○ お姉ちゃんが生き返ったら―― 〈高科由芽〉
「――そうですか。それはさぞ心配なさったことでしょうね」
ゆっくりとしたテンポのメロディで、川のせせらぎを思わせるなごやかな曲が流れる喫茶店の中。由芽は砂糖を大量に入れたコーヒーをかき混ぜながら、向かいに座っている相手に問いかけた。
「ねぇ。トモキちゃん。ユキちゃんって、今どうしてるのかな」
最後に律子と顔をあわせてから数日が経つ。
毎日部屋に足を運んでみるのだけれど、呼び鈴を押そうともドアを叩こうとも、律子からは何の反応も返ってこなかった。電話をしてもつながらない。心も何も、律子とはつながらなかった。
どうしてあの時――律子を怒らせてしまったとき、何か言ってあげられなかったんだろうか、と少女は後悔する。
何かを言って上げられれば、何か違ったかもしれない。今も何とか顔を合わせてくれていたのかもしれない。話を聞いてくれていたのかもしれない。あの時、頭が真っ白にさえならなければ……。
例え、今顔を合わせたとして、何を話せばいいのかはわからない。それでも会って話しをしたくて、毎日律子の部屋の前まで通っていた。
反応のない律子にどうにかして連絡を取りたくて、ユキマサに訊ねてみようとした。姉の律子は一人暮らしをしているが、弟のユキマサは実家暮らしなのだと聞いていた。そして彼が唯一、律子の部屋に出入りしている者であるということも。
だからユキマサに会わなければと思った。しかしそう思ったところで由芽は愕然とした。
ユキマサの連絡先を知らない。
街中でたまたま出会い、律子の部屋だけで会う。ユキマサとはそれだけの関係なのだと、そのとき初めて気がついた。たまたまばったり出会わなければ、顔を合わせることができない友人……。
それは果たして友人と呼べるのだろうかと、由芽は混乱した。彼とも話しをしてみたかったが、会う手段がない。
とにかく彼は、律子の部屋には今でも出入りしているはずだ。だったら律子の部屋の前で待っていればいつかは会えるはずだ、と由芽は考え、律子の部屋の前で待った。しかし、一度もユキマサとは出会わなかった。
どういうことなのだろうか。今までは由芽が律子の部屋に行けば、ほとんどの場合、ユキマサも部屋にいた。なのにどうして会えないのだろう。
焦燥に飲み込まれ、学校の友達の誘いもしょっちゅう断るようになってしまった。時間を作り、ユキマサとの連絡手段を考え、律子の部屋の前で待ち続けることに時間を割いた。
そんな時だった。ユキマサの友人である“トモキちゃん”にばったりと出会ったのは。
「すいませんが由芽さん。もしかしたらユキマサの影響なのかもしれませんが、ボクを“ちゃん”付けで呼ぶの、やめてもらえませんか?」
「え? ……あ、ごめん。うん。で、トモキ……くんは、ユキちゃんちの電話番号知ってるよね」
ユキマサの友人というトモキなら、ユキマサの連絡先を知っているのではないか。ユキマサが律子の部屋に来なくなってしまった理由を知っているのではないか……と、由芽は今までの出来事を洗いざらい話した。
「ユキマサの電話番号は……知りません」
「え……」
期待を裏切られる答えに、由芽は言葉を失った。他にはユキマサの友人を知らない。手段をすべて絶たれてしまった、と思い、目に涙をためてコーヒーカップを見つめる。そんな少女を見ているのが楽しいのか、少年の唇には笑みが浮かび、優しい声で言葉を続ける。
「ただ、彼とは頻繁に会っていますし、話しもします。今、律子さんがどうしているのかも、聞いています」
由芽は今度は希望に顔を上げ、少年の顔を見る。
「あの……。ユキちゃんに、会いたい……ん、だけど……」
「実は……律子さんは、今はあの部屋にはいないんです。今は、少し……遠くへ行っているんです」
由芽は今度は驚きで声を失った。
――りっこちゃんは……あの部屋にいない……?
