第62話 雨さえも甘い娯楽に変えて プロローグ

 雨が降り出した。

 ざあざあと、というにはやや弱い。

 しとしとと表現するにはやや強い。

 中途半端な雨だ。窓の内側からでも降ってることがわかる程度にはしっかりとした雨音が教室に届く。

 その雨音が聞こえるのはおそらく窓際の人間ばかりに違いない。

 それ以外の教室の内側でやれ昨日のドラマがと楽しげに語り合うクラスメイトたちは気づかない。それは教室の喧騒と自分たちの話し声でかき消されているからだろう。

 今は席が教室の中心よりも右にいるため、休み時間にこうして外を眺めてようやく気がつく。

 席替えがあるなら次は窓際がいいなぁと願うばかりだ。


 ほんのわずかな、くだらない優越感だ。


 今年になって、去年よりも少しだけ雨が嫌いではなくなった。

 カバンの中にある折りたたみ傘を手で触りながら、午後の授業の眠気の中でそんなことを自覚する。


 ◇


  授業が終わった。

 教室の中の人口密度がみるみる下がっていく。皆流れるように帰る用意を終えて次々と出ていく。

 よほど帰りたいか部活に行きたいらしい。

 雨はまだ止まない。

 傘を持ち出すやつ、友達の傘に入れてもらうやつと人それぞれに対処している。自転車に乗るから、と合羽を着ているやつもいた。


 そんな中で一人だけ、明らかに動きの鈍い奴がいた。

 そもそも動かない俺は除く。

 先に用意を済ませた最上もそれに気がついた。振り返って、そいつに気がつくと鞄を肩にかけたまま近づいて一言。


「諫早さん、どうしたの?」


 動きが鈍いというのは諫早のことであった。

 いつも真っ先にいち早く抜け出して、周りに目もくれず帰っていく。その諫早が、誰より遅く残っているなんて違和感があった。端的に言えば浮いていたし、目立っていた。

 そして最上はといえば即行動。頭の回転が速いからか、決断までの時間も短い。一歩出遅れて情けない俺はそれに続くように最上と反対側に立つ。


「なんでもないから構わないでいいよ」


 突き放すような言葉。

 だがそこには悪意、敵意はない。拒絶もなかった。こわばる声音に後ろめたさを隠していた。

 そこに何かあるのではないか。

 そんな風に勘ぐる俺の口をついて出たのは、世間話の範疇にあるような、いたって凡庸な質問だった。


「諫早、傘、持ってるか?」

「あー、それかぁ」


 唐突に呼びかけられて諫早は目を丸くした。

 最上はなるほど、と俺に向かって人差し指を向ける。

 

「……持ってるし」


 随分と下手な嘘だった。

 いや、諫早が嘘っぽく言っているだけで本当は持っているのかもしれない。

 最上はそれを受けて、俺がどうするのかを見ていた。バトンタッチか。


「へー、どんなの?」

「……あんた、いい性格してるね」

「そう褒めるなよ」


 今までこちらに体を向けずに声だけで返答していた諫早がこちらに向いた。


「わかっててやってんだろ……」


 口調がわずかに荒くなるが、それは気の緩みでもあった。

 そのセリフは確かに、先ほどの俺の問いかけが答えられないものであることを示している。

 ここはすっとぼけ続けるべきだった。

 嘘は下手なままだ。

 そんな諫早だから、こうして何かと構いたくなる。

 構うというと、やや傲慢に聞こえるかもしれない。ちょっかいをかけて、困っていれば助けたい。そんなところだろうか。


「あー、認める、認めるよ。あたしは傘がありません。だからどーしよーってんの?」

「俺と相合が――」

「冗談じゃない」


 俺の提案は途中で拒否によって遮られる。

 迷惑をかけられない、人に頼りたくないといったところだろうか。

 純粋に相合傘をしたいというほど好意がないのもあるだろうし、恥ずかしいとかそういう理由もかなりを占めてるであろうことは否定しない。

 ただ、最初の教室から出なかった理由に、傘を持たずに帰るところを見られたくなかったのではないか。


「じゃあ私と?」

「西下よりはマシだろうけど、ないね」

「つれないなー」


 何故コンビを組んで流れるように刺しにくるかな。


「冗談はともかく、とりあえずこの傘を貸してやろうと思って」

「大丈夫大丈夫、二本目がある」


 本当のことだ。

 こういうシチュエーションを想定して、応用が利くように折りたたみ傘をカバンの中に常に二本持ち歩いている。我ながら頭おかしい。


「嘘でしょ」


 諫早は当然疑った。

 実物を見ないことには信じないだろう。自分自身が先ほど、気を遣わせないためにないものをあると嘘をついたのだから。

 そのまま実物を見せずに話すのも楽しそうではあるが、今は意地悪はやめて素直に見せる。


「なんで持ってんのよ」

「西下だからね」

「ロッカーに置いてあったのが一本、普段から持ち歩いているのが一本だ」

「で、諫早は借りるか?」

「どうして貸したがるんだか」


 問答に疲れたように気怠げにため息をついた。


「諫早さんが風邪をひくと、家族が悲しむんじゃない?」

「卑怯な上にそれじゃ足りない」

「最上、断られてるぞ」

「一度雨に濡れたぐらいで風邪ひかないし。あとあんたらに言われることじゃない」

「ごもっともで」


 人の家族の問題に、あまり微細にわたって口を出すものではない。

 俺はそこで、あることを口にした。


「他にも忘れた奴とかいないのか?」


 そこで、最上が敏感に察した。

 俺が考えうる限り、一番適当ぴったりな返しだった。


「いたとしても、もう帰ってるんじゃない?」


 諫早が、何を言ってるんだと教室をゆるりと見渡す。

 下校の許可がおりてから、既に十分が経過している。当然、周りには誰もいない。だからこそこんな会話を続けていられた。


「だよなぁ。それこそ、何かしら仕事でも・・・・・・・・残ってない限り」


 ここで諫早も気がついたのか。

 そうだなぁ……何も考えずに諫早に渡すのを諦めてそうしても良かった。


「チッ……わかったよ。その傘、貸して」

「ほらよ」


 軽く投げる。

 距離を詰めて手渡しするよりも諫早にとってはこの方が気安いだろう。

 諫早は教室の外へと視線を投げかけた。そしてとんとんと指で机を叩きながら、何かを思い出すように唇を噛んだ。


「はぁ……あいつ……」


 ぞんざいにカバンを片手で持って背にかけるようにして立ち上がった。

 そして俺の横をすり抜けるとき、微かな声で「ありがと」と言い残す。

 出口を出ようとする瞬間に、その背に向かって呼びかけた。


「諫早、その傘俺に借りたとか言わなくてもいいぞ」


 諫早はこちらを向かないままにその歩みを一度止めた。


「そんなセコイ真似、しないよ」


 そのまま立ち去るのを見て、最上と二人顔を見合わせる。

 最上がたまらん! と歓喜のままに目を瞑り口角を上げている。そして俺の背をバシバシと叩いてくる。

 途中でそれを避けて、背の代わりに俺の手によるハイタッチを食らわせるのであった。

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