四章

▼ 恋人ごっこ 〈クク・ルーク〉


 実来は膝枕が好きらしかった。


 赤髪を持った《想いの残骸》が、クク・ルークの名を与えられ、実来の恋人ごっこに付き合うことになって数日。彼女はよく、ククに膝枕をしてくれとねだった。ククはねだられるままに彼女に膝を貸していた。


 時には誰も入ってくることのない、彼女の部屋のベッドの上で。時には家族の皆が出かけて、誰も居なくなったリビングのソファで。縁側で。


 キスも何度もした。特に愛しいだとかの感情を込めないままのキスだった。抱きしめあって、猫とじゃれあうようにお互いの体を探ってみることもあった。が、お互い一線を越えるつもりはなかった。ふたりとも、なんとなく恋人という遊びである以上、これは子供の遊びのようなものなのだと認識していた。子供の遊びで互いにそこまで踏み込む必要はないという、暗黙の了解があった。それで二人の恋人ごっこは成立した。


 “恋人”である二人だったが、好きだ、だとか、愛してる、だとかの言葉は一度も交わさなかった。言っても嘘だとわかっているから。わかりきっている嘘で、興ざめしたくなかった。虚しい現実を見たくなかった。


 時々キスをしてみたり、じゃれる猫のようにお互いの体を探りあう。それ以上のことは何もなかった。それだけで良かった。


 お互い、不幸であろうが幸せであろうが、死のうが生きようが、どうでも良かった。彼女の側は、居心地が良かった。

 虚しい現実から目を背けられれば、それだけで良かった。



    * * * *



 その日も、縁側で実来に膝を貸していた。共働きの両親が出かけており、妹は友達の家に出かけていて――家全体が二人だけの空間になったときに。


 実来はククの膝の上に頭を乗せ、安心しきった表情で、庭を眺めていた。そうやってぼんやりと蝉の鳴く声を聞くのが好きらしかった。そしてククもそんな風にして、何もない時間をすごすのが嫌いではなかった。

 自分の膝の上でうとうとしだした彼女の耳に、ちゅっ、と音を立ててキスしてやった。彼女の反応は速く、顔を真っ赤にして飛び起きた。


「もぉ。クク君。耳はやめてくれって言ってるのにさぁ」


 むくれた顔をしながらも彼女は、ククの首に腕を絡ませて、自分の唇を寄せてきた。ククもそれを拒まず受け入れた。

 その最中だった。玄関の方から鍵を開ける音がした。実来がはじかれたように唇を離した。


「なに? なんで? 何でもう帰って来るんだよ、早いよなんでだよ……!」


 混乱した声を上げ、彼女はすぐにククから離れた。駆け出して廊下に向かいかけるが、すぐに引き返してくる。足音がこちらの部屋へ近づいてきていた。

 実来は、縁側に座るククの膝の上にのり、ククの体を盾にした。それが銃弾の嵐を避ける兵士の動きのようだったのでおかしかったが、自分にしがみつく彼女の体が相当の怯えで激しく震えていたので、笑ったら殺される、と、ククは笑いをこらえた。


 少女――実来の妹の由芽が、和室に顔を出した。なにやら「う~」とうめき声を上げながらこめかみを指で押さえている。

 が、指を離した。驚いた表情で呟く。


「だ、だれ……?」


 そう問われてなんとなく、『俺、こいつにもちゃんと見えてるんだな』と思った。近所の他の場所でも人間に自分の姿を見せられることは確認していたが、なんとなくこの家に実来と二人っきりでいると、世界中の中で自分が見えるのは実来だけなのではないかという気がしてくるのだ。


「ん? 誰って? そうだな……。お前の姉ちゃんの彼氏?」


 縁側に座ったまま、庭の方に視線を向けたまま、一番的確だと思える関係をそのまま暴露してみる。


「え?」

「ちょ……! クク君!」


 由芽がククの腕の中で隠れていた実来に気がついた。由芽は震える声で「おねえちゃん……?」と呟きながら、その場で畳の上にゆっくりと膝を落とした。

 妹に呼ばれた実来はびくりと体を大きく震わせた。それを無視して、ククは由芽の方に声をかける。


「おまえ、姉ちゃんに会いたかったのか?」


 ククは首だけひねって由芽の顔を見た。中学生だと聞いているが、その幼い顔はまだまだ小学生にしか見えない。髪の毛の短い、どこかふわふわとした雰囲気を持つ小柄な少女だ。

 由芽は不意を突かれたような表情をしたが、すぐにコクリと頷いた。

 実来が腕の中で「だめだ……無理だよクク君……」と、妹に聞こえない程度の小さな悲鳴を上げている。


「あたし……」


 由芽は何かを決意したように、膝の上で震える手をぎゅっと拳に変える。


「お姉ちゃん……また怒るかもしれないけど……。でも、でもね。あたしやっぱりお姉ちゃんに会いたいと思う。話したいと思うの。いっしょにごはん食べたいって、遊びたいって思うの。……それって……もうムリなのかな……?」


 実来は震えるばかりで答えなかった。ククは「無理なのかな?」と由芽の言葉を復唱してやった。

 彼女は震える体を何とか押し込めて、恐る恐る小さく口を開いて「通訳、して……」と、怯えて小さな声しか出せないのか、とつとつと自分の想いを語った。それをククはそのまま由芽に伝えた。