「彼女に、心の変化があったんでしょう。しばらく、遠くへ旅に出る……と、言って。いろいろな場所に旅行しているようです。どうやら由芽さんの言葉に背中を押されたようですよ。ただ、彼女は素直ではありませんから、由芽さんには何も告げずに出発したのでしょう。ユキマサが部屋に来なくなったのも、単純に律子さんが部屋にいないからで、まぁ、彼は気まぐれですから、気がむけばそのうち彼から直接由芽さんのところへ……――」
少年の声が途切れた。由芽が泣いていたからだ。
「……由芽さん……?」
ぽろぽろ零れる涙を拭いもせずに鼻をすすっている。コーヒーカップを両手で包み込み、シッカリと手におさめ、中味を一気に飲み干した。カップを置き、一息つくと、少女は涙に濡れた顔を笑顔で輝かせた。
「りっこちゃん、外に出られるようになったんだ……! よかったぁー!」
律子に嫌われてしまった。それはとても怖くて不安になる考えだった。
しかしもっと恐れていたことがある。律子が自分の言葉をきっかけに、“外に出たい”という想いを完全に断ち切ってしまっていたら……。由芽は自分で自分をすべて消去したくなるほどに自分を嫌悪したに違いなかった。
だが今、律子が外に出て過ごしていると聞いて、心を安堵で包み込まれた。たとえ、やはり律子に嫌われていたのだとしても、律子が立ち直れたならそれでいい。そう思える。
由芽は、たまっていた不安をすべて吐き出すように息を吐き、体中を希望に入れ替えようとするように深呼吸をした。
そんな由芽の反応に、少年の目は丸くなっていたが、瞬時に戸惑いを拭い去ったのか、すぐに柔和な微笑に戻った。
「やはり貴女は、心優しい方なのですね」
「へ?」
「そして真っ直ぐで素直で、人を信じることができる人だ……」
由芽は手の甲で涙を拭いながら、首をかしげた。
「トモキくん?」
「貴女には、ボクたちのことをお話したいと思います」
店内に流れていた、和やかで穏やかな曲が終わった。次に流れてきたのは、ひょうきんな顔をした人形が飛び跳ねて踊りそうな、アップテンポで陽気な曲だった。
横を通ったウェイトレスに、コーヒーのおかわりを頼んだ後、由芽は改めて疑問を発する。
「トモキくんたち……のこと……?」
少年はうなずき、由芽は目を瞬かせる。喜びに変わって戸惑いが心を占めていく。
「由芽さんは……クク・ルーク……という方と知り合いでしょう」
「え……?」
どきりとした。
彼のことは秘密にしてきたのにどうして……。彼のことは、自分と彼と姉だけの秘密だったのにどうして……。知られたくなかったのに、どうして……。
頭の中がぐちゃぐちゃになり、思わず口走っていた。
「……知らな……い」
由芽のつたない嘘に、相手はさらに柔和に目を細めながら、由芽のコーヒーカップの方へ手を伸ばした。伸びてきた手は、由芽の目の前でカップに叩きつけられた。……が、音も何も出ず、カップもその下のソーサーも、割れることもなく、何も影響を及ぼさず、手はそのままコーヒーカップの存在を無視し、テーブルの表面を触っていた。
――クク君とおんなじだ……。
由芽が目を丸くしていると、コーヒーカップの存在を無視した手が退いていった。そうしてテーブルの上で両手が組まれる。
「大丈夫。隠す必要はありませんよ。実は、ボクは彼とは同胞なんです」
「と……友達……なの?」
柔和に微笑む少年は、組んだ手の上にあごを乗せた。由芽はここからの話が本題なのだろうと感じ取り、膝の上に強く握った拳を乗せ、背筋を伸ばした。
「先に謝っておきます。ごめんなさい。ボクと、そしてユキマサは、あなたにたくさん嘘をついています。ボクとユキマサは、クク・ルーク君とは違って、人間社会に溶け込んで生きたいと思い、そうして生活してきました。そのための嘘です。だから……ユキマサは律子さんの弟ではないし、ボクも、こうして人間が行く学校の制服を着ていますが、通ってはいないんです。ボク達は、人間社会に溶け込んでいたかった」
「ユキちゃんも……なの?」
「はい。……ごめんなさい。たくさん嘘をついて。ユキマサの分までボクが謝ります。ただ、ボクらは人間と共存していきたかったんです。しかし、人間が暮らすのと同じように家を持っているわけではないので、電話などの連絡手段を持ちえていません。先ほど、ユキマサの電話番号は知らないと言ったのはそういうことです。まぁ、ボクらにはボクら独自の連絡手段があるので不便はしませんが……」
