◆ 白い物と言えば、兎とか雲とか卵とか思いつくけど、なんで経験値の少ない愚か者のことを、純粋で真っ白い心っていって褒めるんだろ。 〈ユキマサ〉


 なんと。

 由芽ちゃんとクク君が抱きしめ合っている。

 あらヤダ、いやん。恋人同士でもないのにあんたたちフケツよ!


 トモキちゃん(本体)が死んでいる。もちろんトモキ君(擬態用の男の体)も死んでいる。

 たくさんたくさん女の子たちも死んでいる。真っ白いだけの空間に、トモキちゃんだったり、律子だったり、女の子たちだったりしていた砂が、大量に散らばっている。せっかく白くて雪原みたいで綺麗なのに、大量の砂が汚している。


 壮観だね。世界の滅びを疑似体験って感じで。


 人差し指を、クク君に抱きしめられている由芽ちゃんに向ける。立てた指を手前に振る。由芽ちゃんがびっくりした小さな声を上げる。俺の指に紐が切れたみたいな感覚が伝わってくる。由芽ちゃんの首から下がっているペンダントの紐が切れた。俺がもう一度指を手前に振ると、ペンダントは由芽ちゃんの首から離れ、俺の方に飛んでくる。あらあらいい子でちゅねー。


 従順に俺の元に飛んできたペンダントをキャッチして、首にかけた。これでクク君たちは俺の攻撃を防御できない。

 クク君は由芽ちゃんから離れて立ち上がった。


 俺は忍術、カメレオンの術を解いて、クク君たちに姿を晒す。歩いていって、どこにでも散らばっているような砂の塊の上にジャンプして着地。さらにジャンプして着地。ジャンプ着地ジャンプ着地。ジャンプジャンプ着地着地。


「この辺がりっこちゃんかなーぁ?」


 ばふんばふんと砂埃を巻き上げる、数分前まで律子だった物。俺は無邪気っぽい感じに飛び跳ねるのをやめて、今度は足の先っぽでじゃりじゃりと踏みにじってやる。

 そんな奇怪な俺の行動に、ドン引きの表情を見せる由芽ちゃん。

 あらあら。由芽ちゃんったら、他人の行動にドン引きする資格があると思ってるのかしら。


「結局はさぁ。恋を選んじゃったねぇ、由芽ちゃん」


 満面の笑みで律子を踏みつける俺に対して、由芽ちゃんは恐怖と非難が入り混じった表情をしている。今まで俺のこと、いい人だと思っててくれてたってことなのかしらね。実に純粋で真っ白な心で愚かだよね。


「由芽ちゃんさっき、『りっこちゃんを人殺しにさせないで』……って言ったよね。わかってるかなぁ、由芽ちゃん。由芽ちゃんは律子の死を願ったんだよ? あの状況で『人殺しにさせないで』ってことはつまりクク君に殺されるしかなかったってことなんだよ。わかってる? 由芽ちゃんはクク君の生と引き換えに律子の死を願ったんだよ。……まったくねえ。由芽ちゃん。わかってる? 命を捨てれば、最愛であるはずのお姉ちゃんは生き返ったのに。あのままクク君が殺されていれば、親友のはずの律子は復活した体で生き続けられてただろうに。お姉ちゃんよりも親友よりも、自分と惚れた男を選んだ。……由芽ちゃんも善人ブッてるわりには、とんだ偽善者だよね」


