第63話 雨さえも甘い娯楽に変えて 後半
少しだけ、腹が立った。
大したことはない。多分、寝たらなおるぐらいの些細なもの。だけどそれは確かに胸の中にあった。おさまることと、なくなることは違う。
原因はあの二人だろう。
人をおちょくるような、見透かすような話し方をする。悪意がないだけに、拒みづらい。発言の意図は、多分、気遣い。実際、発言の結果はどこか優しい。
それでも、見透かされるのは腹が立つ。
しかし原因ではなくて、私にもそれは向いている。
まんまとのせられて手のひらで踊らされた。その証拠が今手にある折り畳み傘だ。折り畳みのものにしては大きな、黒い無骨なもの。
そして最後に、私を躍らせることになったあの子にも、かもしれない。
その気持ちにのせられるようにして、自然と歩く足も早くなる。
人がいなくてよかった。視線が気にならないし、邪魔者もいない。
右手で強く折り畳み傘を握っていたことに気がついて、その手を緩めた。でもまだ強い。
折り畳み傘を何故か鞄の中に隠してしまう。見られて恥ずかしいかと言われれば確かに恥ずかしい。全体的に力が入っているのは、自分でもよくわかっていた。
そのまま廊下を抜けて階段を降りて別の校舎へ、また階段を登った。
目的の場所である図書館までやってきて、透明なガラスにベタベタとポスターが貼られた扉に手をかける。
力が入ったまま、それでも開けてしまった。
「諫早、さん……?」
たどたどしい口調ながら、緩んだ疑問と微笑みの混ざった顔で名前を呼ばれた時、ようやく力は完全に抜けていた。
同時に、これまでの経緯全てがこの瞬間のためにあるように感じた。西下と最上が私に無理矢理押し付けるように丸め込んで折り畳み傘を渡してきたこと。そして背にかけられた言葉。その全てが、もしもこれを予期したことであったとしたら。
緩んだのは僅かに笑っているからか。
会うといつも嬉しそうだ。
特別に優しくした覚えもないのに。あいつらのようにたくさん話しかけているわけでもなければ、愛想が良いわけでもない。
……変な奴。
そんなことを考えていたら、怒りは完全に消えていた。
「どうしたの……? 本、借りるの?」
「……いや、違うよ」
心なしか嬉しそうに尋ねられて、否定するのに躊躇いを覚える。
「あんたさ、傘、持ってるの?」
私の言葉に目を丸くした。
そして気がついたように荷物をゴソゴソと探り出す。探し終えたのか、窓の外を見て雨が降っているのを確認した。……普通、逆じゃない?
「雨、だね……」
「だから聞いた。持ってるの?」
「……持ってない、かな」
やっぱり、か。
今日の雨は天気予報でも降るなんて言われていなかった。
私だって忘れた。私が忘れたから、この子もというのは少しバカにしている気がするけど。ただ、同じであって欲しいとそう思っただけなのかもしれない。
「どうしたの?」
カバンの中に折り畳み傘がある。
事情を説明しなければ。頭ではわかっているけれど、なにからどう話していいかわからない。
こんなとき、回らない口が嫌になる。
だいたい、どうして私があいつに傘を借りてまで持ってきてあげなければならない。
こいつが間抜けなのが悪い。いや、私も同じ間抜けだから、人のことは言えない。
そもそも、西下とかが迎えに来ればよかったんだ。私なんかほっておいて、三人で、仲良く帰ればよかった。
迷って、躊躇って、私にできたのは黙って鞄から取り出した折り畳み傘を目の前に差し出すことだけだった。口を閉じたままうなるように一言だけ声を漏らす。
「え……?」
事情を理解できないみたいだから、机の前にそれを置いた。
「使って」
「どうしたの、これ……?」
「西下の奴があんたにってさ。持っていけって渡された」
どう言っていいかわからず、少しだけ嘘をついた。
それを受けて、しばらく考え込んだ。まじまじと差し出された折り畳み傘を眺めている。それを渡される場面を想像したのかもしれない。
そして
「西下くんはそんなこと、言わないよ……?」
「どうして?」
変な質問だった。自分でも何を聞いているのかわからない。答え方を相手に委ねてしまっている。
「んー……なんで、かなぁ……? そう思うの……おかしい、かな?」
「変なこと言った?」
「西下くんが、諫早さんに持っていけ、ってところ……」