不安そうな表情で語り終え、少年はひとつ息をつき、背筋を伸ばした。心の底から申し訳ないという風に、一度目を伏せ、深呼吸をし、目を開く。真っ直ぐな瞳を由芽に向けてきた。
「由芽さん。ボクとユキマサが、クク・ルーク君と同じ存在だと言うことを信じてもらえますか?」
戸惑いながらも由芽はこくりと頷いた。
「では、由芽さんは……ボク達が恐ろしいだとか、気持ち悪いだとか、思うことがありますか?」
「どうして?」
由芽は心の底から不思議そうな顔をした。
「びっくりはしたけど、怖いことなんてなんにもないよ。ユキちゃんもトモキくんも、あたしたちに何かヒドイことするの? しないよね?」
「はい。少なくともボクは、人間の役に立ちたいと思っています。……よかった。由芽さんが、ボク達を心の底から受け止めてくれる人で……。ボクは、人の役に立ちたいんです。それで……ですね。ボクからも、貴女にお話ししたいことがある。由芽さん。……ボクには、人を生き返らせる力がある、と言ったら、貴女はお姉さんが生き返ることを望みますか?」
「へぇ……?」
店内には相変わらずひょうきんな曲が流れていた。
ひょうきんな人形が踊っている。くるくると踊っている。ケタケタと笑いながら踊っている、イメージ。
「やはり……驚きますよね、すいません。受け止められなくて理解できないのも当然です。……ああ……でも、ボク、気持ちがはやってしまっていて……。ユキマサに聞いています。由芽さんは、先日、大好きだったお姉さんを亡くした……と。ユキマサはああいう性格ですから、由芽さんには何も声をかけなかったらしいですが、相当に落ち込んでらっしゃったと聞いています。だから、ボクはボクの力で、生き返らせてあげたいと、そう思ったんです」
ケタケタと笑いながらくるくる踊るひょうきんな人形は、由芽を手招きしているようだった。非科学的な存在の、非科学的な言葉の中へ。
「お姉ちゃんが……生き返るの……?」
普段なら信じただろうか……。そう思いながらも、そろりと訊ねた。
ククが、人間とは違う魔法のような力を持っていることは知っている。しかし、生物の命は皆ひとつずつしかないということも知っている。終わってしまえば――なくなってしまえば、二度と生を続けられないことはわかっている。はたして、彼らにそれを覆すほどの力があるのだろうか。
由芽の思考をよそに、相手は頷きを返した。頷きはひょうきんな人形の手招きと重なり、由芽を非現実へと、いざなっていく。
――お姉ちゃんが、生き返る……。
それは事実なのだろうと、受け止める。受け止めた途端、心が喜びで膨れ上がった。
――お姉ちゃんに……会える……。
由芽は自分の指に嵌っている指輪を見つめる。
姉がいなくなった直後のように、今は、姉の死から目を逸らしていないつもりだ。悲しみに埋もれて何もできなくなっているわけでも、笑顔になれないわけでもない。
だが、結局、自分がなにかをしてあげる前に、姉は逝ってしまった。
今まで恩を受け続けてきた姉に、ひとつでも恩を返したかった。なのになにもできなかった。
――会いたい。お姉ちゃんに会いたい……。
会えるのなら、絶対に会いたい。会って、ひとつでも恩を返したかった。
「由芽さんは、心に強く、お姉さんのことを想ってくれるだけでいい。そうすれば、ボクはその想いを力にして、お姉さんを生き返らせることができるんです」
――でも……。
姉の“形見”であり、ククに託されたものである指輪を眺めながら思った。
――お姉ちゃんが生き返ったら、クク君はどうするんだろう……。
本人がどんなに否定しても、ククが姉を好きなのは間違いがない。姉も、ククのことについては一度も何も話さなかったが、そうなのだろう。好きだったのだろう。誰にも甘えることがなかった姉が、彼の腕の中にいた。好きでないはずがない。
きっと、姉が生き返れば、二人は恋人同士になるのだろう。
そう思うと、胸がチクリと痛んだ。
なぜなのかはわからない。ただ、不安にも似た胸の痛みが、心を締めつけてきた。
――お姉ちゃんが、生き返ったら……。
――生き返ったら……――――
椅子を蹴立てる音が鳴って、由芽の思考は途切れた。舌打ちが聞こえ、目の前にいたはずの少年がどこにもいないことに気づく。
