○ お姉ちゃんがいなくなってから……。 〈高科由芽〉
姉がいなくなっても、毎日はなにごともなく進んでいく。
現実感が湧かない。今にも玄関から姉の『ただいま』の声が聞こえてくる気がする……。
学校から帰ってきた由芽は二階に上がった。着替えもせずに、姉の部屋の前に立った。
ノックをすれば姉の返事が返ってくる気がした。この前までは帰ってきていた。もう少しもっと前は罵声が飛んでくることもあったけれど、その少し後にはちゃんと返事をしてくれるようになった。
――返事……してくれるように、なったの、に……。
ノックをせずに扉を開いた。度々ノックをせずに部屋に入ってしまうと『ノックしないで入ってきちゃだめじゃないか』とお叱りを受けることがあった。しかし今はそのお叱りは飛んでこない。
姉がいなくなったことへの実感がある。しかしその実感は、由芽の心が麻痺しているのか涙を生まなかった。実感はあっても現実感がなかった。
由芽は姉の葬式のとき、一粒も涙をこぼせなかった。姉が死んで以来、いまでも一度も涙を流せていない。
部屋の中を見渡す。整頓された部屋。数日前から何も動かされていない部屋……――
「あれ?」
何一つ動かされていないはずの部屋に、ひとつ異変を見つけた。ベッドに敷かれたままの布団。それが盛り上がっている。
「え? え?」
もしかすると、やはり姉がいなくなったのは本当に自分の見た夢だったのではないかと思った。
すべて夢で。姉はまだ部屋から出られないままで。布団にくるまるばかりで……そうして、生きている……。
由芽はそっとベッドに近づいた。近づいて、ベッドの傍らに座り、小さな声で「お姉ちゃん?」と、呼びかけた。
「あぁ?」
布団の中からした声に驚き、由芽は飛び上がって後ずさりした。幼さの残る声だが男の声だった。
布団がもぞもぞと蠢いて、声の主が顔を出した。赤い髪をした青年だった。
彼は、うつ伏せの状態のまま大きな欠伸をひとつしてから、長い前髪をかきあげた。かきあげた状態のまましばらくボーっと何かを考えているようだったが、彼の、髪の毛と同じ赤い色をした瞳が動いて、由芽を見た。視線だけで人を切り裂けるのではないかと思えるほどの目に、由芽はおののいた。
大声を上げようと思ったが、思いとどまった。彼を、どこかで見たことがある。
「ああ……そっか。俺、今、見えてるんだよな」
かきあげた前髪から手を離し、彼はベッドの上で上半身を起こした。恐ろしいほどに鋭かった目は、前髪によって隠れてしまった。おかげで由芽はかろうじて恐怖を押さえ込み、彼に質問をすることができた。震える声で問う。
「あなた…………だれ?」
「あ。おまえ、あれだよな。実来の妹の。……由芽?」
「え? う、うん。……あ」
質問に質問で答えられ、戸惑ったが、彼をいつ見たのか思い出した。
あの日。姉と一緒に大声で泣いた日。姉が彼の腕の中にいたのだ。彼が姉の言葉を代弁してくれた人なのだ。だが彼はその時、知らない間に姿を消していた。
姉に彼のことを聞いてみたこともあったが、笑ってごまかされてしまっていた。
しかし彼だ。間違いない。
彼が姉の言葉を代弁して、姉が立ち直るキッカケを作ってくれた人なのだ。
「あなたが……あの時の人だよね。……ありがとう。あなたのおかげで、お姉ちゃん、立ち直れたの。だから、ずっとお礼が言いたかったんだ。ありがとう」
彼がなぜ、こんなところに居るのか。どうやって入ったのか、何をしているのか。そういった不信感は、不思議と湧かなかった。
ただ感謝の念だけがあった。感謝したかった相手に会えて、心が喜びの声を上げている。気持ちが高揚している。姉がいなくなってから初めてのことだった。
「でも……死んだだろ」
「でも……その前に立ち直れたの。ありがとう」
――この人も、お姉ちゃんが居なくなったこと、悲しんでくれてるんだ。
