第64話 雨さえも甘い娯楽に変えて 前半

 諫早が立ち去った。

 もともと人のいなかった教室がさらに人口密度が下がって静かになる。

 最上は鼻歌混じりに窓を閉めている。

 するとさっきまで明白に雨を認識していたのに、急に曖昧になる。降っているのはわかるが、音も雨粒もぼんやりとわかりづらくなった。


「楽しそうだな、最上」


 ポロリとこぼした。

 もしかして言い方が不適切だったか? などと吐いた言葉を思い返す。

 だが最上は気にとめる風でもなく、その理由を明確に答えるでもなかった。

 ただ軽く、振り返る。


「諫早さん、いったねー」

「行ったな」

「うまくいくといいね」

「お前は察しが良すぎる」

「西下がわかりやすいんだよ」

「そうか?」

「……まあ、私にとって――もしくは一部にとって、かもね」

「ま、隠さなきゃいけないことなんてのはそうそうあるわけでもねえし」


 伝わることは素晴らしい。

 人は誰かに分かってもらいたいのだから。ただ、全てが伝わるなら、それはそれで危うい。

 それでも。

 心の奥の底まで分かってもらいたいというのは、俺のサガか。

 わかりたい、全てを知りたいと願ってしまうのは俺のエゴだろうか。


 もう窓は雨粒でろくに外も見えなくなっている。当然、今頃昇降口を出て帰路につく二人のことも。


「誰かしらくる前に、俺らも帰るか」


 放課後の教室。誰もいないのが当たり前に聞こえるこのワードも、実質的には微妙な差がある。特別時はさておき、掃除係かなんだか知らないが、おじさんが見回りにきたり、担任が戻ってきたりする。


「ところで最上、お前は傘を持ってるのか?」


 そう聞いたのは、昇降口の前だ。

 俺より一足先に屋根の下で立っている最上に、靴箱の前から声をかけた。


ううん・・・持ってない・・・・・


 ゆっくりと、確認するように頷く。

 ……いや、逆だろ。持ってないなら首は横に振れよ。なんで縦に振ってるんだか。

 持ってないってのにまあ嬉しそうに。ここまでされると、逆に攻めあぐねるから男心は複雑である。そんな風に言い訳を重ねたところで、することは変わるわけもなく。


「……入っていくか?」

「もちろん入るよね」


 当然のように。

 まるでそれが当たり前のように、入ると宣言した。入れてもらうとか、入ってやるとか方向性の一つもない。

 それがあまりにすとんと落ちるものだから、俺も残された折り畳み傘の二本目を片手でぽんぽんと遊ぶ。

 俺が傘を開いてさすと、その下に滑り込むようにして最上が入ってきた。

 折り畳みとはいえ、普通の傘と遜色ない大きさである。しかしやはり二人は厳しいのか、やや肩が濡れる。

 頭さえ濡れなきゃいいか、と最上の方へと傘を傾けると最上がさらに距離を詰めてきた。やや茶色がかった髪が目にかからぬようにヘアピンでとめられている。ヘアピンはやけにその存在を主張してくる。


