▼ 恋人ごっこ――ではなく 〈クク・ルーク〉
――俺は本当に何してんだろう……。
ククは女の体に腕を回して、胸に顔をうずめていた。
いつも嫌悪感を抱いていたはずの、ジュリー・ラヴァルであるはずの体に。
ただ、いい女だということは認めている。気持ち悪い性格でなければ、一度くらいは抱いてみたいと思っていたことは否定できない。もしも、こんな風に抱きしめられたら、性格への嫌悪感も吹き飛んで、拒むことなどできなくなるだろうと思っていた。
しかし、今、自分が抱きしめている体は、そんな“いい女”の体ではなかった。“恋人ごっこ”という子供の遊びで幾度かじゃれあったことのある、実来の体だった。
ジュリーのふくよかなはずの胸の感触はなく、今、顔をうずめている胸からはほとんど膨らみを感じられない。どちらかと言えば痩せすぎで、肉のついている箇所は筋肉で、やわらかさに欠けている。抱き心地はあまり良くない。おそらくこの体を見て、男女の関係になりたいとは思わないだろう。
性格的に嫌悪感を抱いている女の体。女としての魅力が欠落している女の体――
今、自分が抱きしめている相手は、そんな体だ。
――けど……なんで、離したくない……って、思っちまうんだろう……。
「ごめんね。今、ボク、すんごくクク君のこと、抱きしめていたいんだ……」
ジュリーの柔らかな女性的な声ではなく、幼い少年のような声――実来の声がする。その声を聞いて、自分ももっと抱きしめていたいと、勝手に手に力が篭った。
――そんなに俺は……実来のこと……抱きたいって、思ってたのかよ……。
確かに彼女に、抱きたいと言ったことはある。だがあれは、単なる遊びの延長線上のもので、切り捨てようと思えば簡単に切り捨てられる想いのはずだった。なのに、なぜこんなにも……。
わかっている。彼女は実来ではない。おそらくは、ジュリーがこちらの記憶を引き出し、引き出した記憶を使って構築した幻覚なのだろうということは。そうしてこちらの心の隙を作り、仕掛けらた力を解除させようとしているのだろうということは。この体はジュリーのものであり、実来でないということは。
わかってはいるが。腕を回して感じる彼女の感触も、手にかかる彼女の髪の感触も、胸のなさも声も、体の温かさも、骨格のひとつひとつですら――実来でしかなかった。実来しか感じない。
「もう少し、こうしててもいいかな。クク君……」
実来の声に、実来とはじめてキスをしたときのことを思い出す。
実来は何の前触れもなく『クク君って、キスしたことってあるの?』と訊いてきた。
単なる好奇心から来る質問だったようで、『いっぱい』と答えてやると『へえー』と感心した。そうして彼女は、餌をねだる犬のように『んじゃあさ、ボクがさ、クク君にしてもいい?』と、訊いてきたので『俺ら、“恋人”同士だろ? だったら、いいんじゃねぇの?』と答えた。
彼女はうれしそうにほんの一瞬だけ唇で唇に触れてきた。やわらかいぬいぐるみか何かを投げつけられ、ぶつかった。そんなヘタクソで幼いキスだった。
「クク君は、辛い事とか、逃げたいことって……ない?」
女の言葉に今度は、部屋からも出られずに妹のことを辛そうに語る実来を思い出す。
人生のすべてを後悔しているように、その後悔に体を押しつぶされているような顔をして『ボクは、ずっと由芽の事を守ってきたつもりなのに、傷つけちゃったんだよね……』と言っていた。
『そりゃ……そうだよね。中学生にもなって、姉貴にベタベタ世話焼かれたら、鬱陶しいに決まってるのに……。誰かの役に立ちたいからって、ボクが由芽に甘えてたんだよね』
自嘲気味に話していた。
『由芽は、このまま大きくなって、大人になって……。そしたらボクなんていなくたって生きて行けるようになる。ボクが死んだって生きて行ける。でもさ、やっぱり、由芽には不幸になって欲しくないんだよ。誰かに傷つけられたりとか、あっちゃいけないって思うんだ。でも、ボクはもう、由芽とは顔もあわせられないから、だからさ、ボクが死んだ後はさ……クク君が、由芽の……なんて言うか、守護霊? みたいな、やつになって……くれないかなぁ……』