「トモキくん?」
店内を見渡してみるが、どこにも姿がない。音楽が、春の日向のような暖かな曲に変わっていた。店内は、曲の雰囲気に似合いの、和やかな光景しかなかった。
自分が思考に没頭している間に帰ってしまったのかと思い、近くにいた店員に訊ねてみようとしたその時――目の前に何かが降ってきた。
「え? ……あ?」
「逃げるぞ由芽」
目の前に、赤髪の青年が――ククが、いた。
呆然として言葉を返すことも動くこともできなくなっていると、腕を引かれ、無理矢理立ち上がらせられ、バランスを崩して転ぶと思った瞬間、由芽はククの小脇に抱えられていた。
由芽は悲鳴を上げたが、彼は我関せずと言う風に何も説明せずに、店の出口へと走り出した。
店内がどよめきに包まれる。由芽が「あ、あ、お勘定!」と訴えるが無視されてしまう。店から出ると彼は跳んだ。向かいの三階建ての建物の上へ。
由芽は混乱と高所の恐怖で悲鳴を上げる。ククは悲鳴を無視してさらに跳ぶ。屋根に、屋上に、着地しては跳ぶ。何度も繰り返される。
高速で移動する中、悲鳴も上げられなくなり目に涙を溜めはじめた由芽に、ようやくククが口を開いた。
「お前は何も考えるな」
「え?」
「お前は何も考えるな。あいつを生き返らせたいだの何だの、何も考えるな」
「……く……クク君……?」
風をきって跳躍を繰り返すククの隣を平行して、黒い鳥が飛んでいた。
ククが舌打ちをして睨みつける。睨まれた鳥はそれをなだめるかのように、ククの周りを一度旋回して見せる。
『クク・ルーク君。お願いです。止まってくれませんか。ボクはあなたと交渉がしたいんです』
鳥が口をパクパクと動かし、人語を操った。由芽は目を見開いた。
「トモキくんの声……」
「交渉だと?」
ビルの屋上に着地する。速度を上げて跳躍し、鳥との距離を引き離した。
「由芽殺そうとしてる時点で、交渉もクソもねぇんだよ」
ククが誰に聞かせるでもないように小さく呟くと同時に、背後から爆音が鳴り響いた。由芽が首をひねって後ろを見ると、そこにはすでに人語を話した鳥はいなかった。
舌打ちが聞こえ、前を向きなおす。進行をさえぎるように、黒いカーテンが浮遊している。人間離れした跳躍力を持つククにも飛び越えられそうにない巨大なカーテンが揺らめいている。それは黒い鳥の群れであることに由芽は気づいた。由芽たちを通すまいと、何百何千羽と、空中にひしめいている黒い鳥たち……。
ククは急ブレーキをかけ、踵を返す。来た方向へと引き返し跳躍。鳥たちは先ほど爆発した屋上の手すりを迂回するように動き、空中に黒い川があるかのように、ククに向かって流れ来る。
隣の建物に着地してすぐ、空は黒に覆われる。ククの足が止まった。
黒いカーテンが建物の屋上をドームのように包んでいる。太陽がさえぎられ、薄暗い中で、黒い天井が――鳥たちが、ざわざわとざわめいた。
鳥たちは抗議するように呆れるように、口々にしゃべりだす。
『お話しがあると言っているのです』
『欲しいものを手に入れるとき、犠牲はつき物だと思いませんか』
『あなたはボクを殺したがっているようですが、今から提案することは、とても平和的解決なんです』
『あなたも満足して、ボクも安全を確保できる』
『そういう』
『お話し』
『なんですよ』
ククは小馬鹿にするように唇の端を吊り上げながら、胡散臭いと言いたげに呟いた。
「……ヘーワテキ解決……」
『そうです。あなたはボクを殺したいのでしょう?』
『もちろんボクは殺されたくありません』
『今、こうしてボクが優位に立っていますが』
『あなたは《破壊衝動》だから、何かを破壊することに突出している。強くなろうと思えばいくらでも強くなれます』
『それを考えると、将来がとても恐ろしいのです』
『今、あなたを殺してしまうのが一番得策であるのでしょう』
『が』
『ボクは、自分のエゴだけで誰かを殺すのは好きではないのです』
『自分が生きるために餌をとる……ということは生きる者の摂理として、自分を許しているのですが。だからボクは自分の《心寿》たちを、とてもありがたく思い、ひとつひとつとてもとても大切に愛しています』
『……話が逸れていますね』