 じゃりじゃりじゃり。元は律子の体だったものをつま先でぐりぐりする。

 ほらね、律子。俺の考察は当たってたね。由芽ちゃんは律子のことが好きだけど、家族とか恋人だとかの総合ではきっと勝てないって。


「じゃあ、自分と惚れた男だったらどっちを選ぶ?」


 山みたいに盛っていた律子だった砂。俺に踏み続けられてすっかり散らばってしまった。バラバラ殺人事件だね。

 俺にとってはどうでもいいことだったけど。でもまぁ、良かったね律子。律子はずっと『死にたい』ってばっかり言ってたんだから。これで願いは叶ったよね、おめでとう。


「いいこと教えてあげよう。――この白い不思議空間はね、この空間を構築したトモキちゃんが死んでも消えてなくならないんだ。この空間は生きていて、中にいる《残骸》の生気をちょっとずつ吸い取りながら生きながらえていくんだ。あ。《残骸》ってのは俺とかトモキちゃんとかクク君みたいな不思議生物のことね。……つまりはね、クク君がこの空間で生きてる限りは、由芽ちゃんはここから出らんないってワケ。俺はトモキちゃんのオトモダチだから、裏ワザを知ってて出入り自由だけど、裏ワザを知らない限りは出る方法なんてないんだ。《残骸》であるクク君が死んで、この空間が消滅しない限りはね」


 ああ。なんか今、俺、悪のラスボスっぽくない? 酷い現実をイタイケな女の子に突きつけてるよ。やっぱり破滅させるって楽しいよ。世界を破滅させることはできないけれど、個人を破滅させることくらいならできる。


「どうする? ここにはさ、なんにもないんだ。食べ物もベッドもお風呂もトイレもない。パパもママもいなくて友達もいない。お腹が空いても寂しくなってもここにいたらどうしようもないんだよ。せっかく由芽ちゃん可愛いのに、お腹と背中がくっついてひからびて死んじゃうんだ。……そんなになっても大切な人が側にいたら大丈夫? 耐えられるかなぁ、よく考えて。クク君が死ねば由芽ちゃんは脱出できる。由芽ちゃんには二つの選択肢があるってこと」


 由芽ちゃんに向けて二本指を立てて見せる。ざくざくと律子を蹴り続ける自分の足を見ながら。絶望の表情を張り付かせてるだろう由芽ちゃんの表情を想像しながら。


「その一 クク君には死んでもらって、ここを脱出。お母さんのおいしい料理を食べて、あったかいベッドで寝て、元の幸せな学生ライフを謳歌する。

 その二 この白と砂しかない世界でクク君と一緒に、飢餓に苦しみながら、お風呂がないから悪臭を漂わせて、トイレがないから恥ずかしいところを見られながら、数日過ごして他の誰にも死んだことを認識されずに寂しく没する。 ――さぁ、どっち? 大丈夫。由芽ちゃんが一番を望むなら、俺がクク君を殺してあげるからさ」


 視線を律子から由芽ちゃんの顔に移した。


 …………あれ?


 由芽ちゃんの表情が、なんかおかしかった。

 変だな。何だよ由芽ちゃん。何だよその目。


 絶望じゃない。なんていうか、捨てられた子犬を見るような瞳だよ? ここには犬も猫も捨てられてない。何を哀れんでんだよ。……自分をか? 自分を哀れんでのか? こんなワケわかんない状況にまきこまれた自分をか? ……いや……そうでもないっぽい。誰か自分ではないヤツを見ている。


 クク君もクク君だよ。なに、お姫様を守るナイト様みたいに由芽ちゃんの前に立ってんの? 正義の味方気取りかよ。そんで由芽ちゃんは正義の味方を心底信用しきったヒロインみたいに、クク君に寄り添ってる。


 由芽ちゃん、もしかしていろいろと理解してないところがあるのかな。なら教えてあげよう。言ってあげよう。側にいる彼がどういった存在なのかを。


「言っとくけどねぇ。クク君は人殺しだよ。トモキちゃんが言ってたでしょ。俺もトモキちゃんも、人間を糧にして生きてるって。もちろんクク君もなんだよ。人間を殺して、生きてる。いっぱい殺してるんだ。人間を、家畜みたいにね。さらには同族であるはずの《残骸》のことすらたくさん殺してきたようなヤツなんだよ。……由芽ちゃんも見たろ? 可愛い女の子たちをためらいなくブッた斬りまくってたとこ。クク君はね、あっちが本性なんだ。死んで当然のことをしてきたヤツなんだ。それにクク君だってここに居続けたらいつかは死ぬんだし。だからね、由芽ちゃんが自由になるために死んだって、由芽ちゃんはなんにも罪悪感持つこといらないヤツなんだよ」


 正義の味方気取りのクク君の顔が、少しだけ曇った。もしかしたら由芽ちゃんに嫌われること、ビビってるのかもしれない。

 だけども由芽ちゃんの哀れみの表情は変わらない。……何なんだよ一体。

 まさか……なんか知んないけど俺のこと哀れんでんの? 一体俺のどの辺が哀れだってんだよ。それで何? 俺の言葉に反発するみたいに、両手でクク君の手、きゅっ……って握っちゃってんの?