そう言われて、適当な返事を返した。適当に、承諾してしまった。
だからなのだろうか。人間を糧にする《残骸》を、この街からすべて消し去りたいと思ってしまうのは。
「逃げたいことがあったらさ。逃げよう? ずっと……ボクとずっと、こうしてようよ」
耳に実来の声が入ってくる。
引きこもり続け、人生を虚しさで埋め尽くしていた。そこから脱出したはずの彼女は、もう二度と“逃げよう”などという言葉は使わない気がした。しかしどう聴いても、声は実来の声でしかなかった。
前から、人間を殺しても、《残骸》を殺しても、いつも虚しさが付きまとっていた。実来の側にいれば、その虚しさを感じずにすんだ。
生きるための術も、愛の在り方も、殺すとなぜ虚しく感じるのかも……何も考えずに、のんびりとしていられた。
実来がいなくなって、今はすべてが押し寄せてくる。殺すたびに心が疲弊し、殺すたびに心が腐っていく気がする。放り出してしまいたくなるが、すべてが押し寄せてきても《陽を取り込む場所》を壊さなければいけないという想いは消せなかった。すべてを終わらせてしまわなければいけないという想いは消えなかった。
《残骸》は放っておけば人間を喰らうのだ。実来が大切に想っていたシーちゃんや由芽を、いつ喰らうとも解らないのだ。《残骸》は人間の心や将来やすべてを踏みにじるのだ。
けれど、実来自身が、許してくれるのなら……。
「実来……」
このまま何もせずに、彼女を抱きしめていたい。頭をなでられていたい。膝枕をしてやって、キスをして、一緒に虫の声を聞いて、庭の木が風でざわめく音を聞いて、のんびりと、彼女の体温を感じていられればいい。
「実来…………」
もうこの気持ちは、恋人ごっこなどではいられない。遊びではない。ずっといっしょにいたい。死なせたくない。彼女とつながっていたい。ずっと心をつなげていたい。
「クク君……」
彼女が自分の名を呼ぶ声を聞いて、涙が出そうになる。抱きしめ方もわからなくなって、彼女にしがみついた。
「好きだよ。クク君」
涙が止まらなくなった。
好きという言葉は、お互い、一度も口にしたことがなかった。自分たちの恋は偽物であるから。お互い、好きであるはずがないのがわかっているから。
それに自分は、そんな心のあり方などは、下らないものだと信じていた。少なくとも自分の中には存在しないものだと信じていた。
なのに今、生まれてから一度も感じたことのないような喜びが、胸に広がっていく。
「みら……ぃ……」
顔を上げて、彼女の顔を見る。涙でぼやけてよく見えないが、彼女は恥ずかしさに頬を染めながらも、真摯な表情をしていた。
「俺も……お前が好――――」
音が弾けた。
言葉をすべて紡ぐ前に、阻まれた。
風船が割れるような音とともに、彼女の肩から上が吹っ飛んだ。
吹っ飛んだ彼女の欠片は、空中で砂へと変じ、霧のように舞い、音もなく土の地面に落ちていく。
腕の中に残った彼女の体が、土塊になり崩れ落ちていく。
「は……?」
――なんだこれ? なんだ、これ?
頭の中が急激に冷えていく。状況の理解が追いつかない。ベンチの上に残る、彼女だった砂の塊を手にとってみる。ざらざらとしていて、何も生命が感じられなかった。
「あ。そう……だ。俺が……」
ジュリーを殺そうとして、彼女に取り付けた不可視の時限爆弾。取り付けた自分の意思以外では、解除不可能な時限爆弾が、今作動したのだ。ジュリーはこちらの精神的な隙を作るために幻覚を見せ、爆破を解除させようとしたが、それが間に合わずに爆発してしまった。
「ははははははっ!」
爆発に心が弾かれたように笑った。自分で自分の行動が信じられず、自分で自分を嘲笑する。
――今、俺は幻覚に感化されて、何を言おうとした? 好き? 実来のことが好き? はあ?
――実来を……? 俺が……?
「はははッ…………」
力なく笑いながら、手に取った砂を胸に抱いた。ベンチに寝そべり、彼女だった砂の塊に顔を埋めた。
何も考えず、泣いた。
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