礼の言葉を聞いた彼は、口を開きかけ、すぐに閉じた。由芽の視線から逃れようとするかのように顔をそらしたが、由芽は気づかず、気になっていたことを訊ねた。
「あなたは……。ホントにお姉ちゃんの、カレシ……なの?」
彼の唇が微かに、笑みの形に曲げられた。目は前髪で隠れていて見えず、どういった意味が込められた笑みなのかは読み取れなかった。
「俺さ。人間じゃないんだ」
「え?」
彼はベッドから降りると、姿見の前に立った。腕を引いて、拳を固め、鏡に向けて拳を繰り出した。
――割れる! と思った由芽は目をとじて顔をそむけた。が、鏡の割れる音はしなかった。おそるおそる顔を青年の方に向ける。彼の腕が、鏡を割ることなく鏡を突き抜けていた。水面に腕を浸しているように。
鏡から腕を引き抜いた彼は、今度は壁に向かって歩き出した。そうしてぶつかることなく突きぬけ、向こうの部屋に行ってしまった。そしてすぐに何食わぬ顔で戻ってくる。その様を、由芽は瞬きもせずに見ていた。
「人間じゃないんだ。わかった?」
「じゃあ……なんなの? 人間じゃなかったら、なんなの?」
赤髪の青年は、由芽の質問の答えをじらすようにゆっくりと窓に近づいた。窓を開いた。秋の風に揺らされる、木の葉のざわめきが入ってくる。青年は小さな笑い声を漏らしながら、窓のふちに腰掛けた。
「俺は……死神。……つったら……信じる?」
途端、由芽の顔がぱっと輝いた。
「ホントにホント? じゃ、じゃあ! カマ見せて! カマ! 死神が魂を狩りとる時に使うカマ!」
今度は赤髪の青年が瞬きもせずに少女を凝視する番だった。由芽は彼の言葉にショックを受けるでもなく、むしろ目を輝かせて嬉しそうに次の言葉を待っていた。彼女は“死神”という存在と姉の死を結びつけることをせず、いきなり目の前に現れたファンタジーな存在に胸をときめかせていた。
「ふッ……はははッ!」
青年は突然噴き出すと、腹を抱えて大声で笑った。自分の膝を叩きながら、床を転げまわりそうな勢いで笑い、指で涙を拭っていた。
由芽は、自分が何か変なことを言ってしまっただろうかと、首をかしげながら青年の笑う姿を見ていた。
「うそ」
「ウソ?」
「うん、ウソ」
彼は悪戯が成功したとばかりに喉を鳴らして笑った。
由芽はムッとして半眼になって睨みつけてみたが、彼にはまったくの効果がなく、睨みつけられる行為をも楽しいとばかりに、やたらと嬉しそうに笑っている。嬉しそうだったが、どこか、彼の笑いは調子が外れていて、今にも泣き出してしまいそうでならなかった。
だから由芽はバカにされた怒りを押し込めて、ゆっくりした声で訊いた。
「じゃあ、あなたは……なんなの?」
「俺……。なんなんだろーなぁ、一体。自分でも良くわかんない存在だけど……まぁ、実来も俺と初めて会った時、お前と似たようなこと言ってた。俺を指して『死神だ! カマを召喚するんだろ!』……って」
由芽はきょとんとして、そして笑った。彼は自分が姉と同じことを言ったのが嬉しくて笑ったんだろうと思った。二人で笑った。
彼の言葉には、姉への愛しさがとても込められているような気がした。それがとても嬉しかった。
* * * *
学校での生活は少しだけ変化した。
学校の友人たちは優しく同情してくれる。同情のあまりに涙を流してくれる友人もいた。優しい、大切な友人たち。しかし由芽はそんな友人たちに、どうしても違和感があった。
――あたしが泣けないのに、何で泣いてくれるんだろう……。
一番涙を流すはずの自分が、何で泣けないんだろう……。
違和感があった。友人たちの所にいると、なんとなくぎこちなくなっている自分がいる。
だからなのか、赤髪の彼が姉の部屋を訪ねてくれるのは、なぜかとても救いになった。
赤い髪をした、人間ではない彼。
彼は姉の死を悲しんでいるようでもあったが、悲しんでいないようでもあった。
