるんじゃない」


 彼女の笑みと言葉に何かをはじかれ、気持ちが誘爆したように声を荒げる。


「違う! 大切とかそんなんじゃなくて、俺とあいつとは単なるごっ…………!」


 しかし、はじかれて爆発した気持ちは、彼女の変わらない笑みで静められた。

 常に愛しさをたたえた瞳。常に、いつもたたえているが故に寒気すら感じる、微笑。


「……ああ。あんたに理解できるわけねぇよな。相手を好きでいることがあんたの普通なんだから。そんな状態が普通なあんたを俺が理解できないように、あんたが俺を理解できるわけねーよな」


 ブランコの上に立って、漕ぎはじめる。緩やかな揺れが徐々に大きくなっていく。ブランコを漕ぐ彼を見つめる女の表情は、愛しさに溢れていた。己を殺そうとしている者を、愛しそうに見つめていた。


「理解してほしい、なんて、一度も思ったことはないよ。誰かに愛してほしいとも思ったことは無い。私はただ、愛したいだけだから」


 やはりこの女は理解不能だ。気持ち悪い。なぜ見返りがほしいと願わない。理解不能だ。気持ち悪い。狂ってる。――怖い。


 力いっぱい漕ぎ続け、揺れが激しくなりすぎて、ブランコの鎖がちぎれて飛んでいってしまいそうになるほどに漕いだ。そうすれば理解不能な恐怖から逃れられるのではないかと思っているように。


「私の愛し方が理解できないなら、別にいいじゃない。あなたはあなたの愛し方を見つければいいのよ。愛してるんでしょ? 愛してるのに、どうして否定しちゃうの?」


 足を地面につけ、大きく砂をこする音を立てながらブランコをとめた。目を閉じて、込みあがってくる何かをこらえた。


 ――ちがう。愛してるのに否定するんじゃない。愛してなんかなかったから否定するんだ……!


「どうしたの。何でそんな泣きそうな顔してるの?」


 うつむけた顔を上げ、目を開くと、女が目の前に立っていた。彼女はそっと手を持ち上げて、青年の頬に触れようとしてきた。


「うるさいな! 勝手にさわるな!」


 彼女の顔を睨みつける。

 直後、ぎくりと体を震わせた。彼女の笑みは、めずらしく寂しそうな笑みになっており、驚いて思わず剣呑な表情を緩めてしまった。


 ――なんだよ。何でそんな顔してんだよ……。


 目眩がする。

 思考をわしづかみにされてこねくり回され、かき混ぜられているような、奇妙な感覚。


 もしかすると自分は彼女の力による精神汚染にでも嵌っているのだろうか。彼女はいつも、相手を傷つけないよう、そういった力を使って、襲撃してきた《残骸》を追い払っていた。今もきっとそういう類の力を持っていることだろう。


 いや、しかし。そういった相手に影響を与える力は、事前に一度でも対象に手を触れて《心寿》の意識を残さなければならない。彼女はこちらには触れていない。そうなると、この目眩は彼女の力ではないのだろうか?


 ――なら……何なんだ、この目眩は……。


「私を殺そうとしてるのは、その大切な人のためだと思ったのだけど……。そうなの。ちがうのね?」

「ああ。ちがう。だからさ。俺がそういう、愛情だとか大切だとかを持つことがあると思うか?」


 こちらの顔を覗き込んでいた彼女は離れていき、再びベンチに腰を落とす。


「あると思うわ。だって、私を殺すなら一思いに殺せばいいのに、時限爆弾にして、あなたは私とこうして話をする時間を作ってくれてる」


 夕日に彩られた彼女の顔は、嬉しそうに幸せそうに、綺麗に微笑んだ。


「あなたは本当は、私のことを慕ってくれてたのね。ありがとう」


 ブランコから降りる。手をズボンのポケットに突っ込みながら、彼女が座るベンチの前まで行く。長い前髪をかきあげる。鋭い目つきをあらわにしたまま、一度彼女を見下ろし、そして彼女の顔に自分の顔を近づける。


「全部気のせいだよ。あんたはもうすぐ死ぬ。――死ね!」


 小さく揺れる、ブランコの音だけが響いている。彼女は微笑をたたえたまま。彼は彼女を睨みつけたまま、時間が静止したように動かなかった。


「あなたのことは愛しいから、あなたにやりたいことがあって、それで私が手伝えることがあるなら、手伝ってあげたいのだけれど。でもやっぱり死んであげることはできないの。私はいつまでも愛しい色々なものを見ていたいから」


 彼女が静寂を破ると同時に、彼女の姿が陽炎のように揺らめいた。

 赤髪は目を限界まで見開いた。目が熱い。眼球の中心が熱を精製し、熱が膨張して広がっていくような感覚がする。


 脳が振動している。先ほどの目眩とはまったく違う。脳の変わりに何か機械が埋め込まれていて、ブルブル震えているような。

 足がよろめいて、二、三歩意味もなく後ろへ下がる。手を膝について項垂れる。目の熱が増し、膨大な涙が頬を流れる。


 彼女の力による幻覚だろうかと考え、すぐに否定する。先ほどから彼女に一度も触れられていない。意識を残される隙はなかったはずだ。彼女の能力が自分に発動するわけはない――


「少し苦しいかもしれないけれど、ごめんねさい。でも、もうすぐすると、素敵な夢が見られるようになるから……そうしたら、きっとあなたの気持ちも変わってくれると思うの」


 顔を上げる。荒くなる呼吸とともに口から涎が溢れてくる。熱が増していく瞳が彼女を捉えた。途端に熱が引いていく。脳の振動も止まる。


「おい。おかしい……だろ。何でそんなもん、見えん、だよ。おまえ、いつ俺に触った」

「あら。あなたの方から私に触ってくれたじゃない。私は、私に触れた人がどんな人であろうとも、みんなに幸せになれる幻覚を見せてあげたいから。私に触れてくれれば、自動的に幸せな夢を見せてあげられるようになるのよ」


 彼女の声が変わっていた。女にしては低いハスキーボイスに。

 鮮やかな金色をしてウェーブがかっていた髪の毛は、黒髪のストレートへ。落ち着いた大人の雰囲気を纏っていた顔は、少し幼さを残しながらも精悍さを感じさせる顔へ。ふくよかな胸は……――。モデルさながらのスレンダーな体は……――


「なんで……。なんでお前なんだよ……」

「『なんで』? もちろん君がそれを一番望んでいるからだよ。……クク君」



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