「ユキちゃんは、りっこちゃんの弟でもなんでもない……って、トモキ君が言ってた……」


 由芽ちゃんはクク君の手から勇気をもらったみたいに、意を決した表情でしゃべりだした。俺はそんな由芽ちゃんの言葉を鼻で笑ってやる。


「だったら……?」

「ユキちゃんにとって、りっこちゃん……って、なんだったの?」

「律子が? 俺にとって? うん。ただの餌。もしくはただの実験体。別にナニって言うような存在じゃなかったよ。……なかなかのもんだったろ? 律子との、ナカヨシコヨシな俺の演技」


 嘲って言ってやった俺の言葉に、由芽ちゃんの瞳の哀れみは強くなる。まったく冗談じゃねぇよ。何なんだよ一体。


「あたし……あたしは……――」


 クク君の手を握ったままの由芽ちゃんは、目をつぶって、恐怖をクク君に預けようとするみたいに、さらにクク君にくっつく。目を開けて、口を開いた。


「あたしは……うん。わかってるよ。りっこちゃんが死んじゃうことを願っちゃったんだってこと……わかってる。りっこちゃんが操られてるところを見てるのがイヤで。操られて、望んでないのに人殺しになっちゃうところを見たくなかったから……なんて、いいわけだよね。だからね。あたしも、人殺し……だよ。だから……だから。あたしは……ここに閉じ込められてなきゃいけない…………って、思うの」


 クク君は驚いたらしく、首をすばやく動かして由芽ちゃんを見た。


「あはは、由芽ちゃん。由芽ちゃんはまだまだ若いね。経験値が足らないから想像力が膨らまないんだ。死ぬほどの空腹感ってどんなのかわかる? トイレがないとこでするときの羞恥心とか考えた? そういう苦しみは何もかもを凌駕する。耐えられないよ、絶対」

「でも……クク君はあたしを助けようとしてくれたからなの。クク君が悪い人なら……あたしだって悪い人だよ。クク君のこと、死なせるなんて出来ない」


 由芽ちゃんが分からず屋すぎて俺は盛大に溜息をついた。やれやれしょうがないよなホントにもう。

 ああ。俺は愛が壊れるところが見たいのに。恋が壊れるところが見たいのに。これは愛が、恋が壊れているのか、いないのか……。由芽ちゃんったら、自分でも男でもなく、自分の罪を償うことを選択しようとしているよ?


 ああ。でもまぁいいよ。今はまだね。何日も経ったら平静じゃいられなくなって、俺に『ここから出して!』って、『クク君を殺して!』って懇願するようになるんだ。

 でも、なんだろ。由芽ちゃんの瞳を見てるとなんかイヤな気分になる。

 由芽ちゃんの瞳は真っ直ぐで、揺るぎそうになくて、なんだか本当にすべてを貫いてしまいそうで……。


「ユキちゃんも、そうなんだね。心と脳と口が連動してないんだね」

「はぁ?」

「ユキちゃんも、クク君とおなんじで……りっこちゃんのこと好きだってこと、認められないんだね」


 はぁぁぁああああ???


「つらいよね。好きって気持ちがなんだかよくわかんないときって」


 なんだよ、それが哀れみの理由か? 俺は実はツンデレで、自分が律子を好きなのに気づかないまま律子のことを踏んづけてるのが哀れでしょうがないって? はっ! バッカじゃねーの? んなことあるわけねーじゃん。すっげームカつく。マジでハラワタ煮えくり返る。なんかクク君、由芽ちゃんの手、しっかり握り返しちゃったりとかしてるしさぁ! 