何故ばれたんだろう。私が西下のことを理解できていないからか。それとも、私の見ているものと違うものが見えているとか。
「ねえ、詳しく……教えてほしい、かな……いい?」
折り畳み傘を持って私を見ながら、そんな風に問いかけられて。僅かな後ろめたさと気まずさ、そしてたくさんの混乱が私の重かった口をこじ開ける。
その時のことを簡単に説明させられたところで、折り畳み傘を目の前に突き出された。
「二人で、使うって……ダメ?」
断りたい。
嫌いだからじゃない。遠慮とかじゃなくて、そんなことをしていいの、みたいな。
それを申し出る意図がわからなくて、ともすれば自意識過剰な結論にたどり着くのをそっとしまいこむ。すると急に何か疑うような気持ちになって、怖くなる。
「傘、ないん……だよね?」
でも何故か断れない。
断るな、断ってはいけないと私の中でそれを止める声が聞こえる。髪を染めた時と同じようで、それとは反対の声が。
縋るように外に目を逸らした。雨は止むどころか強くなっており、これでは外に一歩出るのも躊躇われる。
私が提案に頷いた時、どんな顔をしていたのだろうか。
女らしさなんて腹が立って、手鏡を持っていないことが今だけはもどかしかった。
◇
二人で並ぶ。
肩と肩が規則的に当たる。
最初は傘を持ちたいと主張された。私の方が背が高いので却下。私が傘を持つこと。それが二人で一つの傘に入る条件だった。
道路から反対側、傘の内側を見ると何か緊張感があった。距離が近いからか、多分そうだろう。
傘に雨が当たりつづける。
だからお互いの声がその音にかき消されるのではないか。そんな風に思っていた。
実際、傘の外側の音は何も聞こえない。時折車が近くにきてようやくわかる。危うい、気をつけなければと外側を見ていた。だが――
「なんだか、変な気分だね」
ここにきて初めて話しかけられた声はやけにはっきりと、それもまるで耳元で囁かれたかのように聞こえた。高い、けれどいつもよりもくぐもって。
言葉の内容も忘れて、その顔をじっと見てしまった。
「えっと、諫早、さん……?」
「ああ、ごめん。ボッとしてた」
「そう、大丈夫? 迷惑、だった……かな?」
「そんなことない」
「よかったぁ……」
そう言って口元に手をやりくすくすと笑う。
どっちだろう。
本当に不安だったのか。
もしかして、わざと聞いた?
「何が変なんだ?」
「西下くんの傘に……二人で、入ってること」
「そりゃそうでしょ。だから最初から――」
言いかけて、止める。
何を言おうとしたっけ、と言葉がつっかえた。
「あのさ……」
「どうしたの?」
「なんていうか、あんたらって名前ちゃん付けで呼んでたりするじゃん?」
あれは、何で決めているのだろう。
私はまだみんなにさん付けされているけれど、それに何か意味はあるのだろうか、
……まあ、怖がってるだけかもしれないけど。
何をどう聞こうか、と言葉を選んでいたら何故かあたふたとしはじめた。
「……! えっと、あー、うー……」
「何うなってんの」
「こういうの、心の準備が……」
「そんな難しいこと聞いたの、私」
私が戸惑っていると、何故かもじもじとしてせきばらいをするように。
「んっ、千歳……ちゃん」
……あれ?
そういう話、してたっけ?
急に名前の呼び方を変えられた。えっと私は、二人の呼び方について聞いて――ああ……えっと、そうなる……のか。
別にいいか。私もそろそろかしこまった呼び方をされるとむず痒いし。ずっと諫早さん、と呼ばれる自分を想像すると嫌になる。
「千歳でいいよ」
「それはまだ、えっと……」
「……わかったから、好きに呼んで」
なんか半泣きになった。
そんなに呼び捨てに抵抗あるの?
そのまま半ばやけくそに水たまりを突っ切ろうかと思ったが、隣にいることを思い出して、やめた。
「千歳ちゃん……」
「何?」
「まだ、聞いてない……」
「何が?」
「千歳ちゃんも、私のこと」
「ああ、もう! 文香! これでいいんでしょう? 私はちゃん付けとかしないから!」
雨で少しだけ濡れた髪をぐしゃぐしゃとかき乱して、乱暴にその名前を呼んだ。
「千歳ちゃん……!」
「何?」
「……ううん、呼んでみただけ」
「何それ」
腹が立つ。
いいように転がされている自分にだ。
ただ――最初とは、理由は違う。
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