彼と姉の関係がどんなものだったのかは、良くはわからない。ただ、姉が一人で閉じこもっていたとき、彼が姉の心を支えてくれていたことだけは解った。そうして彼も、姉の死をうまく受け止められていないのだろうということがわかった。
姉の――実来の死をうまく受け止められない者同士、いろいろな話をした。まだ生きているかのように、実来との思い出を。
彼の存在は、誰にも話したことがなかった。
なんとなく、彼の存在は誰にも知られてはいけない気がして……。自分と姉と彼の、三人だけの秘密なのだと思うとどきどきした。そして彼がまた、ここにきてくれたのだと思うと、とても嬉しく思うのだ。姉のために泣けない由芽にとって、彼は確実に由芽の救いになっていた。
もうひとつ、由芽にとって心安らぐ場所があった。ユキマサと律子がいるあの部屋。
彼らはマイペースだった。おそらくは由芽の家で不幸があったことは察しているのだろうが、特に深く追求することもなかった。いつもどおりでいてくれた。
ユキマサは明るく冗談を飛ばしてニコニコして。律子は口数が少なくテレビを見続け、ときどき口の悪いことを言う。同情などはなかった。涙を流せない由芽にとって、それはありがたいことだった。
律子は少し、姉に似ていると思った。黒くて長い髪や、言いたいことをきっぱりと言ってしまうところ。そして、部屋に閉じこもって出られなくなってしまったところも共通している。
もしも、できるのなら……と由芽は考える。彼女を外へ出られるようにしてあげたい……。
自分は結局、姉が生きている間は何もできなかった。ひきこもっていた姉を立ち直らせたのは自分ではないし、姉に頼らず、反対に姉の役に立ちたいという想いも達成できなかった。生まれてから今まで、世話になり続けてつのらせた恩を、何一つ返すことができないでいた。
その分、誰かの役に立ちたかった。
由芽自身、ひきこもった女の子を、自分の力だけで立ち直らせることができるなどとは考えていない。ただ、ユキマサは、律子は本当は寂しがり屋なのだと言っていた。だから友達になれればいいと思った。少しでも孤独を癒してやれれば、と思った。そうして彼女のペースで少しずつ立ち直ってくれたら――と思うのだ。
「あなたも物好きね。私はあなたの相手をする気は微塵もないわ。この部屋には面白いゲームがあるわけでもない。なのにこんな部屋にしょっちゅう来て、何がそんなに楽しいの。いったいあなたはどれほどの暇人なの」
「えー? 楽しいよー? あたしの中では、りっこちゃんのウチに来るのは、りっこちゃんに『このご飯おいしい!』って言わせてやろう大会なのー」
最近、姉に教えてもらったことのあるレシピを頼りに、いろいろな料理をして律子に出している。最初は手をつけること事態をしてくれなかった律子だったが、口にしてくれるようになり、『マズイ』の一言から始まり、次には無言で食べるようになり、今回のような文句を言うようになり……。
ユキマサの話によると、彼女の口から出るのはほとんど憎まれ口だが、よく聞くと声に棘があるわけではない。それに一見常に無表情をしているように見えるが、よく見ていると時々微かな表情の変化が見られる。特に、嬉しそうなときは饒舌になる。
そういう、事前に知らせれていた彼女の反応が本当だったことを見つけると、とても嬉しくなる。なんだかとても可愛い人だなと思える。本当の友達になりたいと思うのだ。
「ねぇ。今日のオムライス、おいしかった?」
「おいしいワケないじゃない。だいたいあなた――」
律子が、たまごのふんわり感がどうだとか調味料がどうだとか、饒舌になって話している。由芽はそれをニコニコしながら聞いていた。
「あなた、ダメ出ししてるのに何をふにゃふにゃにひゃにひゃして聞いてるの。だいたいあなたは――」
さらに饒舌になる律子に、由芽は「えへへっ」とはにかんだ。
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