 クク君の手が目の高さまで上がって、三本の指が立てられた。何か仕掛けてくるのかと思って、ブチキレかけた俺の熱が一瞬で冷める。だがクク君には何かを仕掛けてくるようなそぶりはなかった。攻撃ではなく言葉を仕掛けてきやがった。


「さっきの選択肢、三番だ。俺がお前の知ってる裏ワザとやらを吐かせて脱出。もしくは……四番って手もある」 

「え? クク君……」


 今度は由芽ちゃんが驚いた。つないでる手を軽く引っ張って首を振っている。一生懸命反対の意を示している。


「……ひっ……ひっ…………ひはははははははは!」


 なんだか俺の胸からは変な笑いが込みあがってくる。ついつい膝を叩いて大笑い。ついでに足で地面に広がってる砂も叩く。かなりアホな踊りを踊ってるように見えるかもしれないが、クク君がおもしろいこと言うんだもん、しょうがないよね。


「そっか……そっかそっか。……クク君はあくまで由芽ちゃんを脱出させたいんだ。へぇ~、ふ~ん。由芽ちゃんはここに居るって言ってるのに、じゃあ勝手に脱出させようとしているクク君はエゴイストだよね」

「ああ。俺がそうしたいからそうするだけだ。だからなんだ?」


 悪口言ってやったのにさらっと流しやがったよ、このヒト。あ、でも、どっちかと言えばクク君、悪から寝返ったヒーローだから、エゴイストって悪口になんないのかな。

 由芽ちゃんはやっぱりクク君にくっついたままだ。どうしたらいいのかわからない、ってな複雑な表情をしている。


「あ、そう。じゃあ、やれるもんならやってみればいいじゃん。もっとも今のクク君の体力で、俺のこと倒せるとは思えないけどね」


 今のクク君はボロボロだ。女の子たちにやられたダメージで、体のそこかしこに黒い穴が開いている。片腕は満足に動かせそうにないし、スピードも落ちてた。《心寿》をコントロールする力も、もうほとんど残っていないだろう。近いうちに暴走する。

 暴走したからって火事場の馬鹿力が出るとか、眠った力が目を覚ましたりとかしてパワーアップすることもない。単なる何も考えていない馬鹿に成り下がるだけ。すぐ後ろを取って一撃必殺が簡単にできちゃう。

 暴走しなかったとしても、俺の有利には変わりない。


 《心寿》の意識を残されないように、手を触れられないように、距離はとってる。遠隔攻撃は必ず動作が必要だから、目で見て避けられる自信はある。バリアはパクっておいたから、こちらの攻撃が弾かれることもない。透明化機能もよくよく気配を感じ取っていればどうってことない。クク君には由芽ちゃんってお荷物もいるんだし、俺のヒットポイントはマックス。《心寿》の数も俺のほうが多い。それにいざとなったら裏ワザ使って逃げればいいだけのこと。やられる要素はほぼゼロ。


「お前、兄弟愛とかって信じるか?」


 びっくりだ。クク君の口からそんな質問が飛び出るなんて。一体何を血迷ったのか、真面目腐った顔をして、クク君が兄弟愛なんて単語を口にした。びっくりだよ。


「質問の意図を測りかねるんだけど。何が訊きたいワケ? 由芽ちゃんとお姉ちゃんたちの愛はすごいよね、ってことを言いたいの? それなら同意しかねるね。ノー! すごくはないでしょ別に。おんなじ遺伝子で、おんなじ親の下に生まれて、おんなじ環境で育ってるんだもん。普通の友達以上に気が合ったりするのって必然に近いことなんじゃない? まぁ、合わない時は合わないんだろうけどさ。マンガとかで尊い感じにそんなモンがあるモンだって表現されてるから、みんなそんなモンがあるモンだって思い込んじゃってるけど、気のせいなんだと思うよ。血がつながってるからとか、家族だからだとかで無条件に愛情を与えるなんて、ないよね。ないない」