「濡れながら帰ろっか」


 遊ばれている。

 つまり、見透かされている。

 最上は夏服になっており、白い半袖のシャツを着ている。

 ……濡れたら見透かされるのはお前の下着だぞ。気をつけろ。と下品でヤケクソな八つ当たりは思うだけにとどめておく。

 健全な男子たるもの、その光景が全くもって眼福などではないといえば嘘になるが、それと同時に、あまりはしたない姿を衆目にさらしてやりたくはない。

 そんな、くだらない複雑な独占欲めいた理由もあったり。


 もちろん、この後ではあまり説得力はないが、最上に風邪を引いて欲しくないというのが一番の理由だ。

 お互い濡れぬよう最大限の配慮を。荷物を外側に、こちらが道路側を歩いて、そうやって最上を庇う。

 すると最上と目があう。


「ありがとう」


 ニヤリと笑われる。

 それ、お礼を言うときの表情じゃないから。なんでみんなにはあんなに普通に愛想よくできるのに、俺の時だけそんな悪い笑顔になるんだか。いや、それがいいんだけど。

 どこかでカエルが鳴いていた。ぐえぐえと雨につられた合唱が。カエルはいたって真面目だろうが、聞いてる分には愛嬌がある。


「文香ちゃんと諫早さんも今頃相合傘かな」

「だといいな。そうなりそうなもんだが」

「わからないよ」

「そりゃあな」

「二人で後をつけたかったんだけど」

「だんだんストーカーっぽくなってるよな」

「じゃあ西下は気にならないの? というかむしろ私が相合傘してあげたかったんだけど!」

「そりゃあな。俺ので我慢しとけ」

「我慢じゃないけどね。狭いだけで。狭いのには狭いのの良さがあってね」


 狭いことの良さはむしろこの場合俺から語るべきか。いや、俺から語るのはあまりに露骨だろうか。


「なら。よかった」

「よし、この話はやめにしよう!」

「ああ。突然どうした?」

「そうだよ。女の子の前で他の女の子の話は野暮だもんね!!」

「お前からふったよな?!」


 理不尽だ。

 そう言い募って抗議することは簡単ではある。

 ただ、確かに野暮ではあった。最上が楽しげに話すから気に留めていなかっただけで。

 今のこれは建前で、冗談ではあるのだろうけれど。

 それでもツッコミを思わず入れてしまう。それは掛け合いに慣れた身として反射というか義務というか。ワザとボケたならそれは回収しなければ。

 最上には最上の意図があるのだろうし。


「そうだな、どうせならお前の話でもしようか。せっかくだしな」

「お? 文香ちゃんや諫早ちゃんみたいに私を?」

「そうだな……そんな展開、くるのか?」

「ん?」


 一瞬、ピタリと止まる。

 止まったのは歩みではない。コロコロと変わっていた表情だったし、会話だった。


「お前が俺に攻略されて、落とされる展開だよ」

「ぷっくくくく、……その場面は来ないかもね」

「それは残念だ」

「そうだね、そうだなぁ……」


 何かを頭の中でなぞるように少し上を見上げて考え込んだ。

 その視線の先には傘のふち。少し後ろに傾きぎみの外側を水滴が流れる。風に吹かれて、ゴミが隣を後ろへ通り過ぎて見えなくなった。

 最上の笑顔はからかうようなものから、落ち着いた緩んだものになった。


「西下はめんどくさくて遠回りで、ややこしいことはしないでしょ?」


 意味深長な言い回しに、俺はその真意も掴めぬままに頷いた。

 俺が今していることが面倒くさくないのかと聞かれれば、それは人によりけり。どちらかと言うとめんどくさい人間ではあるし。

 坂道を二人でゆっくりと下っていく。突き当るまで真っ直ぐに、突き当たりには歩道橋がある。道を曲がるのと、歩道橋を登るのはどっちが嫌かと考える。

 乗り越えようかと思った。そのまま、この二人通るのがやっとの階段を踏みしめていきたい。上から見る景色はいつもよりも違って見えるだろう。乗り越えたら達成感もある。単純に、まっすぐ進みたいという気持ちも。

 ちらりと最上を見た。

 最上は上機嫌だ。鼻歌さえ歌っている。微かなメロディーは雨音にかき消されて聞こえない。足取りは軽くて、傘の中にいることを忘れそうになる。

 自然と、その足取りは曲がり角の方へと向かった。

 ――雨でわざわざ滑りやすくなって危ない階段を昇ることもあるまい。

 そうやって一時の気の迷いを、衝動を流した。


「曲がっても遠回りになるわけでもないしね」

「信号に止められないのと、踏切に邪魔されないぐらいか?」

「昇るよりも、降りる方が危ないんだよ」

「どっちも危ないだろうが」

「だから、登らない?」


 そこでハッと息を飲みそうになるのをこらえる。代わりに、むせかえるような雨の混ざった空気を吸い込んだ。それは土にもよく似ていて、落ち着く匂いだった。


「そうだな。昇ることで何もいいことはないからな」

「でも――」

「そうだな。晴れてて、元気な時はたまに昇ってもいい」

「その時は私もかな」


 線路に沿いながら踏切まで歩く短い中で、俺の行動の意味を細々と分析する。

 あえて、明確に考えなかったそれを自覚させられるようで気まずい。というか、気はずかしい。理由を聞かないでいてくれてありがたいやら。

 気がつけば雨は止んでいて、名残惜しくも傘をたたんだ。

 お互い緩むように距離はわずかに離れる。もちろん、話す声も先ほどまでに近くはない。

 それでも、しばらくは傘がまだ上にあるような気がして、想像の傘越しに空を見た。

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