「『傷つけたくなかった。心配させたくなかった。なのに、傷つけてしまう自分を抑えられなかった。だから顔を見れなかった。こんなボクはもうボクじゃないから……会えなかった。でも、こんなボクでもまだ、会いたかった、なんて言ってくれてありがとう……。ごめんね』……って、言ってる。お前の姉ちゃん」


 告げ終えると、由芽は両目に涙をたくさん溜めた。立ち上がる時間も惜しいのか、四つんばいのまま、ワンワン大声で泣きながら近づいてきて、ククの腕の中に隠れていた実来に抱きついた。


「お姉ちゃん悪くないのに何で謝るのぉ?」


 抱きつかれた瞬間、少しだけ大きく体を震わせて逃げようとした実来だったが、すぐに由芽と同じように目に涙を溜めて、一緒に泣き出してしまった。

 実来が由芽を抱き返すのを見て、ククはそっと実来から離れた。人間の視覚から姿を消し、跳躍する。特に行き先を決めないまま、家々の上を駆け抜けた。

 駆けながら、赤くて長い前髪を掻き毟った。なんだか妙に居心地が悪く、舌打ちしていた。

 


    * * * *



「なにやってんだよ。おめぇは」


 実来が、妹とワンワンと泣きじゃくった、その次の日。実来の部屋に行くと、部屋に実来の姿はなかった。探してみると、彼女は玄関の扉の前で立っていた。立っているだけで何もせず、ただじっと扉を見つめていた。


「なぁ。なにやってんだよ」


 もう一度ククが問うと、実来は玄関の扉から目を逸らすことなく口を開いた。


「外に出ようと思ったんだ」

「はぁ?」

「外に出ようと思ったんだよね。うん。昨日、いっぱい泣いたらさ、そうしたら由芽と普通に話せるようになったの。部屋からも普通に出られるようになったし……。だからこの勢いでね、家から外に出てみようと思ったんだ。だけどさ、これが見事に出られないんだよ。怖くてさ。笑えるくらいに」


 彼女の声は震えていた。肩も震えていて、全身が恐怖を訴えていた。


「じゃあ、出なきゃいいじゃん」


 端的に返した。単純にそう思った。今までもそうだったのだから、これからもそれでいいだろ、と思った。

 しかし彼女は何度も何度も強く首を振って、


「いや! だめだ! 今日はボクは外に出るって決めたの! だから出るんだ!」


 そう言った。扉の前に近づいて、ドアノブを握り締める。だが震えるばかりで握り締めた手は動かない。


「いいか。外には、お前の味方なんて誰一人いない。わかってんのかよ。またボコられるだろうし、みんな見て見ぬフリだろうよ。教師も、お前の友達も。……わかってんのかよ」

「わかってる。わかってるけど……まだまだ生きたいと思っちゃったんだ。ごめんね。クク君はボクが死ぬのを待っててくれたのに、死にたくなくなっちゃった。そしたらクク君は僕の側を離れていくでしょ? なら外に出ないとボクの人生なんにもなくなっちゃう。ボクはずっと何もない人生になっちゃう。クク君がいないと何もない人生になっちゃう。けど、ボクは死なないのに、クク君をずっとボクのところに縛り付けてるわけにもいかないじゃない」


 彼女の手は、言葉とは裏腹にやはり動かなかった。

 そのまま動かない方がいいと思った。どうやら彼女は、虚しさで埋もれていた日々から、抜け出すつもりらしい。


 ククは思った。――置いていかれる。


 このまま彼女が扉を開けたら。自分は置いてけぼりを食らわされてしまう。彼女の側はとても居心地が良かったのに、それがなくなってしまう。


 ククは、玄関のドアノブにかかる実来の手をじっと見ていた。動かない。歯軋りしながら見ていた。動かない。

 舌打ちをして、ドアノブにかかっている彼女の手に、自分の手を重ねた。


「出るならとっとと出ろよ、バーカ」


 ドアを開けて、彼女の背中を強く押す。つんのめって転びそうになりながら、彼女は外に出た。肩が激しく上下している。ククは後ろ手にドアを閉めると、冷や汗を流しながら、必死に乱れる息を整えている彼女の隣に立った。


「怖いのかよ」

「大丈夫。大丈夫……だよ」


 彼女の声は震えており、あから様に怯えていた。

 蝉の声がうるさかった。空を見上げると、能天気なほどに太陽が照り付けていた。怯える彼女を嘲笑しているみたいだった。


 ククも、実来のことが馬鹿だと思った。本当に馬鹿だと思った。怖いなら外になんか出なければいいのだ。出て行かなくても、彼女には飯を食わせてくれる人間がいる。世話をしてくれる人間がいる。だから、生きるためのいろいろなことは彼らに任せて、のんびりとしていればいいのだ。

 のんびりと、ふたりで、呆けたように、庭を眺めて蝉の声を聞いていればいいんだ。わざわざ怖いところに出て行かなくても、平和でいられるのに……。

 怯えて、どう見ても大丈夫ではなさそうな、震える彼女の肩を抱き寄せた。


「どっか、行くか?」

「……え?」

「……いっしょに……どっか……」


 カイ・ヴェルバーの記憶の中の、母親とのことを思い出していた。他には母親らしいことをしない母親だったが、息子を映画館に連れて行ったときはしっかりと手を握って、一緒に歩いていた。嫌いな記憶ではない。


 震えが止まった実来の手を握る。彼女が握り返してきた。歩き出した。

 さっきまで彼女に置いていかれると思ったことは、頭の中から消えていた。


 彼女と一緒に歩いた。



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