 一体、この状況でなんでそんな質問をしたのか。クク君は口の端を吊り上げて笑いながら、指にくるくると髪の毛を巻きつける。


「同感だ。俺もそう思う」


 くるくると巻きつけている。くるくるくるくる。心から同感だと言うような口調で、くるくると。

 やっぱりクク君ってバカなのかもしれない。自分のことに何も気がついていない。

 なんだよクク君ったら。本気で愛情だとかに目覚めちゃったわけ? すぐに壊れるくだらないモノなのに。なに、由芽ちゃんを安心させようとしてるみたいに、由芽ちゃんの頭をナデナデしちゃってるわけ? もしもこの場に実来お姉ちゃんがいたら、そんなことをしていたか?


 ……?

 ……なんだ……?


 ちょっとだけ、風が吹いた。ここはトモキちゃんが創った異空間で、自然の風なんか起こるわけがないのに。風が俺の前髪を下から煽った。

 視界に違和感があって、手を伸ばしてみる。――壁だ。……バリア? 不可視のバリアが展開されていて、俺の四方を囲っている。

 さっき由芽ちゃんの首からパクった《心寿》のバリアが、なぜか発動していた。


 ……あれ?


 あったかい何か――空気?――が背中からくすぐったく這い回ってくる。

 体が疲れきってるときに湯船につかって、体が弛緩していくような、心地よさ……――そんな感じ。


 ……なんだこれ?


 あったかさに体が包み込まれる。あったかい……いや、熱い。体全部が熱い。ハラワタ煮えくり返りすぎて、体まで煮えちゃったのか、俺。

 いや……なんかそういうのとは違うっぽい。

 この熱さ……。似てる。似てる……。そうだ……。律子の頭がおかしくなって、俺に抱きついてきた時と……!


「なんだよ! なんだよこれぇえ!」


 熱された生ごみに埋もれたらこんな気分になるんじゃないかってな、そんな感触が体全体にまとわりついてくる。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! だっつのに、クク君までわざわざ前髪かきあげて、俺に同情の眼差しみたいなモンを向けてくる。気持ち悪い!


「なんだって訊いてんだよっ!」

「お前がずっと望んでいた無償の愛だ」

「……んだ、それっ!」


 発動中のペンダントを握る。こいつだ。この気持ち悪さはこいつが悪いんだ。そうだ。外してしまえばいいんだ。外してしまえば……――


「その《心寿》は娘を守りたいと想っていた母親から吸収したもんだ。身に着けている者を、心の底からの愛情でもって守ってくれる」


 引き千切ればいい。こんなものは引き千切ればいい。……なのに、なんでだ。引き千切れない。引き千切れない。外すことができない。外すことができない! 熱さが、気持ち悪く体を這い回って、体が沸騰して破裂しちまいそうだっていうのに……!


「俺がそいつを初めて使ったときもそんなだった。嫌悪感しかなかった。信じてなかったんだ、嫌いだったんだ。愛情が。でも、今までずっと持ってた。持ってろ……って言ったヤツがいたからだけど、たぶん、それだけじゃないんだと思う」


 外すことができない。俺の指が、動かない。

 目から涙がダバダバ出てきた。吐き気が喉の奥から競りあがってくる。手で口を押さえるが、ゲロ君は吐きたくない俺には無関心のようで、無理矢理に俺の口をこじ開けようとしてくる。


「結局、手放したくなかったんだ。結局は求めてたんだ。抱きしめてほしかったんだ。手をつないでほしかったんだ。愛情が欲しかったんだ」


 吐いた。げちゃげちゃげちゃげちゃ音を立てて、足元の砂に黒いゲロが落ちていく。あらやだ《残骸》のゲロって真っ黒なのね、初めて知ったよ。透明な涙がぼろぼろと落ちて、ハナミズもヨダレもだらだらと出て、砂に混じって真っ白な床をぐちゃぐちゃにしていく。真っ黒いゲロが白を黒く染めていく。世界を暗黒色に――破滅色に染めてやりたかったけど、こんな黒はちっとも嬉しくない。