『要は、由芽さんの想いを使って、実来さんを生き返らせようという話しです。ボクが《蘇生の残骸》であることはご存知でしょう。ボクは人間の“生き返らせたい”という想いの《心寿》を使って、その人間を生き返らせることができるんです。ボクが実来さんを生き返らせるのと引き換えに、今後あなたはボクには手を出さないと約束をしていただきたいのです』
『大丈夫。ボクが生きている限り、生き返った者は絶対に死にません』
『逆に言えばボクが死ねば、生き返った者も死んでしまうということになりますが――だからこそ、あなたがボクを殺さないということを、確実に信用できるようになります』
『これでボクにもあなたにも利益がある』
『悪くない取引ではありませんか?』
口々にざわめく黒い鳥たち。空を黒く染めていた鳥たちが、徐々に白く変わっていく。黒い床にミルクをこぼしてしまったように色を変えていく。
由芽の目に映る世界すべてが白くなっていた。ククが逃げることを諦めたように、抱えていた由芽をおろした。由芽は震えが止まらない自身の体を両腕で抱きしめた。震える足で、一歩二歩と移動し、立っていられなくなり、その場に座り込んだ。
「うん。あんたの能力は、あのオタク坊主に話を聞いてる。あんたが生き返らせたら、生き返った人間はあんたの奴隷になるって」
「やはりユキマサだったのですね。あなたにボクのことを知らせたのは。わざわざボクの目をかいくぐって……。彼は口止めさえしていれば、口は堅いほうだったのですが……なぜか彼はあなたにご執心のようですね」
ミルクの雫が跳ね上がるように、白い空間から白い玉が飛び出した。
「本当は、由芽さんとの交渉が成立して、材料をすべて調えてからゆっくりとしたかった話なのですが……しかたありません」
白い玉が、見えない手でこねられた粘土のようにうごめき、形を変えていく。
「トモキくん……」
由芽が呟く。
人間の形を――美貌の少年の形を成したそれは、微笑を浮かべていた。
「生き返った者がボクの奴隷になるのではありません。安心してください。生き返らせた者を操れるようになる条件は、その人物を生き返らせるときに使った《心寿》の所有者であることなんです。ボク自身が操れるようになるのではないのです。だから、ボクが実来さんを生き返らせた暁には、あなたが由芽さんの『生き返らせたい』という想いが形になった《心寿》の所有者であればいいんです。実来さんが生き返ってもボクの奴隷になるわけではない。あなたのお好きになさってくださればいいのです。彼女を操り、理想の付き合いをするもよし。操らず、彼女の本質と付き合うのもいい。あなたの自由なのですよ」
目を細めた柔和な笑みだったが、それは自信と確信に満ちていた。
答えを求めるように、言葉でククを己の世界に引きずり込もうとするように、手が差し向けられる。
「あなたは、実来さんを愛しているのでしょう?」
ククの肩が震えた。しかし彼は否定も肯定もせず、ただ前髪で隠れて見えない目で、相手を見据えるだけだった。
沈黙が続き、由芽は沈黙に耐えられなくなる。膝に顔を埋め、己の恐怖を口から爆発させる。
「なに? 二人とも何? なんなの……。クク君がトモキくんを殺すとか! お姉ちゃん生き返らせて奴隷にするとかしないとか! なに? ……なんなのぉ……」
由芽は、膝に顔を埋めたまま、怯えで溢れる涙を流した。
少女の叫びに、ククは少女の顔を見ることなく、言葉をよこしてきた。
「お前の姉ちゃんをさ。生き返らせてくれるって言ってるんだ」
由芽は顔を上げた。ククの後ろ姿がある。自分の記憶を確かめるように震えながら頷く。そうだ。確かにそんな話を聞いた。
「う……うん」
「もしかしたらもう、こいつが不思議能力で人を生き返らせることができるってことは聞いてるんだ? じゃあ、これは知ってるか? こいつは誰かを生き返らせるときには、他の誰かの命を生け贄にしなきゃならないってこと。今回はその生け贄がお前だってこと」
「いけ……にえ……?」
その言葉を自分の口で繰り返し、意味を理解した途端、震えも止まるほどに体が凍りつく。
――生け贄……。命を? じゃあ……じゃあ……トモキくんはあたしを……あたしを――
「うん。で、こいつは生き返らせた人間を、自分の操り人形にできるんだってこと。操って、奴隷にして使うんだってこと」
――あたしの命をとろうとしてた……ってこと?
――お姉ちゃんを……奴隷にするために?
