○ 雨宿り。 〈高科由芽〉
由芽は近所のパン屋の軒下で雨宿りをしていた。天気予報は当てにならずに突然降り出した雨だった。傘は持っておらず、走って帰っても確実にずぶ濡れになってしまう量の雨だ。
雨が空から地面に走らせる線が、監獄の格子のように由芽に雨宿りを強いらせ、パン屋の軒下に留まらせていた。
空が、青空など見せたくないと言っているかのように、雲ばかりを敷き詰めていた。しかし由芽の顔は晴れやかだった。
あの日、友達に家に送ってもらってよかった、と思う。
ひきこもったままの姉のことを考えていると、毎日眠れなかった。寝不足のせいか頭痛がして、夏休みの宿題をするために友達の家に集まったのに全然集中できなかった。具合の悪そうな由芽を見て、友人たちは心配の声をかけてくれたが由芽は『だいじょうぶ』と答えた。だが友人たちは皆で総攻撃をするかのように『どこが大丈夫だ!』と由芽にツッコミを入れた。最近目に見えて由芽の体調が悪そうだったせいだろう。結局、友人みんなが由芽を家まで送ってくれた。
昼に家に居るのは久しぶりだった。家の中に居るとつい、姉の部屋をノックしたくなってしまう。迷惑だとわかっていても声をかけてしまいたくなる。だからなるべく昼は友人たちと外に出かけていた。姉の力になりたい。けれどそれは余計なことかもしれない。でも声をかけたい……。そういったことを、なるべく考えないようにするために。
しかしその日は頭痛がひどい上に、友人たちが家まで送ってくれたこともあり、改めて外出するのもはばかられた。
由芽は、久しぶりの昼間の自宅にあがった。頭痛が酷くなる頭を抑えながら薬が置いてあるはずの和室に向かった。
そこにあの赤髪の青年がいたのだ。
姉の彼氏を名乗る彼は、こちらの気持ちを促してくれ、姉に伝えさせてくれた。恐怖で何もしゃべれなくなった姉の言葉を代弁してくれた。だから今、姉は外に出られるようになっている。とても感謝している。
彼のことを姉に訊ねると、ふにゃふにゃと笑うだけで何も話してくれないのが残念なところだが、ともかく。
姉が、外に出られるようになった。笑顔で外出していく姉を思い出し、少女の顔はそれだけで笑みに崩れた。
嬉しいことがあると、世の中すべてが嬉しくありがたいことのように思える。今降っている雨も、体を濡らしてしまえば冷たいものになってしまうが、そうでなければ生き物に必要な水を恵んでくれているのだ。
いきなりの雨に降られても恨み言を言う気にはならなかった。しかし帰れないとなると少々困ってしまうのは正直なところだ。
もういっそのこと、ずぶ濡れになるのを覚悟で走って帰ろうかと逡巡したとき、由芽の斜め後ろで扉が開く音がした。
「なんじゃこらぁあああ!」
パン屋から出てきた第一声で奇妙な叫び声をあげたのは、ガクラン姿の少年だった。
目の上に届くか届かないかというところで、さらさらした黒髪を切りそろえている。目は細くキツネのようで、歳は由芽より一つ二つ上といったところだろうか。腰にはやたらとたくさんのキーホルダーがジャラジャラとぶら下げられている。
「ああ、ああ、ああ。マジで天気予報ってアテになんないよね。雨の予報が外れたときはなんか得した気分になるけど、晴れの予報が外れたときは損した気分になるってモンじゃないくらい損した気分になるよ、うん」
ガクランの少年はしばらく空を眺めていたが、ぐるりと首をめぐらせて由芽の方に視線を向けた。
「ねぇねぇ、そこのカノジョ。傘持ってないかなー。……って持ってるわけないか。持ってないからここで雨宿りしてんだもんね」
由芽はいきなり話しかけられ、戸惑いながら目をぱちくりとさせつつ、うんうんと頷いた。少年はもともと細い目をさらに細めて、先ほどのボヤキがなかったかのように晴れやかに笑った。
「いやね。もうほんのちょっとそこの近くにさ 俺の姉貴が住んでるアパートがあるんだけど、君が傘持ってたらそこまでちょっくら送ってもらえたらありがたいかなーなんて思ったんだけど、そーだよねー。ないよねぇ。どうすっかなぁー」
少年はしばらくぶつぶつと独り言を呟き、なにやら思案していたが、やがて、左の掌に右の拳をぽんっ、と当てて何かを納得したような仕草をした。由芽は、この仕草をする人、マンガ以外で初めて見たなぁ、とぼんやりと思った。
「まぁいっか。ちょっとくらい濡れてもさ。よし。キミも姉貴のウチで雨宿りしたらいいよ。姉貴のウチならここより暇つぶせるだろうしさ。うん、決まり!」
彼はなぜだか由芽の顔を覗き込みながらにこやかに言った。
「え? え? え?」
戸惑いに声を上げる由芽の腕を、少年がおもむろに取った。そしてスキップするような軽い足取りで、雨の中を走り出す。由芽も彼の手に引かれて、雨の中に引っ張り出された。
先ほど彼が言ったとおり、数メートルでひとつのアパートの前まで辿り着いた。少年が由芽の腕をつかんだまま中に入り、廊下を歩いていく。
「ちょっ、ちょっとまって。あたし……!」
「まぁまぁ、いいからいいから」
由芽は何がいいのかさっぱりわからないまま、少年に手を引かれるままになっていた。
表札に“栗林”と出ている扉の前で足を止める。少年がノックをして「律子ー。あーけーてー」と大声で中の住人に呼びかける。
帰ってきたのは静寂だけだった。ガクラン少年は「むっ……」と呟き下唇を突き出し、インターホンに指を向け、猛烈に連打した。扉の向こうでベルの不協和音が響く。鍵の開く音と同時に不協和音は鳴り止んだ。扉が開かれる。
「開けゴマー! よかったー律子。悪いんだけど雨宿りさせてー。ほらほら食料調達もかんりょーっ」
中から扉を開いたのは、姉の実来と同い年くらいの女性だった。
腰まである長い黒髪には艶がなく、寝起きのようにぼさぼさだ。肌は太陽の光を嫌悪しているかのように白い肌をしていた。白い肌とは対照的に、服は黒い無地のワンピースを着ている。
大きな黒い瞳が、由芽の方をじっと見る。
「彼女は何?」
「そこのパン屋で雨宿りしようぜって誘ったコ」
「そう。……上がるの?」
一瞬由芽は自分に話がふられていること気づかず、返事が遅れた。頬を掻きながら「えーと……」と答えあぐねていると、
「いいからいいから。上がって上がって。遠慮なんかしなくていいからさっ」
とガクラン少年が腕を引いてくる。
「あ、これが俺の姉貴の栗林律子~。そんで俺がユキマサ~。とにかく気なんか使わなくていいから上がってってよー」
彼は鼻の頭を掻きながら、黒髪の少女を紹介した。そうして彼はすぐに、じゃれてまとわりつく子供のように由芽の腕を引いた。なんだか由芽も笑いが漏れ、彼の誘いに応じることにした。
「あなた、そんな簡単に人の誘いで他人の家にあがるなんてしてたら、いつか誘拐されるわよ」
「え、え、え?」
「律子ひっでぇー! こんな可憐な女の子、ビビらしちゃダメじゃん!」
外に降り続く雨は留まることなく降り続けていた。
雨が降り続けた時間、彼らに触れ合うことで、由芽の心の中では奇妙な出会いは友情に変わっていた。
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