 それでもペンダントに引っ掛けた俺の指は、ペンダントを引き千切ろうとしない。クク君の、妙に沈んだ声が聞こえる。


「なんで……俺たちは素直に愛情ってもんを、受け入れられないんだろうな」


 ああ、ああ、ああ。ホントにクク君ったら血迷っちまってる。愛情を否定し続けてきたあんたの台詞じゃねーだろよ。


「俺は、受け入れ、られないん……じゃない。素直に拒んでる、だけ、だ……」


 自分の涙やらハナミズやら律子の砂やら俺のゲロやらでぐちゃぐちゃになってる床に膝を着いた。

 クク君は俺のこと、憶測でしゃべってるのか? なんだよ、俺のこと全部わかってるってな顔してしゃべりやがってなんなんだよ!


「本当は望んでるのに、受け入れなかったら……お前は愛情に焼かれて死ぬことになる」


 クク君が、なんかどっかで聞いたことのあるようなことをしゃべった。


《――ほらね。言ったでしょ。きっとユキが誰かに愛され続けるなんてことがあったら、ユキは愛の熱さに溶かされて死んじゃう……って――》


 俺のゲロとかハナミズとかでぐちゃぐちゃになった砂が話しかけてきた。


《――自分が喜んでることを……この暖かさが心地いいと感じてることを認めてしまえばいいのに。臆病ね、ユキは。知らないことを知る勇気が出ないのね。自分が変わってしまうことが怖いのね。こんなに背中を押してくれるヒトがいるのに、そこから逃げようとするなんて。私と同じ。臆病ね。子どもよ、ユキは――》


「た……っ……」


 喜んでなんかない! 気持ちよくなんかない! 気持ち悪いんだ気持ち悪いんだ気持ち悪いんだ気持ち悪いんだ気持ち悪いんだ!


「助けろ律子、助けろ! 今までっ! 俺がっ! お前を生かし続けてきてやったんだろうがぁっ!」


 叫んだが、律子はもうなんにも答えをよこしてこなかった。大量の涙がさらに溢れて止まらなかった。

 暖かさが、背中にある。胸にある。頭にある。律子に抱きしめられた時みたいに。


 声が聞こえる。『大丈夫だよ。何も怖くないよ』ってな、声が、聞こえる。俺を包みこんでるあたたかさがしゃべっている。

 吐き気はない。涙は溢れてくる。胸が熱くて熱くて涙が溢れてくる。


 違う違う違う違う。嬉し涙なんかじゃない。違う。違うんだ、ママ。俺はあんたなんかに抱きしめられたいなんて思ってない。思うわけないじゃないかそんなモンはないんだからこれもどうせウソなんだから。


「クク君、ユキちゃんが死んじゃう! ねぇ、これクク君がやってるんでしょ? お願い、止めて。止めて!」

「止めない。俺は元からこいつを殺すつもりだったんだ。こいつの言うとおり、俺は悪いヤツなんだよ由芽」


 嬉しい……違う、ママ違う、抱きしめて心地いいんだ……ママ気持ち悪いんだママ違ううれしいずっとこのままで嬉しいあんたなんかシねずっといっしょにどこにもいかないでよママ………………。…………死ね殺すぶっ殺す消えろ消えろ「ユキちゃん!」死ねシネしねシネ死ねシネ――――


「ユキちゃん!」


 しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね――


「ユキちゃん、お願い! ここから出る方法を教えて! そうしたら、クク君がこれを止めてくれるから、ユキちゃんは死ななくていいから! ヤなの、ユキちゃんが死ぬとこなんて見たくないの、もう友達が、大事な人が死ぬとこなんて見たくないの、だからお願い!」


 しねしねしねしねお前なんか友達じゃない死ねしねしねしねしね

 しねしねしねしねしねしねしねしねしね

 しねしねしねしねしね

 しねしねしね

 シネ――――――――――――――――――



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