「う……ウソ……」
悩んでいた時に快く相談に乗ってくれた。あのときの優しい笑顔は嘘だったのだろうか。優しい笑顔の下で自分を生け贄にすることを考えていたのだろうか。
信じられなくて、少年の顔を見た。
微笑んでいた。目の前で少女が怯えきっているところを見て、微笑んでいた。由芽の相談に乗ったときと同じ微笑みだった。
笑顔は、由芽の怖気を催す確信につながった。その確信を強めるかのように、ククの言葉が続く。
「マジで。……だからさ、俺はなんたらレンジャーレッドだから、こいつのこと倒そうと思ってたんだけどさ。こいつは俺に、お前の姉ちゃんの操り方を教えてくれるって言うんだよ。そう……。あいつが生き返って、俺があいつを自由にできるんだ……」
ククは由芽の方を見ることなく話している。表情を見ることはできない。
ただ、背中が、迷っているように見えた。震える声が、迷っているように聞こえた。由芽を守ることと、実来を蘇らせて己の自由にすることを、迷っているように感じた。
「ボクの目的が由芽さんに知れてしまったので、由芽さんが実来さんの蘇りを願わないのではないかと心配かもしれませんが、その点は大丈夫です。ボクは記憶を消去できる《心寿》を持っている。情報が漏れてしまったところでいくらでもやり直しがきくのです」
獲物を取り逃がすことはないと確信した、余裕のある笑みだった。
ククを見る。
寂しい背中だった。何故そう感じるのか、どこがどう違うのかはわからない。しかし彼の背中を見てるいと、その寂しさが伝染してくるように胸が苦しくなる。寂しくなる。この寂しさが、彼が今、抱えている気持ちなのだと感じる。
ならば、ならば彼が欲するのは……。
「お前。俺が、あいつに惚れてるから、当然生き返らせたいだろ……って言ってんだよな」
ククが、少年の方を向き、震える声を発する。由芽は目をきつく閉じる。
そうだ。彼が姉を生き返らせたくないわけはない。
――あたしだって、お姉ちゃんには生き返ってほしいもん……。
彼自身、結局は一度も想いを認めてくれなかったが、生き返らせたくないわけはないのだ。
――好きだったら……操ってでも側にいてほしいって、思っちゃうよね……。
姉がいなくなった寂しさを、他人で埋めようとしているところを見た。夢の中でまで姉のことを想っているところを見た。
――好きなんだ…………。
生き返らせたいに決まってる。
――すき……。
彼がそのことを告げるのを、聞きたくなかった。彼が姉を生き返らせたいと願っていれば、自分は生け贄にならなくてはいけないから、ではなく――――
「ゼッテー、イヤだ」
目を開いた。鮮やかな赤い髪をした彼の後ろ姿があって、その向こうでは少年が眉間にシワを寄せながら、奇妙な笑みに唇を吊り上げていた。
「はぁ?」
「絶対に嫌だって言ってんだよ」
少年の口から、もう一度頓狂な声が上がる。
由芽は立ち上がり走り出した。ぶつかるようにして、ククの腕にしがみつく。腕に顔を埋める。鼓動は激しく、長く続くひとつの音のように少女の心を打ち鳴らしている。
「まったく……。あなたの強情には呆れますね。自分で自分を偽って、それほどまでに自分の心を認めたくないのですか? そんな……もうすでに抜け殻のような顔になってしまってまで」
由芽がしがみついた腕は――彼の体は震えていた。体のすべてが実来に会いたいと訴えているように震えていた。
恐る恐る由芽は顔を上げる。目は相変わらず長い前髪に隠れて見えない。ただ、唇は半開きの状態でわなないており、今にも魂のすべてを吐き出してしまいそうだった。
「俺があいつを好きだ? 勝手に決めんなよ。俺は、一回も、そんなこと、言ってない」
否定の言葉とともに魂を絞り出すような声だった。
少年の唇からほとばしる哄笑が、白い空間を震わせる。心の底からの嘲りの表情を浮かべ、指をククに突きつける。
「では……。では、あなたは本当に実来さんを生き返らせないというのですね。ああ、驚きました。まさか……破壊衝動であるあなたが、人間を死なせてしまうことを厭っているのですか? 引き換えに、愛している者が生き返るというのに。人間も《残骸》も変われる生き物でありますが。ああしかし。ああ、信じられない。信じられません。こんな愚行は信じられませんよ」
手で顔を覆いながら、のどを鳴らして笑う。
顔を覆っている手を、離し、額に叩きつけ、離し、叩きつけることを繰り返す。
「何故! 愛している者が生き返ることを拒むなんてことをする……!」
世の悲嘆をすべて抱え込んだような、憂いに満ちた叫びを上げる。
手から顔が上がる。憎悪に血走る眼を見開いている。魂が抜け落ち、悪鬼が入り込んだような表情で口を開く。
「そんなゲスは死ね!」
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